後始末
「初めまして、とでも言えばいいのかな」
その声と共に、真っ黒な物体が床から浮かび上がってきた。
かろうじて人の形をしてはいるが、とても人間とは思えないような姿形だった。
「な、何よあれ……」
フィナシェはそれを見て、腰を抜かしそうになっていた。アサラを支えていなかったら、その場に座り込んでいたに違いない。
「フィナシェさん」
フィナシェの様子がおかしいのに気付いて、アサラは声をかける。
「あれは、この世界に存在していていいものじゃないわ。まるで、この世界の悪意を全て凝縮したような、そんな感じよ」
フィナシェその真っ黒な物体に対して、明らかな嫌悪感を抱いていた。人間だの悪魔だの、そういった領域を明らかに外れている存在。
その上で、剥き出しにして隠そうともしない悪意、いや憎悪といった方がいいのか。そのようなどす黒い感情が溢れている。
「ほう、そこの小娘。お前は只者じゃなさそうだな。我の本質をそこまで正確に言い当てるとは。くっくっく、面白いな」
フィナシェにそう言われて、黒い物体は愉快そうに笑った。
「お前は、一体」
何の前触れもなく姿を現した黒い物体に、ヴェガは思わず後ずさりしていた。
「貴様のような矮小な人間が、我に口を利くか」
黒い物体は不快そうに言うと、ヴェガに向けて何かを飛ばした。
「がはっ」
それをまともにくらって、ヴェガはその場に倒れ込む。
「我の目的は一つ。その男を回収するだけだ」
黒い物体は指のような物を作り出すと、倒れているユヴァハを指した。
「先生を、ですって。そんなこと……」
ユヴァハを連れて行くと聞かされて、フィナシェは気力を振り絞って立ち上がる。
「ほう、気の強いお嬢さんだ。だが」
「な、何を……まるで、この世界全てを憎んでいるような」
黒い物体からの憎悪をまともに受けて、フィナシェはその場にへたり込んだ。
「こんな、悪意を……どうやったら、こんなのを」
今までに感じたことのない恐怖に、フィナシェは動けなくなってしまう。
「ナズル君」
自分もほとんど動けなかったこともあって、アサラはナズルに声をかけた。
ナズルは小さく頷くと、黒い物体に飛び掛かった。
「ほう、我の悪意、憎悪。これを受けてそこまで動けるか」
黒い物体はアサラの上段からの蹴りをまともに受けたが、全く効いていないようだった。
「良い蹴りだ。並の相手ならこれだけで勝負もついていただろう。だが、相手が悪すぎたな」
アサラは何かを察して、その場を大きく飛び退いた。
その直後、アサラがいた場所に大きな穴が空いていた。
「良い勘をしている。留まっていたら、お前の体は潰れていただろう」
「アサラ、こいつは」
一人で対処できる相手でないと察して、ナズルはアサラに目をやった。
「困りましたね。私が万全でも勝てるかどうか。ですが、何もしないわけにはいきませんか」
アサラは倒れそうになる体に鞭を打って、何とか黒い物体と対峙する。
「二人掛かりでもやれるかわからんが」
「そうですね。でも、ここで逃がすわけにもいかないでしょう」
「我の力を目の当たりにして、まだ戦意が萎えないか。さすがに教皇庁の切り札、といったところか」
二人がまだ戦うつもりなのを見て取って、黒い物体は愉快そうに笑った。
「ここでお前達と戦うのも悪くはないが、それでは我の目的が達成できないのでな」
そのままユヴァハの方にゆっくりと近付いていく。
「逃げる気か、そうはさせん」
ナズルは黒い物体とユヴァハの間に割って入った。
「速いな、あそこから一気に詰め寄るか」
「ナズル君、彼を保護して下さい」
黒い物体が手を伸ばしたが、それはナズルの目の前で弾かれる。
「まだそれだけの力を残していたか。全く、恐ろしいな」
黒い物体が弾かれたのを見て、ナズルはユヴァハに駆け寄った、
「だが、その程度だ」
黒い物体は一瞬で姿を消すと、次の瞬間にはナズルとユヴァハの間に割り込んでいた。
「今日のところは、これで失礼するとしよう。何、お前達と我らは相成れない。いずれ、また戦うこともあるだろう」
黒い物体は笑いながらユヴァハを取り込むと、そのまま消えていく。
「ま、待ちなさい‼」
ユヴァハが連れ去られそうになって、フィナシェは声を上げた。
ナズルは消えそうになる影を蹴りつけるが、既に消えてなくなっていた。
ナズルの蹴りは壁に穴を開けただけに終わってしまう。
「面白い力を持ったお嬢さん、それと教皇庁の飼い犬の諸君。またいずれお会いすることもあるだろう。その時は改めてお相手しよう」
完全に消え去った後で、声だけが響き渡っていた。
「フィナシェ、無事だったのね」
服こそボロボロだったとはいえ、無事に戻って来たフィナシェにサニアは駆け寄った。
「何とか、ね」
フィナシェは弱々しく笑みを浮かべる。
「今回は、わたしは何もできなかったわ」
「そう悲観するものでもありませんよ、相手が悪すぎただけです」
小さく首を振るフィナシェに、アサラが優しい声で言う。
「神父様も、ご無事で何より……」
そこで、サニアはアサラの隣にいたナズルに気付いた。
「あなた、どうしてここに」
サニアは大きく飛び退くと剣を抜いた。
後ろに控えていたガルアも臨戦態勢を見せる。
「あ、説明していなかったわね。彼は味方よ」
「味方って……」
フィナシェが説明すると、サニアは明らかに困惑していた。
「あの時の女剣士か。良い腕をしていたな」
ナズルは困惑するサニアをまじまじと見て、前にヴェガの館で対峙した相手だったことを思い出す。
「色々とありましてね、彼にはここの領主に仕えてもらっていたのですよ。私達の調べでは、ここの領主は悪魔と繋がっているという疑惑がありましたから」
「そういえば、あなた達は悪魔退治……で、良かったのかしら」
サニアはフィナシェが悪魔退治だと言っていたのを思い出して、そう言った。
「ええ、あなたのことも調べはついていますよ。前当主のご令嬢のサニアさんですよね」
「そこまで知っていて……最初に出会った時は、しらばっくれていたのですか」
アサラにそう言われて、サニアは驚きと呆れが半々、といった感じで言う。
「今回の件、私達が関わっていたことはできれば伏せておきたいのですよ。ですから、あなた方がヴェガの悪政を正すために立ち上がった。そして、その結果あなたが新しい領主になる……といった筋書きを立てていたのですが」
アサラはそこで、フィナシェに視線をやった。
「まさか、私達が接触する前にフィナシェさんと知り合いになるとは思いもしませんでしたよ」
そして、何ともいえないような表情を浮かべる。
「それはありがたい話ですが。悪魔と領主が関わっていたと公表されるのがよろしくない、と」
「まあ、そんなところです。あなた方にとっても、悪い話じゃないでしょう」
それを聞いて、サニアは迷ったような顔をしていた。
「サニア様、これは悪い話ではないかと」
ガルアはサニアの耳元で囁いた。
「でも、ヴェガに従っていた人間も多数いるわ。その人達は、どうするつもりなの」
「その辺りは、おいおいとですね。それに、僅か三人で領主の館を制圧した、なんて話は誰も信じないでしょう。それよりも、あなた方が制圧したといった方が余程信憑性があります」
サニアに聞かれて、アサラはちらっとナズルの方を見る。
「相応に鍛えてやったからな。どこに行ってもそれなりにやれるだろう。何なら、ここで雇っても構わんが」
それを受けて、ナズルはそう言った。
「いえ、それは流石に……」
これにはサニアもたまらず苦笑してしまう。
「そうか。なら、俺が教皇庁で働けるように取りなすか」
サニアにやんわりと拒否されて、ナズルは少し考えてからそう言った。
「是非、そうして下さい。それから、フィナシェ」
「何かしら」
サニアに声をかけられて、フィナシェはサニアの方を見る。
「あなたには、本当にお世話になったわ。今度、手紙を書くわね。ノリマの教会で良かったかしら」
「わたしのことなんか、忘れてもいいのに」
そんなことを言われるとは思わず、フィナシェはふっと笑みをこぼしていた。
「フィナシェ様、サニア様は前領主様の後継ぎということで厳しく育てられていました。そのせいで、同年代の友人があまりいらっしゃらないのです。ですから」
フィナシェの態度が否定に見えたのか、ガルアが頼み込むように言った。
「ちょ、ちょっとガルア。別にわたしはそんなこと……」
「いいわよ。友人がいないのは、わたしも同じだし。ただ一介のシスターと町の領主様じゃ、ちょっと釣り合いが取れないかなって思っただけ」
慌てたように言うサニアに、フィナシェは笑顔で答えた。