1 そのピースが今更どこにはまる?②
澤田暎
翌日、都内の大手出版社のとあるフロアで
「檜垣さん、どうも、朝からすみません」
「あら、澤田さん、どうしたの?」
デスクに湯気の上がったコーヒーを置いて、朝一番に電話をかけた先は檜垣さんだった。
「つかぬことをお聞きしますが」
「はい」
「檜垣さんの所の出入りの印刷業者さんってどこですか?」
「そんなこと聞いてどうするの?」
「うちでも使えないかと思って」
「わたしに聞かなくても理沙ちゃんに聞けばいいじゃない」
「そんなこと言わないで教えてくださいよ」
すると、不意にヒソヒソとした声になった。檜垣さん。
「大丈夫よ」
「なにが大丈夫なんですか?」
「理沙ちゃん、ちゃんと結婚してますっていってたし。この目で見ました」
「……」
チーン
「普通の男の子なの。可愛くていい子だけど、澤田さんの相手になるような子じゃないわよ」
「なんの話ですかね?」
一応とぼけてみた。僕の周りで同僚たちは朝からバタバタと忙しそうに動き回っている。
「ほんっと、もう、理沙ちゃんには黙っててあげるけど、裏でこんなことコソコソ調べてるのバレたら引かれるわよ。どん引きよ」
「……」
「自信持って。ね、いい大人なんだから」
諭された。
「それよりあなた、あなた自身は大丈夫なんでしょうね?」
「何の話ですか?」
「昨日、話のついでに聞いてみたの。理沙ちゃんに」
「何を?」
「澤田さんがついちょっとって遊んじゃったらどうするって」
「なんでそんなこと聞くんですか?」
「ま、いいじゃない。ついでだったのよ」
何のついでだよ。こっちはそんなこと聞いてくれと頼んでないし。
「なんて言ったと思う?」
「なんて言ったんですか?」
「聞きたい?」
「ここまで教えたんなら教えてくださいよ」
「それは許すことではないですよねってきっぱり言ってました」
「……」
ま、でも、檜垣さんに教わらなくてもなんとなく理沙はそういうタイプな気がしてましたけど。
「ね、だから、よっぽど気をつけないと」
「……」
「わたしだって、自分の身近で争いが起こるのは見たくないからさ。隠密行動、ね?」
隠密行動って……
「あの、僕が遊ぶの前提で話をするの、やめてもらえません?」
「え、いや、だって、あなた、他の人ならともかく、あの澤田さんが?」
チーン
「ね、わたしもこの歳なるまでに色々な男性を見てきたけど、新婚のうちは見違えるようになるのよ、誰もが」
「……はい」
「でも、生まれ変わる人はほとんどいないわよ。やがて、元に戻る。病気みたいなもんなんだからさ、持病。ね?」
「……」
「遊ばない人はそもそも独身の頃から遊ばないんだって。現実的に考えな。隠密行動、ね?」
檜垣さんはその後、何度か隠密行動と繰り返して念を押してから電話を切った。しばし、気が遠くなった。
いや、でも、俺はどうでもいい。理沙だ、理沙。
とりあえずコーヒーを飲みながら考え込んでいると、声をかけてくる人がいる。
「澤田さん」
「はい」
「経営会議の時間ですよ」
「遅れちゃだめ?」
「ダメに決まってます」
「もっと重要なことで悩んでいるんだけど」
「会議に出ながら会議を聞かずに悩めばどうですか」
建設的な意見を言われた上で、席から引きずっていかれた。いつもと同じように会議が始まり、進んでいく。それを尻目に自分は事実を整理する。檜垣さんに言わせると普通の可愛くていい男の子が理沙に彼氏いますかと聞いたらしい。檜垣さんが可愛いというということは若い男だな。
「これについてはどう思いますか?澤田君」
「はい?」
「今までの傾向から踏まえて君の意見を聞きたいんだけど」
社長に質問を受けてしまった。この人たち、今、なんの話をしているんだろう?
画面に映っているものを見た。それからおもむろに立ち上がる。
「これについては今までの傾向というのも大切だと思いますが、今、この業界も変化が激しいです。大切なのは今までの常識にとらわれずに新しいことに果敢に挑戦してゆくことだと思います」
「うむ」
「ですから、まずは、僕なんかよりもっと若い世代の意見を、むしろ僕は聞きたいんですが」
「そうか、いや、そうだな。確かに」
社長、頷きながらひとしきり感心している。やれやれ。すとんと自分の席に座る。
そうだ。きっと若い男だ。多分、檜垣さんのいう通り気にする必要なんてないんだろう。だけど、万が一ってこともある。自分としては1%でもリスクがある以上は、データだけは取りたいんだけど、うーん……。必要ないだろうか。
誰にも知られないで、もちろん理沙には知られないでデータさえ揃っていたら、もし、万が一これ以上のことが起こりそうになったら未然に防ぐことが……。
理沙にバレるリスクとこのままこの案件を野放しにするリスクを天秤にかけ悶々とする。
例の印刷所の件、檜垣さんが教えてくれないとすると、どうやって情報を手に入れるか?
役に立つかどうかわからんが、このくらいの案件ならこのはちゃんをまた使うか。自分自身が動くのはそれはそれでリスクがあるからな。
会議はしばらくすると終わった。自分のデスクへ向けて廊下を歩いている、そんな折だった。
携帯に見知らぬ番号。
警戒して出ないような人間ではない。僕のような仕事をしている人間にとって、行動しないことこそリスクなのである。電話が来たら、そりゃ出るだろ。
「はい」
「あっ……、すみません、あの、突然こんな電話をしてしまって、ずいぶん迷ったんですけど」
女の人のか細い声だった。声だけでは誰かわからなくて困った。知り合いが多いのである。でも明らかに普段から連絡をとっている人ではない。顔見知りの番号はちゃんと名前が出るように登録済みだ。
この相手は新しい人だ。誰だろう?
向こう側で息を吸う音が聞こえた。その後、先ほどよりは少し落ち着いた声が続く。
「覚えてらっしゃるかどうか」
「はい」
「わたし、理沙の……」
「あっ」
すぐにわかった。僕は周りを見渡して、そして、次の廊下の角を人気のない方へと曲がった。未使用の会議室を見つけて中に入り込んだ。少し湿った空気を肺に思い切り吸い込んだ。
「お義母さん」
「ああ、そうです」
「お久しぶりです。あの」
「はい」
「どうかしましたか?」
何かあったら連絡をくれと名刺は渡していたけれど、十中八九 二度と会わないし、連絡が来ることもないだろうと思っていた理沙の実の母親。電話を受けて驚いていた。
「実は、あの子の、理沙の父親のことで、相談したいというか……」
「ご主人のですか?」
やや小太りの平凡な中年男の様子を思い浮かべながら尋ねた。僕は一度本人に会っている。
「いえ、その、違うんです。主人ではなくて……」
無人の会議室からいつもと同じ東京の街並みが見える。ビルとビルの合間から見える切り取られた空。それを見ながら僕はお義母さんの次の言葉を耳にした。
「あの子の実の父親です」
その日の午後、大宮の駅ビルの中のとある喫茶店で
「こんなところまで来ていただいてすみません。あの、わたしの方から本来伺うべきなんでしょうけど」
「いえ、お気を遣わないでください」
その日の午後には僕は大宮にいた。直接お義母さんから話を聞こうと思って……。長く家を開けられないというお義母さんの代わりに午後の予定をキャンセルして僕が出向いた。喫茶店で向かい合って座る。なんの変哲もないコップに入れられた水が2つ、僕達の間に置かれていた。
不思議な感じでした。お義母さんと2人で向かい合って座っていると。
一言で言うと、未来にタイムスリップしたような気分。理由は簡単で、毎日顔を合わせている理沙と、お義母さんは似ているのです。歳を取ったら理沙はきっと今のお義母さんのような顔になるだろう。
この人のことを良く知らないけれど、でも、他人だとは思えない。それは、自分の好きな人とこの人が似ているからです。
「理沙は、あの、特に変わらずに?」
「ええ、元気にしています。最近は、児童書を扱う出版社で働いています」
「まぁ」
「頑張ってますよ」
「そうですか。まぁ、あの子が、本を」
檜垣さんから聞いていた様子をかいつまんで教えると、お義母さんは目尻に皺を寄せて笑った。
「わたしの中ではまだまだ子供で、そうね、もう、子供ではないのだものね」
「頑張ってますよ。よく働く人です」
「澤田さんも同じ会社で?」
「ああ、いや、僕は……」
どうやって出会ったとか、僕がどんな仕事をしているかとか、そんな普通なら当たり前のように知っていることをそういえば教えていなかった。ついいろいろ話をした。そして、お義母さんがちらりと店の壁に掛けている時計を見た。
「あ、すみません」
「ああ、いえ、ごめんなさい」
そこで二人でなんとなく姿勢をもう一度正して座り直し、そして、頼んだコーヒーを口に含む。いつの間にかそれはすっかり冷めていた。
普通なら当然知っているようなことを教える時間さえない。
僕たちは普通の親子ではない。今一緒にいることを僕の場合は理沙に見られたら、お義母さんの場合はご主人か娘さんに見られたら困る関係です。
「あの、で、お電話でおっしゃってた件ですが」
「ええ、実は……」
両手で持っていたお茶のカップをかちゃりとソーサーの上に載せると、義母はためらいがちに口を開いた。
「ずっと連絡をとったこともなかったし、お互いどこで何をしてるかとか知らなかったんです。とは言ってもわたしの方は、あの人が変わらず同じように暮らしていたらどこにいるかはわかるんですけど、でも、調べたりしようとはしてなくて」
「はい」
「それが突然、家に見知らぬ男の人が来てですね」
「はい」
「あの人の会社の人だって、頼まれてきたんだって、それで家にあげたんです」
「それで?」
その時、お義母さんは両手を合わせて口元をそっと押さえて嬉しそうに笑いました。華やいだ笑顔でした。
「驚いたのなんのって、だって大昔のことだし、わたしにとっては若い頃の思い出ですけど、それに理沙がいますしね、でも、あの人にとってはとるに足らない出来事だろうって」
「取るにたらないことでは、でも、なかったんですね」
お義母さんは否定も肯定もせず、ただ、笑みを含んだ目で僕を見つめました。その後、ため息をついた。
「病気になってしまったのですって」
大人の男の人と、女の人の長い時間をかけて心の奥の方で止められていた思い出。もう動くなんて思っていなかったものを動かすのは……。
「自分が死ぬと分かったときに、会いたくなっただなんて……」
お義母さんは遠くの方を眺めていました。
「それは随分勝手ですね。男の人ってみんなそんなものですかって、思わず伝言を持ってきた彼の部下に言ってしまいました」
「あ……」
なんと言っていいかわからずにいると、ふふふと笑ってる。
「会いに行ったんですか?」
「……」
もう一度遠い目をした。
「それはやっぱり、主人に悪いですから」
「ええ」
「ただね、理沙はそれでいいのかなと、そう思って」
「……」
「一度も会わずにそれでいいのかなと」
そこで前から気になっていたことを聞いた。
「お相手の方は、理沙の存在を知ってるんですか?」
「いいえ」
本人の代わりにその時、僕が傷つきました。
父親と一緒に暮らせないだけじゃない。それどころか、理沙はその存在を父親に認識すらされていないのか。
お義母さんの前で表情に出ないように気をつけながら、でも、ショックを受けていた。
そして、咄嗟に思ってしまった。
あなたがちゃんと相手に求めていたら、もう少し責任を求めていたら、理沙にはもう少し違う未来が待っていたはずなのに。それが大人としての、親になるものとしての責任だろう。
理沙を普通の人より一段低いところに置いてしまったのはあなただ。
しばらくして一時的に昂った気持ちが少し落ち着いてきた。
そんなふうに僕がこの人をなじったところで、どうしようもないのだと思う。過去の事実は変わらない。
「昔も、この前、うちに彼の部下の人が来た時も、理沙の話はしていません。ただ、もし、理沙が、あの子が最後に一目父親に会いたいと思うのならと思って……」
そして、お義母さんは僕に一枚の名刺を渡した。
「あの日うちにきた人の名刺です。そちらの方に連絡を取れば、入院している病院を知っていますし、会う段取りをつけてもらえるかと」
「いらないんですか?」
「持ってってください」
そして僕は一枚の名刺を手に入れた。
とある精密電子機器メーカーの営業部長の名刺だった。家に帰ってからそのメーカーをネットで検索してみた。規模としては中堅。有名大手をいくつか客先に抱える堅調な会社だった。
名刺を出して目の前におき、平凡な男の名前を眺めながら考える。
理沙にとって、今更、自分の父親と会うことに何か意義があるだろうか?
そして、すぐに思った。
意義があるかどうかを決めるのは俺ではないなと。