52.九月十三日―零の記憶
デューク級降魔と戦うロウは、なんとか隙を見つけてそれを倒そうと試みるものの、まったく隙を見せないデューク級相手に防戦一方だった。
ここでロウが倒れてはその被害は計り知れないだろう。防戦一方とはいえ、デューク級を縛り付けていることは、この戦況に大きな意味をもたらしていた。
「イツマデ無駄ナ足掻キヲスル、ツモリダ」
「ッ、お前を倒すまでだ」
地を走る霜柱を落雷が穿ち、空から降り注ぐ氷柱を、迸る雷が打ち砕く。
デューク級の体が眩い光を放った瞬間、まるで鞭のようにうねりながら地面を抉る稲妻がロウの作り出した氷壁を容易く粉砕。まるで雷光のような速度でロウの背後に回ったデューク級が繰り出した拳が、ロウを地面へ叩き付けた。
ロウが地面に手をついた瞬間、足下から突き出した氷柱をデューク級が躱した隙に飛び跳ねるように体勢を立て直すと同時に、眼前に迫る魔弾を咄嗟に魔弾で相殺。爆風に肌を焼かれながら後退し、荒い息を吐きながらデューク級を睨み付ける。
「貴様ノ魔力ハ旨ソウダ。喰ラエバモット強ク、ナル」
「勝ったつもりになるには早すぎるだろ」
そう気丈に微笑んで見せるものの、このまま行けば敗北は避けられないだろう。
額から流れる血が頬を伝い、地面へと落ちる。
感覚が鈍くなった手の感触を確かめるように数度握り、右手を腰の刀の柄へとそっともっていった。
”その刀は時が来るまで、決して抜いてはいけませんよ。――約束です”
脳裏を過ぎるのはこれを託してくれたあの人の言葉。
時が来るまで、というのがいつを指しているかはわからないが、ここでのロウの敗北はそのままこの戦の敗北へと繋がるものだ。
決して負けるわけにはいかない。
が――白の飾り紐に左手の親指をかけた瞬間、心臓を杭で打たれたような痛みが走った。
(ッ、まだその時じゃないのか)
同時に、ロウにできた大きな隙。
それは心臓に走った痛みだけではなく、魔門から感じた気配が生み出した隙だった。
ただでさえ最悪とも言える状況の中で、これ以上に悪化しようとする戦況と、この後に及んで刀を使えないという状況に、ロウの意識は一瞬の硬直を見せた。
まだ誰も気付いていないのが幸いと言えば幸いだが、その一瞬の硬直はデューク級の前で見せた大きな隙であることに違いない。
無防備なロウの懐に手に溜めた魔弾を下から掬い上げるように叩き込み、ロウの体が上へと飛ばされる。同時に高く跳躍したデューク級が組んだ両拳を叩き付け、ロウを地へと打ち落とした。
そして止めと言わんばかりに、陥没した地面に伏すロウへと、激しい咆哮を上げながら落雷を打ち込んだ。
眩い光と耳をつんざくような轟音を残し、中空を縦に割る稲妻。
「終ワリダ。死ヲ、受ケ入レロ、人間」
デューク級の声が遠くに聞こえる。
額や袖の裾から血を流し、纏う黒衣は焼け焦げ、地面で握る拳に力はない。
視界は霞み、意識は朧気で、口に広がる鉄の味。
だが、それでも――負けるわけにはいかない。
ここでロウが倒れては、新たに魔門から現れようとしているデューク級を加えたこの二体が、ロウの大切な者すべてを奪い去ってしまうだろう。
しかしそんな想いだけで立てる程に戦場は甘くはなく、振り絞った渾身の力で体を起こし、片膝を地面につき、もう片膝を立てたまま……ロウは意識を手放した。
途端――
『……余り調子に乗らないことです、塵屑がッ』
ロウの体中から膨大な魔力が溢れ、ロウを中心に地面が凍てついた。
『……|魂に刻まれし記憶の氷具現』
目の前の理解の追いつかない現象を前に、デューク級は無意識に後ずさった。
本来、言葉を話せるのはマークイス級以上の降魔だが、知能を得たところで性質というのは変わらない。降魔に仲間意思というものはなく、死というものを恐れない。相手がどれだけ脅威でも、目のまで他の降魔が消滅しても、構わず突貫する悍ましい魔物であり、それは人にとって脅威と成り得るものだ。
が、このとき、デューク級が感じたのは紛れもない恐怖だった。
意識を失い、それでいて尚、体から溢れる魔力はまさに異常だといえる。
周囲の温度を奪い去り、荒れ狂う冷気が形を成すは二人の乙女。
一人は巫女服のような衣服を纏い、一人は短い着物のような衣服を纏った、感情なき氷の人形。
一人は日輪のようにも見える、銃口を外へと向けた数多の長銃の輪をその背に、もう一人の背には幾重にも重なった抜き身の刀がまるで刺々しい翼のようになっている。
「ナ、ンダ。貴様ハ、ナンダ」
戸惑うようなデューク級の声にただの氷人形が答えるはずもなく、代わりに応えたのは背に輝く氷の得物だった。
氷の巫女が魔門へ体を向けると、すべての銃口が魔門へと向けられ、魔力の帯を引きながら激しく回転し始める。
そして着物の少女がデューク級へ手をかざすと、すべての氷刀の翼が背を離れ、鋭い風斬り音を発し、数多の残像を残しながら中空で回転し始めた。
すかさずデューク級が全身に雷を纏い、それを放出するも、回転する数多の氷刀がまるで盾のようにそれを弾き返し、即座に鋭利な氷刀が連続で射出される。
同時に、氷の長銃から魔門へ向けて放たれたのは、野太い魔力の砲撃だった。
シンカはいまだ、カウント級を一体たりとも後ろへ行かせてはいなかった。途中ですれ違うナイト級やバロン級を斬り払いながら、時にはカウント級の放った魔力の魔力反射で周囲を巻き込みながら、カウント級を殲滅し続けている。
ホーネス、ローニーの支援を受けつつ、フィデリタス、カルフ、トレイト、そしてリアンとセリスの部隊は尚も脱落者を出すことなく、前線で戦っていた。
周囲を気遣う余裕もなく、自身の役目をただただこなし続けている。
今頃ロウも、強大な敵を前に怯むことなく戦い続けているはずだ。
心配ではあるものの、弱い自分たちがそちらを気にするなど烏滸がましい。
ロウは必ず勝つ。
ならば、ロウが復帰した時、彼の目に映る光景は少しでも彼の望む光景であるべきだ。犠牲を最小限に……その為に、今はただ――
誰もが歯を食い縛り、犠牲者を出しつつも懸命に戦う中、さらに戦況は悪化する。
――鼓膜が痛み、痺れるほどの凄まじい爆音と共に軍艦が一隻、ただの鉄屑と化した。
左右に広がった降魔の群れが一隻の軍艦を落としたことにより、降魔の侵攻はさらに勢いを増していく。勢いを増した降魔の群れはさらに一隻、そして戦闘車や大型弩弓を一つ、また一つと落としていった。
この局面で面制圧の要である水上支援部隊と戦闘車、大型弩弓の部隊の損失は、兵士たちの心をへし折るには十分すぎるものだった。
次々に聞こえる助けを求める声は悲鳴へと変わり、途切れることなく戦場に響き渡る。
秒単位で増え続ける悲鳴を聞きながら見るこの光景は、まさに地獄絵図だった。
「……なんだこれは」
フィデリタスの口元から漏れる掠れた声。
飛びかかるナイト級降魔を半ば無意識的に、たったの一撃で斬り伏せると、フィデリタスは眼前の降魔の群れを睨みつけた。
まるで血の涙を流しているように、流れた血が目許を伝う。
「これが……運命だというのか……」
そしてまた一体、二体、三体。
まるで腕が勝手に動くように、降魔を斬り伏せる。
中立国アイリスオウス最強の名誉称号、光明闘士の名を背負う彼は、他の者たちが二人一組、もしくは小隊単位で一体の降魔を相手にする最中、これまでたった一人で降魔と戦い続けてきた。
その力はさすがと言うべきか、背負う名に決して恥じぬものだと言えるだろう。
だが、今の彼の力は余りに異常だった。
素早いナイト級をたったの一撃で捉え、耐久力のあるバロン級をもたったの一撃で葬り去る。それが、ただの人が持てる力でないのは明白だ。
(許さん……許さんぞ貴様ら……。一体たりとも生かしはしない……。よくも……よくも俺の仲間を――大切な家族たちをッ!)
ぎりりと鳴らした歯から、きつく柄を握り締めた掌から赤い鮮血が滴り落ちる。
家族のいないフィデリタスにとって、軍の仲間は家族のような存在だった。
脳裏を過ぎるのは共に訓練し、己を高め合ってきた日々。
脳裏に聞こえるのは共に過ごし、笑い合ってきた仲間の声。
それも今は、遠い遠い過去の情景……。
次々に倒れる大切な仲間。次々に吹き出る血潮と地面に溜まった血溜り。
助けを求める悲鳴にも似た叫び声。
そんな地獄絵図が――
(ッ、誰も、誰も生かして帰さんッ! 絶対にだッ!)
とうとうフィデリタスの人としての心を……壊した。
そして――
「ぐッ、あァァ、ッ、グアアァァァァ――――ッ!」
人のものとは到底思えないその咆哮と共に、倒れた兵たちの剣が舞い上がる。
そしてそれぞれの無数の剣が、同じく無数の降魔へと狙いを定め、銀色の線を描き一直線に襲いかかった。
時間にすればどれくらいだろうか。
実際のところ、そんなに時間は経過していない。ものの三分程度。
片膝をついた状態で意識を失っていたロウが覚醒し、両の瞼を持ち上げた。
途端、その黒い瞳に映り込んだ光景に、何が起きたのか理解が追いつかなかった。
「……どういうことだ」
目の前には片目が潰され、体中に無数の傷跡を残し、その傷口から紫黒の魔力を垂れ流しにしながら膝をつくデューク級の姿。
なんとか核だけでも守ろうとしたのだろう。全身に金創を負いながらもその姿は健在で、血玉のような核には傷一つない。
が、不可解なのは金創……そう、刀の傷をいったい誰がつけたのかということだ。そして何より、魔門の奥で感じた、新たに出現しようとしていたはずのデューク級の気配が消えている。
目の前のデューク級は深手を負い、魔門のデューク級は消失した。
時間にしてたった三分にも満たないほどの間に作り出された、この不可解な現状を前にロウは戸惑いを隠せなかったものの、状況としては好転したといえるだろう。
考えるよりも先に今はまず、この機を逃さず一気に仕留める。
そうロウが立ち上がり、手に魔力を集めたところで――
「グッ、ギ。何ダ、アレハ。マダ魔憑ガ、イタノカ」
デューク級の言葉に背筋が凍り、その見据える先へと思わず視線を向ける。
途端、飛び込んできたのは信じ難い光景。
無数の剣が空中を直線的に飛び回るその光景を横目に見たロウは絶句した。
それと同時に、ずっと答えのなかった疑問の答えを得ることとなる。
ロウがいないはずだったこの未来の予測の中で、どうやってこの戦場を収めることができたのか。――この光景こそがその答えだった。
そしてそれはロウの見た未来の予測の中で、阻止したかった一つである出来事の前触れであることに、ロウは気付いてしまったのだ。
戦況はあっという間に覆り、唸り声を上げながら次々と降魔を殲滅していくフィデリタス。その力はまさに圧倒的だった。
フィデリタスを中心に展開している半球状の空間の中、兜や剣、砲弾や鉄屑がその魔力壁に引き寄せられ、あるいは射出され、直線的な動きで飛び回っている。
兵たちは驚声を漏らしながら壁際まで撤退し、その様子にわけがわからず恐怖に震えながら見守っていた。
やがて数百の降魔を圧倒的な力で殲滅しきると、ギロリと向けた獣のような瞳が捉えた先には、ロウが対峙していたデューク級降魔の姿。
人とは思えない脚力で地を蹴ると、真っすぐにデューク級へと駆ける。
「なっ!?」
ロウが慌てて距離を取ったところで、フィデリタスの振るった剣がデューク級を捉えるが、デューク級はそれを受け止めると電撃を注ぎ込んだ。
しかしその電撃を受けて尚、フィデリタスはまるで効いていないとでも言うかのように、デューク級を振り払って獣のような雄叫びを轟かせる。
「ロ、ロウ。これってどういうことなの?」
シンカがロウの傍まで急いで駆け寄ると、傷ついたロウの姿に表情を歪めた。
地獄絵図と化した戦場の中、ロウだけがここよりも過酷な違う戦場にいたのではないかと思わせるほど、その姿は見ているだけで悲愴感が押し寄せてくる。
が、すぐさまそんな気持ちを胸の奥にしまい込んだシンカは、この状況をまるで理解できないといった様子で目の前の光景を見つめていた。
そんな少女の服は破れ、所々に血が滲み出ていた。犠牲を最小限にする為、ミソロギアの為、ロウとの約束を守る為、彼女は彼女の役目を必死に果たし続けていたのだろう。
だが、それを裏切るように起きたこの出来事は――
「フィデリタスさんは魔憑に覚醒し、そして……暴走した」
「そ、それって……」
「俺たちが彼を止めるんだ」
「――っ!」
ロウの言った意味。それはシンカにとって耐え難いことだった。
魔憑の暴走を止める手段がわからない以上、それが意味することは用意に想像することができる。
シンカは悲痛な色を浮かべた顔で、目の前の光景から視線を逸らした。
『ロウさん、こちらタキア・リュニオン。これはどういうことですか?』
「兵たちには近付かないように指示を出しておいてくれ。負傷者の手当てに専念してほしい。少しでもこっちに来たら巻き込まれるぞ」
『り、了解』
ロウは目の前のデューク級とフィデリタスの戦いから、目を逸らすことなく見続けている。その理由は簡単だった。
フィデリタスから少しでも扱う能力についての情報を得る必要があるからだ。
それは無論、フィデリタスを倒すために他ならない。
しかし、勝負はそう長くは続かなかった。
フィデリタスが左右の地面に剣を突き刺すと、デューク級の放った電撃はことごとくその剣に吸われるように流れていく。
突き刺さった剣は弾けるような音を立て、眩い火花を散らしていた。
フィデリタスが正門のほうへと手を突き出すと魔力の壁が発生し、多数の剣が魔力壁へと吸い寄せられる。魔力壁が消えると落下し、甲高い音を響かせた。
そして、半球状の結界のようなものを張るのと同時に、ロウはすかさずシンカを抱えて距離をとった。
「っ、離れるぞ!」
「え? きゃっ!」
すると、地面に落ちた多数の剣がその結界へとへばりつき、次にデューク級へと向けて勢いよく発射される。
それを撃ち落とそうとデューク級が放った電撃はあらぬほうへと飛んでいき、すべての剣を捌ききることもできず、最後の一本がデューク級の核を正確に貫いた。




