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王子様に命を助けてもらったので、身を削って尽くしたのに、捨てられてしまうなんてあんまりです

作者: 十川 夏炉

 まだ肌寒い春の海で、プリシラは泳いでいました。冷たい海の中に流れる細く温かな潮流に身を任せ、春の訪れをくねらせた細長い体とうろこで感じていました。


 見上げる水面はキラキラと日の光を反射します。

 目がくらむまぶしさに、プリシラは目を細めました。


 つい一時間前に母君と喧嘩をして飛び出してきた宮殿は、はるか海の底にあります。いつでも黒く冷たい水がゆっくりと流れ、見回りをしているアンコウの頭の灯りが宮殿をぼんやりと照らすのです。


 プリシラの父君は海神王で、母君との間に百八人の子供がいます。顔と名前を覚えることさえ大変な数の兄弟姉妹たちに囲まれ、プリシラはいつでも自分のいる場所がないと感じていました。


 大きく立派な兄上、優しく美しい姉上、小さく元気な弟、幼く愛らしい妹。たくさんの兄弟たちはそれぞれに特徴があって魅力的なのに、プリシラには取り立てて優れたところも、愛らしいところもないのです。


 ――どうしてお父様とお母様は私に特別な何かを与えてくださらなかったのかしら


 プリシラは悲しくそう思いながら、海の水面に顔を出しました。青い波が果てしなく丸い水平線まで続きます。遠くに小さく岸が見えました。陸では人間たちが暮らしています。


 母君は人間は四六時中お互いに殺し合っている恐ろしい生き物だから近づいてはいけないとおっしゃいます。でも、沖合からプリシラが岸を眺めると、人間たちはいつでも楽しそうに笑いながら、歌いながら磯で魚を取り、海藻を干しているのでした。


 ――どうせ私がいなくってもお父様もお母様も気づかないでしょう


 プリシラはそう思って、思い切り遠くまで流れに任せて泳いでいこうと思いました。温かいこの流れは海のどこへ続くのでしょうか。南から北へ、北から西へと大海原をぐるりと一周すれば、どれほど気持ちが良いでしょう。


 暖流に身を任せ、一緒に泳ぐ魚たちとプリシラは笑い合いました。楽しく泳いで魚たちと浮いたり、沈んだりを繰り返します。そのとき、タチウオが勢いよく水面の上に跳ねました。飛び上がって宙をびゅんと飛び、空気を切ってまた海に落ちます。


 一匹が飛ぶと、我も我もと次々とタチウオたちが飛び跳ねました。飛ぶ衝撃、落ちる衝撃で海面にたくさんの小さな白い波が立ちます。体の周りであちらこちらから白い泡が弾けます。プリシラは楽しくなって、タチウオに負けないように思い切り飛びました。


 空は青く、海は緑で、空気は柔らかく、海面を飛び跳ねしぶきを上げると、とても気持ちが良くなりました。


 笑いながら何度も跳ねていたプリシラは、突然、硬い何かに叩きつけられました。衝撃に体が何度も痙攣します。一体何が起こったのでしょうか。




***




 デズモンドは、魚の白い腹が反射する光に目を細め、手をかざしました。


「やあ、今日は良い天気だ」


 順風を受け、白い波しぶきをあげながら船は海を滑るように走ります。沖合から岸へ戻るデズモンドを出迎えるように、タチウオの大群が船の周りで泳ぎ、波から波へと飛んでいました。


「春の貿易風が来たな」


 空をあおぎ、デズモンドは嬉しそうに笑いました。海が荒れる冬は、船を出すことが難しいのです。


 そのとき、白い波間からひと際高く飛び上がった輝く魚が船の甲板の上に勢いよく落ちました。


「あっ、なんだ、これは」


 走り寄ったデズモンドは、その魚を見て驚きました。

 タチウオではなかったのです。


 七色に輝くうろこを持ったウミヘビのようでした。


 その全身を覆ううろこは親指の爪ほどの大きさがあり、日の光に不思議な輝きを放ちます。甲板の上で苦しそうにのたうち回るウミヘビは、デズモンドの腕よりも長く太く、明らかに普通のものではありませでした。


「これはまさか海神の一族でいらっしゃいますか。私はノーザンブリア王国の王子、デズモンドと申します。どうぞご安全に海にお帰りください」


 できる限り優しくその体を両手で持ち上げると、デズモンドはウミヘビを海に投げ入れました。


 高いしぶきを上げてウミヘビは海に消えました。


 良いことをしたとデズモンドが微笑む目の先で、波の間から、若い女性の顔が現れました。


「お助け下さりありがとうございます、デズモンド王子。私は海神の娘、プリシラと申します。ノーザンブリア王国の末永きご繁栄をお祈り申し上げます」


 その顔の美しさ、声の愛らしさにデズモンドは目を見張りました。


「あなたは先ほどのウミヘビですか。なんとお美しい。プリシラ、またお会いできるでしょうか」


 プリシラは驚きました。

 美しいなどと褒められたことは初めてだったのです。


「まあ、嬉しがらせを仰ってくださいます」


 恥ずかしさに顔を手で覆ったプリシラに、デズモンドは熱心に言いつのりました。


「いえ、私は本心から申し上げております。どうぞその愛らしいお顔を私に見せてください。あなたの瞳をこちらに向けてはいただけませんか。ああ、なんてきれいな青い目でしょう。私のような日に焼けた黒い男を見たせいで曇ってしまわなければ良いのですが」


 プリシラは思わず笑ってしまいました。


「ああ、そのえくぼも愛らしい。プリシラ、私の恋人としてこのまま王宮に来てはいただけませんか」


 驚いてプリシラは目を見開きました。


「まあ、ご冗談でしょう」


「いいえ、冗談などではありません。あなたのような美しい人を前にして、恋に落ちない男などいるでしょうか。どうか、プリシラ、私の心を信じてください。何よりも大切にいたします」


 デズモンドは船から海に、日に焼けたたくましい腕を伸ばしました。


 ためらいながらプリシラがその手を取ろうとしたそのとき、


 ――なりません! プリシラ!


 母君の声が、プリシラの頭に雷のように響きました。


 ――人間の言葉など信じてはいけません。すぐに宮殿に戻ってきなさい!


 百八人いる兄弟姉妹たちは、みんな好き好きに恋人を作っています。なぜプリシラだけが、それをしてはいけないのでしょうか。


 ――お母様はいつも私のことなんて気にもかけていないのに、珍しく声をかけてくださると思えば叱るばかり。一度だってほめてくださったこともないのに。


 そう思ったプリシラは、デズモンドの手を取りました。


「デズモンド王子、私、王宮に参ります」


 デズモンドは強くプリシラの手を握り、喜びにあふれた顔でプリシラを見つめました。


「プリシラ、ありがとう。今日は私の人生で一番素晴らしい日になりました。これほど美しく愛らしい恋人に会えるとは!」


 船に引き上げられた途端に、力強く抱きしめられ、プリシラは天にも昇る心地がしました。




***




 ノーザンブリア王国の王宮は、海を抱き込むような丸い海岸に建っていました。大きな白い宮殿は、青い海からひときわ美しく見えました。


 その王宮の一室、大きな窓のある部屋でプリシラは暮らしていました。窓の下には穏やかなさざ波が打ち寄せます。


 海底の宮殿を離れて一ヶ月が経っていました。デズモンドはその言葉の通りプリシラを大切な恋人として愛してくれました。生まれて初めて、誰かの特別な一人になれたことにプリシラは限りない喜びを感じていました。


 王宮の暮らしは慣れないことばかりでしたが、窓から広がる潮の香りが、打ち寄せる波の音がプリシラの心を落ち着かせてくれました。


「プリシラ、少しいいかい」


 部屋に入ってきたのはデズモンドです。

 窓際の椅子に座っていたプリシラは弾けるような笑みを浮かべ、立ち上がって恋人を迎えました。


 プリシラの黒い髪が、窓からの光を受け七色に輝きます。デズモンドは嬉しそうに目を細めてそれを見ました。


「ああ、プリシラ、君の髪は本当に美しい」


 デズモンドはプリシラの髪を一筋手に取って、口づけました。


「デズモンド、どうしたのですか、その格好は」


 プリシラは心配そうに眉を寄せて恋人を見上げました。デズモンドは鎧を着ていたのです。


「プリシラ、私はこれから戦いに行かなくてはいけない。ウェスタンブリア王国が、我々の国の船を襲ったんだ。このままでは貿易ができなくなる。奴らの船を叩きのめさないといけない」


 あまりのことにプリシラは震えました。


「戦うのですか。デズモンド、怪我をしませんか、大丈夫でしょうか」


 青い顔できくプリシラに、デズモンドは苦笑しました。


「ああ、プリシラ、怪我で済んだらいい方だ。下手をすると命を落として帰ってこれなくなるかもしれない。だからね、そのときは君は海に帰ったほうがいい」


「そんな!」


 プリシラは悲鳴を上げました。

 戦うなんて、海の底ではありません。

 一体なぜそんなことをしなければいけないのか、彼女にはわかりませんでした。


「あなたが怪我をすると思うだけで震えるほど恐ろしいのに、もしも命までと思うと、立っていることもできません」


 プリシラは目に涙を浮かべてデズモンドの手を握りしめました。


「私、私のうろこを使います。これを使えば、波を起こせます。あなたの敵の船を沈めましょう。だからどうか無事で帰ってきてください」


 デズモンドは驚いて恋人を見ました。


「そんなことができるのか。君はなんて素晴らしい人なんだ」


 プリシラにそんな力があるとは知らなかったデズモンドは、驚きと喜びに震えて恋人を抱きしめました。




***




 月が夜空の頂点にまで昇っていました。

 穏やかな黒い海面に、月の姿がくっきりと浮かんでいました。


 二つの月の光の中で、プリシラはその姿を人から蛇に変じました。月光を柔らかく虹色にはじくうろこの一枚をはぎとります。


 刺すような痛みが体に走りました。

 悲鳴をこらえ、プリシラは人の姿に戻ります。

 

 痛みに涙を浮かべた目で、プリシラは夜の黒い海を見つめ、うろこを静かに流しました。


 波の上で月の光を二回、三回と反射して、うろこは海に沈みました。




***




 船の甲板で、デズモンドは海を見ていました。

 中天に輝く月の明かりが、穏やかな夜の海を照らしていました。


 明日には、ウェスタンブリア王国の船団とぶつかると思われました。戦いの予感に、眠れない興奮を覚えてデズモンドは甲板にたたずんでいたのです。


 そのとき突然、海が盛り上がりました。

 デズモンドの乗る船も大きく揺れます。

 デズモンドは船べりにつかまって、体を支えました。


 海の真ん中で盛り上がった波は、恐ろしい音をたててウェスタンブリア王国の船団がいると思われる方向に押し寄せていきました。


 不思議なことにデズモンドの船の方向に、高波は来ませんでした。


「プリシラか」


 デズモンドは呆然とそうつぶやいて、黒い海を見つめました。


 真夜中に突然高波に襲われたウェスタンブリア王国の船団がどうなるかは、火を見るより明らかでした。


 デズモンドは、敵の船の残骸を海の上で確認した後、傷一つなく王宮に帰りました。

 




***




 それから三年の月日が経ちました。


 ノーザンブリア王国とウェスタンブリア王国が戦いとなるたびに、デズモンドはプリシラにその力を乞いました。


 ノーザンブリア王国を攻撃しようとするたびに、とてつもない荒波で船が沈められてしまいます。それはウェスタンブリア王国だけではなく、他の海賊たちも同様でした。


 いつの間にかノーザンブリア王国は、海神に守られた国だと噂が立ちました。


 ある日、デズモンドはいつものようにプリシラの部屋へ行きました。


「プリシラ、ご機嫌はいかがかな。またお願いがあるんだ」


 窓際の椅子に座ったプリシラは、力なくデズモンドを見上げました。


「デズモンド、何でしょうか」


 にっこりと笑いデズモンドはプリシラの細く骨ばった手を取りました。


「今度、海賊退治に出かけるんだ。君の力で海賊の船を沈めてくれないかい」


 痛みをこらえるような顔で、プリシラはデズモンドを見上げました。


「あの、その、デズモンド、どうしてもやらなければいけませんか。あなたの兵隊の力では駄目なのでしょうか」


 おどおどとそういうプリシラの黒い髪は、日の光を受けても鈍くくすんだままでした。


 デズモンドはいったいプリシラのどこが良くて、あれほど激しい恋に落ちたのかと、自分でも不思議になりました。


「ねえ、プリシラ。君は僕が死んでもいいのかい。こんなに君を愛しているのに」


 両手で力強くプリシラの手を握りしめ、デズモンドは熱く愛情にあふれた目で彼女を強く見つめました。


 恋人の言葉に、そのまなざしに、プリシラは震えました。


「いえ、いえ、デズモンド、死なないで。私にはあなただけなのです」


 満足げに頷くと、デズモンドはプリシラを抱き寄せてそのこめかみに口づけました。


「ああ、プリシラ、君は素晴らしい恋人だ。愛しているよ」


 デズモンドはとろけるような笑顔でプリシラを見つめました。


 彼はプリシラに言わなかったことがあります。


 長年の敵国、ウェスタンブリア王国がこの三年、次々と船を失ったため、戦うことができなくなりました。ノーザンブリア王国と和解のために王女をデズモンドの花嫁として送ることになったのです。




***




 その夜、プリシラは一人、暗い窓辺にいました。

 

 見上げる月は、三年前と何一つ変わりません。

 冴え冴えとした美しいその姿を見上げ、プリシラは一筋涙を流しました。


 プリシラがその身を蛇に変じると、彼女の体にはうろこがもうわずかに一枚しか残っていませんでした。光輝くうろこのないその姿は、地上の蛇にも劣る醜さでした。


 このうろこを使ってしまえば、もうデズモンドの願いに応えることはできません。


 恋人の愛情を失うつらさと、自分の愚かさに、プリシラはまた一つ涙を落としました。


 痛みをこらえ、最後の一枚のうろこをはぐと、プリシラはそれを海に流しました。


 そのうろこが月光にきらめいて、波間に沈むのを見送ると、プリシラは静かにその身を海に投げました。


 うろこのない体は、浮くことも泳ぐこともできず、ゆらゆらと海底に沈んでいきます。


 遠くなる意識の中で、プリシラは母君に許しを請いました。


 ――お母様、ごめんなさい


 海の底に流れる海流は、ゆっくりと優しく、プリシラの体を運びました。浅瀬から沖合へ、沖から更に深海へ。


 海神妃は、水底の宮殿で娘の亡骸を抱きしめました。


 ――あわれ、愚かな子ほどかわいいとは言うものの。


 その涙は、ただ一人、プリシラのために流されました。




***




 デズモンドはプリシラが消えたことに驚きました。王宮中を探しましたが、彼女の姿はどこにも見当たりませんでした。


 海に帰ったのかと、デズモンドは残念に思いました。プリシラの力があればこそ、この三年、ノーザンブリア王国は海の上で敵国にも、海賊にも負けることがなかったのです。


 しかし、宿敵のウェスタンブリア王国とは和平を結ぶのでもうプリシラがいなくてもなんとかなるだろうとも思いました。花嫁を迎える前に、プリシラと別れる必要があったので好都合でもありました。


 一ヶ月後、デズモンドが乗った船がウェスタンブリア王国に向かいました。和平の式典を行い、花嫁を連れてノーザンブリア王国に帰る途中のことでした。


 デズモンドの船が真夜中、突然の高波に襲われ、船は真っ二つに割れて海の底へと沈みました。


 二つの王国の人々は、王子と姫を海に探しましたが、亡骸はもちろん、服も、靴も何一つ見つかりませんでした。




 





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[一言] ギリシャ神話なら最後に憐れんでゼウスがプリシラを星座にしそうなお話
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