6 裸の王様③
野中将臣
「わたしがソファーで寝ても構わないんですが」
「いえいえ、そんなことさせては申し訳ないですから」
「でも……」
誰がどこで寝るかですら最後まで揉めた。
「いや、一晩だけですよ。全く問題ないですよ」
「寒くないですか?」
「寒いところから来てるからね。仙台に比べたらこんなの寒いうちに入らないですよ」
自宅の家のリビングでソファーにのんびり座ってクッションをお腹に抱きながら、珍しいものでも見る気持ちで父親と妻の譲り合いを黙って見ていた。すると父が不意にこちらをくるりと見る。
「将臣、こういうのはお前が収めるものだろ」
そして、案の定、父にたしなめられた。
「ああ、大丈夫だよ。祥子がベッドで寝なさいよ」
「本当に?」
「いいの、いいの。俺もこっちで寝る」
「はぁ?」
「修学旅行みたいだろ?」
それには答えずにお布団の予備、あったかしらと祥子が立ち上がった。一緒になった時に余った寝具を捨てずにとっておいたのが役に立った。僕が捨てようとして、祥子に止められた品だった。父がソファーに横になり、僕はリビングのテレビの前のローテーブルを脇に退けて、そこに布団を敷いた。
「なんでもとっとくものだなぁ」
布団に入りながら感心した。父が神妙な声で言った。
「お前は家の中のことは全部、祥子さんに任せといた方がいいぞ」
「そうなの?」
「一般的な世の中の男性で、結婚している人の大半はそうしている」
「そういうものか」
「そういうものだ」
そう言うと、父は、メガネを外してローテーブルにかちゃりと置く。それからそろそろと体を横たえた。
「なんだよ、もう寝るの?」
「だめか」
「せっかくの修学旅行なのに」
「親子で修学旅行もなにも……」
「酒でも飲もう。前夜祭だ」
ブツブツ言っている父をほっといて、僕は一旦くるまった布団から抜け出した。台所で冷蔵庫をガチャリと開ける。缶ビールを2本取り出した。父は大人しく体を起こして一度傍に置いたメガネをもう一度かけた。僕は戸棚をガサこそと探る。
「ほら、おつまみもあるよ」
「なんだ?」
「ワサビ味のピーナッツ」
ローテーブルにつまみとビールをトンと置き、ビールをプシュッと開けると、父に差し出す。
「このまま飲むの?」
「洗い物が増えるだろ」
父はその言葉で素直に缶のままのビールを口に運ぶ。僕はそれを眺めながらもう1本のビールのプルトップに指をかける。プシュッともう一度心地よい音がした。
「毎晩、晩酌してるのか?」
「うん、まぁ、そうだね」
「ほどほどにしておけよ」
「わかった」
それから父は、僕の開けたピーナッツの袋から一粒取り上げてじっと眺めている。
「結構いけるよ」
「ワサビ味のピーナッツなんて前からあったっけ?」
「あるある」
父は騙されたと思ってそれを食べ、ちょっと渋い顔をした。それでも、その一粒で終わらせなかったから、一応合格したんだろう。
「結婚式は……」
ワサビ独特のピリピリとした感覚を舌の上に載せながら、僕は父と妹の先ほどの会話を思い出していた。僕に聞こえたのは父の言ったことだけで、妹がそれに対してどう答えたのかは聞こえなかったのだけれど。
「なんだ?」
「日を追うごとに輝きをます宝石のようなもの、か……」
「なんだ、聞いてたのか」
「父さんって時々、詩人みたいな口をきくね」
「親を揶揄うもんじゃないよ」
せっかく褒めてもあっさりといなされた。淡々とビールを口に運ぶ父の顔を眺める。僕は父の横にあぐらをかき、冷たいビールの感触を手にしながらその言葉の意味を考えました。でも、よくわからなかった。
「結局、今晩あの瞬間に父さんがこのはに伝えたかったことってなに?」
「なんだ。意味もわからず褒めてたのか」
「教えてよ」
「そうだなぁ」
そして、我が家のちょっとした詩人は、子供たちのためにどう説明しようかと少し上目遣いになった。
「若い時にはその価値がよくわからずに、たった1日のことだしと簡単に過ごしてしまう人も中にはいると思うんだけど」
「うん」
「かけがえのない日なんだよ。生涯を共にする人と結ばれる日というのはさ。その価値というのは二人の結婚が長くなればなるほど増していくんだ」
「だから、簡単に結婚するなということ?」
「それだと、違う意味に取れるな。適当にその日を迎え、適当にその儀式を済ますな、ということかな?」
「ああ、なるほど」
そういうことかと思いながら、ビールを飲む。握りしめていたせいか少しぬるくなっていた。そしてふと、妹のではなく自分自身の結婚式について思い馳せた。
「俺、でも、割と適当に過ごしてしまったような……」
「うん」
ゆっくりと自分が損をしたような気がしてきた。父はそんな僕の言葉にはさして関心を示さずポリポリとピーナッツを齧っている。
「なんで同じことを俺が結婚する時には言ってくれなかったの?」
「え?」
「父さんから見てても適当に見えたでしょ?」
「……」
父は右手にビールの缶を持ち、左手にピーナッツを一粒持ち、胡座をかいた姿勢で息子のマンションの天井をしばし眺めた。それから、ボソボソと話し始めた。
「男と女は違うし……」
「なんで父親って娘を壊れもののように扱う傍らで、息子をほったらかしにするんだろう」
「……」
そこにはほんの少しの責める気持ちと、ただ純粋な疑問がありました。父はまたしばし、息子のマンションの天井を眺める。
「それはあれだ。男は大切にすればするほど弱くなるからな。適度にほったらかしにしないと」
「そういうことか」
「そういうことだ」
……。まぁ、別にいいか。
部屋の灯りを落として床の上に置いたルームライトだけ一つポツンとつけていた。カーテンがきちんと最後まで引かれていなくてそのカーテンとカーテンの隙間から青い夜が覗いていた。
「このは……」
「ん?」
「投げやりな気持ちになってなかった?」
父はゆっくりとビールの缶をテーブルに置いた。
「そんなことはないよ」
「せっかくの結婚式なのに……」
もっとみんなでパァッと祝ってあげたかった。
「お兄ちゃんは古いって言われたよ」
「古い?」
「今時、みんなで集まって結婚する姿を色々な人に見せて式を上げる人って減ってるんだって。いろいろと気を使うし、お金もかかるしさ」
「うん」
そこで苦笑した。
「でも、俺が言ってることはそんなことじゃないわけ。このは、俺に最後まで言わせないように必死にペラペラと、いまどきはなんて話を繰り返すんだよ」
「うん」
「さすがに何も言えなくて……」
僕が問題にしていたのはもちろん、友達や職場の同僚や親戚や、そんな色々な人が出ないことに対してではなく、母が出ないことに対するものでした。母が反対して出席しない式に親戚を呼ぼうなんてもちろん思わない。
「将臣」
「ん?」
「明日は絶対に余計なことを言うな」
「……」
「お前は時々、間違ったことは言ってないんだけど、余計なことを言っている」
咄嗟にハハハハハと苦笑いが出た。その後、両手で軽く頭を抱えた。
「なんか、思い当たる節があるだけに、堪えるな、その言葉。めでたい日の前の日に釘を刺さないでよ」
家庭の場面だけでなく仕事の場面でも苦い思い出がいくつかある。
「余計なことを言うのは若い人の特徴だ。別にみんな、それについてはおおらかでいてくれる。ただ明日だけは……」
「わかった、わかったよ」
父はそっとため息をついた。
「歳をとってくるとね、こう、なんていうのかな?こうあるべきではないってみんながわかっているのだけれど、どうしようもないことっていうのが世の中にはあってさ。だから、裸の王様を見てて美しい衣装ですねと口を揃えていう。あれは、ちょっと例えが違うかな?あれは、王様は裸だと叫ぶ少年の方が正しいという寓話だものね」
カーテンの隙間から青い夜が見える。それは明るくて優しい青だった。
「明日はね、母さんがいないということをみんなで忘れて、母さんがまるでいるかのようにみんなで式をあげよう」
「それは、王様が裸ではないふりをみんなでしたように?」
「そうだ。一言もそれに触れず、完璧な式をあげるんだ。今、家族として僕たちがこのはにして挙げられることはそれしかないだろう?」
「……」
裸の王様は、権力者に媚びる大人の姿を皮肉った話です。でも、明日の僕たちの行為は、それとは違う。母がいないという事実は変えられない中で、でも、欠けているものなど何もないかのようにふるまう。演技する。
「お前はどこか腹でも痛いような、可哀想な顔で妹を見るなよ」
「はぁ」
「結婚式の日に腹でも痛いような顔で妹を見るお兄さんなんかいないだろう?その結婚に反対でもしていない限り」
「……」
やっと少し要領を得てきた。
「つまりは、母さんがいたらきっとしているような笑顔で、このはのことを見ろってこと?」
「母さんがいないということを完璧に忘れて、完璧な笑顔でおめでとうと言ってやりなさい」
「ああ……」
頭の中で、このはの前で完璧な笑顔をしている自分を思い浮かべてみた。
「その日の式の雰囲気というものは、集まっている人、それぞれの表情によって決まるんだよ。僕たちがこのはを可哀想にと思って眺めたらダメなんだよ。一度でもそう思って眺めたら、それがあの子にうつる。花嫁が悲しい顔をしてしまったら、完璧な式とは程遠いだろう?」
母が出ないことを気にしていないか?大丈夫か?僕はことあることに妹を気にし、声をかけてきた。その度に妹はサバサバとした回答をしてきた。だが、それはやはりどこか無理をしているように見えたんです。
「本当の優しさとは時に」
「うん」
「相手の嘘につきあい、真実には触れないことなのかな?」
それこそ、相手が裸なのに綺麗な服ですねと言ったり、或いは、見えないものを見えるといい、そこには何もないことには触れないことなのだろうか。
「若い時はただまっすぐに、どうにもならない現状をあるべき現状に戻そうとして人はもがくものだし、それについて言葉にして語るよね?」
「うん」
「でも、いついかなる時も言葉という形にすればいいものでもないんだよ。時には沈黙こそが……」
その時、父の言葉と重なって僕には見えた。
僕には翌日の妹の白無垢姿が見えました。
綿帽子の下で綺麗な笑顔をしている幸せそうなこのはの姿が。
「相手に対する本当の優しさになるんだよ」
そして、父の言わんとすることが身に染みたのです。自分が明日何をすべきなのかがわかった。
「俺、何度も何度も、母さんが来ないことを気にしてないかとか……」
「うん」
「あんなこと、言わない方が良かったのかな?結果としてはこのはのこと追い詰めてた?」
「将臣、お前は」
「うん」
「ただ、若いだけだ」
「……」
「それに、歳をとってもできない人もいる。だから、気にする必要はないよ」
父は僕を責めることはなかった。今までもそうであったように。
うちの父はそういう人なんです。そう、父そのものが沈黙を使っていたのかもしれません。言葉という形にしないところに意味を含む。人は時にその言葉と言葉の間の余韻にこそ、本当に言いたいことを含めるものなのかもしれません。
僕のような若輩者にはまだ、よくわかりませんが。




