313.たった一度だけの奇跡
ロウの窮地に颯爽として駆けつけた……いや、なんの前触れもなく突如として現われた男は、メフィストの驚愕している表情を満足気に眺め、ロウの方へと半身で振り返りながら、
「女と交わした契約を果たしに来たぞ、優しく甘い愚かな英雄」
皮肉めいた笑みを浮かべて見せた。
彼の言葉にロウが返答するよりも早く、この理解の及ばない状況に戸惑いの声を漏らしたのはメフィストだ。
「いやはや、不甲斐なくも驚いてしまったよ。周囲への気配や魔力の感知に手を抜いてはいなかった。油断など微塵もなく、完全に彼の魂を手にするはずったったんだけどね……よもや、手品師に転職したわけでもないだろうに。後学のために教えて貰いたいものだ。いったい何をしたんだい? ――ミゼン」
そう問われたところで、ミゼン本人もこの瞬間まで自分がいつどこで”デュランタに言われた通りロウを救うことになる”かなどわからなかったのだ。
ただ、より先見の明に秀でていたのが、この場の誰でもないデュランタだっただけのこと。
死してなお、彼女はロウの暗い道を照らし続けていた。
一人先に歩き続けるロウが誰も気付かぬまま、未来のように道無き崖を落ちてしまわないように。それが、それだけが彼女の大願だったのだから。
「その答えなら、さっきこの男が言っていただろ。童話というのは本当に面白い。ありえないご都合的な話を、教訓として上手く纏めている。兎と亀が競走をして、亀が勝つ? そんな馬鹿な話はないだろう。どれほどの愚者でも、勝利目前で眠るはずがない。そうだ、この世界はそんな都合良くは回っていない」
「その通りだ。だから私は常慎重に動き、最後の最後まで油断することはない。そのはずったったんだけどね」
起きてしまったものは仕方ないと、両肩を竦めながら、メフィストは次にどう動くべきかを慎重に思考し始めていた。
「あぁ、だからだろう。塔で女たちの話を聞いて理解した。未来で、亀は兎に勝てなかったのさ。勝てなかったどころじゃない。亀が涙したのは、兎に負けたからじゃなく、ゴールに辿り着けなかったからだ。だから亀は考えた。ゴールに辿り着く方法を。デュランタが求めた未来に辿り着く計画を前に、お前に敗北する可能性など微塵もあると思うなよ」
「言ってくれるじゃないか。贋作如きが」
「その贋作如きに与えたお前の力で足元をすくわれる気分はどうだ?」
「最悪さ。最悪だけど興味深い。熟れたその作られた魂を回収できるのは、とても最高だよ」
挑発染みた言葉の掛け合いを皮切りに、動いたのは同時だった。
ミゼンが小さな複数の魔弾を広範囲に放つと共に、ファウストの爆発がミゼンの超至近距離で巻き起こる。が、それらを互いに魔障壁で防ぎきると、
「おい、さっさとさがれ。さすがに足手纏いの面倒は見切れないからな。――魔力陣営」
ミゼンはロウに言葉を掛けながら、複数の魔力塊を周囲に展開し、メフィストは不可視の魔力塊を至る箇所に設置する。
「助けてくれたことには感謝する。ありがとう、ミゼン。だが――」
「共に戦うなどとほざいてくれるなよ? ただ、あまり離れすぎるな。今に限っての話なら、その方が俺はより一層強くいることができる」
「どういうことだ?」
「ん? なんだ、俺がここにいる意味のすべてを理解しているわけじゃないのか。まぁいい」
そう言ったミゼンの後方、ロウの眼前で爆発が起きる瞬間、ロウの体が風にのってふわりと浮き上がりそれを回避。
と同時に、二匹の蛇が巻き付いたような杖を取り出すと――
「炎と水の双蛇」
放たれたのは炎蛇と水蛇。顎を開いた二対の蛇は、設置されていた不可視の魔力塊その悉くを呑み込み、起爆させていく。さらには――
「勘違いするなよ? これはお前にではなく、数年とはいえ共にいたセツナへの贈物だ。あの忠義を知ったからには、眠ったままお前に死なれることがあまりにも不憫なのでな」
ロウに纏っていた風を乱暴に解いたかと思いきや、地面にふらつきながら着地したロウへと、中空に魔素と散った元自身の魔力をロウへと注ぎ込む。そして、
「これはどういった絡繰りかな? ミゼンたる君に、私が与えた力以外の能力などなかったはずなのだけどね。とはいえ面白くろくはあるけど、さすがに自由にやりすぎだよ。こうも抵抗されすぎると、ほら……さすがに目障りだ」
メフィストがくるりと回転させた杖をミゼンに突き付けた、その瞬間、
「目障り、か。それには同意しておくさ。俺も見下ろされるのは好きじゃないんでな。――ひれ伏せ」
「なッ!?」
襲い来る骨が軋むような感覚に、互いの顔が苦痛に歪む。
しかし、構えていたのとそうでないのとでは雲泥の差があるのは明白だ。
突然のし掛かった高重力という重しは、メフィストの四肢を容易く地面に縫い付けた。
「忘れたのか? 人口生命体の生み出し方や神器の作り方、それはお前が総帥の魂を代償に与えた知識だ。俺はその知識を受け継ぎ、人工生命体を造った。だけどな、その俺自身も総帥の手で造られた人口生命体だ。なら、人工生命体に与えることのできた力を、俺自身が使えない道理はないだろう」
そう、ミゼンが使った力は、それぞれアリスモスの持っていた力だ。
その力を前にして、驚きを隠しきれなかったのはメフィストではなくロウだった。
何故ならロウが知る世界の中で、ミゼンがそれらの力を使ったことは一度もない。そして何より、今ミゼンが使ったのはテッセラ、エクスィ、トゥリア、ズィオ、エナの力で、残るペンデとエプタの力は使ってはいなかった。
その共通点から考えられるのは、ミゼンが彼らの力を回収することができたのが、ペンデとエプタを逃す為に彼らがミゼンと戦ったときだということだ。
ならばミゼンがロウと対峙した際も、その力を使うことができたはずなのだ。
しかし彼はそれを使うことなくロウと戦い、そして敗北した。
『我が君。おそらくその答えは、デュランタにあるのだと思います』
(セツナ、目が覚めたのか。よかった)
『存分に力を振るうことは叶いませんが、あの者のおかげでなんとか』
(それで、どうしてミゼンは一度も力を使わなかったんだ? それにあの杖は確か……)
不意を突かれ膝をつきはしたが、高重力下であったとしても、メフィストを完全に縛りつけることはできない。しかしその上で、ロウを狙うことがミゼンの枷にはならないし、なりよりその余裕もないと判断したのだろう。
ミゼンの力を冷静に認め、彼に全力を注ぐメフィストとミゼンの戦闘は、いかに魔力を精密に制御しきれるかの勝負になっていた。
共に影響のある重力場の中で、至近距離で得物をぶつけあいながら、互いを巻き込む魔力爆発や飛び交う魔弾、燃え盛る火炎に押し潰す水圧、そして身を裂く風刃。瞬時に必要な箇所へ的確に魔力を纏い、または魔障壁で防がなければ、たったの一撃が大きく差を分けるほどの熾烈な攻防が続いている。
かといって、互いに魔力に長けた者同士の戦いだ。常に魔力を纏っていれば、短期的にみると安全ではあるが、先に魔力を失った者の敗北は必至。
故に、必要なときに必要な魔力を練ることの重要性が、より顕著な戦いだといえるだろう。
そんな二人の攻防から目を反らすことなく問い掛けたロウの言葉に、セツナは自分の知る限りのことと、短い年数ではあるが、ミゼンという男を側で見てきたからこその答えを述べる。
『はい。あの杖は、智導神ヘルメスの神器の模造品です。彼の元から資料を盗んだときに、あの杖の存在を知ったのでしょう。我が君の神器を模造したのです。おそらくは、そのときの副産物。そして何故、我が君の知るこれまでの世界。七七六回の世界であの力を使わなかったのかというと……使わなかったのではなく、使えなかったのです』
それは予想通りの答えだった。
本来であれば、ルインの城からのエプタたちの脱出劇などはなく、アリスモスのすべてをセツナが手に掛け神器へと戻していたからだ。
その事象の変動とミゼンの使った能力を合わせて考えると、やはりそのときにアリスモスの能力を宿したということになる。
つまり、これまでの世界線では能力そのものを宿してはいなかった。
が、ロウが”何故一度も使わなかったのか”という疑問を抱いたのは、これまでの世界線でという意味ではない。
今回に於ける古城でミゼンとロウが戦ったときに、という意味だ。
それらすべてを駆使していれば、また違った未来になっていたかもしれないというのに。
『もうおわかりかと思いますが、彼がその力を手にすることができたのは、デュランタによる介入があったからです。彼女の話を聞き、その覚悟を感じ、思うところがあったのでしょう。彼自身が気付いていたのかは分かりません。ですがきっと、初めて経験する様々な感情がそうさせたのです』
それはきっと、これまでに無かった力で勝ったとしても意味はないという誇り。
ロウを救う為に死力を尽くしたデュランタの助言で得た力を、ロウを討つことに使うということへの不可解な嫌悪感。
言葉の通り命を捨ててでも、ロウの元へ帰ろうとしたアリスモスの姿。
そして、自分の復讐がとても小さく思えるほどの、デュランタを彩っていた様々な感情の色と、命はおろかその存在すべてを賭しての彼女の綴る物語。
どうして、などとミゼン本人に聞いたところで、返ってくる答えは「わからない」の一言だろう。
しかしそれは、人口生命体であるが故にファウストの最期の言葉を理解できないと卑下していたミゼンが、変わり始めているということだ。
ロウにとって、七七六回の世界でその本心すら知ることできず、ずっと救うことのできなかったミゼンの心は、きっとその答えに辿り着くのだろう。
『彼女にとって、それは我が君を救うために必要な過程でしかなかったのでしょう。しかしそれでも、彼女は我が君にすら為し得なかったことを……我が君の取り零した誰かの無念さえも、すべて拾い集めてくれていたのですね。さすがは我が君の妹君です。本当に……ご立派です。ですが――』
(わかってるさ。ちゃんと、わかってる。これはただ不幸しか残らない不幸な結末の物語に、幸福の花を添えただけ。俺と深く関わった登場人物の結末自体が変わることはない。これまでも、そしてこれからも……)
そう自分に強く言い聞かせるように言葉を噛み締めると、ロウはここからでは目視できない虹の塔の方を向いて、誰かに何かを伝えるような仕草をとった。
…………
……
一方、その光景を見ていたシンカは、その光景を自分が作り出したものであるという自覚のないまま、ただ茫然と目を見開いていた。
言葉には出さずともその姿から分かる疑問にサラが答える……はずだったのだが。
「っ、のっ、いい……かげ、んに……しなさいよッッッ!」
響き渡ったのはリンの怒号と、空気を震えさせるほどの力の反響だった。
「おや、さすがはカリンの娘だね」
「ふざけないでください、サラ様! いったいどういうつもりですか!?」
リンはあまりの精神的負荷で床にへたり込んでいるシンカに駆け寄ると、小さな肩を優しく抱き寄せながら、サラを強く睨付けている。
「……リン?」
「えぇ、大丈夫。ロウは無事よ。大丈夫だから」
「リンっ」
やっと気持ちが追いついたのか、押し寄せる安堵感にシンカは包み込んでくれているリンの腕を強くしがみつくように握りながら、震えた声を漏らした。
「ロウのこと、世界のこと……デュランタの言っていた辿り着く未来。そのすべてを受け入れて戦うと決めた以上、生半可な覚悟でいられないのは理解しています。でも、どんな絶望でも諦めずに前を向いて歩むと誓ったとしても……これはあんまりよ」
出会った頃に比べ、肉体的にも精神的にもシンカは大きく成長しただろう。
それこそ幾度の苦難と挫折、試練や絶望を乗り越えてきた。
何度も弱音を吐き、新たな覚悟を宿し、それでも襲い来る絶望に膝を屈することは、果たして弱いといえるのだろうか。おそらくは、否だろう。
水の苦手な子供がこのままではいけないと覚悟を決め、浅い湖で水を克服したとしよう。努力し、克服したのだからそのときの覚悟は本物だったのだ。
しかしだからとって、流れの激しい川ならどうか。大きな波の押し寄せる海ではどうか。暗き海底に踏み出す勇気は最初から持ち得ているのだろうか。
たとえ水を克服した覚悟が本物でも、同じ水に付随する恐怖はまた別物なのだ。
人は酷似したものや事象にたいしても、大小はあれど何度も覚悟を問われながら生きている。何度も膝を折り、そして立ち上がるのだ。
故に、覚悟を決めたくせにと膝を屈する者が弱いのではない。
そこから立ち上がろうとしないことが弱さなのだ。
だが、今回ばかりはこれまでと少し毛色が違っていた。
デュランタのように、覚悟を問うためにシンカに試練を与え、苦難の道を歩ませ、絶望を味あわせたのではない。
培った揺るぎないはずの覚悟を、あえて絶望へと叩き落としたのだ。
だからこそ、リンはその怒りを抑えきることができなかった。
ロウの無事な姿を見て、余裕のなかった思考が冷静になった途端、サラの意図に気付くことができたからこそ。
「立ち向かうためにこうして寄り添うことも、いけないと言うんですか?」
こうしてシンカを抱き寄せるのは、何度目になるのだろうか。
確か初めは内界の記憶しかなかったシンカが、月浮島で外界のことをスキアに聞かされたときだっただろうか。
それからリンはずっとシンカを妹のように思いながら側で見てきた。
決して涙を見せない少女。
しかし、その心はすぐに泣いてしまうようなか弱い少女だ。
それでもシンカは彼女なりに強く在ろうと、何度も膝を折りながら、それでも立ち上がってきた。
だがそれはきっと、シンカが彼女にとっての本当の絶望を知らなかったからだ。
今だから分かる。
シンカにとって、きっとロウがすべてだったのだ。
だからまるで互いに互いの記憶がなかった月浮島でも、たかがロウがいなくなっただけであれほどの動揺を見せていた。
あのときは希望を見失ったからだと思っていたが、おそらくはただ無意識に求めていたのだろう。
彼が大切な存在であると知っている魂が、彼を何度も失ってきたことを知る魂が、彼を救えないことを知っている魂が、彼と共にいられないことを知る魂が、彼がいないということに対して過剰に反応していたのだ。
きっと、記憶がなかったからこそ。
それからシンカが弱音を吐きながらも、新たな覚悟と共に立ち上がってきたのは、つまりはそれが彼女にとっての真の絶望ではなかったからだ。
ロウが死にかけたことはあった。が、それは本当の死ヘの直面ではなかった。
たとえそれが絶望に近しいものであったとしても、何かや誰かによるなにかしらの可能性が残されていた。
おそらくはそれも、魂の奥底で眠る記憶が、根拠のない自信となって「ロウなら大丈夫」と思わせる要因になっていたのかもしれない。
ロウに突き放されても、置いて行かれても、別の道を歩みそうになったとしても、それは決してロウとの死別を意味するものではなかった。
だが、今回は違った。
魂さえも知らない道で、救いという可能性は存在していなかった。
零コンマ幾つも零の続く先の一でもたとえあったなら、決して零ではなかったのなら、その可能性を誰かが示してくれたなら、足掻くこともできただろう。
しかし、零だった。奇跡など、起こり得るはずもなかった。
それを審秤神たるサラ・テミスが肯定するような発言をしたのだから、それはより一層真実味を帯びて、シンカを彼女にとっての本当の絶望に叩き落としたのだ。
だが、それなくして無から一は生まれなかったと、サラは言うのだった。
「堪忍な。やけどあの場で可能性が零でしかなかった以上、なんとしてでも生み出す必要があったんや。一という奇跡を。今からちゃんと説明するから、みなはんもちょっと矛を納めてくれんかな?」
言って、サラが指を鳴らすと、その他全員がまるで何かの拘束を解かれたように、動こうとしていた勢いのまま転げそうになりながらも、荒い息を整えた。
凶報などの衝撃は時に頭の中を白く染め、気を失わせることがある。
それと同様に、本当の恐怖などといった感情は、絶対に動かなければならないときでさえ、人の行動を阻害してしまうことがあるのだ。
だからだろうか。最初は誰もがそういった類のものだと思っていた。
ロウの死という受け入れがたい情報が、思考を凍結させ声を奪い、体の自由を阻害しているのだと。
しかしロウの無事に胸を撫で下ろした後もそれが継続していた時点で、やっと気付くことができたのだ。
その原因が、サラであるというとに。
「ここまで慎重に動いてきたデュランタはんの脚本の中に、あのメフィストのことが含まれてへんなんてことは、考えられへんかった。やけどあの状況では、どう考えてもロウはんの助かる道は残されてへん……なら、この時代では零の可能性を、未来の要因を使って一へと生み出す必要があったんや」
そう、デュランタがこの世界の運命に別の道を示すことができたのは、彼女が未来人であるという本来ではありえない外因があったからだ。
変えられない運命を無理矢理変えるというありえない行為には、それ相応のありえない要素が必要になってくる。
しかし、デュランタという存在はもうすでにない。
そんな中、あの場で未来の要素を含むものといえば、デュランタからロウへ、そしてセリニへと手渡された魔石。
そして、デュランタが敷いたまだ機能してきない布石だけだろう。
それらを繋ぎ合わせる中で、零から一を生み出せる方法はたった一つしか思い浮かばなかったのだ。
世界の運命という大きな枠組みの中では、何もできずにいる一個人の生は死と変わりないものだ。
闘技祭典で死ぬはずだったものの、意識不明のまま生き続けることのできたセレノのように、あるべき死を回避した者……それがミゼンだった。
そのミゼンはロウと戦う前、ロウではなくシンカに対して能力を使ったある取引を持ちかけた。 簡単に言えば敗者が勝者に従うというものだが、
「シンカはんは、その内容をちゃんと覚えとる?」
言われ、シンカはそのときのミゼンとの会話を思い返した。
”さっそく契約といこうか。まず、勝負は俺と神殺し、お前とセツナの一対一だ。お前たち二人が勝てば、こちら側の神器五つを差し出した上でお前の望みを受け入れよう。死ねと命じるも、虹の塔へ連れて行くも自由だ”
”そして俺たちのどちらかが勝利すれば、二つの神器を返してもらった上で二人とも俺の軍門に下ってもらう。どちらかが逆らうか逃げるかすれば、片方の命はない。そもそもこの戦いを、無事に生き残ることができたらの話ではあるけどな。一応言っておくと、俺の能力はリスクが大きければ大きいほど強制力が強まり、常識では考えられない程の力が働く”
「思い出せた? 確かにあの子はこの塔に連れて来られた。やけど、それはシンカはんが望んだからやない。自分の意思でここに来たや。つまりシンカはんの望みはまだ叶えられてなかった。その上でさっきこう願ったやろ? ”誰でもいいからロウを助けて欲しい”て」
ならば周囲の支えを無くし、そこまでシンカを追い詰めなくとも、直接ミゼンに望みを伝えればよかったのではないか。
皆の表情を見れば、そう思っているのだとわかる。
「やけどな、重要なのは一番可能性の高い世界。他の可能性を食い殺し、剪定した滅びという時間軸の中で、ミゼンはんの死が確定しとったってところや。ずっと塔におって何にも影響せんかったから、あの子はこれまで生きていられた。やけど未来を変える重要な役割を担った以上、何度も説明したように死から逃れることはできん。ただ望むだけであの子が戦場に立ったとしても、ロウはんの窮地を救うことはできんかったやろう。やから、死への抵抗力をできる限りあげる必要があったんや」
ミゼンの能力は、契約内のリスクが大きければ大きいほど強制力が強まり、常識では考えられない程の力が働く。
そして、望みの質が高ければ高いほど、それを叶える為の力が増すのだ。
人は自分でどうしようもない出来事に直面したとき、仲間を頼ろうとするだろう。それでも駄目なら、周囲の者を頼るだろうか。それが駄目なら神に祈るか。
心の近しい者から頼りつつ、諦めきれないままその望みは人の域を超えていく。
だが、それでもどうしようもなく絶望し、諦められないのなら、人や神を含むありとあらゆる生物や事象は同化する。
つまりは「誰でもいいから救ってくれ」という懇願は、深い絶望の中での最終的かつ究極的な望みなのだ。
だがしかし、ただでさえデュランタの手によって未来が変わり始め、その抑止力が働くことで発生したあの場面の中、それに抗うにはまだ足りなかった。
だからこそ必要だったのが――セリニが託された魔石だ。
「デュランタはんは消えていく中で……こう言うとったやろ?」
”あの日の約束を……まだ、諦めないで。私は、ずっと、待っているから……”
その「私」が示すのは消え逝くデュランタではなく、この時代のセリニだった。
そして、諦めないでと願う「約束」が示すのは一つしかない。
何故ならロウが果たせなかった最初で最後の約束は、それしかなかったのだから。
「確信はなかった」
かつてエリスを目の前で失い、救えなかったデュランタが、ロウを救うために未来から来たというのに、エリスを諦めることなどあるのだろうか。
「とても信じられることでもなかった」
しかし、死者は決して蘇らない。それは絶対に覆すことのできないものだ。
「ありえへんって切り捨てて、他の布石を繋ぎ合わせて何度も考え直した」
だが本当にエリスとデュランタの死の後に、メフィストの襲撃があったのが偶然ではなく、綿密に練られた計画のうちの一つだとしたら。
「でも考える度に、おかしいんよ。黒い雪とディーヴァをどないかするなら、三度しか使えん時止めの力を使うタイミング……あれは悪手や」
個の時止めをエリスを討たせぬためロウに。世界の時止めをロウに力を返すために。そして範囲の時止めをエプタとセリニが間に合うよう時間稼ぎのために。
しかし最善を考えるなら、ロウと共に黒雪から溢れた降魔と戦ったとしても、デュランタの力なら時を止めずロウより先にエリスを討つことはできただろう。
その後、時止めの力を駆使して二人で神魔級を倒し、その後でゆっくりと最期の刻を迎えることもできたはずだ。
そうすれば、おそらくロウの魔力が枯渇し、あそこまでぎりぎりの勝利にならなかったに違いない。
だが、あのデュランタがそうしなかったということは、それは決して最善ではなく、彼女の行動こそが最善であるということに他ならないのだ。
「黒雪とエリスはん。エプタはんのこと、セリニはんのこと。ロウはんが戦われへんことを餌にメフィストを釣ったところまでがデュランタはんの脚本やったとしたら……その目的は黒雪の機能停止、行動の読めんメフィストの排除、ロウはんの力の覚醒、そしてロウはんと自身の心的外傷となったあの子の救済。それしか考えられんかったんや」
だからこそ、いくらありえないと思っていても、それに縋るしかなかった。
決して起こるはずのない……その奇跡に。
「でも、ほんまに奇跡って起こるんやなぁ」
そう言って申し訳なさそうに、しかし安堵するように、サラはずっとシンカの傍に居たのであろうカグラを見つめながら、とても小さな笑みを浮かべた。
…………
……
ミゼンが戦場に現われる少し前。
シンカの他に必要不可欠だったもう一人の少女は、ロウに託された魔石へと魔力を注ぎ、そして――
「……ど、どういうこと?」
焦燥の色を濃く浮かべたセリニが、手元の魔石に視線を落としながら戸惑いの声を漏らした。
「反応、しない? そんな馬鹿な……」
「えぇ、確かに見たことのない魔石ですが、魔石である以上は必ず魔力に反応し、何かしらの変化を見せるはずです」
リコスとクローフィもセリニと同様、不可解な魔石に戸惑うも、彼女たちの切り替えは早かった。
おそらく、万が一に上手くいかなかったときのことも想定していたのだろう。
二人は互いに見合うと、悲しげに微笑むクローフィにリコスは微笑みを返し、セリニの前で片膝をついて思いの内を伝えていく。
「セリニ様、私にとって……いえ、私たちにとってロウ様がすべてです。ロウ様に救われてから、私たちはあの御方にずっとついて行こうと決めました。そして、これまずっと……そうしてきました」
「……リ、コス?」
どうして今、そんなことを口にするのだろう。
その疑問は得も言われぬ嫌な予感となって、セリニの胸を締め付ける。
「そのときより、決めていたのです。ロウ様の身に万が一があった場合、その仇を討つ役目とロウ様の守りたかったものを護り続ける役目を」
今のリコスから感じるそれと同じものを、セリニは鮮明に思い出せるほど近くで感じたことがある。
同じなのだ。自らの死を受け入れ、戦場に向かったデュランタと。
「ま、待って。今から向かったって間に合わないわ。それなら、残り僅かな時間でも他の方法を――」
「確かに今から行ったところで、ロウ様の身をお救いすることはできないでしょう。ですが、あの男を逃がすわけにはいきません。今から向かえば、仇を討つにはまだ間に合います」
「駄目ッ! 行かせないわ! これは命令よ!」
必至にリコスの服の裾を掴み、涙混じりの瞳で訴えかけるも、何をどうしたところで彼女を引き留められないと理解していた。
何故なら、幾ら女神たる者の命令であったとしても、本当の意味で彼女らがそれを聞く相手は、きっとロウだけなのだから。
それでも、行かせたくはなかった。諦めたくはなかった。
「やっと素直な気持ちを伝えられたと思ったのに……どうして。やっと、前を向けると思ったのに……どうしてなのッ!? ……エリスっ」
魔石から僅かに感じたエリスの温もりに縋るように、セリニは魔石を強く握り絞めた。だが……
「セリニ様。エリス様はもう、この世にはいません。あのディーヴァは確かにエリス様の魂を宿していましたが、それでも……決して死者は蘇らないのです」
リコスの服を掴むセリニの手に、クローフィがそっと手を重ねそう言うと、それを振り払うほうにしてセリニは少し後退った。
「……二人はもう、兄様を」
救いたいとは思わないのか、という言葉をセリニは呑み込んだ。
そのような分かりきった問い掛けに、意味などないのだから。
「もちろん、今この命を捧げることでロウ様をお救いできるのなら、喜んで自らの心臓を貫きましょう」
「私たちにとって、主を先に逝かせ生き残ることは、何よりも耐え難いことなのですから」
「私もよ……私が消えればよかったの。私の代わりに、エリスが救われればよかった。私が消えて、未来の私が生き残ればよかった。私が……私がこの心臓を兄様に返せばよかった!」
そう悲痛な声で叫ぶセリニを見て、二人は思った。そして心の中で問い掛ける。
ロウに、そしてデュランタに。
この選択は本当に正しいものだったのか、と。
ロウの命を、ひいては世界の未来を背負うには、あまりにも弱い少女。
与えられた役目を果たせなかったとき、セリニがこうなるのは火を見るより明らかだったはずだ。
その上で、デュランタが過去の自分に重い試練を与えることはあったとしても、ロウは決して成せぬ難題を押しつけはしないと思っていた。
だが、実際に魔石はなんの反応も示さず、できることは何もない。
ならば単に、セリニが再び立ち上がることを信じて、世界の未来を託したというだけなのだろうか。
今のセリニを放っておきたくない気持ちはあるが、もう時間は残されていないと、リコスはクローフィに後のことを託し踵を返した。
ロウを失い、あまつさえその仇に手の届かないところに逃げられれば、この先死んでも死にきれない。
差し違えても必ず報いは受けさせると、そんな覚悟を宿した背中に届いたのは、今にも消えてしまいそうな弱々しい声だった。
「エリスはもういない……わかってる。私の前で死んだんだもの。未来の私だって、もういない。残された無力な私にできることは……なにもない。なら私は、エリスに、兄様に、デュランタに……なんのために生かされたの?」
ロウに貰った命だからと、これまで死ぬこともできずただ漫然と生きてきた。
だが、大切な妹を救えなかった命だ。大切な兄を救えない命だ。
ならばデュランタと同じように、この先にある絶望の未来の先で、彼女と同じようにもう一度……否、それも不可能となってしまった。
すでにこの世界は大きく変化した。デュランタと同じ道は辿れない。
ならば、この命にいったいなんの意味があるのだろう。
「貴女を救えなかった私のことを赦してくれなくていいから。私の身体をあげるから。だから、お願い……私の、貴女の大切な人を助けてよ」
これまでのことはすべて必然だった。
未来に咲いていた花たちは、確かに徒花となって散ったのだ。
しかし最期に残った二輪の花が見せたのは、見事に返り咲く徒花の姿だった。
それは何年も泥に塗れながらも耐え抜き、思考し、演算し、緻密な舗道を水面下に敷くことができたからだといえるだろう。
自分の弱さを知るからこそ、仲間の行動原理を知るからこそ、未来の誰もがこうなればこうするという理解のもと造られた勝利への道標だ。
つまり、この時代の者たちからすれば偶然に思えたことも、未来の者たちからすれば必然であり、信頼していたからこその結果であるといえる。
故に、デュランタにとって、この時代のセリニの思考や言動などは、まさに手に取るように分かることだった。
「……お願い、エリスっ」
だからこそ、ここで彼女がそう思うことはデュランタにとっては当然で、必然だったといえるだろう。
しかしこの状況を打破するには、それだけでは不可能だった。
どれだけ他の選択肢を模索し、様々な計画を立ててみたとしても、どの演算にもたった一度だけあるものが必要不可欠だったのだ。
しかしたった一度だけ必要なそれは、たった一度しか使えないものだった。
それは――奇跡。
「「セリニ様!」」
クローフィとリコスが驚声を上げる中、一瞬にしてセリニの身体が魔石から発せられる眩い光に包まれると、とある少女の悲痛な想いが伝播した。
それは元々あった皆の想いと溶け合って同化し、より強い願いへと変化する。
「クローフィ、今のは……」
「私にも何が起きたのか……ですがおそらく、あれはシンカの……」
理解の及ばない現象に呆然とする中、眩い光が失われていくと、気を失っているセリニが力なく倒れこむ。
それを間一髪でクローフィが抱きとめると、彼女はそっとセリニを地面に横たえ、その無事を確認するように口元に手をかざしながら脈をはかる。
呼吸と脈が正常なことに安堵するも、二人はセリニのある変化に戸惑いを隠せずにいた。
ロウと同じ漆黒の髪が、部分的に白線に染まっているのだ。
おそらくはセリニの持っていた魔石が、虹の塔側のシンカに何かしらの影響を与え、一先ずとしてのロウの救済に繋がったのだろう。
が、完全に安堵するわけにもいかず、二人は今後の行動についてより慎重にならざるを得無くなった。
一方で、クローフィとリコスも感じ取った誰かの強く悲痛な想いが一番影響を与えた相手は、当然として虹の塔にいたはずのミゼンだった。
『お願い、ロウを助けてっ、誰もいい……誰でもいいからッ! ロウをっ!』
――助けて!
ずっと虹の塔の地下にいたミゼンにとって、それがどういう絡繰りかは分からなかった。が、それが何を意味しているのかは瞬時に理解することができた。
(ふっ、これがデュランタの言っていた合図というわけか)
何よりも強い願いは、本来であれば英雄と共に皆を導く担い手となっていたはずの力によって、彼の胸に強く届いていた。
戦場においての英雄の鼓舞は兵の力を引き上げる。
熱い想いは伝播し、心を同調させ、同じ目的に進むための大きな力と成る。
それと同様、シンカにとって本当の絶望を知った悲痛な叫びは、虹霓神の力によって増幅し、これ以上ない願いとなってそれを叶える担い手へと届けられたのだ。
故に少年はこう答えた。
「いいだろう。それがお前の願いなら」
与えられた最期の役を演じるため、あの日少女の勇気によって交わされた契約を履行するため、自らの復讐を果たすため。
そして、捨て置けばよかったはずの自分を救った男への、恩に報いるそのために。




