表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/27

1 そのピースが今更どこにはまる?③












   澤田理沙

   とある週末の午後、地下鉄の中













「ね、この格好変じゃない?」


隣にいる主人に尋ねる。


「その質問、何度目?」

「数えてない。ね、変じゃない?」

「綺麗だよ」


休日の午後、地下鉄の中は空いていた。並んで座席に腰掛けていた。暗闇の中で車両は大きく曲がり始める。


「やっぱり帰ろうかな」

「ええ〜」


帰るというと手を捕まえられた。


「別にたいしたことないって」

「いや、それは暎くんから見たらそうかもしれないけど」

「あ、それ」


カタカタと揺れながら、暗闇の中で車両はまた、前ならいのように真っ直ぐに戻っていく。


「今日だけは絶対に暎くんって呼ばないで」

「ええ〜」

「これは、冗談でもなんでもない。本気の本気」

「本気の本気?」

「うん」

「つまらないな」

「もし呼んだら罰金取るから」

「ばっきん?」

「一回につき5000円」

「え……」

「5000円」


じっと見つめ合う。いや、冗談じゃないかも、これ。


「そんなん払わないって言ったら?」

「檜垣さんに言って理沙の給与から差し引いてもらう」

「それ、労働法的に違反になるんじゃないの?」

「とにかくどうにかして差し引くから」

「5000円……」


高すぎず、かといって安くもない。妙に信憑性のある金額だ。

5000円あったら、何ができる?セールの服が買える金額だよ?


「夫婦の間で罰金ってどうかと思う」

「別に暎くんって呼ばなきゃ済む話でしょ?」

「いつもそう呼んでるからわざとじゃなくてもポロッと出るかも」

「そんな原因とかどうのはどうでもいいの。結果が大事。呼ばないで」


地下鉄が目的の駅につきました。ゾロゾロと人が降りていく。その背中にわたしたちもついていく。暎くんはわたしがまだ逃げるとでも思っているのか手を繋いだままだった。


そしてわたしはまた気後れし始めた。













   半刻ほど経って、上野公園近くの美術館













美術館について、入り口から入る。一階は何か別の展示をしていて、わたしたちは二階に上がりました。チケットを見せて中に入ると簡単な受付があって紺地のスーツに身を包んだ中年の女性が座っていた。主人を見かけると笑顔になって座っていた椅子から立ち上がった。


「あら、澤田さん」

「どうも。お久しぶりです。先生は?」

「さっきまでいたんですけどね」


メガネをかけたその人はチラチラとあっちこっちを見渡す。


「ま、ああいう人ですから、すみません」

「今回は個展、おめでとうございます。あの、これ、お口に合うかどうかわからないんですけど」

「あら」


暎君は携えてきた風呂敷に包まれた細長い瓶を差し出す。


「お酒に詳しい知人が薦めていたんです。全国的に有名な蔵が造ったものではないんですけれどね。この杜氏の方は、今、注目されているそうですよ。先生のお口に合えばまたお持ちします」

「すみませんね。本当に、いつも」


両手でささげ持ってメガネの女性はお辞儀をした。手に持ったものを一旦置いた後に、チラリとわたしの方を見た。本当にチラリとだけ。


「ああ」


その視線を見て暎くんは、ちょっと離れて立っていたわたしの肩に手をおいてわたしを引き寄せると言った。


「妻です」

「え……」


女性はしばし固まった。


「澤田さん、結婚されたんですか?」

「お陰様で」

「あら、やだ、まぁ」

「理沙です」


ちょこんとお辞儀をした。


「あら、可愛らしい奥さんね。澤田さんもすみに置けないわ。こんな子、どこに隠してたの?」

「隠してなんていませんよ」


暎くんがお喋りしている横でおとなしくしていた。


「それじゃ、先生が戻られる前に展示を見させていただきますね」


キリのいいところでそう言って、そして、主人は入口の方へと歩いて行く。トコトコと後に続いた。その入り口は黒いカーテンで覆われていた。まるでお化け屋敷の入り口みたいだなと思う。


主人に続いてそのカーテンをくぐって、どうしてカーテンがあるのかが分かりました。


真っ暗な中に水色の光で滝が一面に浮かんでいた。

部屋の壁をぐるりと一面に暗闇に水色に光って浮かぶ滝が描かれていたんです。


圧倒された。

しばらくそこから動くことができずにいました。


次の部屋へゆくと、今度は電気がついていた。その中に墨だけで描かれた風景が続く。

霧の中に浮かぶ崖。そして、また、さまざまな滝や、川の流れ。


毎日、東京で生活していて、さまざまなものを目にしている自分にとって、その絵は本来なら面白くないもののような気がしたんです。だって、ただひたすら滝の絵。ただひたすら崖や山肌や森を描いたもの。つまらない動きの少ない絵。


それなのに何故だろう?絵心なんてないわたしが初めて、こういう白と黒の世界に、モノクロの世界に……


出会った?なんでしょうか。

つまらないと思わずにずっとその少しずつ違う水の動きや風景をただ眺めていました。


「何か感じますか?」


不意に話しかけられて驚いた。横を見ると、こんな東京のど真ん中で、作務衣というんでしょうか?藍色の和服を着た男の人がいた。わたしより年上の白髪の混じった男の人。暎くんよりも上だろう。


「わたし、こういうのはなんといっていいのか」

「思ったままでいいですよ。別に、つまらないと思ったならそれはそれで」


小首を傾げた。


「子供の頃は、こういう絵が」

「はい」

「よくわからなかったです。ま、つまらないと。動物とか描いてたらまだマシですかね」

「なるほど」

「でも、今日初めてなんだか飽きずに眺めてしまいました」

「何か感じましたか?」

「寂しい。とても」


そう。自然の中に一人、たった一人で放り出された気分になっていた。自分の周りから一瞬にしてみんなが消えた。そんな錯覚。


「ほう」

「寂しいのだけれど、でも、同時になんかホッとするんです。どうしてでしょう。ただ、たくさんの水の流れを見てるだけ。自然の様子を見てるだけなのに」


ついペラペラと見知らぬおじさんに話しかけてしまった。後から、しまったと思った。何をやってるんだろ?チラチラと辺りを見渡す。暎くんは見当たらなかった。暎くんのこともたった今まですこんと忘れてた。


見知らぬおじさんはそんなわたしの様子は意に介さず、とつとつと語り始めた。


「人間はね」

「はい」

「1番最初に水の中に浮かんでいるんです」

「え?」

「ほら、羊水の中にいるでしょ?」

「あ、ああ……」

「だから、今でも、水の流れを見たり音を聞いたりするとそれを思い出すんだと思うんです。それでホッとするんですよ」

「……」

「人も自然の一部だからね。時に自分が自然の一部だということを思い出すために、こういうものを見て感じてほしいんですよ。自然の中にいる自分を自分で見つめると、自分が本当はどういう存在で、何を求めているのかと思い出すことができる。まるで母親のお腹の中にいたときに戻ったみたいにね」


何かが、おかしいなと思い始める。この人の話、まるで……


「先生、こんなところにいた」


すると、暎くんがどこからともなく現れた。


「なんで人の奥さんに話しかけてるんですか。二人、知り合いじゃないでしょ?」

「え……」


その男の人は、驚いた。


「澤田くんの奥さん?」

「そうです。勝手に話しかけないでくださいよ」

「いつ結婚したの?」

「冬の間に」

「ふうん」


さして興味や関心もなさそうにそう言った。


「どうも失礼しました。まさか澤田くんの奥方様とは、どうもしののめひじりです」


そう言ってがっしりとした手を差し出された。なぜかその手を暎くんがすかさず握る。


「どうも、どうも」

「君とはもうとっくに知り合いなんだけど」

「いえ、これは妻の代わりに」


そう言いながらブンブン振っていた。


「なんだなんだ、らしくないな」

「何がですか?」

「いつもの澤田くん、らしくない。余裕がないな」

「……」


仏頂面で握手し合っている男の人たちを尻目に、そっと入り口でもらったパンフレットと既に切られたチケットを見る。


東雲聖


この漢字は、しののめと呼ぶのだろう。後ろはひじりだ。

つまり、この作務衣姿のおじさんは、この絵を描いた日本画家だったんだ。現代日本を代表する芸術家の一人だ。

……

そんな人に、動物が描いてあったらまだましなんて……。ああ、わたし、変なこと言っちゃったよな。

どうしよう……


「そうか。君にもとうとう急所というか、弱点ができたのだね」

「なんの話ですか?」

「どうでもいいけど、もう離してくれないかな。女性ならともかく男性とこんなに長く手を握り合う趣味はないよ。誤解されてしまう」


暎くんが言われてパッと手を離す。


「なんだなんだ。別人みたく人間らしくなりましたね。君」


そう言って、顔いっぱいの笑顔で東雲先生は笑って、楽しそうに主人の肩をぽんぽん叩きました。


「おかしいですか?」

「いや、嬉しいですよ。大人はね、不器用だから。何かに囚われてしまうとそれから自由になるのは至難の技なんだ。君は解脱したみたいじゃない」

「解脱って……、そんなんじゃないですよ」

「いや、いいよ。捉えどころのない人より、人間らしい弱みを持った人の方がさ。いや、それにしても」


東雲先生はおもむろに腕を組んで、片手を顎に添えるとジロジロわたしを見た。


「澤田くんに出会う前に僕に会ってたらよかったのに」

「……」


ポカンとした。暎くんが先生ににじり寄る。


「先生、うちの奥さんはこの手の冗談が通じないんですよ。からかうのはやめてください」

「あながち冗談でもないのだけれど」

「なら、なおさらやめてください」

「ははははは、愉快、愉快。こんな澤田くん、初めて見たよ」

「それはもういいですから」


その後、先生は別の人に話しかけられた。わたしたちは二人でその場を辞しました。わたしはまだぽかんとしていた。上野公園をふらふら歩きながらぽかんとしていた。


「理沙、どうした?」

「……びっくりした」

「なにに?」

「……」


咄嗟に言葉が出てこない。


「あんな……」

「あんな?」

「すごい綺麗な清純な絵を描く人が」

「うん」

「でも、普通のおじさんなんだね」

「作品を作ってる時は別人になりますよ。でも、残念ながらオフの時は普通の人間です」

「はぁ……」


あの暗闇の中に浮かびあがる水の流れに圧倒した瞬間を思い出す、それから……


「なんか」

「なに?」

「あ、いや、なんでもありません」

「なんだよ。言いなよ」

「なんでもありません」


口をつぐんだ。あてもなくてくてく歩こうとすると手を引っ張られた。


「どこへいくの?」

「さぁ」

「この後ね、個展の主催者とか関係者が集まるんだよ。夕方から」

「ああ、はい」


それなら、ちょっとブラブラしてから先に帰るねと言おうと思った。


「理沙も出ない?」

「ええ?」


しかめ面になった。


「それはないでしょ」

「なんで?」

「わたし、場違いだし。帰る、帰る」

「じゃ、僕も帰る」


季節はもうそろそろ夏を迎えようとしていた。うっすらと汗ばむような陽気の中で、夕方に向かおうとする上野公園にはたくさんの家族連れがいた。子供たちのはしゃぐ声。主人の意図がわからず、手を繋いだままでお互いに見つめ合った。


「暎くんが帰ると、よくないでしょ」


いろいろな所に顔を出すのも主人の仕事なんです。


「そんなこと言ってあっちもこっちも出てるとキリがない」

「せめてちょっとだけでも顔出したら?」

「理沙が一緒に行けばさ」

「うん」

「理沙が疲れたからって言い訳にして途中で帰れる。僕一人だと言い出しにくいんだよ」


はぁとため息が出た。


「でも、わたし、場違いだし」


そういうと暎くんは笑いました。


「ちょっとそこらに座ろっか、潰さなきゃいけない時間もあるし」


近くの売店でペットボトルのお茶を買って近くの空いたベンチに二人で並んで座った。


「その、君が場違いという話について詳しく聞きたいのだけれど」

「暎くんの周りの人たちは」

「うん」

「お仕事で本を作ったり、個展を開いたりとかしてるでしょ?わたし、そういう専門性ないし。芸術的な話とかちんぷんかんぷんだし」

「うん」

「みんながへぇ〜とか思うようなこと言えないし」

「なるほど」


それから、ガヤガヤざわざわした公園の真ん中で暎くんはお茶を飲み、わたしもそれに合わせてペットボトルを開けようとした。開かないのでハンカチを出してもう一度ぎゅっと蓋をひねってそれからのんびりお茶を飲みました。のんびりとした午後、のんびりとした時間。


ついこないだまでは自分にこんなふうに誰かと過ごす午後が来るなんて思いもしなかったな。


「でもね」


そばで黙っていた主人が突然口を開いた。


「ん?」

「でもね、本当は芸術というものはさ」

「うん」

「万人のためのものなんだよ」

「……」


何を言っているのだろう?


「芸術作品を目の前にするといろんな人がさもわかったふうなことを言うけど」

「うん」

「実際は本当はわかっちゃいない」

「はぁ」

「まぁ、なんというのかなぁ……」


眉間に皺を寄せて考え込む。その顔をしばらく見てました。


「何か気の利いたことを言って周りやはたまた作者をアッと言わせてやろうなんて輩はいっぱいいる」

「うん」

「そういうふうに構えてしまう姿そのものも、人間の一つの姿として受け入れてもいいのかもしれないけど、でも、そんなの俗物だ」

「ゾクブツ……」

「結局は別に絵を見たからって人を唸らせるような感想をいう必要なんてないよ」

「ああ、なるほど」

「普通の人が普通に見て、それで、何か感じたら、その時に芸術というのは存在意義を発するのだからさ」

「はぁ」

「言葉なんかに無理に表す必要なんてないさ」


わかったようなわからないような。


「ねぇ、理沙」

「はい」

「僕の周りにいる人たちは、一部の俗物を別にしてみんな、君のことを場違いだなんて思わないよ」

「……」

「僕はみんなに受け入れられている。だから、僕のこの世での最大の理解者である君は、もう、その時点でみんなに受け入れられてるんだよ」

「へー」


わたしがそう言うと暎くんは笑った。


「なんか偉そうだね。わたし」

「僕が偉いからね」

「自分で言う?」

「でも、君は僕より偉いから自動的にもっと偉いんだよ」


夕方に向かう明るい午後でした。軽い気持ちになった。気後れしてたのが消えた。

どこまでも歩いていけそうなそんな気持ちになった。明るい夜が来て、そして、その夜がいつまでも終わらないような、ずっと続いてゆくようなそんな気持ち。今日が終わらないようなそんな気持ちです。


「だから、それらしいこと言わなきゃなんてつまらないこと考えないでいいよ」

「そうか」

「そうそう」


透明人間だった自分が、ずいぶん進歩したものだと思う。主人はわたしの人生に明るい演出をしてくれる人なんです。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ