3 赤がほしい②
3 赤がほしい②
澤田 暎
それから数ヶ月後
街はクリスマスを間近にして賑わっている
僕はとある老舗の百貨店の今年のツリーを眺めていた。その巨大な大人向けにシンプルな色合いでまとめられたツリーを。シルバーとブルー。でも、やはりツリーには赤を使って欲しいなと思いながらずっと眺めていた。
「暎」
兄の声がした。振り向くと、コートを着て首元にもきっちりとマフラーを巻きつけた兄が立っていた。いつも通りの兄だった。
「待ったか」
「いや、今きたところ」
「行こうか」
「どこへ」
「いいから行こう。車を待たせてあるから」
淡々と話すのだけれど、僕の腕をぐいと掴んだその力だけがいつもの兄と違った。引っ張られてゆくと黒いセダンがひっそりと止まっていた。バタンと音を立てて車の後部座席に右と左から滑り込んだ。音もなくスッと車が走り出す。
「どこへゆくの」
「静かに話をできるところだよ」
しばらくお互いになんとなく黙る。僕は窓の外を見るともなしに見ていた。冬の東京。灰色の空。いつもは顔を合わせれば話の途切れない僕達が、黙りこくっているのは珍しいことでした。兄の怒りが空気越しに伝わってくるように感じる。それはどっしりとした重みのある怒りだった。
しばらくすると、とある都内のホテルの地下に車は滑り込んでいく。運転手を車に残して僕たちは地下の駐車場からそのままエレベーターで階上へ上がる。スルスルと音もなく上へ上へと上がってゆく。チンと音がするとエレベーターはとある階で止まった。
話をするためだけに兄はわざわざホテルの部屋を取っていました。部屋に入ると兄は真っ直ぐに奥に進んだ。壁一面がガラス張りになっていて、東京の街が見下ろせた。街を眺めている兄の横に僕も並んでたった。
「美登里に一体何を言ったんだ。お前は」
「……」
「とある日を境に別人のようになって」
コートのポケットから封筒を取り出すと傍のティーテーブルにパサりと置いた。
「こんなものを残して悠人と消えた」
「……」
僕はそっとその封筒に手を伸ばした。すると、兄はパッと手を伸ばしてその封筒をまたポケットに戻した。
「すぐに見つかるとたかを括っていたら、全然痕跡が見つからない」
「そうですか」
「ピンときたよ。最近のおかしな様子といい、お前が何かしたんだってな」
「……」
兄は僕の方をまっすぐ見た。
「暎、僕が本気で怒る前に美登里にかけた洗脳みたいのを解いて、僕の元に戻しなさい」
「洗脳……」
「そうとしか言いようがない。全く。お前は言葉に毒がある」
「毒?」
「弱い毒を混ぜて人を思うように動かすのが昔から得意だからな」
「そんなことしてませんよ」
「どうして……」
兄の声音が揺れた。
「自分は出ていって面白おかしくやってる。俺らがお前に何かしたか?お前を尊重して、極力無理に何かを要求するようなことはなかっただろ?一度だってだ」
「兄さん……」
「それがなんだ。人の家のことに口を出すなんて」
「兄さん、家を出てください」
僕は傍らに立つ兄の両腕を掴んだ。
「それが兄さんのためなんだ」
「暎」
兄は苦笑いするとと兄を掴んだ僕の腕をぱっと離した。
「お前が家を出たことを僕たちは受け入れて、理解すらしようとしてきただろ?それですら足りずにそんな世迷言を言うのか」
「兄さん、僕、この前悠人と会ったんです」
「この前?」
「前に一度家に戻った時に」
「それで?」
「悠人は僕に腕を掴まれて怖がった。おかしいと思って調べてみたんですよ」
兄はそれにも動じなかった。
「それは美登里に聞いた。それで、お前は美登里に焚きつけたんだろう?」
「会って話はしました」
「余計なことを」
サラサラとそう言うと、悩ましげに首を左右に小さく振った。
「美登里は一旦これと思うと、その考えに固執するところがある。女の人ってそう言う人が多いのかもね。お前が妙なことを吹き込むからその日から思い詰めて困ってるんだよ」
「兄さん」
「暎」
改まって兄は僕を呼び、そして、真面目な顔で僕を見た。
「お前がどう思っているのかはわからないけれど、お前は確かにもう、澤田の家の人間ではないらしい。そのことが悲しいよ」
その目の色は静かな湖の色のようだった。
そう、兄は本来穏やかな人なのです。幼い頃は、些細なことで僕が癇癪を起こしたりするとそっと横に寄ってきて、僕の話をゆっくりと聞き、そして、その出来事を別の側面から話してくれる。考えは広く持って安易に怒ってはならないと優しく諭してくれる。本当ならこんなところでこんなふうに損なわれていい人ではない。人ではないはずなのに……。
「家のためなんだ。僕も悠人も澤田を継いでゆくんだ。悠人もどこか弱いところがあるからね。僕に似てしまったのかな。大人になってから困らないように僕が教えてあげないと」
「兄さん、それは、弱さじゃない」
「……」
弱さ。そういう名前でそれを呼ばないでほしい。それはむしろ、潰してはならない人の美徳なのだとそう言いたかったのです。僕は兄に家から自由になってそのことに気づいてほしいと、それが僕の願いでした。
この世には力が溢れている。僕らにとって力とはすなわち父だった。だけど、僕はそれに違和感を覚えていて、そして、自分の足で逃げ出して知った。それは力ではなくて、暴力なんです。この世を支配しているのは暴力的な力で、でも、本当にそんなものだけで世界というのは成り立っているんですか?力が否定するものは本当に弱さなのですか?
僕の戦いはその問いに対する答えを求めるもの以外の何物でもない。死ぬまで求めてそして最後は塵になる。その様々な戦いのうちの一つに兄を救うというものも入っている。入っているが本人は……
「暎」
兄をもう一度僕をあの静かな目で見つめる。
「お前は自由でいいなぁ。でもね、僕とお前は違う。これ以上僕を困らせないでくれ」
本人は静かに狂っている。自分が逃げ出した方がいい場所に立っているなどと露とも気づいていない。そして、僕は兄にとっていつまで経っても手のかかる弟でしかない。
「美登里にちゃんと話をしてくれ。今は曽我の家に里帰りしてることになってる。長くなってくると里帰りとも言ってられない。かといって無理に連れ戻したくないからね」
噛んで含めるようにそう言われた。




