7 鬼ヶ島へ帰る④
7 鬼ヶ島へ帰る④
澤田暎
父は僕を待とうとはせず、どうにかして兄の居場所を突き詰めると、もともとそれは病棟は別であっても同じ病院内のことであるし、車椅子に乗って精神科の病棟まで乗りつけると、息子を出せと大騒ぎした。
呼び出されて駆けつけ、看護師に案内された部屋のドアを開けてみると、父と叔父が病院の事務局長かなんだろうか、それと難しい顔した桜田医師とテーブルを間に睨み合っている。
「この目で見るまでは信じられん。あんたたち、何か考えがあってこんなことしてるんじゃないのか?」
「いえ、ですから、先ほどからご説明した通りですね、先生」
滑稽な三文芝居のようだった。へいこらと頭を下げる男とそっくり返っている病人の男。
「黙ってないで桜田先生からもなんとか言ってください」
汗をかきかき事務局長が横を向くと、声をかけられた桜田医師は腕を組んで難しい顔をして黙っていた。
「わしは自分のこの目で見るまで、あんたたちが言ったことを信じないぞ。大の大人が突然子供に戻ってしまうなんてことがあるか」
腕を組んで少しのけぞるようにして椅子に座っていた桜田医師は腕を解くと姿勢を正して、自分の両手をテーブルの上で柔らかく組み合わせると父に向かって少し前のめりになった。
「突然のことで驚かれるのも無理はないと思います」
医師はじっと目の前の父を見ながら言葉を続けた。
「我々もずっと会わせないとは言っていません。ただ、もう少し時間を……」
「どこにいるんだ」
そして、父は両手を踏ん張って、立ちあがろうとした。自分が下半身不随となったのを忘れて立ちあがろうとし、バランスを失った車椅子が後ろに滑らかに滑り、派手な音を立てて父は床に転がり、そばにいた叔父が悲鳴をあげた。
「兄さん」
僕はそれを出来の悪いコメディでも見るような気持ちで、立ち尽くして眺めていた。
「柾はどこにいるんだ」
「兄さん、落ち着いて」
どうしてなんだ?どうしてなんだろう?
いなくなれば取り乱すほどに大事なものなのなら、どうして壊れるほどに痛めつけるのか。親って一体、なんなんだ?慌てて助け起こそうとしていた叔父が部屋の出入り口にいる僕に気がついた。
「暎、お前きてたのか。そんなとこ突っ立ってないで手伝いなさい」
その叔父の声が、どこか遠くから聞こえた。
柾に会わせろと床に転がったまま上半身だけで暴れる父を、叔父と2人がかりで車椅子に戻し、なんとか宥めて父の病棟へと戻る。少しずつ落ち着いてきて、今度はぶつぶつと何か呟いている。
「これじゃ全てが台無しだ。これを取り戻すには一体どれだけの金と時間がかかるか」
軋むことなく滑らかに回転する車椅子を滑らせながら、自分の下半身が動かなくなっても、完全に死ぬまでは諦めることのない人間の、この世への執着のなんと浅ましいことだろうと思う。心がどうしようもなくカサカサに乾いていく。
父の病室に戻ったところで、担当医から 病人に無理をさせた ということで厳しく叱責された。特に息子である僕が叱られた。しかし、どんなことを言われてもどんな言葉も一言も心に刺さらなかった。担当医はひとしきり僕らを叱責すると、ベッドに移された父の状態をテキパキと確認し、看護士にいくつか指示を出し、鎮静剤を取り寄せるとそれを父の腕に打った。しばらくすると父は眠った。
鎮静剤を打たれてぐっすりと眠っている老人の顔を見ながら思う。
僕は一体、何を望んでいるのだろう?
つきっきりで疲れた叔父が部屋を出てゆき、窓から差し込む光が作る窓の影がゆっくりとその角度を変えていく中、僕はまるで石の彫像か何かになったように椅子に座って動かず、父の寝顔を眺めていた。
つと立ち上がり、誰もいない病室で、自分の老いた父親の首筋に両手をかけてみた。指が触れる、老人のあの特有の薄い皮膚、その内側で繰り返される呼吸と脈動。
どうして、国の政治というのは、こういう老人が務めるのだろう。
政治家などでなければ、この男はただの平凡な弱者なのに。
首筋に両手をかけてみても、自分の心には全くなんの感情も湧いてこなかった。
僕はそこで、手を離した。
よくわからないけれど、思うに、人を殺すためには、それ相応の激しい感情がなければ無理なのだと思う。その感情の力で持って、開かない重い扉を押し開けて通る門なのだろう。僕にはでもどう考えても、どうしてもこの男を殺さなくてはと思い詰めるほどの感情が足りない。
それならば反対に、きっと普通ならば、そこには小さく愛情のようなものがあるのかもしれない。だけど、僕にはそれもない。あるいは、愛と憎しみはどちらもなければならないのかもしれない。いくばくかの愛があるからこそ、人を心底憎むことができる。それこそ、殺すほどに憎むこともできる。
僕にはそんなもの、これっぽっちもない。
僕には他の人と比べて何かが足りないのだと思う。
よくわからないがそう思う。




