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7 鬼ヶ島へ帰る③













7 鬼ヶ島へ帰る③













澤田暎













***


しかし、そんな不安とか感慨にひたる暇もなく、別の不都合が立ち上がった。


父が命を繋ぎ止めた。それどころか、歩けなくはなったものの、上半身は動くし、言葉自体にも問題がないような状態で、生き延びてしまったのだ。


昏睡から目を覚ましたと叔父から連絡が入り、そのまま死んでくれればよかったのにと舌打ちをしながら、ああだこうだとぐずぐずとその日を過ごしてから会社を出る。電車に乗って、父のいる病院へと向かう。僕の頭の中の父は、相変わらず管やらなんやらが繋がっていたし、口には呼吸のためのマスクがつけられていた。ところが、ホテルの部屋のような個室に入ってみると、父は残念なことにしゃんとしていたし、自発呼吸をしてマスクは外してたし、何より、僕の顔を見るなり、普通にしゃべった。


「暎、お前、柾をどこに隠した?」


その瞬間、僕が何を思ったか想像がつくだろうか?

もちろんこう思った。


なんで、お前が、話せるんだよと思った。

何日も寝てたくせに、起きたなり、足は動かせないらしいが、頭も普通に働いて、口も普通に動くんだよと。


「兄さんは今、倒れてしまって人に会えるような状態じゃないんです」

「倒れたって、もう何日も経っているそうじゃないか。どこに隠した?お前が言わないなら調べればすぐわかるんだぞ」

「面会謝絶です」

「親のわたしが面会謝絶はないだろう」


傍に控えていた叔父がとりなす。


「兄さん、今はまず兄さんの体のこともあるし、そう興奮しないで」

「別に興奮などしていない。ただ、柾を連れてこいと言っている。柾はなぜここにいない」


死にかけたくせに起きてみたらいつもと全く変わらない様子の父を、僕は半ば呆れながら見ていた。


「そうか、わかったぞ」


父は、僕を指差した。


「わしが倒れた間に、慌てて碌な対応ができなかったのを叱責されるとでも思って隠れているのだろう?」

「父さん……」


人生というのは時折滑稽であるし、また、ある場面はコメディで、その次のある場面は悲劇であったりして、そういうちぐはぐな布を縫い合わせたパッチワークのようなところがある。


「落ち着いて聞いてください」

「わしはいつも落ち着いている」

「父さんが倒れた日に、兄さんも倒れました」

「それは何回も聞いた。何が原因なんだ?」

「お父さん、それはあなたです」


父は、しばらく僕の発言の意味に考えを巡らした。


「わしが倒れた心労でおかしくなったということか」

「違います」

「じゃあ、なんだ?」

「あんたのせいでもうずっと長い時間、兄さんは疲れ切ってたんだよっ」


人でも変わったような胴間声が、自分の体から出た。傍にいた叔父がポカンとした顔で僕を見る。


「あんたが倒れたあの日に、兄さんは記憶を失ってしまったんだ」

「どういうことだ」

「今は自分で自分のことを12歳の子供だと思ってる」


父と叔父が、少し似た顔で黙って僕を見ている。しばらくして父の顔は突然、熱した薬缶のように赤くなった。


「そんなバカなことがあるか」

「あんたが壊したんだ。あんたが兄さんを壊した」


興奮している父と僕を見て、叔父が慌てた。


「兄さん、そんな興奮したら、体にさわります。暎も、なんだその物言いは、自分の父親に向かって。さっきまで、生きるか死ぬかの瀬戸際にいた親に向かって」


その時、僕はこう言おうと思った。父さんなんか死ねばよかったのに。そう思ってたし、そう言うつもりだった。


その時、確かに聞こえた。嘘ではない。


暎……


それは、子供になってしまった兄さんの声ではなくて、きちんとしたあの、あの兄さんの声だった。怒鳴るわけではないのに、人の背筋をすっと伸ばさせるような、あの僕を嗜めてきた声。僕は目を軽く瞑った。自分の体の中を流れる血の音が聞こえるような気がした。息を深く吸った。吸って目を開けた。


「解離性健忘という状態で、医者からは精神的に非常に不安定な状態なので、誰にも会わせないようにと言われています」

「どこの医者が言ってるんだ」

「父さんが落ち着いたら、説明を聞けるように手配しますから」

「最初からそういえばいいのに、なんださっきの口ぶりは」


まだ興奮冷めやらない赤い顔をした父親を見ながら、自分の顔がこれでもかと冷たく強張っていく。


「お父さん」

「なんだ?」

「下半身の感覚がないんですよね?さっきお医者さんから聞きました」

「それがどうした?」

「それは、リハビリでどうにかなるものですか?」

「……」


叔父が横から口を出してくる。


「そんなことは今ここで話さなくても」

「お父さんのことですから、歩けなくなっても、自分でトイレに行けなくなっても、偉そうに人にそれをやらせるんでしょうが」

「何を言いたんだ」


ここでまた、聞こえた。兄の声が聞こえた。

暎……


僕の名前をただ呼ぶだけ。でも、その時、思った。

兄がいる。記憶をなくし、自我を失った兄の、その魂のようなものが、反対に肉体から自由になって、今、ここにいる。

ここで今僕が、兄の意思とは別に、父を追い詰めたら、その魂がどこかへ消えていってしまうような、彷徨っていってしまうような、そんな強烈な感覚に襲われたんです。


僕が、食ってかかりたい気持ちをあと一歩のところで引いたのは、父のためではなくて、兄のためだった。


「いえ、なんでもありません。お大事に。医者との面談はまた後ほど手配して知らせます」


病室を出て、兄のところへはその日は寄らずに会社へと戻る道すがら、僕は一つのことを考えていた。兄さん、兄さんは優しすぎる。あと少しで自分が消えてなくなるかもしれないような時まで、どうして自分ではなくて、よりによって父親の心配をするんですか。


あの人があなたに何をしてくれたと言うんですか。



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