4 モナリザの微笑③
4 モナリザの微笑③
火野蒼生
「火野先生、本当にいいんですか?入っちゃいますよ」
「どうぞ、どうぞ」
「わーい!久しぶりー」
カラカラカラと引き戸を滑らす。濃紺の暖簾をくぐりました。理沙ちゃんは大袈裟にはしゃぎました。ウェイターが席に通してくれる。向かい合って座った。
「焼き肉くらい、暎にいえばいいじゃない。喜んでホイホイ連れてくでしょ」
「うーん、そうなんですけど……」
目の前に置かれたおしぼりと箸置きに置かれた箸を意味もなく右に左にと少し移動させながら、理沙ちゃんが小首を傾げている。
「暎くん、普段からお付き合いが多くって外食してばっかじゃないですか」
「うん」
「自分で食事を選べるときは、絶対に胃に優しいもの食べてるんです。体にいいもの」
「ああ」
「それ知ってて焼肉行こうって言いづらくて……」
「なるほど」
「それに女の人たちと食事するとき、フツー、焼肉ってなりにくいし」
「うん」
「一人焼肉もちょっとないじゃないですか」
「まぁね」
ちょっと笑った。それから、テーブルに置かれたメニューを開く。控えていたウェイターにいう。
「めんどくさいからこの一番上ので」
色々な肉が最初から選ばれてるコースにした。それからメニューを理沙ちゃんに渡す。
「理沙ちゃん、他に欲しいもの追加しなさい」
「え、先生、これ、全部一番高いお肉ですよ」
「量がたくさんくるのよりちょっとずつくる方がいいでしょ。足りなければ足せばいいし」
「えー」
注文を済ませると先に飲み物が来て乾杯する。サワーを一口飲んだ後に、理沙ちゃんは縮こまった。
「なんか、このはちゃんに悪い気がするんですけど」
「ああ、いいの。理沙ちゃんならこのはさん気にしないだろうし。今日は本人のいないとこで聞きたいことあったから」
「そうなんですか?」
「うん」
「なんですか?聞きたいことって」
コホン、咳払いをした。
「あのね、このはさん、結婚式とかそこらへんのことで、なんか愚痴ってなかった?」
「え?」
「いわゆるマリッジブルーみたいな発言してませんでした?」
「マリッジブルー?」
サワーを両手で抱えながら、はてと考え込む。そんなこんなしてる時に牛タンが運ばれてきた。セーターとシャツの袖を捲ってトングを持つ。
「焼くか」
「いや、先生、それはわたしが」
理沙ちゃんが慌てて僕からトングを取り上げた。ひらりとした肉を網の上に載せるとじゅうといい音がして、煙が上がり、その煙を高性能な換気扇が吸い込んでいる。出た煙が出た途端にぐいぐいと横に引き込まれていく様子にちょっと見とれた。理沙ちゃんがタンを焼きながら口を開く。
「そんな目立って悩んでるみたいな様子なんて、全然」
「本当はドレス着て、理沙ちゃん達みたいに海外でとか思ってるのかな?」
「いやいや、それは全然ないですよ」
理沙ちゃんが牛タンをのせながら笑った。
「ほんと?」
「いつも、先生がこんな着物選んだとか、この神社を選んだのは庭から渡り廊下をとると一枚の絵みたいになるからだと言われたとか、そりゃ楽しそうに話してますから」
「ああ……」
「このはちゃん自身はドレスでも着物でも良くて、ただ、先生が楽しそうなのが嬉しいんだと思いますよ」
「そっか」
「さ、どうぞ」
焼けたタンを理沙ちゃんが皿にのっけてくる。
「あ、そんなにいらない」
「そんなこと言わないで」
暎に劣らず僕もそんなに肉をがっつく年齢でもないのだが。まぁ、今日はしょうがないか。理沙ちゃんがちらりと僕を上目遣いに見る。次の上カルビを網にのせた。じゅうという心地よい音がまた上がる。
「心配するようなことなんて何もないんじゃないですか?」
「でも、なんか様子がおかしいんだよな」
僕は両手で頭を抱え、こめかみを指で軽く抑えた。
「様子?」
「すっごい落ち込んでるとかじゃなくて、ほんのりと憂鬱そう」
「ほんのりと?」
「そう、ほんのりと、うっすらと憂鬱そう」
ぷっと笑われた。
「幸せですね。このはちゃん。こんなに気にしてもらって」
「でもね、はっきり聞いたんですよ。なんか憂鬱なことでもあるのって」
「なんて答えたんですか?」
「いいえってすぐいうと思ったのに、はぐらかされたんです」
「え?」
「ほんっと、昔はこんなことする子じゃなかったんだけどな」
椅子にもたれかかって、腕を組む。またクスクスと笑われてしまった。そして、カルビが焼けた。
「さ、先生、どうぞ」
「いや、本当にこんなに食べられません」
一部を理沙ちゃんのお皿に返しました。
「いいお肉だからきっと体にいいですよ」
「熱いうちに食べれば脂の成分がそこまで悪質ではないが、値段に関わりなく肉を食べすぎると胃に悪いんですよ」
「お詳しいですね」
「できるだけ知識はなんでも正確にいれるようにしているんです。いつ使うかわかりませんから」
「はぁ、そうなんですか」
では、恐縮ですが遠慮なくと言って美味しそうにパクパク食べている。それからしみじみと言われた。
「そんなに心配されてるんですねぇ。このはちゃんのこと」
「いえ、心配というか……」
ちょっと自分でも苦笑した。生ビールを一口飲みました。
「ミステリーですねぇ」
「ミステリー?」
目を丸くされた。
「ちょっとしたミステリーですねぇ。心配というより答えが気になるんです」
「本人に聞くしかないんじゃないですか?」
「だから、あっさり聞いたでしょ?何か憂鬱なのかと、はぐらかされました」
「ああ……」
理沙ちゃんが皿の上のカルビをさっさと平らげて、サワーを飲む。
「女の人というのは、時々意地悪ですね。答えを与えずに人があれやこれや考えてるのを見て楽しんでるんですよ」
「まさか、このはちゃんが?」
「彼女も大人になってきて、そういうのを覚えたのかな?」
「へぇー」
「理沙ちゃんも今度やってごらん」
「暎くんにですか?」
「なんか仕掛けてごらん」
「ええ?」
「あいつ、狼狽えて東奔西走するよ」
「いや、まさか……」
「いや、する」
しばらく2人で暎が慌ててあっちゃこっちゃ走り回っている様子を思い浮かべてみた。まるでみてきたことのようにすぐ浮かんできた。ひゃっひゃっひゃっひゃと理沙ちゃんはトングを抱えて笑ってる。次は厚切りに切られたロースかなんかが来た。
「なんかヒントがないかなと思って理沙ちゃんに話を聞こうと思って」
「すみません。お役に立てなくて」
トングを持ってしゅんとした。その顔に向かっていった。
「いや、暎に借りもあったし」
「へ?」
「これで返せるからいいんですよ。だから、全然気にしないで、どんどん食べてね」
「はぁ」
その後、久しぶりの焼き肉を堪能してもらった。
***
10時ちょっと前に家に着いた。リビングのドアをかちゃりと開けた。すると、このはさんが仕事の格好のままでいた。
「ただいま」
「あれ?」
僕の顔を見て声をあげるとコートを脱ごうとしている僕に近寄ってきた。
「なに?」
「ちょっと失礼」
前の開いたコートの隙間から腕を突っ込んで抱きついてきた。自分も抱きついてきた彼女の体を軽く抱く。僕の腕の中でくんくんと犬みたいに匂いを嗅いでいる。
「珍しいですね、焼肉?」
「あれ、匂いついてた?」
自分ではそんなに気にならない。高性能な換気扇だったし、たいして臭くないかと思ったんだけどな。
「結構いい匂いだな。高い焼肉屋さんですか?」
「食べたい?焼肉」
「たまには食べたいですねぇ」
「じゃあ、今度行こう」
僕がそういうと、笑いながら離れていった。自由になってコートを脱ぐ。洗面所で手を洗ってうがいをすると、戻ってきて冷蔵庫を開ける。飲み掛けのワインが冷やしてあった。ワインをとるとワイングラスを二つ棚から出した。
「あら、飲み足りなかったんですか?」
「たまには付き合って」
「はいはい」
なんかつまみ持ってきますねと一旦キッチンに消えて、チーズとかハムとかピクルスとか適当に持ってきた。チーズの塊をチーズボードの上でちびちびと切りながらワインを飲む。寒い日に暖かい家の中でワインを飲むのが心地よかった。お酒が進んで少し酔っ払った彼女を眺める。
「ね、このはさん」
「はい」
「降参です」
「え?」
ソファーに並んで座って、彼女の持ってるワイングラスを取り上げてローテーブルに置く。それから柔らかい体を横からそっと抱きしめた。
「ね、なんで気が浮かないの?教えて」
「わたし、気が浮かないなんて言いましたっけ?」
「言ってないけど、見てればわかるよ」
言葉で答えずにまた笑ってる。意味ありげな笑顔。
「着物じゃなくてドレスが着たいの?」
「どっちでもいいって何度も言いましたよね?」
「じゃあ、やっぱり会社の人とか友達とかもっとたくさん呼んで賑やかにやりたいの?」
「母が来るならそうしたいですけどね……。この状態なら少ない方が楽です」
首筋に顔を埋めて彼女の香りを嗅いだ。朝は新品だった香水が1日の時間をかけて彼女と混じって別の香りになっている。
「先生、くすぐったい」
「ね、教えて、気になる」
すると笑いながらすぐ近くで僕を見上げながら言った。
「先生、ひとつ忘れてることがありますよ」
「え?」
「結婚と関連することで」
「ウソ」
「ほんと」
「なんだ?」
彼女を抱きしめたままで、天井を見上げた。別にそこに答えが書いてあるわけじゃないけど。
「指輪」
「買いました」
「参列者への引き出物?」
「何を買うか決めて注文してあります」
「着物関連の小物?」
「全部細々と指定されてます」
「じゃあ、式の写真撮影、依頼するので……」
「そこも全部手配済み」
「……」
さっぱり思いつかない。
「新婚」
「はい?」
「後ろに漢字二つ」
「クイズ?」
「これでもわかりませんか?じゃ、英語で ハ で始まる」
「ハ……」
じっと僕を無言で見つめてくるこのはさんの横で、考える。
なんだ? ハ?
「あ……」
「やっとわかりましたか」
そして、酔いが完全にさぁーっとさめた。
「言ってくれればよかったのに」
「いや、なんか、そのうち気づくかなと」
「自分が全く旅好きではないのでスコンと抜けてた」
「ほんとにね」
「いや、でも、言えば絶対無視したりしない」
「はぁ」
ちょっとしらけた顔で見られた。
「今から、休みって取れるの?」
「どうかなぁ」
「手配は、問題ないよね?」
「多分」
「なんで全然思いつかなかったんだろ」
僕が愕然としていると、彼女はぷっと笑った。
「先生、そんな心配しないで。わたし、別に気にしてませんから」
「うそ」
「だって、先生、旅行嫌いじゃないですか。出かけるの好きじゃないでしょ?」
「いや、でも、君とだったら行くでしょ」
「じゃあ、どっかそこら辺の温泉でも行きます?」
「……」
つまらなさそうな顔でそう言った。じっとその顔を見る。手を伸ばして、飲み掛けのワインをとった。ぐいと一口のむ。まだクイズは続いているみたい。
「本当はどこに行きたいの?」
「え?」
「ハワイ?」
「もう、しつこいな」
「だっていいなぁって言ってたじゃない。ハワイ」
「ハワイはダメです」
「なんで?」
「先生にハワイ、似合わない」
そう言われて、自分がアロハシャツを着てあの、ハイビスカスの首飾りを首にかけているのを思い浮かべてみた。
「そんなに似合わない?」
「ダメです。ウクレレとかもっちゃって」
「……」
そりゃ確かに変だ。
「でも、別に、日本人がハワイに行ったら僕と似たり寄ったりでしょ?」
ハワイが似合う日本人なんて一部の芸能人ぐらいだろ。
「先生がハワイにいたら、なんかファンとしてやなんです」
「え……」
「読者の皆さんの気持ちを考えてもハワイはダメです」
「……」
別に誰にも教えなきゃいいじゃないかと思うんだけど。そう思っていってみた。
「別に誰にも教えなきゃ、僕がハワイに行ったのはバレませんよね?」
「でも、わたしが知ってます」
「……」
「先生が書く作品のイメージとハワイが合わないんです。火野蒼生とハワイが!」
少し怖いくらいの顔で言われた。この人は出会う前から僕の読者だったのですが、一緒にいて長くなってきた今でも純粋な読者としての彼女は完全には消えないらしい。
「そんなことしてしまったら、これから先生の作品を読むときに、アロハシャツを着て首飾りかけてウクレレ持ってた先生の姿がちらついて、作品に集中できません!」
「……わかった。ハワイには行かない」
自分でも不思議だが、そうか自分はハワイには行けないのかとちょっと残念に思った。海外旅行なんて興味ないんですが。
「じゃあ、海外は似合わないってことか」
「いや、そんなわけではないですよ。でも、オーストラリアもダメです」
「え……」
「コアラとカンガルーが似合いません」
「……」
「火野蒼生がコアラを抱っこしてたらやです!」
抱っこしようと思ったことなど一度もないが、ダメと言われると抱っこしてみたいと思うのは人間の心理だろうか。あれは、重いのだろうか。爪が結構意外と鋭かったような。ガシッと縋ってくるのだろうか。ま、でも、コアラは今は置いといて……。
「じゃあ、どこなら似合うの?」
「え?」
「そこが君の行きたいところなんでしょ?」
「……ちょっと遠いんです」
「うん」
「先生、時差ぼけとかいやでしょ?」
このはさんはいつもズバッとこうしたいと言わない人だなぁ。こっちが気づかないと、通り過ぎてしまう。
「いいから言ってごらん」
「イギリス」
「イギリス?」
そう言われて、あのロンドンと時計塔とその前にコートを着て立っている自分を思い浮かべる。……正直にいうと、それは全くに意外性のないつまらない画でした。
「ダメですか?」
「いや、別にいいけど、僕にイギリスが似合うの?」
「漱石とかシェークスピアからの連想ですかねぇ」*4
「……」
漱石は創作活動を始めるより前にイギリスに滞在している期間があるんです。ちょっとくらっときた。
「ダメですか?」
「いや、行くのはいいんだけど……」
「はい」
「美化しすぎ……」
「そんなことはないですよ」
そう言ってぎゅっと僕の腕にくっついてきた。
「それで、なんでイギリスが好きなの?」
そういうとかわいい顔でへへへと笑った。その笑顔は、まるで夏祭りでねだった綿飴を父親から受け取る娘のような笑顔でした。
「ドイルとクリスティですかねぇ」
「ああ、ミステリーね」
「あの雰囲気に肌で触れたい」
このはさんと僕とでいくと、彼女の方がミステリ好きですが、僕も全く読まないわけでもない。学生時代にはシャーロックホームズもポアロも読んだことがある。
「マフィンと紅茶と謎解き?」
「そうそう。紅茶の香りと謎解き」
綿飴のような笑顔を見ながら思う。女の人というのは歳をとるにつれ、笑わせるのが難しくなる生き物だなと。男はいつも笑顔が見たいのに。純粋な笑顔が。
「早く言えばいいのに」
「え?」
「他の人のいうことはめんどくさいで済ますけど、あなたの言うことはちゃんと聞くでしょ。僕は」
「すみません、先生の創作の邪魔になるかなと思って」
「あの、廻船問屋の話?」
「そう、廻船問屋の」
顔を見合いながらぷっと笑った。
「あんなのどうでもいいよ。ほっといても」
「編集さん、うるさく言いません?」
「別にうるさいけど、ほっとけばいい」
それから、すぐ隣に座っている彼女の体を引き寄せて、ゆっくり髪を撫でた。撫でながら思う。
男というのは女の純粋な笑顔を見たいものである。
ただ、女は歳をとるにつれ笑わせるのが難しくなる生き物である。
また、男もおそらく毎日簡単に笑っている人の笑顔には惹かれない。価値を感じなくなる。
だから、賢い女の人というのはおそらくそのために少しずつ難しくなってゆくのではないでしょうか。
僕のほんの私見です。
*4 夏目漱石とイギリス
帝国大学英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランペス区などに居住した。Wikipedia参照




