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5 だめだだめだと思ってもだめだ②












   澤田暎












   

病院について硬くて冷たい床を歩きながら、今度はこちらから義姉に電話をする。先ほどよりも落ち着いてはいたが、今度はひどく意気消沈していた。暗い声で応えた。義姉のいるという階までエレベーターに乗る。階について当てずっぽうにそのフロアを歩き回るとほどなく廊下の椅子に座っている義姉を見つけた。


「義姉さん」


呼びながら近づく、義姉はこちらを見た。顔色が悪かった。


「大丈夫?」


近寄ってそう問いかけると義姉は僕の問いには答えずに立ち上がるとぎゅっと僕の手首を掴んだ。人がされるままになっているとその僕の手を引っ張り目の前の部屋へと連れ込む。小さな病室。奥のベッドに誰か寝ている。


父の病室にしては小さいなと思ったんです。今までにも何回か入院したことがある。いつも豪華なホテルのような部屋に偉そうに収まっていたのに……。義姉に引きづられて奥に数歩進んで、僕は立ち止まった。そこに寝ているのは父ではなかった。


「どういうこと?」


義姉は疲れた顔でこちらを見た。


「え、兄さんまで何か病気が見つかったの?」


僕は兄が寝ているベッドのそばに近寄った。目を閉じて寝ていた。


「どうしてこんなところで?」


義姉は両手で顔を覆ってしまった。


「疲れて寝ているだけとか?」


次から次へと質問が口を飛び出して止まらなかった。


「ね、義姉さん、そうなんでしょ?過労で倒れたんだ」

「鎮静剤を打たれて」

「ちんせいざい……」


その言葉を聞いた上でもう一度寝かされている兄の顔を眺めた。別にいつもの兄だった。病気のようには見られない。義姉は顔を覆っていた手を外し僕を見た。


「なんで?」

「暴れたんです」

「暴れた?」


兄と暴れたという言葉がつながらない。義姉はため息をついた。それから傍のパイプ椅子に座ると片手をこめかみに当てながら言葉をつづける。


「どこから話せばいいのかしら?」


軽く目を閉じてそれから開けた。


「お義父さんが倒れられて」

「うん」

「病院に運ばれた後にみなさんいらっしゃって」


そのみなさんはあれだろう。僕の親戚。父にたかって生きている寄生虫のような連中だ。


「柾さんを責めたんです。これからのことをどうするって」

「うん」

「柾さん、最初は黙って皆さんのいうことを聞いていたんですけど、途中で様子がおかしくなってその場から突然逃げ出してしまって」

「逃げ出した?」

「はい。それで、みんなで手分けして病院の中を探して、わたしが見つけたんです」

「うん」

「そしたら……」


義姉は言葉をつまらした。目が潤む。赤い目をしている。


「そしたら?」

「わたしに向かってあなた誰ですかって」

「……」

「最初冗談言ってるんだって思って、捕まえて連れ戻そうとしたらわたしの手を振り払ってまた逃げるんです。驚いて周りの人に捕まえてと言ったら」

「暴れたの?」


義姉はこくんとうなづいた。


「僕をどこへ連れて行くつもりだって言って暴れて、見かねた病院の人が鎮静剤を打ったんです」

「……」

「もう何が何だかわからない」


義姉は項垂れた。僕は、義姉の横にパイプ椅子を並べて座った。


「きっと一時的に混乱してるだけですよ」

「……」

「薬が切れて目覚めたらきっと元の兄さんに戻ってますよ」

「そうだといいんだけど……」


青白い顔の義姉の隣で、僕も黙って兄を見ながらいた。僕の携帯が鳴った。取り出してみると、それはまた叔父だった。僕は椅子から立ち上がり、病室の外へ向かいながらその電話に出た。


「暎、お前、いつになったら着くんだ」

「もう着きました」

「じゃ、早く来い。柾も途中でどっかへ行ってしまって」

「兄さんならここにいますよ」

「なに?なら一緒にきなさい」

「兄さんは行けません」

「どういうことだ」

「会ってから話しますよ」


病室の番号を聞いて電話を切った。義姉に声をかけてから父の階へと移動する。病室に着くなり久しぶりにあった叔父は僕をジロジロと見た。


「柾はどうしたんだ」

「過労と心労が重なったんでしょう」

「なんだって?」

「倒れてしまったんですよ。今、別室で休んでます」

「なんだ、こんな肝心な時に」


叔父は顔を真っ赤にして怒った。


「叔父さん、興奮しないでください。体に毒ですよ」


やんわりとそういうと強張っていた顔が少し和らいだ。


「それで、父さんは?」


やつは死んだのだろうか?

広くて豪華な部屋。いろいろな機器に繋がれて父は眠っていた。計器の立てる規則的な音が父はまだ存命だと僕に知らせた。頭に包帯が巻かれていた。


「できる処置はしたんだが、難しいかもしれないと言われた」

「脳梗塞ですか?」

「気づくのにしばらく遅れたそうだ」

「はぁ」


それから叔父は父に散々言われてきたことを僕に言った。


「暎、いよいよ澤田はダメになる。お前は家に戻って柾と一緒に家を支えなさい」


ため息が出た。


「柾一人で兄さんの後をやっていくのは無理だよ」

「そう言われても僕にも今の生活がありますし」

「そんなものお前がやらなくても他の誰かがいくらでもやる。家を支えられるのはお前だけなんだぞ。血を引いているんだから」


僕が心血を注いでやっていることをそんなものと言われた。


「とにかく無理です」

「暎」

「兄さんにもそうやって迫ったんですか?」

「は?」


責められて逃げ出したと義姉は言っていた。


「やるべきことをやれと言っただけだ。それなのに柾のやつ突然逃げ出して」

「逃げ出した……」

「お前の兄さんはあれだ。こんなこと言いたくないが、肝心な時に役に立たない」

「……」


それから叔父は兄のダメなところと評してああだこうだと並べ立てた。それは、父の普段の言葉をなぞったものだった。


「だめだ、だめだと言ったら人はだめになるんですよ」

「ん?何か言ったか?」

「なんでもありません」


それから、僕はドアに向けて歩き出した。


「お前までどこにいく」

「兄さんの様子を見に行きます」

「そんなのほっといてお父さんのそばについていなさい」


叔父が引き留めるのを聞かずに廊下に出て、後ろ手にカラカラと父の病室の扉を閉めた。兄の部屋へと引き返す。兄はやはり綺麗な顔で寝ていた。そばに兄を眺める義姉がいる。


「義姉さん」


呼びかけると弱々しくこちらを見た。僕は再び義姉の隣のパイプ椅子に座った。


「お医者さんはどのぐらいで目覚めると言ってたんですか?」

「一番長くても半日だろうって」


僕は腕時計を見た。そして姉の横に座った。


「暎さん、仕事はいいんですか?」

「こんな時に仕事する人なんていませんよ」


そう言って義姉に向かって笑った。我ながら少し弱々しい笑みになった。


「義姉さん、ちょっと休んできたらどうですか?」


義姉は俯いてフルフルと頭を振った。それ以上は何も言えなかった。


もしも……

もしも、ただ父が、父だけが倒れたのだったら、僕はとりあえず顔だけ見せた後に仕事に出たかもしれません。でも、兄が……


そして、特に何もすることもなく義姉と黙って兄の傍らに佇んでいた。

どうしてだろう?僕はその時、昔のことを思い出した。やはり今朝見た夢のせいだったかもしれない。


母が病院を行ったり来たりしていた頃、僕は家を勘当されていた。敷居を跨がせてもらえない身分になっていた。それは大学卒業と共に親の意思に背き出版社に入社し、家出するように家を出ていたからである。父は激怒し、僕は清清していた。


あの頃は僕も若かった。若者は後ろを振り向かない。残してきたものなど気にしない。


そんな僕を嗜めにきたのも、兄だった。

兄にだけは会っていた。


それまで住んでいた家と比べれば、それこそ猫の額のようなアパートに転がり込んだ。そんな小さな部屋の座布団もないような床に兄はむしろおもしろおかしく座っていたように思う。いつものように目も口元も少し優しく笑っているような印象の顔で、僕の新居の床に座る。


「壁が薄いんだな。驚いた。隣の音が聞こえる」


ポカンとした顔でそんなことを言うので、噴き出した。兄は僕が笑ってるのを見て、自分も釣られて笑った。


「よく考えたら、俺たち結構世間ずれしてるんだよ。兄さん」

「そうか」

「会社でバレないように隠してる」


大学でもなんとなく自分は世間ずれしていると思っていた。が、仕事の場面で感じる度合いがより強かった。隠してるという言葉に兄はまたポカンとして言った。


「悪いことではないのに?」


もう一度笑ってしまった。兄は社会に出ても父の周りで働いて来ていて、一般企業で勤めた経験がない。


「兄さんはあれだ、ローマの休日のアン王女みたいだ」

「流石にそこまでじゃないよ。からかうのはよせ。それに俺は男だよ」

「そんなの言われなくてもわかってるよ」


兄のそのおっとりとしたところが、本当に好きだった。あんなに辛い思いをしていて、それでもなお削られることのない兄の美しいところ。僕がかろうじて僕でい続けられた理由、それは僕が一人っ子ではなかったからだと思う。


「それで今日は何の用事?」

「そうだな」


兄は狭いアパートの床に律儀にちょこんと正座していて、僕はベッドの上に座っていた。次兄が長兄を一時的に上から見下ろす形になっていた。


「なんだか落ち着かない。場所をかえないか?」

「いいよ」


狭い空間の中で生活したことない。そういう場所を覗いてみるのはいいのだが、長くいたいとは思えなかったらしい。


「暎、お前、今の暮らしを本当に気に入っているのか?」


低い天井の部屋から抜け出して夜空の下へ出る。兄は単刀直入に僕のことを心配した。


「気に入っているよ」

「無理してないか?」

「無理してないよ」

「そうか。それならいい」


兄はそういうと優しく笑った。その笑顔は夜空に輝く星のようだった。強烈な流れ星とかではなく、一等星ではなくて、一等星の周りで温かく輝く星たち。


「お前はすごいなぁ」

「なにが?」

「全然違う世界に恐れず入ってゆく」

「無謀なだけだよ」

「そうではないだろ」

「それに別に狭苦しい部屋で暮らすのはたいした試練じゃないって」

「そのうちもうちょっとマシな生活ができるようになるのか?」

「頑張ればね」

「……」


夜道を二人で並んで歩きながら、兄は僕に神妙な顔をして見せた。点々とともされた街灯の光。コンビニや飲食店が道を染める光。決して暗くはない都会の夜。


「お金に困ることがあったら連絡しなさい」


思わず吹き出した。


「なんで笑う?」

「兄さんから見たらどう映るのかわからないけど、僕は全然お金に困ってない」

「そうか」

「これが世間一般の生活なんだって」

「うん」


黙々としばらく前だけを見て真面目な顔で歩く。僕たちは生まれた時から安物の服を一度も着たことがない。当たり前のように一流のものだけに囲まれて暮らしてきた。隣の生活音が聞こえるようなあんな狭い部屋。そんな部屋に血を分けた弟がいることに兄は拒絶感を覚えたのかもしれない。しかし、決して自分の価値観を僕に一方的に押し付けたりはしなかった。そして、もう一度呟いた。


「お前はすごいなぁ」


父は烈火の如く怒り狂い、ありとあらゆる言葉で僕の選択を罵倒した。その嵐のような応酬をさんざんして、父は長期戦を覚悟し、僕はまだ勝ち逃げしたとは思っていない。自分が手に入れたものがかりそめの自由であるような気がし、そして、僕の心の中で絶対君主のように君臨する父に本格的に逆らってみたものの、正直言えばまだ心もとない不安な場所にいた頃だった。


だから、兄のその言葉にすごく慰められたんです。腹の奥の方がじんわりと温まった。


「別にすごくなんてないよ」

「いや、すごいよ」

「本当は兄さんは僕を説得して家に連れ帰らなきゃいけないんじゃないの?」

「うん。お父さんはそれを望んでるね」

「……」


僕が帰らないと僕を説得できない兄の立場が悪くなるかもしれない。その可能性に少し心が重くなりました。二人で連れ立って駅裏のこぢんまりとした洋食屋に入った。兄はやはりそこでもおもしろおかしそうに店内を見回した。

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