55.九月十三日―目覚める熱き炎
「怖いか?」
「――っ」
魔獣を注視しながら言ったその言葉に、カグラがびくっと反応を返した。
「そうだよな。確かに怖いよな。でも……大丈夫だ」
「え?」
優しく微笑んだロウに、カグラは目を瞬かせた。
「金平糖、好きだろ? あっ、たまには飴のほうがいいか?」
「ロ、ロウさん。こんなときにいったい何を……」
突然の言葉に、カグラは困惑した。
この状況でいったい何を言い出すのか。
しかし、ロウは構わず言葉を重ねる。
「そんな甘いもの好きのカグラに贈り物だ。これはカグラの分な」
言って、取り出した棒付の丸い飴を手渡した。
「で、これがセリス、これがリアン、これがシンカ、これが俺で……」
ポンポンポンとリズムよく、取り出した棒付の丸い飴を渡して行く。
「あ、ああああのっ、ロウさん!?」
「後で、みんなと一緒に食べような」
微笑みながら、カグラの頭をわしわしと撫でるロウの手はとても温かかった。
口をぎゅっとへの字に歪め、そこから振り絞られるのは少女の祈り。
「そっ、それは……それは約束ですか!?」
言った少女は、泣きそうなのを堪えるような表情を浮かべている。
このときのカグラは、リアンの言葉を思い出していた。
”なぜならあいつは、約束を決して破らない”
そう言っていたリアンの瞳と声は真剣で、何一つ疑いもなくそう言い切れる、そういれる彼を羨ましく思っていた。
自分が何かを成せるとは思っていない。
しかしそれでも、いやだからこそ、せめて信じる心だけは持ち続けていたい。
だから――
「もちろん、約束だ」
「はい!」
ロウの言葉は、顔が綻ばせたカグラの心を強く勇気づけた。
すると、静かに響いた魔獣の声。
「別れの挨拶はすんだ、のカ?」
「一つ質問だ。お前の主は後、どれくらいもつんだ?」
カグラを後ろに下げ、前に出ながらロウは尋ねた。
「この状況で我が主の心配だと? ……有り得ヌ」
「いいから答えろ」
「今のまま力を使えばニ十分程度。それまでに、すべてを葬り去らねばならヌ。我が主の意思ヲ……この我が叶える為ニ」
「それだけ時間があれば十分だ」
言って、ロウは右手をそっと前に突き出した。
「大した自信ダ……面白イ。その攻撃、受けてやるゾ」
「そう言ってくれると思ったよ。だからお前は――」
魔獣の足元付近に、凄まじい魔力の奔流が吹き荒れる。
周囲の気温が一気に下がり、吐く息が白ずむ程の冷気が流れ込んだ。
「――敗北する」
「っ!?」
瞬間、魔獣の体を中心に辺り一帯が氷に覆われる。
作り出された白銀の世界の中央で、魔獣はまるで氷の彫刻のように凍てついていた。
「お……終わったん、ですか?」
「とりあえず、今の俺の役目……はな……」
「……えっ?」
――ピシッ、静かに響く不吉な音。
同時に、魔獣を覆う氷に大きな亀裂が走り、小さなひびが幾重にも重なっていく。蜘蛛の巣のようにそれが端まで広がっていくと、遂には氷が砕け、中からはほぼ無傷の魔獣がその姿を現した。
「今のが全力、か。期待外れも甚だしイ」
「くっ……」
表情を僅かに歪め、ロウが片膝を地面についた。
「ロウさん!」
魔獣が凍てつく瞬間、ロウに向けて放った鉄塊。その攻撃をロウは、先の脇腹に負った傷口に受けていた。
止血していた氷が砕け、再び血が滲み出ている。紅く染まった氷の欠片が、ぱらぱらと地面に零れ落ちた。
「さっきの自信はなんダ? 威勢が良くとモ、力を伴わなければ意味はなイ。確かに二十分という時間ハ、いささか長すぎたようダ」
「ッ……ははっ。聞こえてるよ……フィデリタスさん。貴方の声は……俺に届いてる。止めてみせるさ……何も、俺が勝つ必要はないんだ。次は……任せたぞ」
会話にならない脈絡のない言葉を残し、ロウがうつ伏せに倒れ込んだ。
「そんな……」
カグラがロウへ駆け寄ろうとすると、目の前の地面に幾多の槍が突き刺さった。
「戦える者はもういないのダ……足掻くナ」
「お姉ちゃん。リアンさん、セリスさん……ロ、ロウ……さん……」
目の端に小さな雫が浮かんでくる。
「ロウ……さん。や、約束……してくれた。な、泣いたら駄目……です。泣いたら……駄目……っ」
無力な少女は自分へと強く言い聞かす。
ここで泣いてしまえば、諦めてしまえば、それはロウとの約束を疑うも同義だ。
そんな中、手に持つ棒付の丸い飴を握り締め、涙を堪えるカグラの背へと、声が届いた。
その音は、いつも自信を内に秘め堂々とした、聞きなれた音だった。
「勝手に俺を戦闘不能にするな」
その声に反応し視線を向けると、そこに立っていたのはリアンだった。
手に長剣を構え、魔獣を見据えている。
「リアンさん! っ、みんなが。私が……私がなんの役にも立てないから……」
「ロウとなんの約束をしたかわからんが、その約束は必ず果たされる。一度信じたなら、最後まで信じ続けろ。それが、今お前にできることだ」
「は、はい」
リアンの言葉にカグラが頷く。
ごしごしと目を擦り、胸の前で力強く拳を握った。
「剣で防いだ分……少し浅かったか」
「ちっ!」
魔獣が鉄球をリアンに撃ち出すが、それを横っ飛びに躱す。
確かに速度自体は驚異だが、その動きは直線的だ。自分に飛んでくるとわかっていれば、冷静に対処すれば躱せないことはない。
「愚かな人間ダ。立ち上がりさえしなければ……楽に死ねたものヲ。他を庇い果てる者。怒りに身を任せ果てる者。お前の周りは……愚か者の集まりのようだナ。何人集まろうと、我には勝てヌ。我を超える存在など、片腹痛いワ」
「確かにそうだ。仲間を庇って無駄にくたばる。仲間がやられて冷静さを欠いてくたばる。本当に……馬鹿な連中だ。お前の言ってることは間違ってはいない……」
魔獣の言葉に、リアンは静かにそれを肯定し、
「お前の相手は奴らに止めを刺した後でしてやろう。しばしそこで――」
「だがな」
怒りを堪えるような底冷えする短く低い音が、魔獣の声を遮った。
「お前がそれを口にすることは許さんッ!」
長剣を構え、魔獣へと全力で駆ける。
「こいつらへの侮辱だけはッ!」
「……やはり愚か」
間合いに入ったリアンが姿勢を低くし、足の関節部へと鋭い刺突を放った。
剣先が当たる直前、鉄屑がそれを遮る。
が、長剣を逆手に持ち替え、長剣の軌道を上へとずらし、胴関節に斬り込んだ。
鈍い光を放った剣身が中空に軌跡を描くものの、鳴り響いた甲高い音と共に、長剣は隙間でその動きをぴたりと止めた。
「剣で我は切れヌ」
声と同時にすかさず長剣を抜くが、すでに振り抜かれた魔獣の拳。
「ぐはっ!」
リアンが大きく吹き飛び、地面に背中を打ち付けながら一転、二転と回転し、うつ伏せに倒れこんだ。
それを一瞥すると魔獣は鎖を強く握り、鉄球をぐるぐると回し始めた。
「……誰にするか」
「や、止めろ」
「一番厄介だった者ヲ、先に逝かせてやろう」
言って、魔獣はロウに狙いを定めた。
「っ、やめろッ!」
「そこで嘆き、悔いるがいいゾ」
「やるなら俺を倒してからにしろ!」
叫ぶリアンに、魔獣は振り向きもせずに答える。
「吠えるだけでお前はもう動けヌ。誰からでも同ジ……我の気分ダ」
リアンは悔しさを色濃く浮かべ、地面に爪を立ると強く握りこんだ。
何も変わっていない。
十年前……リアンたちが孤児院を出ることになったあの頃と。
二年前……ロウが自分たちの元を去ったあの頃と。
何も、何も変わっていない。
奪われる苦しみを知りながら、何もできない辛さを知りながら、何も成せない弱さを悔やみ続けた今も尚、リアンはこの場での――弱者だった。
どれだけ鍛錬を積もうと、軍の中で実績を積み上げようと、この戦場で大切な者を守ることができるのは強者だけだ。
常人としての強さに意味はなく、今この戦場で必要なのは――
「さて……」
「だめぇぇーッ!」
悲痛な叫び声を上げながらカグラがロウに駆け寄ると、その身へと覆い被さった。震える小さな体で、懸命にロウを守ろうとしてる。
「お前も……自分ではない誰かのために死を選ぶのカ」
魔獣の瞳が、その小さな少女を見下ろした。
「し、死んだりなんかしません! ロウさんと約束しました! だから!」
「愚かナ……」
短く零れた声音と向けられた瞳には一瞬、哀れみの色が滲み出ていた。
「くっ、俺はこいつらを失うわけにはいかないんだ! 俺の中にいるならさっさと力を貸しやがれ、この糞魔獣がッ!」
背後から聞こえるリアンの声に、魔獣が反応を示した。
途端、強く長剣の柄を握りしめたリアンは走り出す。
「残念だが……お前の呼びかけには答えてはくれぬようだな」
魔力も何も乗っていない剣など、所詮はただの玩具に過ぎない。
刃は刃に成り得ず、堅い鎧へ微かな傷を残せるのが関の山だ。
仕掛ける連撃は子供の遊戯に等しく、決死の猛攻はただの悪あがきに過ぎない。
だが――
「っ! 今、俺の言うことが聞けないなら――俺の中からとっとと出て行け! そんな聞き分けのない魔獣など、この俺には必要ない!」
そう叫んだ瞬間、どこからか聞こえたのは覚えのないはずの、それでいてどこか懐かしい声だった。
『よくもそんなことが言えたものだ』
「ッ!?」
魔獣から距離を取りつつリアンは周囲を見渡すが、辺りに声の主は見当たらない。いるのは地に伏したシンカとセリス、そしてロウとそれを庇うカグラだけだ。
「なにをしていル」
魔獣がリアンの不可解な行動に、その動きを止めて問いかけた。
『俺は貴様の心の中に住む者。心に話しかけている。貴様も心で答えろ』
(こ、心? お前が……俺の魔獣なのか?)
状況を瞬時に理解したリアンは、とにかく時間を稼ごうと試みた。
鋭い双眸で魔獣を凝視し、その動きを見逃すまいと足に力を蓄える。
『勘違いをするな。貴様の魔獣ではない。まだな……』
(どういうことだ?)
『貴様は何故、俺の力を欲する』
(あいつを倒すためだ)
『何故?』
(あいつが気に入らんだけだ)
動きのないリアンに魔獣が鉄球を撃ち出すも、それをすかさず回避。
すぐさま体勢を整えながら、再び魔獣を注視する。
『素直ではないな。俺は貴様の心に住む者。貴様の考えくらい、お見通しだというのに』
(だったら、いちいち聞くな。さっさと手伝いやがれ)
『それを拒めば?』
(お前を俺の中から追い出すまでだ)
『どうやって?』
(わからんが、いつか追い出す方法を探す)
再び、魔獣が鎖を回し始めると、リアンの額から浮き出た汗が頬を伝う。
確かに魔獣の力は惜しい。
いや、この状況を打破するには必要不可欠なものだといえるだろう。
しかしそれでも――
『俺がいなくなれば、貴様は力を永遠に失うことになる。貴様は強さを求め、生きてきた。そんな貴様が俺を失うのは、余りにも惜しいのではないか? ……それでもか?』
(今、この状況で仲ッ――俺を見捨てる奴など、俺には要らん。心がわかるなら、俺が本気かどうかもわかるだろ? ……時間がない。さっさと決めろ)
『本当に素直じゃない奴だ。大切な仲間を見捨てる魔獣などは要らんと、素直にそう言えばいいものを』
(ッ、黙れ!)
そうだ、確かに力は惜しい。
だが、魔憑の力が意思の力だというのなら、魔獣が意思の力を糧とするのなら、大切な仲間の危機を前にして目覚めぬ力にいったいなんの意味がある。
途端、襲い来る先よりも勢いの乗った鉄球が、リアンを正面から捉えた。
回避が間に合わず、辛うじて長剣を盾に使うも衝撃を殺すことはできない。
宙を舞い、吹き飛ぶリアンの頭の中で……
『ふっ、よかろう。素直ではない上に口も悪い奴だ。だが――仲間を思う心は認めよう。俺の力を使うがいい』
見えない魔獣が、小さな笑みを浮かべたような気がした。
受け身をとれず背中から地面に落下するも、空を見上げるリアンの口角が自然と持ち上がる。身体の節々の痛みが、不思議と和らいでいくように感じる中――
(それでこそ俺の魔獣だ)
『はっ、言ってくれる。俺は煉獄の魔獣。
――全てを焼き尽くす業火で火傷するなよ。我が主、リアン・レイ』




