春来たる
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雨がよく降っていた。その強さは、遠くがぼやけて見えないくらいだった。
「雨脚が強くなって来たね」
と、彼女が言う。彼は「そうだね」、と無難に答える。
まだ肌寒さの残る春先。空にはびこる雨雲は北風で運ばれた、遅れてやって来た冬の雲だった。冷たい風が、萌え出た芽の上を悪意たっぷりに吹き渡る。
「いつ治まるんだろう?」
「さぁ、どうだろうね」
彼は空を見上げ、様子を窺った。彼の目は、強固な空の盾を捉え、その銀灰色におのれの憂愁を重ねた。
「あの空模様じゃ、後十分は、続きそうな感じがする」
「十分? ふうん」
二人は雨宿りをしていた。その場所は或る広場のあずまやの中だった。円状に立つ何本かの柱の上に屋根があるばかりの、簡易な造りのあずまや。
クシュン。
季節外れの寒さのためか、彼女がくしゃみをする。やけに整然としたくしゃみだった。
「寒い?」
「うん、ちょっとね」
屋根の下の小さな薄暗いスペース。その中で、彼と彼女は、何か遠慮があるのか、両端に目いっぱい離れて、向かい合って、俯き気味に立っている。あたかもこの雨下、ぐうぜん遭遇したかのように。他人のように。
だが、彼等が身にまとう制服を見れば、彼等が同じ学校に通っていることが分かるし、加えて、同じ学年であり、そしてひょっとすると、同じクラスにいるのかも知れないという憶測も出来る。
遠雷がゴロゴロと唸り声を上げる。不穏な気配が辺りに漂う。
「雷……」、と彼女。
「苦手だったり、する?」
「ううん、別に」
そしてクシュン、と鼻を両手で庇うように、再び、整然とくしゃみする。
「はぁ」
疲れとイライラを帯びたため息。彼女は俯き気味の顔をさっと上げた。
彼はその、目が相変わらず下を向いている顔をしかと見てみた。目がみょうにキリッとしている。また、鼻が赤みを帯びている。鼻に何べんも触れたせいだ。苛立っているに違いない、よほど具合が悪いのだろう。そう彼は確信するような気がした。
「鼻、だいじょうぶ? くしゃみ、止まらないみたいだけど」
彼女は力無く苦笑いをこぼす。
「まぁ……ちょっとね」
そして、彼女は微笑する。微笑よりもう少し微かな、目を凝らさないと無表情と見間違うほど微弱な笑みである。
その笑みが、ちょっと驚いた表情に一転する。彼女は目下にポケットティッシュを見る。彼が気を利かせて差し出してくれたのだ。
「あぁ、ありがとう」
「うん」
《どういたしまして》、と言わない辺り、何かこそばゆい感情が青年の胸にわだかまっていることが察せられる。
彼は、照れくさそうに、そっぽを向いている。彼女は貰ったティッシュでチンと鼻をかむ。
遠雷はもう聞こえなくなった。そして心なしか、空の雨雲による暗さがいくぶん弱くなったようだ。
「……」
彼女は押し黙る。
「……」
彼も、そう。時々、わざとらしいせきをするくらいで。何か考え事でもするように、難しい顔でそっぽを向いているのだった。
雨脚が、次第に遠のく。十分、彼が憶測したくらいの時間が、既に経過していた。
やがて、空が構えていた盾を引っ込め、笑顔を輝かせる。空には一輪の真っ赤な花。太陽。
◇
「それじゃ」、と片手をカジュアルに上げて、後ろを振り返って彼。ある辻で、別れの時が来たのだった。
「またね」
「うんっ」
そう短く、冷めた風な笑顔で答える彼女。彼女がお腹の辺りで組む、ブレザーの袖に半分隠れた手の片方には、あのポケットティッシュ。見ると、もう鼻の赤みは引いていた。笑顔は冷めていたが、心臓は溌溂として鼓動を打っていた。
遅れて来た冬の雲はその日のものが最後だった。冷たい風は最早やって来なかった。萌出した緑は目一杯春を呼び寄せた。蕾が膨らみ、花が咲き乱れた。
彼等の恋の蕾も膨らんでいた。
さて、その蕾は爛漫とその花びらを広げたのだろうか、それとも、閉じることなくその命を絶やしたのだろうか。
結末を知るのは唯一、花達の母である春の日ばかりだった。
***