悪魔よ私の娘を攫ってくれないか
甘い匂いがした。この匂いは大きな人間の町から仄かに漂ってくる。
少し癖のある黒い髪の男は、黒い服を着ていて闇に溶けていた。抗い難い甘美な匂いに眉を寄せ町の方を見る男の頭には、人間にはない角が生えている。細い月が薄く照らすその角は、空に向かって捻れていて刺さると痛そうだ。
人間の町には行ってはいけない。そう言われていたが、どうしてもこの匂いの正体を知りたかった男は、闇の中足を踏み出した。
暗闇に紛れ行動する事は容易く、男は誰にも見つかる事無く目的の場所まで到達した。秋風を誘う為に少し開かれた窓から、衣擦れの音すらさせずに男は建物の中へ侵入する。
部屋の中は甘い匂いが強く、自分を誘うその香りに包まれた男は頭がクラクラした。そしてその匂いの元である少女は、寝台に横たわっていた。
「……誰?」
少女のか細い声に、男はビクリと体を強ばらせた。ここまで風のように早く移動してきた者とは思えない程に、男はギクシャクと少女に近付いた。
青い顔をした少女は、薄く目を開けて申し訳無さそうな悲しい顔をした。
「ごめんなさい……。今日は体が痛くて、力を使えそうに、ないのです……。私の力を、お求めでしたら、また明日、いらして下さい……。」
弱々しく話す少女を、男は困惑した表情で見返した。苦しそうに息をし震えているこの少女は、こちらを気遣うように微笑んでいる。何故こんなにも苦しそうなのに、相手を気遣う事が出来るのか、男には分からなかった。
「分かった。また明日、来る。」
男はそれだけを言うと、また闇に紛れて消えた。少女の意識もまた、闇の中に溶けて消えた。
翌日、男は約束通りやって来た。少女は昨日よりも具合が良いらしく、窓が開いた音に反応して寝台の上で起き上がった。
「誰ですか……?」
不安そうな顔で男を見る少女の、不安そうに揺らめく青い瞳が暗い部屋の中で宝石のように輝いている。昨夜の事は覚えていないようだ。
男はこの部屋に来る前に摘んだ花を一輪少女に差し出した。この侵入者は自分を害するつもりはない、この花はそれを示しているのだろうか。それとも、警戒心を緩める為の小道具か。
自分の髪と同じ、淡い水色の花弁の可憐な花に目を丸くしながら少し考えた少女は、花を受け取りながら微笑む。
「ありがとうございます。貴方はどこかお怪我を?」
男の意図が何であれ、自分の命が使い捨ての物である事に変わりはない。ならば、いつもと同じように振舞おう。少女は微笑み男を見上げた。
「いや……。」
大胆にも侵入してきた男は口ごもる。男の答えに少女は首を傾げた。
「何処かに大変な怪我や病気を患っている方が居るのでしょうか?」
「いや。」
少女はますます首を傾げた。怪我や病気が無いのに、何故自分の元に来たのか見当がつかない。
「貴方は誰ですか?私に、どのような御用がおありですか?」
少女が居る部屋は建物の三階にあり、窓から入って来るには壁を登る必要がある。更には建物を警備している者も居て、男のように怪しい侵入者は見つかれば捕えられる。そのリスクを冒してまでこの部屋に来た男は何者なのだろう。
「俺はデネイス。お前は……。」
「あっ、失礼しました。私はアリツェといいます。体が痛みますので、座ったままの姿勢で失礼します。」
「何故、そんなに具合が悪いのだ?」
目を伏せて小さく頭を下げたアリツェに、デネイスは昨日から疑問に思っていた事を聞いた。アリツェは困ったように微笑む。
「力を使うと、このようになってしまうのです。貴方も、私の力の事を聞いて来られたのではないのですか?」
「いや。俺は甘い匂いがしたから来ただけだ。」
「甘い匂い、ですか……?」
アリツェは目を丸くして首を傾げた。アリツェは体を毎日清めているし、香水を付けたりもしていない。それに外にまで匂うなんて、どういう事なのだろう。自分の体臭はそんなにキツイのだろうかと、困惑と恥ずかしさで顔を赤くした。
「お前のその、特別な力によるものか……?」
デネイスはアリツェに近付くと手を取り手首の匂いを嗅いだ。アリツェの甘美な匂いは、デネイスを幸福感の泉に沈み込ませる。
対するアリツェは直接匂いを嗅がれ、余りの恥ずかしさに乱暴に手を振りほどいた。
「やめてください!」
真っ赤な顔をしているアリツェを、デネイスは面食らったように見返した。
「今のは無作法だったか?気を悪くしたなら悪かった。……また来る。」
気を落とし眉を下げたデネイスが開かれた窓から出て行くのを、アリツェは赤い頬を隠すように押さえて見送った。気を悪くしたのではなく、恥ずかしさと吃驚がない混ぜになっていたアリツェは、暫くの間心臓の音を煩く感じた。
アリツェは今日も、いつもと変わらない一日を過ごす。朝起きて礼拝堂でお祈りをすると朝食を食べる。そして昼まで癒しの力を求めに来た人々に力を使う。昼食をとるとまた夜まで癒しの力を使う。力を求める人が多かったり大怪我や重い病気を癒した日は、自分で歩く事も出来ず酷いと血を吐く事もあった。
聖女と呼ばれる自分に会いに来るのは、癒しの力を求めている者だけだった。だが、あの角の生えた黒ずくめの男はそうではなかった。夜、窓から侵入しては花を一輪くれ、少し話すと帰って行く。アリツェは友達が出来たみたいで、何だか嬉しかった。
デネイスと出会ってから季節が変わり、窓を閉めて過ごす夜。デネイスの訪れと共に冷たい空気が入って来て、アリツェは毛織のショールを羽織った。
「デネイス、今夜はとても冷えますね。」
アリツェの微笑みに優しい笑顔で返したデネイスは、いつものように花を一輪差し出した。その時、アリツェとデネイスの指が触れ合いアリツェはその冷たさにパッと顔を上げた。
「こんなに冷えて……!」
アリツェは枕元に用意した一輪挿しに花を差すと、布団に挟んでいた湯たんぽを出した。落ち着いた色の毛糸で編まれたカバーは、大きなロープのような交差編みの模様が編まれていた。
「デネイス、座って下さい。」
椅子を引き座ったデネイスに、アリツェは苦笑して手招きした。
「こっちです。」
デネイスは目を丸くしているが、アリツェはベッドをポンポンと叩いている。デネイスはゆっくりと立ち上がると、ぎこちない動作でベッドに腰掛けた。
満足そうにそれを見たアリツェはデネイスの膝に湯たんぽを乗せる。
「温まっていって下さいね。……デネイスの家は遠いのですか?」
「少し遠いな。寒いのは気にならないから平気だ。だが、これは温かい。」
デネイスは優しく微笑みアリツェを見た。デネイスの横顔を見ていたアリツェと目が合う。二人の距離の近さに、デネイスもアリツェも照れたように頬を赤らめた。
「……私の知らない所で風邪をひかないで下さいね。怪我にも気を付けて下さい。私はこの町から出られないので、デネイスが辛い時に癒しに行けませんから……。」
「俺は頑丈に出来てるから心配要らない。それよりも、毎日倒れるまで力を使うお前の方が心配だ。」
眉を寄せて不機嫌そうな顔でアリツェを見るデネイスの瞳は、アリツェを案じているのがアリツェにはよく分かった。アリツェは微笑むと、デネイスの手に自分の手を重ねた。先程の氷のような冷たさよりは温かくなっているが、まだ少しひんやりしている。
「毎日倒れている訳ではありませんよ。確かに力を使いすぎると辛いですが、それでも私は、貴方が傷付いた時は貴方を癒したい。貴方がいなくなるのは嫌ですから……。」
「アリツェ……。」
デネイスはアリツェの手を握り返し、もう片方の手でアリツェの頬に触れた。デネイスの瞳に熱いものが宿っているのを見て、アリツェの瞳は揺れ心臓の音が大きく跳ねた。
しかしデネイスはビクリと体を強ばらせると立ち上がり、いつものように「また来る」と言うと窓から出て行った。アリツェはドキドキしながら、ぬるくなった湯たんぽを抱き締めて目を閉じた。
季節は移ろい流れ、過ごしやすい初夏の夜。デネイスは柔らかい風と共に部屋に入って来た。その姿を見てアリツェは思わず笑ってしまう。
「デネイス、それ、もう暑いんじゃないですか?」
デネイスはアリツェから貰った手編みのマフラーを今日も首に巻いていた。アリツェが使っていた湯たんぽカバーと同じ色の毛糸で、同じ交差編みの模様が編まれたマフラーだ。
「アリツェが作ってくれたのだから、何時でも身に付けていたいんだ。」
「そう思ってくれるのは嬉しいですが、駄目です。デネイス、こっちに来て下さい。」
アリツェに近付けばマフラーを取り上げられてしまうだろう。だが、デネイスはアリツェの言葉に逆らえない。少し情けない表情をしながらデネイスはベッドに腰掛けた。そして案の定、アリツェにマフラーを取り外されてしまう。
「これは没収です。代わりにこれを。」
アリツェはデネイスに小さな小袋を手渡した。光沢のある薄い水色の布と黒い糸で作られている。
「お守りです。デネイスは何処で何をしているのか分かりませんので、安全をお祈りして作りました。」
「ありがとう、アリツェ。だが、俺の為に力を使わないでくれ……。」
デネイスは切なそうにアリツェを見つめた。しかしアリツェは怒った顔でデネイスを見返す。
「嫌よ。これは特別なお守り。貴方にしか作ってないんです。秘密にして下さいね。」
聖女の祈りが込められたお守りとあらば、求める者は多いだろう。だが今のアリツェはこれをデネイス以外に作るつもりは無かった。
アリツェの言葉は自分が彼女にとって特別な者なのだと感じさせてくれ、デネイスは胸が温かくなり微笑んだ。
「ありがとう、大切にする。」
デネイスはお守りを受け取ると壊れ物を扱うようにそっと懐に忍ばせた。
今日はアリツェに無理をさせすぎてしまった……。書斎で助任司祭であるラデクは項垂れた。聖女アリツェはラデクの一人娘である。
貧しい農家であったラデクは酷い不作の年にアリツェに癒しの力がある事に気付き、その日の食事にも困る毎日から抜け出す為にと聖女教会の戸を叩いた。そして温かい食事と教会の部屋を用意され、命の心配をする事の無い生活が出来るようになった。だがそれは、アリツェが毎日のようにギリギリまで力を搾り取られる事と引き換えだった。
その為なのか、アリツェの力は他の聖女よりも強くなっていた。他の聖女には治せない病気を癒し、傷を癒せる人数も遥かに多い。
そして最近また新たな力を得た。今日アリツェが血を吐くまで力を使う羽目になったのは、この新しい能力に貴族だけでなく王族までもが来訪するようになったからだった。
アリツェは体が弱く外出は難しい事を聞いた王族は、それでもアリツェの力にあやかりたいとわざわざ赴いたのだ。今日の夕方に王族達に力を使ったアリツェは、王族達が帰ると血を吐き意識を失った。対して王族達は、女性は透明感のある美しい肌に、絹のように輝く痛みの無い艶やかな髪を撫でながら。男性は若かりし日を思い起こさせるフサフサの髪に感激しながら帰って行った。
聖女教会はアリツェのお陰で潤っている。そして自分もアリツェのお陰で食べる事が出来ている。だが娘が苦しんでいる姿を見るのは、ラデクは辛かった。
聖女教会に入って約十年が経とうとしている。せめて五年前であれば逃げられたかも知れない。だが今となっては……教会がアリツェの利用価値を知ってしまった今……アリツェに新しい能力が開花してしまった今、そしてアリツェのその能力を貴族や王族が知ってしまった今となっては、逃げられないだろう。逃げたとしても、自分は殺されアリツェは幽閉され死ぬまで力を吸い取られる可能性が、ラデクの頭を過ぎる。外出が許されている今でさえ、貴族や王族が来ると司祭はアリツェに無理をさせるのだ。
逃げるのであれば、絶対に捕まらない策を練らねばならない。だが伝手も力も金も無い自分に、何が出来るというのだろう。
愚かだった。だがあの時二人で飢え死にするしかなかった自分に、他にどのような選択肢があっただろうか。
神よ、どうか、どうか慈悲があるのなら、あの子をここから出してやってくれ……。
ラデクが組んだ手に額を付けて神に願うと、書斎の扉が開いた。その気配にそちらを向くと、音もなく背の高い黒い男が部屋に滑り込んで来る。後ろ手で静かに扉を閉めた男は、鋭い視線をラデクに送っていた。男の頭からは捻れた二本の角が生えている。
ああ、神は私の罪をお許しにならないのだ。助けではなく、悪魔を私の元にお送りになられるとは……。ラデクがそう思い立ち上がると、悪魔はラデクに詰め寄った。
「おいお前……!何故アリツェにあそこまで力を使わせたのだ!?」
恐ろしい程に怒りに燃えている悪魔から出た言葉が、娘を気遣うものだった事に驚きラデクは目を丸くした。そして悪魔が握り締めているものが、娘がよく嬉しそうに持って来る物と同じ事に気付き安堵するように眉を下げた。
「はじめまして。貴方がアリツェの友人なのですね。私はアリツェの父、ラデクです。……今日は、娘に無理をさせてしまいました……。」
罪を告白するように視線を落として言うラデクだったが、助任司祭であるラデクがあの場で王族達や司祭に対して発言をするなど、とても出来るものでは無かった。そんな事は知る由もないデネイスは怒りからか動揺からか、花を握り締めている手を震わせた。
「あんなに力を失っていては、この花一本じゃとても足りない……。取りに戻っても、回復まで時間が足りない……。」
「この花には、魔力を回復する効果があるのですか?」
その言葉にデネイスは怒りに染まる顔をラデクに向けた。身を凍らせる程に恐ろしい顔をしているのに、この悪魔は今にも泣き出しそうだ。
「そうだ。この花は俺の故郷で多く咲いている。」
「貸して下さい。」
デネイスは不思議に思いながらも花をラデクに渡した。ラデクの手の上で、握り締められ弱々しくなっていた花は水々しく活力に溢れた姿を取り戻した。その様子に目を見張ったデネイスに、ラデクは微笑む。
「私の唯一使える魔法です。植物に少しだけ元気を与えられます。貴方が持って来た花も何輪か施療院に飾ってあります。それとこの一輪をアリツェの部屋に置いておきましょう。」
その言葉を聞いてデネイスは安心した。そのわかりやすい表情の移り変わりにラデクは目尻を下げる。
「貴方は、アリツェを大切に想ってくれているのですね。」
微笑むラデクとは裏腹に、デネイスはカッと頬を赤らめた。そしてラデクは悲しそうに俯き語り始める。
「私が不甲斐ないばかりに、娘には苦労ばかりかけています。娘は今やこの国一番の聖女です。平民でありながら、貴族から婚約の打診をされる程の、です。しかし、アリツェはこの国に居る限り、力を使い続ける事になるでしょう……。」
デネイスは婚約という言葉に固まりショックを受けていた。そしてすぐに胸の内にふつふつと怒りが込み上げる。
「ここに来る事になったのは私のせいですが……出来れば私は、アリツェに力を使う事なく暮らして欲しい。幸せに、健康に、笑って過ごして欲しいんです。」
ラデクはデネイスの顔を見上げた。先程見せた安堵の表情から、何とも凶悪な表情に変わっている。
「悪魔よ、貴方はアリツェを愛しているのでしょうか?アリツェの事を、守る事が出来るのでしょうか?」
アリツェが意識を失い倒れた事で、あんなに激怒していた男だ。アリツェに恋慕の情があるからなのだろうと、ラデクはデネイスを見る。固い表情をしているデネイスは返事をしないが、頬が赤いのを見てラデクは確信した。
「悪魔よ、私の娘を攫って下さい。アリツェはここに居ては、幸せになどなれません……。」
ラデクの頼みを、デネイスは強い瞳で受け止めた。
「良いんだな?二度と会えなくなる。だが……今すぐには無理だ。まだ迎える準備が出来ていない。……一年以内には必ず攫いに来る。」
「ありがとうございます。やはり私の祈りは神に届いたのですね。」
安心したように微笑むラデクを、デネイスは眉を顰めて見た。デネイスは自分の意思でここに来てアリツェと出会ったのだ。神に導かれたつもりは無かった。
「時々様子を見に来る。アリツェにあまり無理をさせないでくれ。」
デネイスの去り際の言葉に、ラデクは悲しそうに微笑んだ。
「私がそれを出来る立場に居れば、良かったのですがね……。」
デネイスはそれから、アリツェの元を訪れるのが間遠になった。アリツェはデネイスに会える頻度が減り寂しそうではあったが、会えた時はそれは嬉しそうに笑っていた。そして花束と呼ぶには少し寂しい五本の花を大切そうに持って来る。デネイスは来訪の頻度が減る代わりに持って来る花を少し増やしたらしい。ラデクも幸せそうな顔で花に魔法をかけてくれと頼むアリツェを、微笑ましく思っていた。
ある日の夕食後、アリツェの寝室でラデクが花に魔法をかけながら話始めた。
「アリツェ、この花を持って来る悪魔に、私も会った事があるんだ。」
ベッドに座り、マフラーを編んでいたアリツェはラデクを見上げた。悪魔と会っている事がバレて、叱られるのだろうか。それとも、もう会ってはいけないと言われるのだろうか。アリツェの顔は少し強ばっている。
そんなアリツェに、ラデクは優しく微笑む。
「彼はアリツェを大切に思っているようだね。アリツェも、そうなのかい?」
叱られるのでも、会う事を止められるのでも無く安心したアリツェだったが、ラデクの問いに恥ずかしさを覚え頬を赤らめた。そしてアリツェは無言で小さく頷いた。
「良かった。彼がアリツェを迎えに来たら、迷わず行きなさい。アリツェに婚約の打診が沢山来ていてね、今日は王族からの打診があったんだ。アリツェの体調の事を伝えてはいるんだが、司祭は乗り気でね……。」
婚約後すぐに結婚という事にはならないだろうが、デネイスはそれまでにアリツェを迎える準備が出来るのだろうか。アリツェは不安そうに瞳を揺らしラデクを見上げている。ラデクはそんなアリツェの頭を優しく撫でた。
「アリツェ、私はアリツェに幸せになって貰いたい。頼りない父親ですまなかった。アリツェの事を守れる、強い父親になれなくて、すまなかった。」
「お父さん、違う。お父さんはいつも私を守ってくれてたじゃない。ちゃんと覚えてるよ。ここに来る前、お父さんはろくに食べてないのにいつも私にご飯をくれてたの。私、お父さんが居るから頑張れるのよ。私だって、お父さんに幸せになって貰いたいの。」
「私の幸せは、お前の幸せだ。アリツェ。」
ラデクは節くれだった手でアリツェの頭をもうひと撫ですると、部屋を出て行った。アリツェはその背中を、不満そうに眉を寄せて見送った。
あの悪魔と会ってから、もうすぐ一年が経つ。悪魔は一年以内には娘を攫うと言っていたが、まだ来ていない。アリツェは結局、王弟の息子である公爵令息との婚約をした。婚姻まであと半年だが、あの悪魔は間に合うのだろうか。
「アリツェを攫いに来た。」
唐突に声を掛けられ、ラデクは驚いて顔を上げた。目の前にはあの悪魔が居る。この大きく存在感のある男にこの距離で声を掛けられるまで気付かなかった事にも、ラデクは吃驚していた。しかしその顔を綻ばせてラデクはデネイスを見上げた。
「お久しぶりです。お待ちしておりました。」
「今日、アリツェを連れて行く。探されないように細工をするが、心配するな。アリツェには傷一つ付けない。」
律儀に伝えに来たデネイスを、ラデクは信用していた。この悪魔が娘を傷付ける事は無い事位、ラデクにも分かっている。
「はい。無事に攫って行って下さい。くれぐれも娘を幸せに……。貴方に託します。不甲斐ない父親で申し訳無かったと、娘に伝えて下さい……。」
デネイスは頷くと、書斎を出て行った。ラデクは別れの挨拶をする事も出来ないが、愛する娘の幸せを願った。
いつものように窓から侵入して来たデネイスが、アリツェには緊張しているように見えた。今日の体調がいつもより悪く、薄らとしか目を開いていられないせいかも知れない。アリツェの若返りの能力を受けた者達は、小さな皺一本で、たった一本の白髪で、アリツェを頼りに訪れるようになってしまった。今日もアリツェは、そんな貴族達に力を使い青い顔をしている。
「アリツェ、大丈夫か……?」
デネイスはアリツェの顔色を見て気遣わしげに枕元に近付いた。アリツェは力無くデネイスの方へ顔を向けると、白くなってしまっている唇をゆっくりと動かして声を出した。
「デネイス……大丈夫……。あんまり、痛くはないので……。」
アリツェは微笑もうとしたが、上手く笑えずに目を細めただけだった。そんなアリツェの頭を、デネイスは沈痛な面持ちで撫でる。大きくて暖かいデネイスの手は、優しくて気持ちが良い。アリツェの口元は自然と柔らかい弧を描いた。
「アリツェ、今日はお前を迎えに来たんだ。これ以上ここに置いておけない。本当はもっと早く来たかったんだが、時間がかかってしまった……。」
「え……?」
ぼんやりとアリツェが聞き返したが、デネイスは答えずにアリツェを優しく抱き上げた。
「寝ていると良い。」
デネイスの優しい声と抱き上げられているふわふわとした感覚が心地好く、アリツェの意識は微睡みに沈んでいった。
アリツェは目を覚ますと、見知らぬ天井に目を瞬かせた。薄暗い部屋は広く、自分が横になっているベッドも広かった。ベッドの脇にはアームチェアに座り居眠りをしているデネイスが見え、アリツェは微笑んだ。
ナイトテーブルには、いつもデネイスが持って来てくれた花が綺麗に生けられている。父親が、この花は魔力を回復させる力があると言っていた。アリツェは、デネイスが自分の為にこれを用意してくれた事に胸が温かくなるのを感じた。
アリツェがデネイスの寝顔を見ていると、デネイスの目が薄く開いた。そしてゆっくりと瞼が上がると、アリツェに気付き柔らかく微笑んだ。
「起きてたのか……。おはよう。よく眠れたか?」
「ええ。お陰様でぐっすり眠れました。ベッドを占領してしまって、ごめんなさい……。」
眉を下げて謝るアリツェに、デネイスは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「許可無く触れては、また怒られてしまうからな。」
アリツェはデネイスと初めて会った夜を思い出し笑った。そして上がっていた口角を引き結ぶと、デネイスを見上げた。
「デネイス、ここは何処なのですか?私は何故ここに?」
「ここは魔王の支配する国だ。この城は俺の領土にある城で、この領土は人間の国に隣接している。アリツェを連れて来たのは俺がお前を望んだからだ。アリツェの父親も了解している。」
デネイスの言葉にアリツェは瞳を揺らした。
「父は……父は無事なのでしょうか?」
「それは分からない……。」
デネイスの答えに、アリツェは不安そうに眉を下げた。
その頃ラデクはアリツェの部屋で驚き立ち竦んでいた。デネイスは細工をすると言っていたが、まさかここまでやるとは思っていなかった。
朝、いつもの時間に礼拝堂に来ないアリツェを心配した信徒に言われて部屋に入ると、血塗れのベッドが目に入ってきた。ぐっしょりと布団を赤黒く濡らしたそれは、床にまで滴っている。その血の量は凄まじく、アリツェの体が全て血になってしまったかのようだった。
一緒に来た信徒はその惨劇に目を見張り、口を押さえてトイレへ走って行った。彼はアリツェに好意を寄せていたようだから、ショックも大きいだろう。
部屋は片付けられ清められたが、教会関係者達は皆沈んでいた。国一番の力を持つ聖女を酷使した事で、その聖女は惨たらしい最期を遂げたのだ。
司祭はこれからの聖女の在り方、聖女の頼り方を改めなければならないと宣言した。
帰る家の無い娘だからとアリツェを酷使しておいて……!ラデクは何を今更言うのかと、胸の内では憤怒していたがその怒りを俯いてやり過ごした。
聖女の葬儀の数日後、ラデクは聖女教会を出る事になった。アリツェが居たから助任司祭になれたのだから、アリツェが居なくなってしまった今はその立場を維持する事は出来ない。それに、ラデクはこれ以上ここに居たくはなかった。
少ない金銭と私物を手に、ラデクは幼いアリツェと亡き妻と三人で暮らしていた村を目指した。
寒い夜だった。冬の夜を外で過ごすには薄すぎる服を着たラデクは、木の根元で丸くなっていた。足や手を擦り合わせ、時折吐く息で手を温めている。
あと少しで亡き妻の眠る地に辿り着く。それまで、それまでで良い……。
震えて丸くなっていたラデクだったが、急に身体の内側から温かさが広がるのを感じ顔を上げた。目の前には、今にも涙を零しそうなアリツェの顔があった。
「もうお迎えが来たのかな……?せめて、妻の元で逝きたかったのだが……。」
ラデクが微かに笑うと、アリツェは顔を歪めて涙を流した。
「馬鹿!お父さん……!心配したんだから!探したんだから!こんな所で……!」
アリツェは泣きながらラデクに縋った。目の前のアリツェが、迎えの天使では無く本物の娘だという事に目を丸くしたラデクは、困ったように微笑むとアリツェを抱き返した。
「アリツェ……、また会えるとは思わなかった。元気そうで何よりだ。」
「もう、今は私の事は良いから。少し休んで……。」
アリツェがラデクの目元を隠すように触れると、ラデクはそのまま眠りについた。デネイスは怒っているようなアリツェの泣き顔を苦笑いで見ていた。
ラデクの体調はすぐに良くなった。アリツェがラデクの寝ている間に力を使い回復させたからだ。ラデクは広いデネイスの城での生活は居心地が悪そうだった。今まで教会で質素に暮らしていたのに、急に広い部屋に高い天井の部屋に越してきたのだ。しかも使用人は皆悪魔。中々慣れる事が出来ないようだった。
太い角の生えた使用人が丁寧にお茶を淹れるのを、体を強ばらせてラデクは見ている。まだ慣れないのかと、デネイスは呆れたように笑った。悪魔の威圧感に慣れないラデクは使用人が部屋を出ると、ホッとしたようにお茶を飲んだ。
「やはり私は、人間の町で暮らす方が良いですね……。」
「アリツェが嫌がるのではないか?」
「折角の新婚なのですから、私はお邪魔でしょう。」
揶揄うように笑ったデネイスに対し、爽やかな笑顔でラデクは返した。デネイスは窓から淡い水色の花が植えられた花壇に居る、花と同じ髪色の妻を愛しい瞳で見下ろした。
「俺は別に、アリツェがここに居てくれるのなら二人きりでなくても構わない。」
「やはり貴方は、神が遣わしてくれたのでしょうね。」
「何を言うか。俺は俺の為に行動しただけだ。」
不機嫌そうに眉を寄せるデネイスを、ラデクは微笑ましい瞳で見つめた。デネイスは、アリツェを迎える為に魔王に挑んだと言う。そして魔王を打ち負かし、人間を伴侶に迎える許可を得た。デネイスはアリツェを手に入れる為にしただけなのだが、お陰でアリツェは毎日倒れる事無く過ごせている。
優しい瞳でアリツェを見下ろしていたデネイスは、窓を開けると軽やかに庭に降りた。デネイスに気付いたアリツェは嬉しそうに微笑みデネイスに寄り添う。二人の甘い空気に溜息混じりに微笑んだラデクは静かに窓を閉めた。
悪魔の男と聖女は愛し合い幸せに暮らしている。やはり神が二人を巡り合わせてくれたのだと、カップを傾けながらラデクは神に感謝した。
お読み頂きありがとうございました。