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7 鬼ヶ島へ帰る⑤













   7 鬼ヶ島へ帰る⑤













   澤田暎













そこまで考えて非常に疲れてしまって、それで僕は椅子から立ち上がると、父の部屋を後にした。ぐったりと疲れた状態で父の部屋を出て兄のもとへと向かう。部屋に入る前に桜田先生に捕まった。


腕をぐいと掴まれた。そちらをげっそりと見ると、先生が笑いながら言った。


「ひどい顔をしてますよ」

「ひどい顔?」

「コーヒーでもどうですか?」


コーヒーはコーヒーでも、それは缶コーヒーだった。


「缶コーヒーですか」

「結構美味しいんですよ。最近のは」


各階の病棟には、小さな中庭のようなベランダがあって、その小さな庭に白衣をきた男とスーツを着たくたびれた僕で並ぶ。かちりとプルトップを開けて、冷えた液体を喉に流し込んだ。それから、人工的な建物に切り取られた空を眺める。


「たまにここで一番星を眺めるんです」

「え?」

「いいですよ、一番星。気分が落ち着きます」


何も言えずにもう一度、液体を飲み込んだ。


「暎さんはどんな仕事をされてるんですか?」

「これも、診察か何かの一環ですか?」


すると桜田医師は笑った。


「暎さんはお父さんに似てるな」

「やめてください」

「似てると言われるのは嫌ですか」


僕はもう一度缶コーヒーを飲んだ。それは、どこまでも調えられた真っ平な味だった。


「文芸の出版をしています」

「へぇー、じゃあ、僕の一番星のようなものを、世の中に広めているんですね」

「え?」

「素晴らしいお仕事だ」

「……」


これは先生にとって、仕事なのか、それともプライベートなのか、よくわからなかったが、先生は声のトーンを少し落として話を続ける。


「この世の中が大きな洗面器のようなものだとしたら」

「洗面器……」

「例えですよ、例え」


先生は両手で(くう)に洗面器をなぞって見せて、それからそこの底辺を撫でた。


「世の中の洗面器の底には小さなヒビが入っていて、僕はそこからこぼれてしまいそうになる人々をこぼれてしまわないようにするような仕事をしていますから」


僕は、少しずつ暗くなってくる空に目の端で一番星が見えないかと探しながら、先生の話を聞いていた。手の内にアルミ缶の確かな硬さを感じながら。


「だから、あなたのお父さんが見ているような見方とは全く別の見方でこの世界を眺めているんだと思います」

「はい」

「物やお金さえあれば、人が生きていけるわけじゃないんですよ。だから、一番星なんて別に見なくても僕たちは生きていけるのだけど、だけど、一番星を見るようなこととか、心に残るいい本を読むということは、僕らにとって必要なんです」

「……」


政治のような具体的な力を持ったステージに、暎、お前はつくべきだと、何度も何度も言われながら育ってきた。自分がそこへ行かなかったのは、父に対する反発だけだったのだろうか。そんなことをふと思いながら、口を開いた。


「僕は、金や物だけで人が生きていくわけではないと思うから、それとは違うものに携わっていますが」

「はい」

「しかし、いざとなればその金と物の力で自分たちが潰されてしまうような幻想に駆られます」

「そうですか?」

「持っている武器が違うというか、なんというか。正面から戦い合えば勝てない気がする」

「そうでも、ないんじゃないですかね」


ガラスのすぐ脇に行儀良く並べて植えられた、小さな赤紫色の花をつけている緑色の植物を眺める。その可憐さとか弱さを。


「暎さんは、金や物こそ全てで、それ以外のものは無意味で無力だと言われながら育ってきているのかもしれませんがね、僕はこの仕事をしながら、それこそ何度も、金や物は持っているのだけど、手に入れられないものを欲しがって、地団駄踏む人たちを見てきましたよ」

「今日のうちの父のような人ですか?」


先生は何も言わずに笑った。


「理想の社会って、なんなんでしょうね。ただ、僕はこう思ってるんですが、強いものも必要なのだけど、強いものが万能なわけではなく、弱いものも必要なんだってことなんだと思います。所謂強さにも、盲点のような弱点があって、その弱点を補うには所謂弱いもののほうが強いってこともある」

「時と場合によって」

「そう、時と場合によって、金や物も弱いんです」

「それで、一番星が勝つんですね?」

「そうですよ、たまに、一番星が勝つんです」


僕は、僕の信じる道を歩いてきたけれど、でも、どこかでまだ、父に勝てていないような、そんな思いが残っている。会うたびに否定され、負けているような気分にさせられる。僕は口を開いた。


「金や物を持っている人は、すべての人間をその金と物の価値観で測ろうとして、自分より金と物を持っていない人にはひれ伏せと迫ってくる」

「はい」

「それに屈しないと決めていても、この世の大多数はその論理で動いているから、僕はどんなに頑張っても父に勝てた気がしない」

「それでも頑張り続ける必要がある」

「なぜですか?」

「強いものばかりが横行するから、僕の仕事がなくならないからです」

「つまり?」

「強いものだけで、この世界は成り立たない。強いものはときに、人の心を壊し、そして強い物ではその壊れた心は救えないからです」


暗闇の中に密かに火花を散らす線香花火のように、柔らかく温かく、でも、ある一定の強さでもって、先生は言葉を続けてゆく。


「暎さん、あなたのお父さんは無力です。あなたのお父さんの力では、お兄さんは救えない」

「兄さん……」


これは、自分にとっては本当にありえないことだった。僕が理沙の前以外で、涙を流すことがあるなんて思いもしなかった。僕は先生の前で泣いた。兄を想って。僕の罪悪感が押し流れてきたのかもしれない。


涙を流しながら、どこかにあの日々の暗い映像が流れていた。誰かに助けてもらいたかった。母に、家にいる使用人に、大人に。でも、誰もがまるでなんでもないことであるように無表情に僕たちを囲って、助けてはくれなかった。父を批判する人もいなかった。だから、どっちが正しいのかわからなくなった。


父はそうやって僕たちを力で支配しようとして、でも、1人は家を逃げ出して、そして、もう1人は自分の心の奥の方に逃げ込んでしまった。


僕の父は無力です。金や物では、僕らを手に入れることはできなかった。


「兄さんは、また、普通に戻れるんでしょうか?」

「戻ってきたいと思えば、必ず戻ってきますよ」

「この世界に?」

「そう、この世界に」


生きているって一体、なんなんだろう?生きていくって一体、なに?

強い人たちは、俺たちがルールだと言って先頭を歩き、そこから脱落する人間は、そいつが間違っていると断言するのだが、しかし、世の中では少なくはない人が、脱落している。

そして、人を脱落させる人間には、もう一度その人が立ち上がり歩き始めるための手伝いをすることはできない。その能力が人を脱落させる人間には備わってないからだ。


世界は強い人たちだけで構成してゆくと一体誰が決めた?

そうでなければ、革新などないのだと一体誰が決めた?


それは本当に正しい この世のルールなのだろうか。


僕が、家を出て文芸作品をこの世に出す仕事を選び、それに身を尽くしてきたのは、親に対する反発だけじゃない。この世の何かがおかしいと感じていたから、だから無我夢中にこちらの方へ走ってきたのだと思う。今ではそう言える。


弱いものが立ち上がり、この世を覆い尽くすなんてことは起こりえない。そうではなくて、消えないために僕たちは、この灯りを消さないためにここにいる。人々が優しさを忘れないために。なぜならば、強いものだけでは、この世界は壊れてしまうと知っているのだから。


消えてしまうわけにはいかないんです。


桜田先生は、途中で僕を1人にしていってしまい、僕はしばらくそこで一番星が空に出るのを待っていた。


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