7 鬼ヶ島へ帰る②
7 鬼ヶ島へ帰る②
澤田暎
病院というのはどうしてこうも、白いのだろう。白くて明るい。それがそらぞらしく思える。カツカツと廊下を兄の病室に向かって歩く。
医者は、専門なのだから、わかっていると思うのだが、普通に愛されて育ってきた人ならまだしも、この俺に父親を演じろなどとはなんという皮肉か。
兄が求める父親像?
そんなもの俺が知っているわけがない。理想の父親がどんなものなのか、俺自身が知らないのにどうしろというのか。普通の人にはなんでもないことが、普通ではない人には……。
そこまで思ってふと思った。
普通って一体なんなんだろう。
この世に普通の人っているんだろうか。反対に自分は特別な人なのだろうか。
僕は他の人とは違う特別な人なのだろうか。
鬼ヶ島をでてから、ずっと元気にやってきた。俺はもう小さな子供ではない。あの洞穴のような親父の目から逃げ回っていたような小さな子供では。
それでも、あの過去を思い出すようなエリアというか、行為というかからは逃げていたのだと思う。
僕の過去は凍っていた。
もしも兄がいなければ、わざわざそれを解凍しようなどとは思わなかっただろう。
氷の中に閉じ込めたものに、今の僕なら対峙できると思ってる。
思ってるけど、それでも、武器を片手に奥から出てくる鬼を待ちながら、途方に暮れている。この舞台がこれからどうなっていくのか、ラストシーンが見えない。役者の僕にシナリオが与えられていない。
また逃げるのですか?
医者の声が頭に響く。思わず舌打ちしそうになった。
逃げるわけがない。兄をほっておいて、幸せに生きていけるわけがない。それだけはわかる。
***
僕が病室に入っていくと、兄は本を読んでいた。ベッドに患者用の服を着て、きちんとした姿勢でベッドのヘッドレストに枕を立てかけて背をもたれさせ、本を読んでいた。窓の外から入り込んでくる陽光は明るく白くて清潔なベッドのシーツと、白地に青いストライプの患者用の服に差し掛かっている。
物音に兄は目をあげ、その澄んだ目の色を僕は眺めた。
「お父さん、僕は一体どこが悪いんですか」
「お医者さんはなんて?」
「脳にもしかしたら異常があるかもしれないということで、精密検査が必要だって。でも、どこも痛くないし、僕には問題があるなんて思えないんです」
大人の男の声なのだけど、少年の凛とした口調というか、声の出し方なのだろうか?そのちぐはぐな違和感。耳にそんな違和感を感じつつ僕は兄の傍の椅子に座った。
「それはでも、大切なことだからちゃんとお医者さんのいうことを聞かないと」
なぜだろう。大人の兄の顔に少年の顔が乗り映っているように錯覚し、そして、僕はその少年の頬を撫でたくて手を伸ばした。
「お父さん」
手を伸ばせば、当たり前と言えば当たり前なのだが、微かに兄は体を硬くして、しかし、大人しく僕の抱擁を受ける。僕の手のひらの内側で、一度硬くなった体が、ゆっくりとそっと緩むのがわかる。
当たり前と言えば当たり前なのだが、これは言葉によるものでも、物質的な打撃によるものでも変わらないと思うのだが、人に暴力を与えられると、頭とか心ではなくて、体が記憶する。人間の生存本能は偉大だ。危険を瞬時に悟り、考えるよりも速く体が反応するのだ。
父の暴力を兄は体で覚えている。
「お父さん、泣いているのですか?」
僕はその時、本当はその頬を撫でるのではなくて、体ごと抱きしめたかった。そして、おいおいと泣きたかった。それは兄を見ながら、そこに、やはり子供の頃の自分を見てしまったからだと思う。自分で自分を抱きしめたかった。
「僕は本当に何か、悪い病気なんですか?」
兄の声が少し尖り、ふと我に返った。
「すまない。なんでもない」
僕は……、父を演じなければならないのだった。僕の父は、息子を抱きしめたり、病気の息子を心配して涙を流すような男ではなかった。手の甲で涙を拭った。
「この本はどうしたんだ?」
「検査以外にやることがなくて暇なので、看護婦さんに言ったら、患者さん用の本があるというので借りました」
入院患者には子供もいるのだろう。ベッド脇の棚に平積みにされた本の背表紙を目でなぞる。子供用の政治経済や歴史を解説する本の中に、一冊農業の本が混じっていた。
「農業……」
「あ、それはなんでもありません」
兄が慌てていうのを聞かずに、手を伸ばして本を取るとパラパラとめくった。それは、例えば都会で会社員などをしていた人が脱サラをして、田舎にIターンをして農業を始めると言ったような時に読むような、農業初心者向けの本だった。
思わず目を丸くした。
「こんなことに興味があるのか?」
「あ、すみません」
兄が農業に興味を持っているところなど、一度も見たことがない。兄は、少し青ざめていると言ってもいいほどのしまったという顔をしていた。僕は、一度唾を飲み込み、声の調子を整えた。
「謝らなくていい。なんで農業に興味があるのか言いなさい」
「いえ、別にただそこにあったので」
「それでも興味があるから手を出したのだろう?」
まずいところを見られてしまったと表情を曇らせた兄も、僕の声音にピリピリとしたものを感じなかったからだろうか、おずおずと話し出した。
「食というのは、必ず必要なものですし」
「それだけか」
「……」
僕たちはいつも、座っている父の前に直立不動で立たされて、それこそ軍人のように。一つ、一つ、質問を受けて、それに対する最適解を求められてきた。僕たちの会話というのは、いつもそのようなものだった。自分が言いたいことを、伝えたいことをいうことなんて、僕たちにはなかった。殴られないための、或いはなじられないための最適解を都度、最短時間で叩き出さなければならない。
兄はどうしてこの本を読みたかったのだろう。
文字がずらずらと並ぶような専門書ではなくて、カラーの写真や文字で見やすいその導入書をペラペラとめくる。
「何もないところから」
「ん?」
「何もない土の地面から、芽が出て、ぐんぐん伸びて、育つのを見るのが好きなんです」
「……」
兄が話し出す声に目を上げると、怯えながら話すその目の本当に奥の方に、光が見えた気がした。それは微かなものだった。
こう、考えなさい。こう、発言しなさい。こう、行動しなさい。
思考を奪われたわけではなかったが、父の是としないルートを通って思考したり、発言や行動をしないように、僕らはそれこそ幼い頃から力と共に叩き込まれてきた。
僕らは僕ら自身を叩き潰されてきた。叩き潰されながら大人になった。でも、僕は子供の頃からずっとそこから逃げ出す計画をもち、僕自身という灯を消さないように自分を守りながら大人になった。でも、兄は違う。兄は父に逆らわず、そして、逃げ出しもしなかった。
そんな兄の中にもまだ、父に叩き潰されずにかろうじて生き残った、兄自身がいるということなんだろうか。
「そうか。柾は、農業に興味があるのか」
これは、一体、どんなおままごとなのだろう。変な話だ。父親の代わりに実の弟が、父親のふりをして演技をする。そして、兄のために、本当ならこう言ってほしかった言葉を手探りで口にする。それは兄が欲しかっただけではなく、僕が欲しかった言葉だ。
「これ以外にも何か面白そうな本があったら、お父さんが買ってきてあげよう」
ところが、僕の言葉は宙に浮いてしまって、兄の目から、ふっと何かが消えた。目がこれでもかと、空っぽで虚になった。
僕はおままごとの仮想の世界から現実に引き戻された。この人は少年ではない。少年である自分に逃げ込むほどに追い詰められた大人の男の人だ。
きっと、心が拒絶したのではないかと思う。
兄の中にある父親像とは違う父親像を僕が演じた時に。
こんなはずはないと。
人形のようになってしまった兄の布団の上に無防備に置かれた手の上に片手をそっとのせた。
戻って、来られるだろうか。もしかしたら、もう一生、この夢の世界に入り込んだまま、兄はこちらに戻って来ないんじゃないだろうか。
僕はもう片方の手を兄の手の上に置き、そして、兄の手を両手で包んだ。ちゃんと血の通った、温かい、人間の手だった。
「柾」
「お父さん、ありがとう」
「うん、また来るな」
肩にそっと手を置くと、立ち上がる。部屋を出る時に、そっと振り返ると、兄はベッドに背を預け、放心した様子で窓の外を眺めていた。その魂の抜けたような様子を見て、寒々とした心地で今更ながら確信する。
まるで少年のような口調で生き生きと話されてしまうと、最初はその中年男性の外観と少年の内側に強烈な違和感を覚えるのだが、その状態になれるとこの人は元気なんじゃないかと錯覚してしまう。異常な状態には陥っているが、でも、ともかく明るく元気じゃないかと。
カラカラと音を鳴らしてドアを引いて、廊下へ出る。ドアをきちんと閉めた途端に、なんだろう?気を引き締めて感じようとしていなかった、地球の重力が突然自分を襲ったように、ずんときた。
兄は、明るく元気なんかでは全くなく、非常に危険なところにいるのだと、あの呆けたような顔を見て認識した。今のところは呼びかけて応えるというか、こちらからコンタクトするルートはあるのだけど、いつそれが閉ざされるかわからない。僕とのルートが途絶えたら、兄はもう、あの魂の抜けたような顔をして、誰とも会話らしい会話をすることもないまま、残りの人生を過ごしていくのではないだろうか。そんな懸念が鎌首をもたげた。
それは、昔話に出てくる大蛇のような、すごく禍々しくてどっしりとした真っ黒な不安だった。
病院のまっすぐな廊下にたち、今出てきたばかりの病室の扉に背中を預けてたら、体の中にある気体を全て吐き出すような、長いため息が出た。




