3 赤がほしい③
3 赤がほしい③
澤田暎
兄とわかれたその後
クリスマスの彩りの中を暗い気分で会社に戻った。しかし、兄は僕にはあんなことを言っていたが僕を待ってはいなかった。昼に抜けた分、会社で残業していると携帯が鳴った。見れば義姉だった。嫌な感じがした。
「あの、暎さん」
義姉の声は明るかった。僕はその声を聞きながら自分のデスクを立ち、人のまばらなオフィスをそっと抜けた。夜の廊下を歩き、人のいない休憩スペースにすとんと座る。電気をつけずに青い夜の中に自販機のはしゃいだ光を眺めながら義姉の声を聞く。
「あのね、柾さんから電話が来て」
「ええ」
「怒ってないから帰ってこいって」
「……」
空いている方の手をベンチの上に置く。それはひんやりとして固かった。
「家出するほど悩んでたなんて思わなかったって謝られたの」
「はい」
「暎さん、ありがとう」
義姉の明るい声を聞いて、ふっと息を漏らしながら苦笑いする。
「お礼を言われるようなことはしていませんが」
「でも、思い切って家を出たから柾さんもちゃんと考えてくれたと思うんです。無駄ではなかったわ」
少し興奮した女性が早口に語る言葉をしばらく、音楽でも聴くような気分で聴いていた。義姉は、僕が義姉と甥のために準備したウィークリーマンションを退去するので、申し訳ないが手続きをしてくれと結んで電話を切った。
始終弾んだ声を電話の向こうに聞いておきながら、しかし僕の心は重く沈んでいました。
「うわっ、なんだ、人がいた。澤田さん、なんで電気つけないんですか?」
社内の人間が飲み物を買いに来て声を上げる。パチリとブースの灯りを付けた。
「どうしたんですか?なんかトラブルですか?」
「トラブル……」
「どこぞの作家さんがまた、原稿を落としそうとか?」
「あるいは、傑作を書いているとうそぶいていて上がったのを読んだらガラクタだったとか?」
「どこの先生ですか?」
「ははは……」
笑った。
「どこの先生ですか?」
「僕の管理している先生にそんな半端な仕事、させませんよ。僕は」
「出たー」
「なにが?」
「いや、なんでもありません」
彼女は自分の飲みたい飲み物を買うのに専念し、僕は立ち上がった。もう今日は帰ろう。どうせ集中できないしと思って立って廊下をゆこうとすると、温かい紅茶の缶をハンカチで包んで持った同僚が窓の外を眺めて声を上げる。
「あら、雪」
僕もその声に外を見た。
「でも、東京の雪って積もりませんよねぇ」
「雪が好き?」
「綺麗じゃないですか」
言われて空を眺める。真っ黒な空から、いわば宇宙から落ちてくる白い破片。ヒラヒラと。
「綺麗なものは残酷だな」
「はぁ」
「残酷だからこそ綺麗なのかな」
「今のは三段論法ですか?」
横を向く。年下の女の子。悪びれていない顔に、チョップをかました。
「ギリシャ哲学勉強し直せ」
「えー」
背中でなんかぶつぶつ言ってる子をそのままに廊下を歩いてオフィスに戻り、デスクの上を片付けるとカバンを持ってエレベーターで一階へ下りた。一階はもっと寒かった。そして、外は更にもっと。パラパラと道をゆく人は前だけを見て足早にゆく。僕もその人たちの1人になった。駅へ冷たい空気の中を急ぐ。その時に思う。
どうして人は時折、触れれば血を流すかもしれないものに触れようとするのか。痛みを与え続けるものに近寄り離れないのか。冷たく切りつけてくる雪を美しいと思うのか。
心の芯まで凍える様な気分で家に戻った。僕にはもう明日が来ないような気がする。どんな温かい未来も描けない。そんなどん底な気分でガチャガチャと鍵を開けようとすると、
「おかえりー」
ドアが内側から開いた。理沙がニコニコしながら立っていた。
「寒い、寒い。早く中に入って」
人の腕をとって中に引き入れるとドアをバタンと閉めた。それからガチャリと鍵をかける。
「また、鍵開けてたの?」
「だって、暎君、帰ってくるし」
「女1人で家にいるときは鍵しめな」
「そうなの?」
「そうでしょ」
「わかった、わかった」
僕を玄関に残してパタパタとリビングに戻っていく。僕は靴を脱いで、マフラーを外しながら彼女を追ってリビングに入った。部屋の中はエアコンが効いていて暖かかった。
「前にも言ったよね?」
「なんの話?」
テレビの前にちょこんと座って、僕の方を見上げた。
「鍵閉めなって」
「言ったっけ?」
「もう……」
コートを着たままで、理沙がちょこんと座っているラグの後ろのソファーにドスンと座った。理沙はちょっとまずったなという顔をして僕の様子を窺っている。
「ここは東京という都会だし」
「うん」
「人が大勢いるところには必然的に変な人もいる確率が多いし」
「うん」
「……」
途中まで言って、なんだかそれ以上言う気がしなくなった。ため息をついて立ち上がるとコートを脱いだ。部屋の隅にあるラックにかける。お笑い芸人が何やら盛んに話している声が僕たちの間に流れていて、でも、理沙はテレビを見るのをやめて僕を見ていた。
「暎くん」
「うん」
「今日、なんかあった?」
「……」
それには答えずに奥の部屋にいって着替えた。理沙が僕を追って部屋まで来て、そして、部屋には入らず部屋の入り口からそっと僕を眺めている。その様子を見て、思わず笑ってしまった。すると心配そうな顔をしていた理沙がふっと笑った。綺麗な笑顔だった。
「なんで笑ってるの?」
「人の着替えを覗きに来たから」
「覗いてないでしょ?」
「いや、覗いてたよね」
「覗いてたけど、別に見てないもん」
「いや、見てたよね」
「見てたって別にどうってことないでしょ?」
「それはそうだけどさ」
僕はリビングに戻る。まるでストーカーのように理沙がついてくる。理沙がさっき座ってたあたりに自分も座った。理沙が隣に座った。まだ僕を見ている。
僕は理沙が見ていたテレビをぼんやりと見た。
「これ、おもしろいの?」
「いいや」
「じゃあ、なんで見てるの?」
「暎くんが帰ってくるまでの暇つぶし」
「もっと面白いものを見て暇をつぶせばいいのに」
「面白いものは疲れるんだよ」
「……」
しばらく理沙が言った言葉の意味を考える。
「それはちょっとわかるな」
「でしょ?見逃しちゃいけないって気合を入れると疲れるんだよ」
「そうか」
それで、理沙がいうところのつまらないテレビを、どこがどんなふうにつまらないのだろうとぼんやりと見た。
「こいつ、バカだな」
「バカだよね」
「このテレビは見ても全くの時間の無駄だと思う」
「そうなんだよ。そこがいいんだよ」
「なるほど」
理沙はその日、パジャマの上に大きめのニットを重ねてきていた。いろいろな色のふわふわとした毛を編み込んだニットを着た彼女はまるでぬいぐるみみたいだなと思った。抱き心地のいいぬいぐるみ。手を伸ばしてぎゅっとぬいぐるみみたいな奥さんを背中から抱きしめた。
理沙はされるがままにして、僕に抱きしめられたままでまたテレビを見ていた。洗い立ての髪のいい香りがした。
「理沙」
「なに?」
「大切なものは、安全なところにしまっておきたいから」
「うん」
「鍵はかけてほしい」
「わかった」
それで気がすんでぬいぐるみを離そうとしたら、ぬいぐるみの方から僕の両手を捕まえて離さない。
「ねえ、暎くん」
「なあに?」
「今日、なんかあった?」
「……」
理沙が僕の腕を離すと体を回して僕の顔を覗き込む。
「家に帰ってきたら、鍵が開いてた」
「それ以外に」
「……」
つまらない深夜のテレビ、工夫が凝らされた広告、そんなものの音声をBGMに僕たちは見つめ合う。
「お義兄さんのこと?」
そして、答えを当てられた。ため息が出た。がっくりと項垂れてみた。
「作戦が失敗した」
「作戦?」
「義姉さんと悠人をまず外に出して、兄さんを家から出そうと思ったのに……」
「うん」
「兄さんに説得されて、義姉さんはさっさと家に帰っちゃったよ」
僕は体を起こして床に座ったまま後ろのソファーにドサリともたれかかった。照明を控えめにつけた薄暗い部屋の天井を眺める。
「そりゃ、まぁ、義弟のいうことよりご主人の言うことのほうが重いよね」
「わかってはいたんだけどね。こうなるって」
ダメでも、何かをしたかった。
理沙は仰向けに天井を眺めている僕の横のソファーの座面にうつ伏せになって顔をこっちに向ける。
「でもさ、難しく考えすぎじゃない?もうしないって約束したんじゃないの?お義兄さん」
「あのね……」
天井を眺めたままで理沙と話す。
「約束してもカッとしたときに止められないかもしれない。反対に止められたとしても、兄さんは普通じゃないんだよ。本当はちゃんと心のお医者さんにみてもらったほうがいい」
「うん」
「でも、兄さんは自分がお医者さんにみてもらったほうがいいなんて、これっぽっちも思ってない。自分に問題があるなんて全然気づいてない」
「……」
「自分が同じだからわかるんだ。僕は家を出てやっと自分にどういう問題があるのか客観的に考えられるようになったから。主な原因である父からまず離れたほうがいいんだ。父というか……」
僕は自分が育った実家を頭の中で思い浮かべる。あの古いどっしりとした建物を。
「澤田の家から、なのかな」
理沙は大人しく僕の話を聞いて、そして僕を眺めていた。
「なんか不思議だな」
「何が?」
首をめぐらしてすぐそばで僕を見つめている理沙を眺めた。
「わたしは、家らしい家がなくて苦労したから、家ってすごくいいものだとなんとなく思っているのだけれど」
「うん」
「家があることで苦労する人もいるなんて」
ふっとちょっと笑った。
「ほんとだな。変なものだ」
手を伸ばして理沙の髪を撫でた。心が落ち着いた。理沙は自分の髪を撫でている僕の顔をじっとみていた。
「ねぇ、暎くん」
「なぁに」
「焦っちゃダメだよ。こういうことはさ」
「……」
「きっと、ゆっくりでも、きっといい方向に行くよ。そう信じよう」
「信じる?」
「うん」
理沙の目は明るくてそして輝いていた。そんな、理沙の顔を眺めながら思った。信じるという行為はきっと……
「そうだ。お腹減ってない?」
理沙は立ち上がりキッチンへ消える。
「りんご食べない?」
「りんご?」
「りんご」
彼女は僕の返事を待たずに大きな赤いリンゴと果物ナイフとお皿を抱えて戻ってきた。
「理沙っていっつもりんごを買っている気がする」
「そうかな?」
「買いまくってる」
「悪いこと?」
「いや、別に。でも、なんで?」
理沙は僕の横に座るとりんごを僕らの目線まで持ち上げて言った。
「赤が好きだからかな」
「赤?」
「なんか、りんごの赤い色を見ると妙に安心するの」
「なるほど」
「剥いちゃうと赤くなくなっちゃうけどね」
「ふうん」
「なんでこんなに赤が好きなんだろう?」
「それはあれだ」
「なに?」
「ナイフ持ってにじり寄るのやめて」
「いいから、もったいぶらずに教えて」
ふざけて人にナイフ向けやがった。もう、育ちが悪いんだから……。
「赤は血の色だから」
「なんだそりゃ」
「こう、命の色っていうかさ」
「ああ、そういうとまだいくらかましね」
それから、人の隣でスルスル皮を剥き始めた。丸のまま上からくるくるとスルスルと。
「僕たちって本当は吸血鬼なんじゃない?」
「なんだそりゃ」
「血の色に惹かれるってさ」
笑って、その時に繋がってた皮が切れた。
「ああっ」
「なんだよ」
「できるだけ長く繋げたかったのに」
「……くだらない」
「ね、昔のサザエさんでさ、サザエさんが椅子の上にのってりんご剥いている場面ってなかったっけ?皮をながーく床にむけて垂らしながらさ」
「ええ?」
「終わりの歌の場面だったと思うんだけど」
「覚えてないなぁ」
「そっか」
「なんか気になる。調べたい」
「調べなくていいよ」
「気になる」
「ああ、スイッチ入っちゃったか」
信じるという行為はきっと、1人では成り立たない行為なのではないかと思う。あるいはそれは成り立つのだけれど、崩れやすい。1人で信じるというのは難しい。でも、それが、横にもう1人心からそれを信じてくれる人がいて、そして、それを言葉に出してくれる。
その時にきっと言葉というものは力を持ち、そして僕たちをどこかへ連れて行ってくれる。
そうなのではないだろうか。
2022.11.16 了




