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7 鬼ヶ島へ帰る①













7 鬼ヶ島へ帰る①













澤田暎













兄はそれからしばらくは病院に検査入院をした。主には脳に外傷があったりとか、そういう心理的要素ではなく外的要素による記憶障害ではないかという疑いを一つ一つ潰すための検査でした。それと並行して、医師によるカウンセリングが行われ、僕はそれを手伝わされた。


手伝わされたというか、兄と会話をしながらその場での応答について答えたり、また、兄を交えずに医師と面談し、兄の生育環境や、現在の状態に至った想定しうる原因についてのインタビューが主でした。


精神科医の診察室というのはどうしてこうも白くて明るいのだろう。その明るさに微妙なずれとでもいうのだろうか、違和感のようなものを覚えつつ、白髪の混じった白衣がなければ平凡に見える男と向き合って座る。


「何もかもを話してください」

「何もかもを?」

「はい、その方が早いので」


心の中でため息が出た。


「先生」

「はい」

「なんだか雑じゃないですか」

「雑?」

「患者さんに向かうときはもっとじっくりと話されるんじゃないですか?」


そういうと、目尻に皺を寄せて笑った。


「すみません。でも、澤田さんもお忙しいでしょう?だから、こういう方がいいかと思ったんだけど」

「だからっていきなり話せと言われて話せるような話じゃないんですよ」


赤の他人にペラペラと話せるような話ではない。


「なるほど」


すると、桜田先生は少し反省したのか、きちんと僕に真正面から向き合った。


「では、ちょっと失礼して」

「はい」

「お父様が倒れられたのが原因ではないかとおっしゃられましたよね?」

「はい」

「お父様と柾さんの関係はどうでしたか?」

「どうというと?」

「良好でしたか?」


関係はどうか、そんなもの一口に語れるものでもないなと思う。


「兄は父を非常に敬っていたというか」

「なるほど」

「でも、同時に恐れていました」

「それは、なぜ?」


その時、なぜだろう?洞窟のように暗い目をして、何度も何度も無表情に僕を殴る父の映像が、甦った。まるで今この瞬間に叩かれているかのような映像が。もう何年も思い出していなかったのに。


あの痛み、そして、あの恐怖……


「澤田さん」


あの洞穴のような真っ黒な目。


「澤田さん」


男の手が僕の両肩を掴んだ。僕は顔を上げた。平凡な男の平凡な顔を見た。


「大丈夫ですか」


息を大きく吸って、そして、吐き出した。


「なんだ、今の……」


もう一度息を大きく吸って、吐き出した。


「虐待を受けてたんですか?」


他人にそういう言葉であれを言い表されると妙なものだなと思う。


「しつけ……」

「躾?」


ふっと笑いが漏れた。


「うちの家ではそう呼んでました」

「なるほど」

「ずっと思い出したりしたことなんてなかったのに」


生々しく甦った。これでもかというほどに生々しく。


「僕は……」

「はい」

「反抗的だったんですよ」

「はい」

「でも、兄は……」


その時、子供の頃の僕たちの絵が心に浮かんだ。綺麗な服を着て死んだ魚のような目をして並んで立っている僕たち。


「お兄さんはどうだったんですか?」

「兄は、とても従順だった」


桃太郎は、桃に入って川から流れてきて、超人的な方法で大きくなり、最後に鬼ヶ島へゆき鬼を退治して育ての親の元に帰ってくる。しかし、僕のような人間は、鬼ヶ島で生まれ、そして命からがら逃げ出した人間だ。


過去を凍らせて遠ざかって、自分は元気に生きてきた。でも、それはなくしたことにはできない。


「どうして兄は父のそばに居続けたんでしょうか」

「はぁ」

「あの家を出るべきだった」


僕は頭を抱えて下を向いた。すると医師は淡々と言った。


「それはどうでしょうか」

「え?」

「暎さん」


医者は、僕を下の名前で呼んだ。兄も僕も同じ澤田なので、便宜上しょうがないのだろう。


「今は暎さんの話をしているのではなくて、柾さんの話をしているのです。暎さんにとってはご実家を出られることとお父様から離れることこそが正解だったのかもしれない。でも、柾さんはどう思ってたんでしょう?」

「……」


その時、鬼ヶ島を出奔した自分のもとにせっせと通ってきた兄の様子が思い浮かんだ。


「兄は……」

「はい」

「一度も父を悪く言わない」

「はい」

「でも、僕のことも否定しない」

「それで?」

「どうしてそんなんでやってけるんでしょう?自分が苦しいのに。そんなんだから、こんなことに」

「暎さん、話がまたずれてます」

「え?」

「あなたの話じゃないんです。お兄さんが大変なことになって、傷ついているあなたのことではなくて、お兄さんの話を聞かせてください」

「……」

「お兄さんは、柾さんは何を望んでいましたか?」


その場で答えは出なかった。


兄に面会する前に、次のことを注意された。つまりはこういうことだった。自分の思っていることを捨てて、兄の話を聞くようにというのだ。真っ白な状態で。


「いいですか?暎さん」

「はい」

「客観的に見て、つまりは他人から見ての正解を柾さんに押し付けてはなりません」

「はぁ」

「これは、柾さんの心の問題なんです。柾さんの主観の問題なんです。柾さんがどう思っているか。否定してはなりません。心を開いてもらって、柾さんが心の底で何を願っているのかを教えてもらわねばなりません。それは他人が決めてはならないんですよ」

「……」

「あなたとお兄さんの答えが違っても、それは違うと言わずに受け入れられますか?」

「え……」


僕は鬼ヶ島を逃げ出し、過去を凍らせて元気に生きてきた。しかし、残った兄はとうとう倒れてしまった。僕は鬼ヶ島に戻り、兄を今度こそ連れ出す気でいた。その時までは。


これはなんというのだろう?


僕は助けに行くつもりでいた。だけど、僕が鬼ヶ島に足を踏み入れた途端に、舞台が暗転するというか、なんというか。突然ガラリと変わり、僕に与えられた台本は白紙に戻り、この劇がどうなっていくのかが僕には見えない。


「先生」

「はい」

「僕までおかしくなりそうです」


先生は突然身を乗り出しテーブル越しに手を伸ばし僕の手を両手で握った。その時は、その温かさに少し救われた。


「暎さん」

「はい」

「あなたはお兄さんをこのままほっておけない」

「はい」

「あなたの問題とお兄さんの問題は繋がっている」

「僕の問題?」


僕には問題などないはずだ。僕は先生に握られた手を振り払った。


「僕は別に、毎日仕事もしてるし、家庭ももって幸せに……」

「また逃げますか?」


唐突にどこぞのファンタジーの大家が書いた作品を思い出した。その世界では、目に見えている現実の世界とともにそれと重なるようにして心の目でしか見えない霊的な世界がある。


それと同じだと言いたいわけではないが、僕たちの生きる現実の世界にも、確かに目に見え触れることができ、他人にも容易に認識される表の世界と、裏の世界がある。裏の世界とはつまり、心の中で起きている物事の存在する世界だ。


僕は自分の両手で顔を覆った。


「暎さん」


耳でだけ、先生の声を聞いた。


「逃げてもいいんです。でも、あなたは逃げられない。お兄さんをほっておいて、あなたは幸せにはなれない」


僕は、自分で、これと思う仕事をして、編集として出版の仕事に係り、この業界ではそこそこに有名で、理沙と出会い、愛する人と結婚した。それでも、幸せではないんですか?

それは表の世界でのことで、裏の世界では僕はやはり幸せではないのだろうか。


僕は顔を覆ってた手を外した。


「すみません。先生、ちょっと混乱してしまって」

「はい」

「ええっと……」


一瞬見えたようなあの現実の世界とは違う、精神の世界、どこまでも続く砂漠のような光景と絶望を一気に向こうへと押しやり、僕は会社で会議に出ている時のようにこめかみに片手を当てて、指でトントンと叩いた。


「僕の意見を兄に示さず、とにかく聞くことに徹すればいいということですね?」

「はい。そうです」

「わかりました」

「お兄さんは今、幻の世界の中にいます。その中で瑛さんは柾さんのお父さんです。柾さんが求めているお父さんを演じきってあげてください」


医者の言葉を頭の中で反芻する。


「わかりました」


僕は無表情にそういうと、椅子を立ち上がった。


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