5 だめだだめだと思ってもだめだ①
首都圏のとある病院の屋上
洗って干された白いシーツが風にはためいている
よく晴れている冬の朝
乾燥した空気の中に一人スーツ姿の男の人がすみのベンチに座って空を見上げている
階段を上って女の人が現れる
不安そうな様子で屋上に出てきて
そしてその顔が男の人を見つけたところで目に見えて緩んだ。
「柾さん」
その声に空を見ていた男の人は呼ばれた方を見た。
女性は小走りに駆け寄る。
「もう、心配しました。いきなりいなくなるのだもの」
そう言いながらベンチの隣に座って男の人の両腕を掴んだ。
「さ、戻りましょう。みんなまだあちこち探しているかも」
そう言って腕を引こうとしたその腕が強い力で引き戻された。女の人は驚いて男の人の顔を覗く。
「柾さん?」
男の人は険しい顔で女性を見ると,自分の腕から彼女の手を引き剥がした。
「あなた、誰ですか?」
その言葉に女性はぽかんとした。男性は女の手を振り払うと立ち上がり、彼女から十分な距離をとって立った。
「やだ。柾さん、なに冗談言ってるの?」
でも、男の人は怖い顔をしたまま彼女を見ている。そして、続けて言った。
「気づいたらこんな知らないところに連れてこられていて。ここはどこですか?」
「……」
そして、もう一度言った。
「あなたは誰ですか?」
真っ直ぐにこちらを見つめてくる目は澄んでいた。
澤田暎
その日の朝方、本当に珍しいことだが夢の中に母が出てきた。いつもと同じ様子。何か話したそうで、でも、何も話せずに僕の方をじっと見ている。顔は笑っているのだけれど、目は泣いている。
そして、予定より早く目が覚めてしまった。横で寝ている理沙の寝顔を少し眺めた後に、まだ暗い部屋の中でぼんやりと母のことを考えました。
母は、もともと体が弱かったとは聞かないが、婚家で支配的な主人の元でビクビクと暮らすうちに心的な労が絶えなかったせいだろうか、僕が社会人になって間もないうちに病に倒れて入院し、それからは数年入退院を繰り返した上で亡くなった。
小さな人でした。
亡くなって棺に入れられた様子を眺めて改めて思った。小さな人だなと。
僕は母の葬儀の日、自分が不気味でした。何が不気味って、母が死んだことに対して感情が昂らないことにです。普通はやはり自分を産んだ母に対してはもっと、自然に感情というものが溢れて涙が流れてしまうようなものではないのだろうか。それが全く起こらないことが不気味でした。
それから、悲しいなと思った。
母が亡くなったことに対してではなくて、自分がいつの間にか母に対する感情を失ってしまっていたのだということを実感して、それで悲しいなと思った。
母は僕を守ってはくれなかった。助けてほしい時に助けてくれなかった。
ボクシングの試合をしていたとして、ベンチに座ってできればもう棄権したいとまで思っているかのような時にタオルを投げ入れる代わりに、疲労困憊してベンチに座り込んでいる僕の背中を、両手で思い切り押して再びリングに立たせようとする、母はいつもそんな感じだった。
父を恐れていて、父に逆らわない。それで、子供をまるで生贄か何かのように父に捧げる。何度でも。
そうやって何度も何度もリングに僕を叩き出しておきながら、父のいないところで母は僕にすまなさそうにするのです。そういうところが嫌いでした。母を憎んでいたというよりは、僕は母を軽蔑していました。
だから、母が死んだというのに涙の一滴も出ない。これは確かに自分は人間ではなくてモンスターか何かのようだと自覚した。そんなことを思い出した。嫌な1日の始まりだった。
きちんと着替えて、朝のコーヒーを飲んで、理沙に無理やりトーストを食べさせられた。つけっぱなしのテレビから流れてくるニュース。アナウンサーの完璧な日本語。いつもと同じ朝だった。ただ僕だけはまだうっすらと嫌なものに纏わりつかれていた。
「あー、今日も冷えるー」
理沙が天気予報を見ながら手をさすりながら騒いでる。もそもそとトーストを咀嚼しながら言った。
「よく朝からそんなに元気だね」
「こんなん普通でしょ」
「高血圧」
「別に正常な血圧ですよ。ほら、卵も食べな」
スクランブルエッグを皿に載せられた。憮然とした顔でそれを眺めた。
「ドイツ人はこういうことされると猛烈に怒るんだぞ」
「暎くんは日本人でしょ」
「先祖にはドイツ人の血が混じっている」
「え、うそ?」
「うそ」
「もうっ」
僕に向かってフォークを投げようとした。
「わ、やめろ」
「なんでスラスラそんな突拍子もない嘘が出てくるの?」
「騙されるなんて……」
遅れて笑いがやってきた。
「ああっ、もうっ」
「理沙ってしっかりしているようで時々抜けてる」
「なんか腹が立つ」
そういうところが結構好き。
「ほら、食べな」
フォークでスクランブルエッグをさして命令してきた。
「はいはい」
やれやれ
家を出る頃には憂鬱はすっかり吹き飛んでいた。母の夢を見たことをすっかり忘れた。会社について朝礼をしている頃、携帯が震える。電話は出る。会議中でもできるだけ出る。そういうことにしている。職業柄だ。そっとオフィスを出て廊下でポケットから携帯を出す。
それは叔父だった。滅多にやり取りのない親戚。なんだろう?
「はい」
「暎」
僕を呼ぶその声のピンとした感じ。訳もなく背筋がゾッとした。
「兄さんが倒れたぞ」
その声は不思議と遠くから聞こえた。携帯を持って会社の廊下でそれを耳に当ててる自分を、どこかちょっと離れたところからもう一人の自分が見ている。
「おい、聞いてるのか?」
「聞いてます」
「すぐ来なさい」
叔父は一方的に病院の名を早口でいう。僕はぼんやりとその声を聞いていた。
「僕が行く必要なんてあります?」
「何をいってるんだ、こんな時に。いいから早く来い」
ぶつりと切れた。しまったと思った。倒れたって死んだんですかと聞くのを忘れた。メモは取ってなかったけど、ぼんやりと聞いたその病院名を僕はやはり記憶していた。その病院名を脳内で繰り返しながら、それはどこら辺の病院だったっけと思い返す。首を捻りながらオフィスに戻った。朝礼は終わってた。
「俺、ちょっと抜けるわ」
椅子の背にかけていたジャケットを羽織りながら、近くにいた同僚に声をかける。
「またまた、なになに?」
何を勘違いしたのかニヤニヤと笑いかけてきた。
「そういうのじゃないよ」
「そういうの?」
「親父が倒れたって」
「あ……」
同僚は眉を顰めた。何か慰めの言葉を言おうと逡巡してる。
「ごめん。じゃ」
片手で拝んだ後、自分のデスクの上を片付けてカバンを取り上げる。車で移動しながら、今日の予定を上から見直す。あちこちに連絡して、打ち合わせやらなんやらをキャンセルした。一通り済んでほっと一息ついた。
タクシーの窓から外を眺める。なんの変哲もない、いつもの東京。父親が運び込まれたという実家近くの神奈川の病院まではまだ遠かった。
そこにまたあの、小さな母の様子が浮かび上がってくる。
ああ……
ピースとピースがカチリとハマった気がした。
そっか、これを教えに来たのか……。お母さん。
細く長いため息が出た。人間の、深層心理がわからない。
本当にわからないものだ。
幽霊などいないのだから、あれは僕の深層心理から浮かび上がって来たもののはずで、それなら、あんなにカラカラに乾いた心で母を見送った僕の心の奥底には、実は意外なことにそれでもまだ母親がいたということなのだろうか。
あるいは、幽霊などいるのだろうか。
それで母は亡くなってこんなに時間が経ってもなお、僕たちにすまないと思っているということ?
どちらの解を選ぶか。結局こんなことには白黒をつけられない。きっと、必ず、そうだという確証の裏付けをどうやってつけるというのだ。人は、確証を得られずにでも白黒をつけなければならないとき、自分の望む答えを選ぶのだろうな。冬晴れの空にポツンと浮かぶ雲を眺めならたんたんとそう思った。
朝方嫌な夢を見て眠りが浅かったせいだろうか。僕はタクシーの中でうとうととした。
その時、この日、二つ目の電話を受けた。
「お客さん、電話、電話鳴ってるよ」
タクシーの運転手に言われて我に返った。携帯を取り出して耳に当てると女の人の悲鳴にも似た声が飛び込んできた。
「暎さん、助けて」
義姉だった。驚いて背もたれに寄っかかっていた体を起こした。
「義姉さん?」
「暎さん、柾さんが……」
「兄さん?兄さんにまでなんかあったの?」
「わからない。今、どこ?」
「病院に向かってる。義姉さんはどこにいるの?」
「病院にいるわ」
「何があったの?」
「わからない。うまく説明できないの」
義姉は、そんなに興奮しやすい性質ではない。普段はもっと冷静で穏やかな人だ。それが、こんなに取り乱しているのは初めてだった。
「とにかくすぐ行くから」
「うん」
「待ってて」
「うん」
泣いているかもしれない。向こう側からそんな気配がする。
「義姉さん」
「はい」
「悠人は?」
「実家に預けてます」
「そう」
とにかくすぐ行くから落ち着いてと繰り返してから電話を切り、できるだけ急いでと運転手に伝えた。




