5 だめだだめだと思ってもだめだ④
澤田暎
兄は母を許しているのだと思う。そして、おそらく父のことも許しているのだろう。僕はそれが認められなかったのです。やはりそれは間違っている。それを認めてしまったら、自分という人間の生き方の核のようなものを失う気がしていた。
だが、だからと言って無下にすることもできずにすっきりとしないまま母には会いに行った。やはり母はオドオドとしていて、ほんの数刻特に話らしい話をしないままで僕はその場を立ち去った。こんなことに本当に意味なんかあったのかと思いながら。
兄は父母を許しているのだろう。でも、それは間違っている、間違っていたとやはり思う。兄は間違っていて僕が正しかったと思う。
だって、兄は許すことで何を手に入れた?
自分の息子を殴り、今、ここで倒れている。
一体、兄さんは何を手に入れたというのですか、自分をこんなに追い込んで……
なんとも言えない気分になって外の空気を吸おうと外に出た。廊下をぶらぶらと行き、病院の正面玄関、吹き抜けになっているところへ来た。一階から最上階までが吹き抜けになりガラス張りの窓からキラキラと光が差し込んでいる。手すりにもたれかかって、階下を歩き回る人たちの様子をしばらく上から眺めていた。少し気を取り直して部屋へと戻る。入り口のところで中から声が聞こえた。それは義姉の声と兄の声だった。何か言い争っている。
「柾さん」
「あなたは誰ですか?ここはどこなの?」
その声はピンと強張っていた。とても演技だなんて思えない。誰かと言われて青ざめ強張っている義姉の横顔が見える。僕は慌てて部屋の奥へ進んだ。義姉の方を見ていた兄がゆっくりこっちを見て、そして、言った。唇がゆっくりと動いて……。
「お父さん」
そして、兄は心の底からほっとした顔をした。義姉が傍ではっと息を呑む気配がした。
「僕はどうしたんですか?起きたらこんなよくわからないところにいて」
「……」
「この人は誰ですか?」
兄は義姉を指差した。僕は口を開いた。顔が少し引き攣るのがわかった。でも、それらしい声は出た。
「柾」
「はい」
「お前は体の調子を崩してね、倒れてしまったんだよ」
「はい」
「ここは病院だ。その人はお父さんが仕事で忙しくてお前のそばにいられないときに、お前のお世話をしてくださる人だよ」
「ああ……」
兄はその言葉に納得してベッドの上で上半身を起こしたままで少し姿勢を正した。
「これはすみません。無礼な口を聞きました」
そう言って丁寧に頭を下げた。これは、確かに兄だった。その所作も、表情も、声音も。だけど……
「お前が、目を覚ましたから、お父さんはお医者さんを呼んでくる。しばらく一人になるけど大丈夫だね?」
「はい」
「美登里さん」
僕は義姉の方を見た。兄を見て真っ青な顔をしていた義姉は僕の声に促されて、大人しくついてきた。廊下に出た途端にぎゅっと僕の腕に縋ってきた。
「暎さん……」
ふらふらとしている義姉の体をもう片方の手で支えながら間近に義姉の顔を覗いた。
「柾さんは一体どうしてしまったの?」
「わかりません」
「どうしたらいいんですか?」
「お医者さんに見せましょう」
「お医者さんって?」
「体ではなくて」
「……」
「心の」
途端に僕に縋っていた義姉の体が落ちた。その突然の重さに不意をつかれて僕も床に倒れ込みそうになる。
「大丈夫ですか?」
通りがかりの病院の職員が、手を貸してくれる。
「そこに」
「ああ……」
廊下の横に据えてあるベンチに抱えて寝かせた。
「どうしたんですか?」
「いえ、突然」
「この方、何か持病は」
「いえ」
大丈夫ですか、聞こえますかと職員が話しかけている。パタパタと肩のあたりを叩きながら。
「ほら、あなたも呼びかけて」
怒られて、自分も義姉さんと呼びかける。僕が呼びかけたときにちらりと職員が僕と義姉を見比べた気がした。ほどなく義姉は気を取り戻した。
「あ、暎さん、ごめんなさい」
慌てて身体を起こした。
「あ、そんな慌てないで……」
身体を起こす。その横に支えるように座った。身体を支えてやらないとまたパタリと倒れる気がした。義姉はそれから小さな声で泣き出した。女の子に戻ってしまったように。少し離れたところで様子を見ていた職員は僕らからそっと離れていった。
「ごめんなさい」
「謝らないでいいですよ」
それでも義姉は小さな声で謝り続け、そしてその合間に涙を流した。兄の代わりに僕はしばらく義姉の肩を抱きました。兄の代わりに。
***
「初めまして、桜田と申します。花の桜に田んぼの田で桜田です」
「綺麗な名前ですね」
「ありがとう。お名前教えていただいてもよろしいですか?」
「澤田柾です」
「柾さんは何歳ですか?」
「12歳です」
大人の男性が、澄んだ目で自分を12歳だと語ってもその桜田という医師は眉をピクリともさせなかった。僕は傍で黙って椅子に座り、その様子を眺めていた。その診察は傍目で見ていたらただ楽しそうにおしゃべりをしているようにしか思えなかった。しかし、その会話は詳しく聞くと違和感がある。大人の男性が子供のように話しているからである。
僕は当たり前だが兄を子供の頃から知っている。だから、わかる。その話し方や仕草は一昔前の本人のものである。まるで昔に戻ったような錯覚に陥る。大人っぽく変わってゆく中でいつの間にか失った純粋な表情。
医師は終始ニコニコと兄と会話した後で、立ち上がった。
「柾くん、またお話に来させてもらってもいいかな」
「……」
兄は僕を見た。
「お父さんも一緒なら、いいかな?」
「……」
僕がこくりと頷くと、兄も医師に向かってうなづいた。桜田先生が立ち上がったので僕も椅子から立ち上がると、兄がまた不安そうな顔で僕を見た。その一つ一つの表情、仕草、佇まい。過去に引きずり戻されて小さな兄と面と向かっているような錯覚に陥りそうになる。
こんな演技は、よっぽどの役者でない限りできない。大人の体を使ってまるでそこに小学生の男の子がいるような錯覚を起こさせるなんて。これは演技ではない。
これは演技ではない。
「お父さん、すぐ戻ってくるから」
すると顔が落ち着いた。先生について部屋を出て、静かにそっとドアを閉める。
「奥様はどちらにいらっしゃいますか?」
「ああ、ちょっと待ってください」
僕は携帯を鳴らした。義姉のではなく、理沙の携帯を。
「もしもし」
「理沙?」
兄も兄だが、義姉も義姉で参ってしまっていたので、理沙に電話をして付き添ってもらっていた。しばらくして桜田先生の診察室の前で落ち合う。理沙に寄り添われた義姉が来た。理沙も理沙で、僕のことを心配そうな顔をして見ていた。二人で診察室の中に入った。
「さて、何をどうお話ししたらいいのかな」
診察室の中で僕たちが机の前に並んで座ると、先生は手を擦り合わせながらそう言って苦笑した。
「あれだけの診察ですと、はっきりとした診断名は述べられないんです」
「治るんですか?」
義姉が単刀直入にそう聞いた。先生は咳払いをした。そして義姉から目を逸らすと、デスクから立ち上がる。
「お茶でもお飲みになられますか」
そして、のんびりした声でそう言い、立ち上がって隣の部屋に通じるドアをちょっと開けると、悪いんだけどお茶もらえると声をかけている。振り向いて戻ってくる時には、さっきよりもう少し真面目な顔をしていた。
「解離性健忘という状態だと、初見では判断しました」
「カイリセイ……」
「感情的に非常に強い衝撃を受けた時に、その原因となった出来事の記憶を心を守るために忘れてしまうことです」
「ああ……」
義姉が横でそんな声を出す。
「いわゆる、記憶喪失ということですか?」
「それはまぁそうなんですが……」
ここでまた桜田先生は咳払いをした。
「この症状はですね、多いのは、一つの出来事を忘れる状態なんです。あるいはある一時期の記憶。事故にあった時の記憶とか、一時的に非常に鬱屈していた時期の記憶とか、それが、澤田さんの場合は……」
「30年前後の記憶が……」
「そうですね」
「治るんですか?」
義姉がまた同じ質問を繰り返した。桜田先生がそんな義姉に真正面に向かった。
「あなたのいう治るとは一体どういう状態になることですか?」
穏やかな口調だったのだけれど、でも、非常に冷たい言葉でした。鋭い刃物をスッと刺されるような。
「澤田さんが記憶を取り戻されて、今までと同じように生活されるということですか?」
「……」
義姉は何も言えなくなった。
「問題は記憶が取り戻せるかどうかではありません。なぜこんなことになってしまったのかなんですよ」
「なぜ……」
「きっかけとなった出来事があったはずです」
考えるまでもなかった。
「父が倒れたせいだと思います」
「なるほど。いつですか?」
「ちょうど、今朝未明に……」
つるりとしたボールペンを取り上げるとデスクの上の書類に先生は何かを書きつけていた。
「そして、澤田さんは弟であるあなたを見てお父さんと呼んだんですね」
「はい」
先生は両手を机の上で組んでそこに顎をのせて少し考え込んだ。メガネの中の目を僕たちはじっと見つめていた。それから、先生は椅子を鳴らしながらゆっくりと立ち上がると僕たちの傍に立ちました。
「澤田さんの様子がもう少しはっきりするまでは、弟さんであるあなた以外の人と一切会わせないでください」
「わたしもダメだということですか?」
義姉が声を上げる。
「様子がはっきりするまでは、です」
「……」
不服そうな顔をした義姉に対して、先生は言葉を続けた。
「自分の心を守るために、膨大な時間の記憶を忘れて、澤田さんは12歳の子供に戻ってしまった。命からがら逃げ込んだんです。それを無理やり引き摺り出してしまってはいけないんですよ」
真面目な顔をして語る医師の後ろに飾られている観葉植物の緑を僕は眺めながら、その言葉を聞いていた。
「記憶が戻れば治るという話ではない、極端な話、記憶が戻ったその次の瞬間にご主人が屋上のような高いところから手すりを乗り越えようとされたら、どうされるんですかという話なんです。これは」
義姉は横で、細い声をあげて泣き出した。
「先生……」
僕が横にいる義姉を庇いながら非難の声を上げると先生は苦笑した。
「これは大変失礼」
そして、卓上のティッシュを義姉に差し出しました。そして、義姉に向かって今度は温かい声を出しました。
「大丈夫ですよ。そんなことにはなりません。ただですね、ちゃんとわかっていただきたいんです。わたしがいいというまで弟さん以外はどなたも近づけないでください。ご主人は今、非常にギリギリのところにいるんです。周りにいるわたしたちは協力して、焦らずにゆっくりとご主人が正しい道を辿って戻ってこられるように手伝ってあげないと」
義姉はティッシュを何枚も出して、涙を流しながら何度もうなづきました。何度も。
「わたしのことを思い出す日はちゃんと来るんですか?」
「全てのことを忘れて子供に戻りたいと思ってしまった原因とご主人が向かい合うことができれば」
「ずっと思い出せないということもありますか?」
「それはなんとも言えないんです。今はまだ……」
その後しばらく話した後で、気長に行きましょうとのんびり言われた。
「とてもそんな気になれません」
僕がいうと先生ははははと笑って僕にいった。
「その調子ですよ」
「はい?」
「あなたは冷静な人ですね」
「はぁ」
冷たい人だという意味だろうかと、その意味を掴みかねる。
「どこまでも冷静だというのは、自分ではちょっと嫌なんですが」
「いや、冷静であるということは非常な美徳です」
そして、そっと僕の肩に手をのせた。
「お兄さんはあなたを頼ってます」
「……」
「お兄様と奥様を支えてあげてください」
「簡単に言いますね」
そして、また、先生は笑った。そして、もう一度言った。
「その調子ですよ」
今晩は兄を一人にできない。着の身着のままで病院に泊まることにして、くたくたに疲れてしまった義姉を理沙に託す。病院の正面玄関外でタクシーが来るのを待っていると、義姉が何かに取り憑かれたような目で言った。
「わたしが悪いんです」
「え……」
「暎さんに言われてたのに、深刻に捉えないで……」
「……」
「無理矢理にでも柾さんを家から連れ出せばよかった」
そして、また泣き出した。下を向いて泣いている義姉を真ん中に、義姉の腕をとってピッタリ寄り添って立っている理沙と、傍に立つ僕とで顔を見合わせた。困ってしまった。
「きっと大丈夫ですよ」
理沙がうかうかとスパッとそんなことを言う。ヒヤヒヤした。
「そうかしら」
「そう。大丈夫です」
「なんで?」
「……」
そこで理沙が上目遣いになって黙る。これは、あれだ、なんて言おうか考えている顔だ。
「だめだ、だめだと思ってもだめですよ」
僕がそう声をかけて助け舟を出した。タクシーがロータリーに滑り込んできた。
「そうかしら?」
「そうですよ」
僕らの前で止まったタクシーの扉を理沙が開ける。義姉はまだ僕の方を見て、ものといたげに黙っていたんです。いつもは綺麗にお化粧をして一分の隙もない人が今日は崩れた顔で老けて見えた。
「お客さん、乗らないの?」
「ちょっと待って」
ピシャリと運転手を叱りつける理沙の声がBGMで聞こえた。
じっと僕の顔を覗いていた義姉はそれから言った。
「そうね。だめだ、だめだと思ってもだめね」
そして、弱々しく笑いました。
「さ、行きましょう」
理沙がまた親友か妹かのように義姉の腕を取りぎゅっと連れて行く。
「じゃあねぇ、暎くん」
そして、もう一方の手をひらひら振ると二人でタクシーに乗りました。扉はパタンと閉まり、ブロロロと音を立てながらさっさと立ち去っていった。僕はそれを眺めていました。眺めながら思った。兄さんはいい人と所帯を持ったなと。
それから、踵を返して兄のいる病室へと向かう。
ドアに手をかけたときに、思いました。ドアを開けたら、またいつもの兄がそこにいる気がする。
「何やってたんだ、暎」
そう言って僕を嗜め、さっさとベッドを下り、
「さぁ、お父さんのところへ行こう。なんてこった。服が皺くちゃだ」
そして、いつものように笑う。いつものように……。
あの兄に僕はもう会えないのでしょうか?あの兄に。僕を何度もおっとりとした声で嗜めてきた兄に……。
兄さん……
兄の部屋のドアノブに手をかけたまま、たまらない気持ちで一人佇んだ。義姉を前にして気が張っていたせいか昂らなかった感情が、湧きあがった。
兄さん……
その日、そのドアを横に開けるまでにしばらく時間がかかった。
2022.12.18




