3 赤がほしい①
3 赤がほしい①
澤田 暎
灰色の石のタイルで固められた壁にどっしりとした焦茶色の木のドア。街の一角にひっそりとあるそのドアを向かいの本屋からじっと眺めてた。入ったことのないそのロシア料理店の看板のロシア娘の絵を何度も見た。それから、ここからだと離れていてよく見えないメニューの書かれた緑色の黒板。呆れるほどに入り口が狭いのは、店舗が地下にあるからである。よくまぁこんな隠れ家みたいな店をいいところの奥様が知ってたなと感心する。手持ち無沙汰なので調べてみたら、長年続いているロシア料理の隠れた名店だそうだ。
雨が降りそうだなとこちらも灰色の空を見上げた。するとどっしりとしたドアが中から開いた。ドヤドヤと女たちが出てくる。僕は慌てて店を出た。道に出て近寄っていくと話している内容が耳に入ってきた。
「澤田さんは何でお帰りになりますの?」
「ああ、少し寄りたいところがありますので」
「じゃあ、ここで失礼するわね」
一度では終わらないお辞儀をして何度も手を振り合いながら女たちはそれぞれの方向へ散らばり始めた。僕は1人の人の後をつける。目の前の信号が赤で、彼女は立ち止まった。
「義姉さん」
一度では自分が呼ばれていると気づかなかった。繰り返し呼びながら近づいてそっと腕を掴んだ。
「きゃっ」
周りの人が一斉に僕らを見た。僕はパッと掴んだ腕を離した。
「義姉さん」
「えっ、あっ、暎さん?」
僕らに向けられた視線は波が引くように一斉にさり、そして信号が青になった。動き出す人たちの邪魔にならないように僕はもう一度義姉の腕をとって道の端っこに引き寄せた。
「久しぶりだからすぐには気づかなかったわ。こんなとこで会うなんて思わないし。偶然ね」
少し頬を上気させて興奮している顔を見ながら、複雑な気分になった。その表情に姉は声のトーンを一つ落とした。
「あら、偶然じゃないの?」
「義姉さんとどうしても2人だけでしたい話があって、待ってました」
街の雑踏の中で、僕を見つめる義姉の眉の辺りにぼんやりと憂慮の影が上った。
「すぐに帰らなければならない?」
「いや、買い物は別に今日でなくてもいいし」
義姉はそう言いながら細い手首を返すと腕時計の文字盤を眺める。
「どこかその辺で少し、話せませんか?」
僕らは駅から反対の方へノロノロと歩き、2階に上がったところにある小さな喫茶店に入った。窓際の古いどっしりとした木のテーブルに向かい合って座った。
「それ、よく買えたね」
「え?」
「ブランドの新作でしょ?あっという間に売り切れたって」
僕は義姉の手にしているモスグリーンの皮のショルダーを指差す。義姉は呆れた。
「よくそんなことまで知ってるわね。奥様が好きなの?」
「いや、あの子はブランド物を買うような子じゃないし」
メニューを開いて上から眺める。
「義姉さん先にどうぞ」
「アメリカン、ホットで」
「じゃ、僕もそれで」
ウェイターの服装の若い男がオーダーを聞いてから下がっていった。
「それで」
「それでって?」
「とうとう結婚したんでしょ?どうですか?新婚生活は」
「お陰様で可もなく不可もなく」
「あらやだ。つまらない答えね」
義姉は片手で頬杖をつき、少し口を窄ませておどけてみせた。綺麗に塗られた上品なネイルの色と義姉の口紅の色をしばらくぼんやりと眺める。
「僕の話をしに来たんじゃないですよ」
「そんな怖い顔して」
「この前、久々に家に行って……」
そこまで話したところでウェイターが僕たちのアメリカンコーヒーをトレイに載せてやってきた。僕たちは話すのをやめて、そして視線を外した。義姉はコーヒーをテーブルに載せるウェイターの手つきをまるで監督でもするかのように眺め、僕は二階の窓から通りの人たちを眺めていた。たいていの人が前だけ見てセカセカと通り過ぎていく。
視界のはしに姉が美しい目元を心なしか張り詰めているのが見える。ウェイターが過ぎ去って、僕たちはもう一度向かい合って見つめあった。正確には見つめ合おうとした。義姉は僕から目を逸らしコーヒーカップを見ていたから。
「悠人にあったんです」
「大きくなったでしょ?あの子」
「あの子の腕を見ました」
「……」
義姉は俯いたままコーヒーカップの取手に指をかけたままで、僕の言葉を聞いていた。
「いつからですか?」
「驚かないのね」
ポツリとそうつぶやくと義姉は目を軽く瞑って細く長く息をついた。
「義姉さん」
「なんですか?」
「本当に申し訳ありません」
「なんで暎さんが謝るの?」
「僕の家の問題なので……」
「どういうこと?」
「なんで僕が驚かないのか、聞きましたね」
「ええ」
僕は、着ていたジャケットから片腕を抜いて、そして手首のボタンを外して腕をまくってみせた。もちろんそこには何もありませんでした。
「残らなかった」
義姉は暗い目で僕の腕を眺めていました。
「同じ経験をしているから、すぐにわかったんですよ」
「……」
義姉は暗い目のまま外の通りを眺めた。その横顔に話しかけました。
「このことについて兄さんと話し合ってますか?」
「……」
「義姉さん」
義姉は僕の声が耳に届かないかのようにしている。しょうがなくコーヒーに手をつけた。するとボソボソと義姉が話し出した。
「みんな知らないんです」
「はい」
「家の者は薄々気づいているのかもしれませんけど、でも、誰も、何も言いません」
「はい」
「……」
ここでまた何も言えなくなってしばらく黙った。
「どうするんですか?」
「どうするって……」
僕の言葉に答えられずにコーヒーを口にする。
「柾さんは、悠人が悪いんじゃないって」
「……」
「でも、教えてあげないとダメなんだって。その時だけ人が変わったようになって」
「やめてとちゃんと言いましたか?」
「そのうちちゃんと悠人ができるようになればこんなことをする必要はないって。本人のためだっていうんです」
「誰かに相談しました?」
「こんな話、誰にも言えません」
「どうするんですか?」
「柾さんは……」
義姉の声が一つ高いトーンになる。
「非の打ち所がない人なんです。夫としても父親としても、悠人だって懐いてます。ただ、時々人が変わったようになる時があるだけ。その時さえ過ぎればいい夫で、いい父親です」
「……」
今度は僕が何も言えなかった。
「暎さんだって、柾さんだって、昔似たようなことがあったって今はちゃんとしてるでしょ?悠人は柾さんにすごく懐いているし、ああいうことがあるから嫌いになったとかそんなこともないし、そんなに難しく考えることはないんじゃないかしら?」
「……」
「あなたの腕から跡が消えたように、悠人にも何も残らない……」
「義姉さん」
僕は両手をテーブルの上で組むと少し身を乗り出した。
「僕は家を出て、よっぽどの用事がなければ戻らない。これが普通の幸せな家族ですか?」
「……」
「兄さんは?本当に毎日幸せそうに暮らしていますか?」
義姉は虚な目で僕を眺めました。高い服を着て、ブランドの新作のバッグを持って、街を通り過ぎる人たちにはこの人にも悩みがあるだなんて、そんなふうには見えないに違いない。
「兄を説得して、澤田の家を出てください」
「そんなこと……」
義姉は目を見開いた。
「できるわけないでしょ、柾さんに」
「でも、そうすべきなんだ」
「暎さん、あなたとは違う。柾さんは……」
「僕は家を逃げ出した。兄さんを置いて。そのことがずっと心残りなんです」
「暎さん、柾さんから責任を取ることなんてできません。本人も望まないわ」
「じゃ、義姉さんは今のままで問題ないと本当に思ってるんですか?」
「……」
「悠人が今のままで本当にちゃんとした大人になれると思いますか?」
誰にも言わないでと僕を見上げた甥っ子の悲しい目が脳裏に焼き付いて離れない。
「自分の愛する父親に打たれる子供の心がどんなふうに傷つくのか、想像できますか?」
「やめて」
義姉の顔がこわばった。
「わたしにどうしろというの?」
「兄を説得して家を出てください」
「そんなことできるわけないでしょ?柾さんが応じるわけがない」
「それなら」
喉が渇いた。喉が渇いたなと思いながら言葉を続ける。
「まず、義姉さんと悠人が家を出てください」
「家を出てどこへゆくのよ」
「実家は?」
「大騒ぎになります。すぐ連れ戻される。親にも戻れと言われます」
「なら僕が当面住める場所を用意します」
「何のためにそこまでするの?」
「兄さんを家から出すために」
義姉は呆れ顔でため息をついた。それから声を落として続ける。
「そこまでしなくたって、話し合えばいいことでしょ?柾さんだってちゃんと話せば聞いてくれます」
「義姉さん」
心を込めて義姉に語りかけた。
「僕は当事者だからわかるんです。義姉さんにはわからない」
「なにを?」
「頭ではわかっていて、やめたいと思っても、体に刻まれた記憶が勝手に体を動かすんですよ。そんなものなんです」
「……」
「もうやめると口で約束したとしても、やめられない。澤田の家にいる限り、兄さんは自由になれないんだ」
「……」
青ざめた顔をしている女の人をこちらも辛い思いで眺めてました。
「忘れないで。悠人を助けられるのは義姉さんだけなんだ」
「でも……」
「悠人と兄さんを助けられるのは義姉さんだけなんです」
少し怒ったような目で義姉はきっとまっすぐ僕を見た。
「家を出ることが柾さんを助けるというんですか?」
「そうです」
「暎さん、あなたは何もわかっちゃいない」
義姉はそういうとふるふると力なく首を振った。
「あなたみたいに自由に生きている人なんてほんの一握り。わたしだって暎さんより、柾さんよりの人間なんです。何も捨てられない気持ちがよくわかるの。だから、家族は、似た物同士で支え合いながら一緒にいるんです。置いて出るなんてわたしにはできません」
そこまではっきりと言い切ると、義姉はあの素敵なバッグを取り上げて、ヒールの音を響かせながら店を真っ直ぐに出ていった。僕は1人残された。




