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5 だめだだめだと思ってもだめだ③












   澤田暎












   

あまり話したくないことだけど、体に悪いものや悪い環境には極力近づけさせない家の方針で、大学生になるまで僕はマクドナルドにほんの数回しか入ったことがない。そんなものを経験と言っていいのかどうかわからないが、大学生になった時にやっと自由になってそういうものを一通り経験した。兄も似たようなものだ。外で食事をする時には、いつも決められた場所があってそこら辺の店に入ったことなどない。だから、なんでもないことが珍しいのである。


父であれば絶対入るのを拒むようないわゆる普通の、こういっては失礼だが庶民の洋食屋さんに入って、兄と向かい合う。それは新しい映画のワンカットのようにすら思えた。兄が別の新しい兄に見えたんです。それは、澤田という完成された美しい檻を出た普通の青年でした。若い日本人の男の人。


もしも、勇気を出したら、僕たちは何にだってなれる。人間は本来自由なんだよと。


あの時、僕は本当は、フランス革命に燃えるかつてのフランス人たちが政治について語った熱さのようなものでもって、兄にとうとうと語って聞かせればよかったのかもしれない。


人間は本来自由なのだよと。足を踏み出す勇気さえあれば。


しかし、僕がその時したのはただ、古びた安っぽい店内に兄がちょこんと借りてきた猫のように座っている画が、ちぐはぐではあるのだけれど意外と好ましい。心を温める画だと堪能したことだけ。自分はその時、不安ではありつつも同時に解放感に酔いしれていたのです。自分のその解放感に酔いしれていた。


「僕が帰らないと、兄さんは困る?」

「ん?」


幼い頃から時折、兄は父と僕との間に立たされてきた。その時いつもするように、まずは優しく相槌を打って、そして、返事をするまでに一拍おく。この一拍の間に兄は事実は事実なのだけれど、それが僕が受け取りやすいものになるように、言葉を置き換えるのだ。


「父さんには、ただ、暎が身体だけ戻ってきても意味がないでしょうと言ってあるよ」

「……」


グラスに入れられた水が二つどんと置かれて、メニューがバサっと置かれた。


「ごゆっくり」


派手な髪色の若い女の子が無愛想にそう言ってパントリの方にポケットに手を突っ込みながら去っていく。兄はそれさえ面白そうに眺めて、そして、使い古されてよれよれになったメニューを開いて一つ一つ熱心に見ていた。


「兄さんは、僕は帰るべきだと思ってる?」

「ん?」


楽しそうに眺めていたのをやめて僕に向き合うと兄は頬杖をついた。


「父さんにはただ激しく責め立てても逆効果だとやんわりと言って時間を稼いだよ。父さんがせっかちだというのは、自分でも自覚があるからね。それには耳を傾けたよ。だから、籠城戦のような気持ちでいると思うよ。あ、ここで、籠城するのはお前だがな。暎」

「うん」

「僕は、父さんとお前に対して中立でいるつもりだ。父さんは籠城戦を覚悟した。お前があくまで戻らないというのなら、時間をかけてきちんと納得してもらいなさい」

「……」


あの父が納得するなんて日は来ないだろう。


「父さんの気持ちなんてどうでもいいやと思ってただ飛び出してそのままにするのなら、それはあまりに子供だと思うよ」

「……」

「順序が逆になったのは、ま、しょうがないとも思うけど、でも、逃げてばかりで向き合わないのはあまりに無責任だろう。育ててもらった恩があるのだから」

「……」


さっきまではすごいとかなんとか持ち上げておいて、結局は本題に入ればもっともなことを言われて責められている。つまらない思いでグラスの水を飲んだ。


「また、お前はすぐそういう顔をする」


兄はそう言って嬉しそうに笑った。


その時のことを思い出しながら、今になってまた思う。僕があんなひどい環境でそれでも、自分を失わずになんとか生き延びられたのは、兄がいたから。受容してくれない親の代わりに僕を受容してくれたのはいつも兄だった。自分自身だって辛かっただろうに、僕を本当の意味で守り育てたのは兄だったのだと今になって思うのです。


回想を中断して、ベッドに横になって眠っている兄を見る。その顔を見ながら思う。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。

何が起きたのかはわからないが、何かが起きている。

もしかしたら僕は重大なミスを起こしてしまったかもしれない。


それは何だ?


カサカサと何かが心の中で蠢いて落ち着かない。そっと横を見ると、義姉が壁に寄りかかって目を閉じていた。色々と思い悩んだせいでぐったりと疲れてしまったのかもしれない。


僕はまたあの日に思いを飛ばした。あの日、兄と僕がとある洋食屋で向かい合っていた夜に。


「ああ、違う、違う。お前が家に戻るとか戻らないとか、それは、今言ったように籠城戦に持ち込んだのだから、すぐにどうこうならなくても僕は困らないんだよ。それより何か食べよう。お腹が空いた」


そして、兄弟二人でペラペラのメニューを捲る。兄はメニューの中から一つを指差した。


「僕はこれにする」

「それは絶対やめておいたほうがいい」

「なんだ、食べたことがあるのか?」

「ないけど、きっと食べられる代物じゃない」


無愛想なウェイトレスが隅でつまらなさそうに突っ立っている。他の客に呼ばれてあっちへ行った。なんとなくひそひそ声になりながら話した。


「どうしてそう断言するんだ?」

「この値段だよ。信じられないくらい硬い肉がくるよ」


兄が選んでいたのはステーキでした。


「へぇ」


やめさせようと思って一生懸命連ねた言葉に対して、反対に兄は目を輝かせた。


「食べてみたい」

「で、残すの?」

「そんなことはしないよ。失礼だろ」

「じゃあ、もっと他のにしなよ」

「いや、これにする」


変なところで頑固な人だ。


「暎は何にするんだ?」

「うーん」

「じゃ、これにしなさい」

「ええ?」

「これも食べてみたい」


それはグラタンでした。ポテトグラタン。


「こんなのが食べたいの?」

「当店秘伝のホワイトソースと書いてある、気になる」


そして、あの無愛想なウェイトレスを呼んだ。よく見ると、耳によくもまぁ、と思うほどに穴を開けていくつものピアスをつけている。兄とそのピアス嬢を話させるのがなんだか嫌で、僕がオーダーをした。しばらくするとオーダーしたものが来た。僕は目の前に来たグラタンに手をつけずに、兄がフォークとナイフを持って自分の肉を切り刻み口に入れるのをじっとみていた。


「気持ち悪いな」

「いいから早く食べて」


そして、兄は一口食べておやっという顔をした。明らかに違和感を感じたろうに、それを上品に隠したのが兄らしくて笑ってしまった。声を忍ばせて笑う。兄も僕に合わせて笑った。兄弟で洋食屋の片隅で、意味もなくしばらく笑ってた。


「全部残さず食べなよ」

「いいからお前も早く口をつけなさい。ジロジロみられて気持ちが悪い」


言われて自分もフォークを取り上げる。


「これはわりといける」

「そうか、やはり秘伝の味か」

「よくわからないけれど、多分それよりは」

「なんだ。ちょっとここに入れろ」


ライスの皿の脇にグラタンを少しのせた。兄はそれを口にした後に言った。


「暎、交換しよう」

「え?」

「やはり秘伝の味だ」

「いや、だから、それを頼むときに反対したよね?」

「正確に言えば、それも兄さんが頼んだものだ」

「でも、反対したよね?」

「お前が突然家を出たことで、お父さんを宥めるのにどれだけ大変だったと思ってるんだ。このくらい融通しなさい」


それで、料理を交換した。今度は兄が僕が食べるのを手を止めて眺めている。


「気持ち悪い。男に見つめられても」

「いいから早く食え」


僕は肉を口にして、そして、もう一度、二人で意味もなく忍び笑いする。


「ゴムみたい」

「アメリカ人はそういうのの方が好きなんだよ」

「だから言ったのに……」

「残すなよ。食べ物を残すのはだめだ」


それから涼しい顔をして皿の上のライスを食べた。


「日本は米はどこで食べてもおいしいな」

「うん」

「当たり前のようでいてでも、当たり前のことではないのかもね」


米を思う時きっと兄は、父にならって国を思っているのだと思います。米は日本人にとって一番大切な食べ物ですから。しばらく二人でのんびり食事をしたあと、兄が改まった声を出した。


「暎」


僕はなんとなくフォークを置きました。食べる手を止めた。


「お母さんに会いに行ってあげなさい」

「……」

「病院にちょっと顔を出すくらい難しいことではないだろう?」

「何も話すことはないし」

「お前に会いたがってるんだよ」


僕はグラスの水を飲んだ。


「兄さんはそういうけど、実際に会いに行ってもお母さんは別に何か取り立てて話すわけでもないし」

「お母さんは心の中にお前に話したいことがいっぱいあって、だけど、それを言葉にうまくできないんだよ」

「……」

「お前はお母さんにとってちょっと難しいんだ。言葉を間違えると怒らせてしまうんじゃないかと心配している」

「わざわざ行って、病人に心配させる必要はないじゃない」


苦笑いが出た。


「暎」


すると、兄はまたあの呼び方で僕を呼んだ。


父や叔父は兄を認めない。だけど、僕はともすれば父や叔父よりも兄は上の人間だと思って認めているのです。僕を呼び嗜めるその深い声。力づくで相手を屈服させるのではない、だけれど、ときに兄は素直に従うべきだと人に思わせる諭す力を持っていた。特に僕に対して。


「ときには、親が自分の子供を難しいと感じることもある。だけどそれは、愛していないということではないのだよ」

「……」

「お前が家を出て行ったことで心をひどく傷めている。ただ、顔を見せるだけでいい。安心させてあげなさい」


僕はまたつまらない顔をして見せた。兄は今度は笑わなかった。


「お前は好き嫌いがはっきりしている。正しいことと間違っていることをはっきり区別して、自分が間違っていると思うことには頑なになるね。だけどね、暎、世の中の人がみんながお前のように間違っていることを区別して譲らなくなったら、立ち行かなくなるのだよ。本当に大切なことというのは許すことのできる力なのだよ」

「兄さんと僕は違うから」

「それは知っている。でも、ここは兄さんのためだと思って、お母さんに顔を見せなさい」

「……」

「そして、今すぐでなくともいい。どこか未来で人を許すということを覚えてほしい」


それから、喧嘩をしたという訳ではないのだけれどもなんとなくペチャクチャとおしゃべりする雰囲気でもなくなって、食事を済まして店を出た。兄は帰って行った。

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