表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
これは君のパラミシア  作者: 御乃咲 司
第二節『これは死を纏う宴の奉り』
99/323

96.月を司りし女神


「この御方が――女神アルテミス様です」


 クローフィの澄んだ声が静かに響き渡った瞬間、ロウたちは咄嗟に、スキアたちの後ろで片膝をついた。

 意図してそうしようと思ったわけではない。ただ自然と、まるで脊髄反射のように体が勝手に動いていた。


「ようこそ、月の都へ。私はセレノ・アルテミス。皆さんを歓迎いたします」


 響いた女神の静かな声は耳に残りつつ、心に響く壮麗な音だった。

 とても薄い金色の長い髪は首元で結わえられ、まるで淡い月が光河となったかの如く艶やかに流れている。

 その双眸は穏やかでありつつも金針水晶のような煌めきを放ち、その中に潜む荘厳たる光に思わず息を飲んでしまうのも無理はない。

 特に飾り立てしているわけでもなく、身に纏っているのはただの白く清楚な裾の長いドレスだ。しかし、あまりに整ったその顔立ちと相まって、まさに絵になるような美しさだった。


 クローフィとリコスがゆっくりと歩を進め、まるでそこが定位置であるかのようにセレノの左右に立つと、顔を伏せたままのロウたちへと振り返った。

 そんな彼女たちにセレノは労いの言葉をかけ、次にスキアたちにもその有り難い言葉をかけると、次出た言葉はロウたちに向けられたものだった。


「皆さん、どうぞ楽にしてください」


 ロウたちがそっと面を上げる。

 すると、ロウの視線がアルテミスの視線と交わった。


「……ロウ。そのお面を外して頂けますか?」

「はい」


 言われた通り、静かな動作でお面を外して床に置くと、


「お帰りなさい、ロウ」


 端麗な顔が浮かべた優しい微笑み。

 その微笑みを見た瞬間、誰もが心を奪われたように見とれてしまうことだろう。時の止まったような錯覚に陥る中、そのときあった思考でさも霧散し溶けていくに違ない。だが――ロウが受けた感覚はそんなものではなかった。


 まるで心臓を鷲掴みされたかのように胸が苦しくなり、奥底から込み上げる懐かしさが、胸をきりきりと締め付けていく。


 この神都に来てからというもの何度も訪れる既視感に対し、ロウには確かに実感していることがあった。

 自分はここにいたのだと。確かにここで生きていたのだと。


 しかし何一つ思い出すことができないロウは、このセレノの言葉に、なんと返答していいのかわからなかった。

 すると、それを察したセレノが小さく苦笑しながら……


「すみません。まだ思い出してもいないというのに、少し気が急いてしまいましたね」 

「い、いえ」

 

 神々しさの中に一瞬、人の温かみをセレノはその表情をすっと元に戻すと、静かでありながらもよく通る声で問いかける。


「では、早速本題に入りましょう。ロウの記憶に関することで、あなた方はここへ来たのですね?」

「はい。ですが、それだけではありません。世界のこと、ルインのこと、降魔こうまのこと、魔門ゲートのこと。何から聞いていいものか……知りたいことは山ほどあります」


 この世界は、ロウたちの知るものとまったく違っていた。

 今までいったい、どれだけ閉じた世界の中にいたのか。

 聞きたいこと、知りたいことは確かに山ほどあるが、ありすぎて質問を纏めることさえ難しい。どこから整理していいものか、それすらわからないほどだ。


 しかしそんなロウたちの懸念も、セレノはゆっくりと首を左右に振り……


「残念ですが、ここですべてをお教えするわけにはいきません。今はまだ、そのときではないのです」

「それにも俺の記憶が関係している、と?」


 真剣な瞳を浮かべたまま、音も無く頷いたその姿からは、今無理に聞こうとしても答えてくれないというのが伝わってくる。焦りは禁物ということだろうか。

 幸い、心配だったミソロギアやクレイオの魔門についてはこの国が守ってくれるということだ。

 ならば、確かに焦って事を仕損じるより、ここは大人しく従ったほうが懸命だろう。 

 

「わかりました。では一つ、お願いがあります」

「私に……ですか」


 最初、セレノは驚いたように僅かに目を開いたが、それも一瞬のことだった。

 女神に願いなどと平然と言ってのけた態度に驚いたのか、それとも……。


「世界を救うため――力を貸して頂きたい」


 深閑しんかんとした謁見の間にて、ロウは深く頭を下げた。

 たった一言……いや、それ以上の言葉など必要ないと言わんばかりに、内なる想いをすべて込め、熱を宿した音をセレノへとぶつける。

 対してセレノはそのすべてを見透かすように、真っ直ぐとロウを見据えていた。

 僅かな淀みも、嘘偽りもない、確かな覚悟を秘めたその姿を。


 ロウに続いて、シンカたちも深く頭を下げるものの、なかなか返事はない。

 確かにそう簡単なことではないだろう。

 この外界の現状はわからないが、国同士の溝を埋めるというのは生半可な事ではない。夢想だと言われても仕方がないだろう。


 だが、無理も無謀も無茶も承知の上だ。

 辛苦や苦難が伴い、それが如何に至難であるかもわかっている。

 それでも退くことなどできず、進む以外の選択肢などありはしない。

 

 顔を伏せていたロウたちにはわからなかっただろう。

 今このとき、月国の女神たるセレノ・アルテミスの浮かべた表情を。

 それに気付いたのは隣にいたクローフィとリコスだけだが、次にセレノの口から出た音によって、ロウたちもそれを知ることになる。


 それは返答ではなく、控えめではあるが、くすくすとした小さな笑い声だった。


 ロウの切なる願いを笑うセレノに、シンカは拳を強く握り締めた。

 たとえ相手が女神でも、誰だあったとしても、真剣に願った相手を笑っていいはずがない。

 ぎりっと歯を噛み、何か一言でも言ってやろうとシンカが顔を上げると……


「すみません。ロウの言ったことを、馬鹿にして笑ったわけではないのです」


 そう言って浮かべた表情は、まるで女神とは感じさせないほどに、嬉しさを同居させた困ったような優しい微笑みだった。


「ただ、私にその願いを叶えることはできません」


 そのきっぱりとした答えに、スキアたちはやっぱりというように眉を寄せた。

 国が不仲なことには当然理由がある。そうそう手を取り合うことなどできるはずがないのだ。

 特にスキアたちは不仲である理由を知っているのだから、半ばそれは不可能だと確信していた。それだけ国同士の溝は深いのだ。

 争いになっていないことが、むしろ幸いだと思えるほどに。


 セレノは皆を一瞥すると、過去の思い出を振り返るように両眼を瞑った。


「ロウという人は、法に準ずる誠実な人でした。ですが、目的を成すためにはその隙間に目を光らせる狼のように鋭い眼光と、それに食らいつく鋭い牙を持っていました。そしてその存在は朧で、本当に掴みどころのない人でした」


 懐かしさに浸るような柔らかな声。

 そっと両眼を開いたセレノの浮かべた表情は、とても温かいものだった。


「自らの成すべき事を成すと決めたロウは、周りが何を言っても無駄です。貴方は私が今のように否定しても、諦めるつもりはないのでしょう? それをわかっている私たちにそうやって頭を下げる貴方は、やはり記憶が無いのだと実感させられます。それと同時に、やはり貴方は何も変わらずロウなのだと、そう安心させられました」


 この人はいったい、どれほど自分のことを知っているというのか。

 セレノの言葉は大袈裟でもなんでもなく、本当にすべてを知っているかのように聞こえる。

 自分はここで何をして生き、何を成そうとしていたのか。


 つまり、その答えを持っているのもまた、彼女なのだろう。そして――


「ロウ……私にそれを成す事はできませんが、貴方ならそれを成す事ができるかもしれません」

「どういうことですか?」


「――記憶を失う前の貴方も、それを望んでいたからです」


 それはロウの胸をより熱くさせる言葉であり、最初から不安に思う必要などなかったのだと、ロウは気付かされた。

 覚悟を決める瞬間まで抱いていた悩みや不安は、皆に掛かる危険リスクだけではない。

 自分が自分で居続けることができるのか、ということでもあった。

 

 記憶とは本来、その人がその人であるための核だ。

 これまでの経験や境遇が糧なり、その人を形作っていく。

 極論として、仮に赤子からやり直した場合、将来同じ人格になるとは限らないということだ。……カグラが握ったロウの手の震えの理由はそれだった。

 

 もし忘れてしまった記憶を取り戻したとして、今と同じ意思を抱き続けることができるのか。過去の自分に、呑み込まれてしまうのではないか、と。


 つまり、記憶を失う前の自分も同じ想い胸に秘めていたということは、記憶を取り戻しても自分は変わらず今の想いを抱き続けていけるという確かな証。

 最初から、迷う必要などなかったのだ。 


「ですので、まずは記憶を取り戻して下さい。私とて世界を救いたいと願う気持ちは……ずっと、貴方と共にあったのですから」


 そう微笑むセレノは、まるで母親のような温かさがあった。

 にもかかわらず、ロウが抱いたのはとても言葉には出せない感情だった。

 無礼、不遜、不躾……女神に対してあまりにも烏滸おこがましい不敬な想い。


 実際のところ、本当におかしな話だ。

 どう考えても年上にしか見えない相手に、まるで年下の少女に接するときと同じような感情を覚えるなんていうことは。

 神々しさを纏った一人の女神に、深く沈んだ記憶の中の幼い誰かを重ねてしまったなどということは。


「とはいえ、すべてをあなた方に託すというわけにもまいりません。ですので一つ、私にできることで協力いたしましょう。あなた方が条件さえ満たせれば……の話ですが」

「その……条件とは?」

 

 先の感情を仕舞い込み、ロウは問いかけた。

 女神に協力してもらえるというのなら、これほど心強いことはないだろう。何がなんでも、その条件を満たす必用がある。

 無理難題を押し付けるような人とは思えないが、胸にあるのは僅かながらの緊張だった。

 すると、セレノは視線をロウから横へとずらし……


「まずはリアンとセリス。あなた方お二人です」


 まさか真っ先に、自分たちへ条件を提示されるとは思いもしなかったのだろう。

 呼ばれた二人は戸惑うように顔を見合わせ、セレノへと視線を戻した。


「あなた方は力に目覚めたばかりで、魔憑まつきの本質を理解していません。ですので、本格的にそれを学んで頂きます。その間、他の者との接触をしてはいけません。それのみに集中して頂きます。よろしいですか?」

「そ、それって、ロウたちとも会えねぇってことですか?」


 そうセリスが問いかけると、セレノはゆっくりとその首を縦に振った。

 

 魔憑としての力を使いこなせていないという事実は、反論の余地もないほどの正論ではあるが、まるで山籠もりでもさせるかのような発言に対し、本当にそこまで必要なのかと一瞬思わなかったと言えば嘘になる。

 

 しかし、そう言うからには確たる理由があるのだろう。

 リアンとセリスは互いに頷き合うと、まっすぐにセレノを見据えた。


「それが必要なことならば」


 そう二人が答えを出すのに、悩む時間など必要なかった。

 その瞳に宿るのは、迷いのない確かな意思。


「スキア、貴方が力の使い方を教えてください」

「はっ」


「次に、アフティとオトネには新しい任務を。内容は追って伝えます」

「はい」

「は~い」


「シンカとカグラはロウに同行して下さい。向かう先は、彼の記憶に纏わる場所……下層区の屋敷です。リン、貴女が案内してください」


 リンは一瞬目を丸くしたものの、戸惑いながらもそれに頷いた。


 そして、話を終えたと見たリアンが真っ先に立ち上がると、セリスもそれに続いて立ち上がった。

 そのまま綺麗な一礼を見せ、何も言わずに去ろうとする彼の背に、セレノが言葉を投げかける。


「次に会えるまで、どれほどの時間を要するかはわかりません。お別れはよろしいのですか?」


 その声に、リアンは振り返らなかった。


「やることが決まったならそれで十分です。ロウ、お前がシンカとの約束を果たすなら、必ずすぐにまた会える。……俺はお前の足手まといにだけはならない」

「俺だって同じだぜ、ロウ。いつまでも、頼ってばかりじゃいられねぇ」


 そう口にし、部屋の出口に向かって歩き出した二人の背中に宿っていたのは、静かに押さえつけても隠しきれないほどの、燃え盛る決意の炎だった。


 世界を救うという目的の中、いったいどれほどの時間が残されているかはわからない。故に焦りがあるのは当然のことだ。

 修行をしつつ、ロウたちと共に行動したいという思いもあるにはある。


 だが確かに二人は魔憑に目覚めたばかりで、その力の使い方は雑だ。

 ロウとて人にそれを教えれるほど魔憑について理解しているわけではないし、シンカとカグラもそれは同様であるといえるだろう。


 つまり二人にとって、これは有り難い申し出以外のなんにでもなかった。

 世界の秘密を知った今、より強い個体の降魔やルインという敵がいる以上、今よりも遙かに強くならなければならない。守ってくれる仲間を守り返せるほどに。

 そのためなら、たとえ体が死なせてくれと訴えても、それを押さえつけてでも強くなる覚悟が、決意が、意思が、確かに色濃く宿っていた。


 するとスキアもすかさず立ち上がり、セレノへと頭を下げる。


「アルテミス様、俺も行きます。男の覚悟を無駄にはできませんから。失礼します」


 そして三人を見送ると、セレノがぽつりと言葉を零す。


「……よい仲間と出会えましたね」

「……はい」


 その言葉に、ロウは何かを堪えるように、静かに一言頷いた。





 それぞれに別れて謁見の間を出た後、ロウたちには宮殿内の部屋を割り当てられた。それは旅の疲れを癒し、明日の朝から行動することになったからだ。

 ロウがお面を外し、部屋の窓から外を見下ろすと、スキアたちと同じ軍服に身を包んだ人たちがたくさん見えた。

 この中にも自分を知る者がいるのだろうか、とそんなことを思いつつ、ただぼんやりとその景色を眺めていると、ほどなくして聞こえたのは控えめに扉を叩く音だ。


 ロウが念の為にお面を被りその訪問者を出迎えると、そこに立っていたのはクローフィとリコスの二人だった。

 嫌なことでもあったのだろうか……どうやら落ち込んでいるらしい。

 姿勢は正しているものの、ある部分が萎れているから間違いないだろう。


「どうしたんだ?」

「ロウ様にこれを」


 そう言ってクローフィが見せたのは、少し色の入った眼鏡だ。

 ロウが不思議そうに首を傾げると「失礼します」という声と共に、リコスがロウの付けていたお面をそっと外した。

 そしてお面の魔石を眼鏡の側面に空いた穴へ付け替えると、それを差し出す彼女の姿は何故か痛々しく見えた。

 お面を渡してきた時、ロウの取った行動に対しての落胆っぷりを思い返せば、いったいどういった風の吹き回しか想像もつかない。


「あ、ありがとう。だが、急にどうしたんだ?」

「それは聞かないで頂けると助かります」


 眼鏡を受け取りながら問うたロウに、クローフィがいつもの声音で答えるものの、やはりどうしても気になってしまう力なく萎れた彼女たちのある部分(チャームポイント)

 

 何があったのか理由はわからないが、彼女たちが悲しんでいるのは間違いない。

 だからロウは……


「お休み中、失礼いたしました」

「ごゆっくりお休みください」


 そう言って一礼し、背を向けた彼女たちを呼び止めながら、


「待ってくれ。そのお面は回収しないといけないのか?」

「いえ、そのようなことはありませんが」


 事実、物自体はお面でも眼鏡でもどちらでもいいのだ。

 魔塊石は装飾しなくてもその効力を発揮できるが、相手に自身の姿を誤認させるそれは、常時発動していなければ意味がない。

 かといって、常にロウがたとえ僅かでも魔塊石に魔力を流し続けるなど、実際には難しいだろう。だからこその、魔力を自然に流す為の装具だったのだ。


 しかし、眼鏡は元々任務などで使われていた物だが、お面は二人の力作だ。

 だからこその神殿での一件だったのだが、ロウたちが謁見の間を退出した後、セレノからのお叱りを受けたことで今に至る。

 目立たない為の魔石のはずが、お面を付けることで余計に目立ってしまうというのは確かに本末転倒だろう。

 

 そんな二人が、泣く泣く此処へ来た理由をロウには知る由もないが、そのお面が誰の為に作られたものなのか、神殿での一件を踏まえた上でわからないほど、ロウとて鈍くはない。  

 

「だったら、せっかくだし貰えないか?」

「ヴェリオンをでしょうか?」

「ん? あ、あぁ」

 

 一瞬、何を言っているのかわからなかったが、その意味を理解するとロウは頷いた。

 吸血鬼ヴェリラス人狼(リュカリオン)でヴェリオン……なるほど。

 お面にわざわざ名前を付ける必要があるのかどうかは疑問ではあるが。


「どうぞ」


 控えめに差し出したおヴェリオンをロウが受け取ると、二人は再び丁寧に頭を下げ、何事もなかったかのように職務へと戻っていった。

 無論、羽と耳と尻尾(チャームポイント)が嬉しそうに揺れていたのは言うまでもない。 

 

 そんな二人を見送りロウは部屋に戻ると、おヴェリオンと眼鏡を丸机テーブルの上に置きながら窓際の椅子に座り、収納石から一冊の手帳を取り出した。

 そして記憶を辿りながら、すらすらとペンを走らせていく。


 すると、再び部屋を叩打ノックする音が小さく響いた。

 ぱたりと手帳を閉じ、それを奥行きの狭い出窓に置くと、彼女たちなら問題ないだろうと思いつつ、ロウは眼鏡をかけることなくその来訪者を出迎えた。

 気配で察した通り、扉の前に立っていたのはシンカとカグラだ。


「どうしたんだ?」

「えっと……なんだか落ち着かなくて」

「お、お城もすごかったですけど、ここは……そのっ」

「確かにな。俺も旅をしているときは、安い宿ばかりだったからわかる」


 ロウが苦笑すると、シンカとカグラもつられるように小さな笑みを零した。


「そういえばここに来る途中、クローフィ様とリコス様とすれ違ったんだけど、何かあったの? すごく嬉しそうだったわよ?」

「わかるのか?」

「あははっ……そりゃ、ね」


 ということは、あれからもずっとゆっさゆっさと羽や尻尾を振り続けていたのだろう。つまりはおそらく、あの二人は自分の感情が表に出てしまっていることに、気付いていないのではなかろうか。


「立ち話もなんだし、今お茶を入れよう。適当に座っててくれ」

「えぇ、ありがとう」

「お、お邪魔します」


 そう言って、ロウはついさっきあった事の成り行きを話ながら、二人を部屋に招き入れた。

 ロウの話を聞きつつ、シンカとカグラは丸机テーブルの前に置かれた椅子に座ると、そわそわしながら周囲を見渡している。


「なるほどね。ロウも眼鏡になったし、あのお二人も喜んでたし、丸く収まってよかったじゃない」

「まぁな」


 そう小さく微笑みながら、ロウは部屋に備え付けられていた紅茶用品ティーセットへ手を伸ばした。

 それからは陶器が軽くあたる手元の音以外に聞こえてくる音はなく、とても静かだった。まだ夕刻前の時間だというのに、外からは何一つ音が聞こえてこない。

 宮殿の敷地は広く、人々の住まう区画までは確かに距離はあるが、それを考慮したとしても少し静すぎるのではないだろうか。

 まるで何かが欠けているような、そんな違和感を感じつつ視線を泳がせていると、ふと、シンカの視線が出窓に置かれている手帳でぴたりと止まった。


「どうした?」


 その声に、じっと手帳を見ていたシンカが振り向くと、湯気の立った紅茶を丸机テーブルに置きながらロウが首を傾げていた。


「えっと……あれってなんなのかなって」

「わ、私も少し気になってました」

「あぁ、これか」


 ロウは出窓に置いていた手帳を持って戻ってくると、シンカの前の椅子に腰を下ろした。

 そして手帳を丸机テーブルの上に置くと、そこには子供のような字でこう書かれている。

 

 ――こうかん日記


「交換日記? ロ、ロウさんって誰かと交換日記をつけてたんですか?」

「どうなんだろうな。俺にもよくわからないんだ」

「へ?」


 苦笑しながら言ったロウに、シンカは間抜けな声を漏らしながら首を傾げた。

 よくわからないと言った、その言葉の意味がまるでわからない。 

 自分で日記を付けておいて、わからないとはどういうことなのか。

 

「ど、どういうことですか?」


 カグラの問いに答える代わりに、ロウが日記をぱらぱらとめくっていくと、少女たちはそのページを見て驚いた。

 その手帳……日記帳は、片面が六分割されているものだった。

 しかし、そこに書かれているのは六分割された六マスの中で、すべて右側の縦三マスだけだったのだ。

 つまりこの日記に書かれているのはすべて、ロウが書いた分だけということになる。

 

「これは記憶を失った俺が、そのときから持っていた日記帳なんだ」

「ロウ、貴方……相手が誰かもわからないのに、ずっと日記を書き続けていたの?」

「あぁ……なんの根拠もないが、その相手は俺にとって大切な誰かだったはずなんだ。なのに俺は記憶を失くしてしまった。……最低だな、俺は」


 待っている人がいたかもしれないと思っていた根拠は、まさにこの日記だった。

 交換日記と書かれているからには相手がいるのだろうが、記憶を失ったロウにはこの日記自体が本当に自分の物なのかもわからない。

 だから、かもしれない、なのだが。

 そして記憶の手掛かりもないまま七年が過ぎ、半ば諦めながらも、ずっと未練がましくロウはそれを書き続けた。たとえ相手いたとして、それがが誰であろうと……もう待っているはずがないと思いながらも。


 そう自嘲するように目を伏せたロウに、シンカは首を横に振りながら、


「そんなことないわ。ロウだって好きで記憶を失くしたわけじゃない」

「それはわからないさ。俺の過去が辛いものなら、俺は過去から逃げたくて自ら記憶を失うことを選んだのかもしれない」


 ロウがぽつりと零したそれは、ずっと胸の中にあった小さな不安だった。

 記憶がないのは、必ずしも事故や偶然とは限らないのだ。人は余程忘れたいことが起きた時、自らの心を守るために記憶を仕舞い込むこともある。

 辛いことから目を逸らし、自分は逃げだしたのかもしれない。

 起こった現実に耐え切れず、周りを捨てることを選んだのかもしれない。

 それは、ロウの中でずっとくすぶっていた、認めたくない可能性だった。


 しかし、そんなロウの考えを二人の少女は……


「そ、そんなこと……ないです。だって、もし過去から逃げたかったなら、思い出してしまう可能性のある物を持ち歩くなんておかしいです。だ、だから……」

「カグラの言う通りよ。それを証明するためにも、早くロウの記憶を探さないといけないわね。きっと日記の相手だって、今も貴方を待ってるはずよ。私なら待ってるもの」

「わ、私もです」


 そう笑顔を浮かべた二人につられるように、ロウは思わず微笑んだ。

 するとシンカは、至極真面目な表情と声でロウへと告げる。


「ロウ、私は今まで貴方にたくさん助けられたわ。だから、今度は私が力を貸す番よ。頼りないかもしれないけど……きっと貴方の力になってみせるわ」

「私も頑張ります」


 シンカに続くように、カグラも意気込んでみせる。

 ロウ自身、二人に恩を感じさせるような何かをしたつもりはないが、それでも少女たちの言葉はとても頼もしいもので、その気持ちだけでも力になるほどだった。


「もちろん頼りにしてる。二人とも、本当にありがとう」 

 

 





 少し寂れた一角に建つ古びた大きな屋敷。その奥の広間。

 暖炉の前には大きな長机テーブルがあり、それを囲うように並べられた長椅子ソファーの上で、一人の老婆が読書をしていた。

 少し先の折れた尖り帽子を被り、そこから伸びる孔雀青の長い髪。その身には紫黒のローブを纏い、すぐ隣には一本の杖が置かれている。


 その向かいでは一人の幼い少女が、何かの魔石を一生懸命に磨いていた。

 金色の髪に紅玉のような瞳。腰にある蝙蝠のような羽を見てば、この少女がクローフィと同じ吸血鬼(ヴェリラス)だというのがわかる。

 異なる点と言えば、編まれた三つ編みが頭の左右でお団子のように纏められ、そこから柔らかそうな髪の先端が肩まで伸びているのだが、その纏められた部分からも小さな蝙蝠の羽が飛び出ているということだろう。


 するとそこに、一匹の狼が部屋へと入って来た。

 体長一メートル程度の狼にしては小さな体躯に、深いスモークブルーの綺麗な毛並み。額に大きな傷があり、鋭い瞳は小さいながらもまさに獣のそれだ。


「おかえり。いよいよだね……」


 老婆がゆっくりと言葉を発すると、吸血鬼ヴェリラスの少女がピタリとその手を止めた。


「事無。わかってる。我慢、できる」

「これがきっと、あの人のためなのさ」

「肯定。ロザリーもそう思う。我儘、言わない」


 言って吸血鬼ヴェリラスの少女は、魔石を磨いていた手を再び動かした。

 二人の会話を聞いた狼が、薄柔紙ティッシュの入った箱を咥え、老婆の元へ歩み寄る。


「馬鹿だね、変な気を回すんじゃないよ」


 優しく狼の頭を撫でると、狼は踵を返しそっと扉を出て行った。


「運命は……残酷だね」

「……」


 呟いた老婆の声に、吸血鬼の少女は何も答えなかった。

 手元の魔石に映った自分の顔を見て、少女はただ悲し気にその目を伏せる。 




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ