312.ユメに見た景色は未来かそれとも泡沫か
踏み出した一歩。そのまま止ることなく駆けだした足。
それはずっと臆病だった少女が、未来の自分に貰った言葉を胸に、やっとの思いで振り絞った小さな勇気だった。
だがその勇気は、何より大切なものを再び傷つけた。
幼き頃の少女が吐いた優しい嘘という名の勇気が、禁忌に触れてしまったように。
「……うそ……兄様」
幼き過去、自分のせいで誰よりも強かった兄は大きく力を失った。自分が彼の世界を守る手段を削いでしまった。
だから疎ましいと思われ、拒絶されても仕方がない。嫌われても仕方がない。
一緒にいることが煩わしいと思われ、愛想を尽かされたとて仕方がなかった。
兄に拒絶されたと思い込み、その真意を知ることを恐れていた。
その心に触れて本当に拒絶されたなら、二度と立ち上がることなどできないと分かっていたから……だから、怖かった。
だけど本当は気付いていたのだ。そんなことはありえないと。
たとえどれだけ失敗しても、我儘を言っても、傷つけても、兄の愛情が色褪せることなどあるはずがないということを。本当は、わかっていた。
だってほら、こんなときでさえ……
「……大丈夫か?」
顔の半面から腕にかけて大きく傷つきながらも体を起こし、まるでなんでもなかったかのように、心配そうな声でこの人は微笑んでくれるのだから。
「ここは私共が」
「セリニ様はロウ様を連れてお逃げください」
ロウとセリニの前に立ち、得物を構えるリコスとクローフィだが、その表情と声音には焦りの色が濃く浮かんでいる。
当然だ。二人が弱者なわけではない。むしろ強者であるからこそ、その気配だけで相手の実力を知るには十分すぎるのだから。
冥国オスクロイアの地で、貴族悪魔の中でも実力のあるガープを討ったリコスが彼女と同等の力を有するクローフィと力を合わせたところで、時間を稼ぐので手一杯といったところだろう。
とはいえ、いくら時間を稼げたとしても、魔力も枯渇し重傷を負ったロウを連れてセリニが逃げ果せる確率は極めて低い。
それでも他に選択肢がない以上、僅かな可能性に賭けるしかないのだ。
そんな思いさえ無駄だと言わんばかりに聞こえてくる嘲笑と共に、歪んだ景色から一人の男が姿を見せた。
「勇気と無謀は紙一重と言うけれど、選択肢がなければ無謀と理解していても立ち向かわなければならないときもある。いやはや、死する愚者のためにそれでも命を賭ける者の姿は、いつ如何なるときも素晴らしいものだ。えぇ、実に美しい魂の輝きだよ」
白の混じった鈍色の髪をすべて後ろへと流して固め、上唇の上には短く整えた髭。燕尾服に身を包み、手には宝石商がつけているような白い手袋をしている男。
その口から出た挑発染みた言葉に、リコスとクローフィの双眸が鋭利に光る。
「貴様ッ、ロウ様を傷つけたうえ愚弄するか」
「決して贖うことのできないその罪、万死に値します」
が、殺意の籠った二人の言葉を、男は涼しげに受け止めながら言葉を返す。
「事実、愚かでしょう。私がその魂を欲していることを彼は知っていた。これまで手を出さなかったのは、未熟だったその魂が熟れるのを待っていたに過ぎないのだからね。知っていたのであれば、このような状況下ですべての力を使い果たすべきではなかったのだよ。私を狙っていた執行の女神が、守人に誘われた降魔を相手にしている以上、当人が疲労困憊であるこの機を逃す手はないだろう。それを卑怯だとは言うまいね? 強き獲物を狩るのに真正面から立ち向かう必要はどこにもないはずだ。私は騎士などではないのだからね」
メフィストフェレス――ロウとて、彼の存在を忘れていたわけではない。
これまでの繰返でも、一度たりとも分かり合うことのなかった明確な障害だ。
彼の厄介なところは、襲撃時期が毎回違っているところだった。
彼の言葉を借りるならロウの力、魂の輝きがより高まり、その上で比較的安全かつ確実に狩れるときを見計らって現われる。
それ故か、彼が現われない繰返も幾度かあった。
しかしそれは、決して彼の力が弱いからという理由ではない。
メフィストは願いを叶える代償の魂を得る度に力を増し、どの貴族悪魔をも凌ぐ力を有しているにも関わらず、とても慎重なのだ。
だからこそ、かの執行の女神がここまで手を焼いている相手でもある。
そしてそんな相手の特性をこちらだけが知っているという有利を生かし、これまではおおよそのタイミングで網を張り、なんとか凌いできたのだ。
だが、これまでの繰返の中でも今回は最悪の状況だといえるだろう。
「二人ともさがれ」
「ですが」
「奴が今現われた意味を考えろ。今の二人じゃ無理だ」
「…………」
そう言いつつも、セリニを抱き寄せるロウの手に力は入っていなかった。
クローフィとリコスで敵わないというのなら、今のロウなど論外だといえる。
この中で唯一誰かが生き残れる可能性が万に一つあるとするのなら、大人しくロウの魂を差し出す他ないだろう。
もしくは他の誰かの助けを求めるしかないが、メフィストが言ったようにレイラたちが駆けつけることに期待はできない。仮に虹の塔に誰かがいたとしても、ここまで辿り着くには時間が掛かる。それまで持ち堪えることができない以上、今ある手札だけで乗り越えなければならない。故に、
「申し訳ございません、ロウ様」
「その命令だけは了承致しかねます」
クローフィが長銃と細剣を構えると同時に、リコス身の半分ほどもある毛で覆われた大きな鉤爪を両手に構えた。
「勝てる戦だから戦うのではありません。失えぬものがあるから戦うのです」
「故に、敗北が目に見えていても戦わぬ理由にはなりません」
命を捨てる覚悟なら、彼女たちがロウに命を救われたときからすでにあった。
これまではセレノの側で彼女と国を支えるという役目を与えられていたため、ロウのために戦うことを禁じられていたが、今は違う。
セレノは何処よりも安全な虹の塔に辿り着き、月国の未来を背負うセリニは未来の彼女自身の力で前を向くことができた。
ならば、ここでロウのために散ることになんの迷いがあるだろうか。
しかしそんな彼女らの忠義からの行動を、ロウが理解していないはずもなく、
「勘違いするな。未来を諦めたわけじゃない」
そう言って、ロウは腕の中にいる大切な妹の温かさを噛み締めると、小さな頭を優しく撫でて立ち上がった。
「……ロウ様。ですがそのお身体では……」
「俺に嘘が吐けないことは知ってるだろ? 約束しよう。必ずまた会えると」
魔力は残っていない。限界を超えた力のせいで、魔力を増幅させたルナティアはもちろん、他の二人も深い眠りについている。
左半身は麻痺したように動かないが、見た目ほどの重傷ではない。
焼けた痛みが額に小さな汗粒を滲ませるが、耐えられないほどでもない。
だからこそ、毅然であれ。余裕の微笑みで、大丈夫だと安心させろ。
黒い衣服も、戦いの最中で声を挙げないのも、すべてはこうしたときのため。
たとえどのような状況でも、皆に下を向かせないために、諦めさせないために、弱音を吐くな、微笑みを絶やすな。
「……兄、様?」
「セリニ……君にこれを。デュランタが最後、俺に預けた希望だ」
セリニに握らせたのは、一つの魔石。それはデュランタがロウに命を返すときに手渡したものだ。
”だから、あの日の約束を……まだ、諦めないで。私は、ずっと、待っているから……”
私はずっと待っているの”私”とは、おそらくこの時代のセリニのことだろう。
そしてあの日の約束とは、ロウが果たせずにいた約束で間違いない。
だとすると、この魔石はきっとセリニの心の隙間を埋めてくれるものだとロウは確信していた。
何故ならその魔石から感じたのは、散ったエリスの残り香だったのだから。
「それで、どうするんだい? 今の私の興味は彼にしかないのでね。無駄にお嬢さん方の相手をせずに済むのなら、私としてもそれに越したことはない。が、あれだけ聖穴を多用したのだから、執行の女神がここまで来るのにまだ時間が掛かるとはいえ、できる限り無駄な時間ははぶきたいのだよ。退くなら追いはしないものの、あまり悩む時間を与えるつもりもない。しかしどうやら彼にはまだ秘策があるようだ。彼を信じるか、彼の意に背くか。たとえ背くことで彼の秘策が水泡に帰するかもしれないとしても戦いたいというのなら、それに応じるのも紳士の務めだからね。私としては、どちらでも結構だとも」
実に悪魔らしい鼻につく言い回しだと、クローフィとリコスは顔を顰めた。
こういった類との問答に関しては相性が悪いと自覚しているからこそ、自身の判断が正しいのか間違っているのかが分からなくなる。
どの言葉が正しくて、どの言葉が引っかけで、どこに裏があるのだろうか。
それでも、彼が約束を破らないことだけは、彼女たちにとっての紛れもない真実だった。
「ロウ様。私たちはロウ様にとって、お荷物ですか?」
「違う」
「ならば何故……我々も共にロウ様と――」
「今じゃない」
リコスの言葉を遮るように、ロウは言葉を重ねた。
「お前たちが死力を尽くすのはここじゃない。頼りにしてるからこそ、二人の力が必要なときがあると知ってるからこそ、ここでその手札をきりたくないんだ」
復讐劇の幕は下り、次の舞台の幕が上がる。
彼女たちには彼女たちの役があり、それはこの舞台ではないのだ。
それでもロウの死がこの世界に幕を下ろすのなら、それこそ起きてはならないものだ。世界の終焉に次の舞台は存在しないのだから。
「どうしても彼を助けたいのなら、ひとつ良い提案をしようか。私の奇力が魂を代償に願いを叶える契約というのは知っての通りだね。だから、その女神の魂を差し出せばここは退くとしよう。その魂で、彼を含めた三人の生存という願いを叶えれば、契約に縛られた私はこの場を退かざるを得なくなる。それを反故にすることはできないからね。どうかな?」
「それを受け入れると思っているのか?」
「でも、当の本人は乗り気みたいだけどね。それもそうだろうさ。彼女が居なければ、あのとき死んでいれば、きみの力が失われることはなかったんだろう? つまり、世界の運命はもっと単純だったという話だね。こういった危機に直面することもなかったはずさ。だけど、その与えられた命で彼女はいったい何をしたのかな? 答えはそう、何もしなかった。そんな罪を背負ったまま生きるのは、地獄だと思うけどね。事実、ずっと死にたいと思っていたんじゃないかな?」
「……それ、は…………」
メフィストに向けられた視線を直視できず、セリニは目を泳がせながら震えた声を漏らした。
「私にはわかるとも。罪の意識に苛まれ、私に願いを求めた人を数え切れないほど見てきたのだからね。死にたくとも、与えられた命を無駄にできない。だから地獄という現実をただ無為に生きることしかできない。辛かっただろう、苦しかっただろう。だけど、私ならその魂を救ってあげることは可能だよ。その魂を捧げることで罪を贖えるのなら、その命にも価値が生まれる。この絶望的な状況の中、きみの大好きな人を救うことができるんだ。そしてそれはきみにしかできない。さぁ……おいで」
見るだけなら紳士のようにメフィストがそっと手を差し出すと、セリニが何かを口にしようとするより早く、ロウが口を開く。
「セリニ、言おうとしてることはわかる。だから、何も言うな」
「でも……兄様、私は……」
「メフィスト。お前の勘違いをひとつ正そう」
「ふむ、勘違い……なにかな?」
「お前は罪だなんだと口にしていたが、彼女の罪がどこにある? あの出来事の原因はこの子の優しさだ。そこに罪はない。それにこれは兄妹の問題だ」
「たとえきみがそう思っていたとしても、罪の意識を抱えながら生きる彼女にとって、生き辛いのは違いないのでは? それでも生きろというのは、きみの欲望ではないかな? 大切な人であればあるほど、その人のために命を捧げることは本望というものだろう。ならば、その思いを汲んであげることも、ひとつの優しさではないだろうか。きみはどう思うんだい?」
再びセリニに視線を向けるメフィストの視界に、ロウがセリニを背で庇うように割って入った。
「この子に罪の意識があったとして、仮にそれが本当に罪だったとしても、何も変わらない。妹のどんな我儘でも、どんな過ちでも、何を言われ何をされたのだとしても、絶対に見捨てない。必ず守る。最後まで笑って許してやる……それが俺の兄としての在り方だ」
そんな嘘偽りないロウの言葉に、セリニの目尻から綺麗な雫が頬を伝って流れ落ちた。
「そしてなにより、この世界に生きるのが地獄といったな。だが、ここよりも酷い地獄を生きてなお、俺の妹は言ってくれたよ」
”確かに不幸ばかりの人生だったけど……でも……でもね――貴方の妹として生まれてきたというだけで、私は誰よりも幸せだったよ、兄様”
それはセリニにとって、言ったことのない言葉だったが、身に覚えはあった。
なぜなら未来の彼女、デュランタが最期に残した言葉なのだから言ったことがないのは当然だが、それでもセリニとって、それはずっと心にある想いだったのだから。
「この状況が絶望だというのなら、お前の知るお前の中の絶望はその程度なんだろう。所詮、隠れて人の弱みにつけこむだけの簡単な人生だったんだろうが……残念ながら目的の成就はできないぞ。一見簡単な遊戯にも、難所のひとつやふたつはあるものだ」
「なるほど。私の世界の人の世にも、勇者が魔王を倒すという物語はとても人気があったものだね。わかるとも。私の人生、私が主人公として見るなら、さしずめきみは魔王といったところかな? ならば尚のこと、数の暴力で魔王を討つ卑劣な勇者にその行為か許されて、弱ったところを狙う私のこの行いが許されない道理もないだろうね」
「もちろんだ。だから、俺が何を隠していても卑怯と言ってくれるなよ? 俺はすでに何度もセリニに救われた。そしてこれからもそうだ。お前にとって奇跡に思える運命を手繰り寄せるかもしれないぞ」
「それはとても楽しみだね」
それは間違いなく虚勢であると、メフィストは知っている。
ロウの魔力が残っていないこと、レイラや虹の塔の者たちが駆けつけることはできないこと、それは紛れもない事実なのだ。
故に、メフィストは念の為に周囲の気配を再度執拗に確かめながら、口角を持ち上げ綺麗な笑顔を浮かべて見せた。
「と、いうわけだ。クローフィ、リコス、セリニを頼む」
「っ……お帰りをお待ちしております」
「御武運を。……さぁセリニ様」
「兄様、待ってます。私、待ってますから」
ロウが振り返ることなく頷いて返すと、三人は足早にこの場から去って行く。
その背を見送りながら、先に口を開いたのはメフィストだった。
「確かに嘘ではないのだろうが、随分と達者なものだね。これまでどれだけの人を悲しませてきたのかな? きみは欺くことに慣れて過ぎているようだ」
「……多くを悲しませてきたことは否定しない。だが、欺いたつもりはないさ」
「ふふっ、果たしてそうかな? 英雄とは常人には成せぬ困難を踏破できる者ではなく、常人に多くを強いられた奴隷の称号だ。確かに最後まで毅然たる姿は立派だとも。しかし、本当にどうにかなるとは思っていないのだろう?」
「…………」
こうした会話の最中でも、ロウは痛みや疲労を堪えながら呼吸を静かに整えていく。
「未来を諦めはわけではないと、そう言っていたね? それは誰の……いや、なんの未来なのだろうか。必ず会えると、そう約束していたね? それは魂を失った体だけが帰っても、再び会えたことになるのではないだろうか。本当に諦めていないと言うのであれば、簡潔に”死なない”という言葉で良かったと思うのだが……どうかね。嘘を言葉にせずとも騙すことは案外容易なものだ。そんなきみの意図をくんで、彼女たちが決断しやすいように私も援護したつもりだったのだが、余計なお世話だったかな?」
本当に白々しい男だと思いながら、ロウは小さな溜息を漏らしながら言葉を返す。
「この間、古い友人を訪ねて冥国に行ったんだ。そのとき、貴族悪魔である彼女は言ってたよ。”悪魔が人を欺く時、必然を偶然だと思わせる。そして貴族悪魔が人を欺く時、偶然を運命だと思わせる”って。なら、言葉巧みに騙すことしかできないお前は……ただの詐欺師だな」
「……言ってくれますね。なら、吐かない嘘で仲間を欺くきみはなんだというんです?」
「それこそ決まっているだろ。英雄のつもりも、救世主になるつもりもない。俺は俺の欲のためにしか動けない人間だ。これまでずっとそうやって誰かの悲しみを積み重ねてきたし、これからもそうだ。俺はただの愚者でいい。だからきっと、俺は地獄に堕ちるような……そんな罪を重ね続けるだけの罪人だよ」
言って、ロウは右手で黒き刀を抜き放つと、
「神刀・?ノ斯魂、華刀・叢ノ紅雪」
横に伸ばした左手につけた細身の腕輪を長刀へと変え、両の手で二刀を構えた。
「魔力がなくとも戦える」
「万全であるこの私に、刀だけで立ち向かうというのかね」
「詐欺師の舌を斬るのに、刃があれば十分だと思うが」
「そうかい、なら遠慮はいらないね。魂さえ奪えたら私はそれでよかったんだよ。ただきみがそのつもりなら、せめて体だけでも無事に帰れるように努力したまえ」
不敵な笑みを浮かべながらメフィストが仕込み杖を突き付けると、急にロウの足元で爆発が起きた。
が、ロウはすでに地を蹴り、間合いを詰めている。
「初手は躱すと思っていたよ。でも、これはどうかな?」
今度は仕込み杖で地面を突くと、ロウの眼前の空間で爆発が起きた。
しかしそれをも横に躱し、ロウは止まることなく走り続けるが、その先々で次々に爆発が起こり、間合いを詰めることができないでいる。
「やはりきみは素晴らしい」
仕込み杖を指揮棒のように振りながら、時には地面を軽く突き、大小と様々な爆発の音を奏でながらメフィストは口を開いた。
「知覚や魔力察知では捉えられない罠。爆発の一瞬のみ感じ取ることのできるその刹那を逃すことなく、これだけ逃げ続けられる者はそういないものだ。仮に感じ取れたとしても、感覚に身体が追いつかないからね。弱った体でその体力がいつまで持つのか楽しみだよ」
魔力がなければ身体を強化することも、魔障壁で防ぐこともできない。さらには遠距離から空間に斬撃を置ける華刀の利点も生かせず、他の遠距離攻撃もその悉くが使えない状態だ。
故に防御面は回避、攻撃面は距離と詰めての剣戟しかないが前者は体力、後者にも明確な問題があった。それは、
「身を削ったとしても骨を断つことはできないというのに、それを理解していてもきみにはその選択肢しか残されていない。しかしそれさえも……」
一瞬の隙をつき、メフィストの懐に入ったロウが刀を斜めに斬り下ろすと、それを受けたメフィストの仕込み杖が火花を散らし、大きな爆発が起こった。
反射的に後方に避けるロウだが、当然刀で爆発を防ぐことはできず、後方に吹き飛ばされながらもなんとか体勢を立て直して着地すつも、対するメフィストは魔障壁を張ることで無傷。
「残念ながら無駄だったね」
そこから追い打ちをかけるよに、ロウの周囲八点で魔力が爆ぜた。
ロウはその魔力を感知していたものの避けられるだけの余力無く、八方からの爆発をまともにくらい、その場で両膝を突いた。
「おっと、魔獣が眠っているほど弱体化しているというのに、今の爆発で五体満足のままとは……避けられるのを警戒するあまり少し加減しすぎたようだね」
ロウの知るメフィストの能力による爆発は、数によって威力が変わる。
いくつまで威力を分け合えるのかは定かではないが、一点一撃を狙い回避される可能性があるなら、この機に確実に逃げ場を奪い弱らせるというその判断は、実に慎重で狡猾なメフィストらしいものだろう。
「とはいえ、窮鼠ほど恐ろしいものはない。慎重にいくとしようか」
そう言って仕込み杖で地面を突くと、満身創痍ながらも強く握ったままの華刀と神刀の刀身の中央が爆ぜた。
右手に持った神刀は咄嗟に後ろへ反らすものの、最初に不意の一撃も受けていた左半身の損傷は酷く、力が思うように伝わらないまま華刀は無残に折られてしまう。
(すまない……ヘパイストス)
刀身が折れると同時に、細い腕輪が砂のように崩れるのをぼやけた視界に入れながら、ロウは心の中で謝罪した。
「少し呆気ないね。秘策があるなら早く出したほうがいいんじゃないかな? それともやはり、彼女たちを逃がす為の強がりだったというのだろうか。だとしても油断するつもりはないけどね」
メフィストは半球状の魔障壁で自身とロウを覆うと、その外側に不可視の爆弾を幾つも設置し、魔障壁を一気に押し広げた。すると、幾度もの爆発が起こる。
気配を消せる者がいたときのための、荒い探知手段とったところだろう。
仮にどうにか回避できたとしても、突然の対処では必ずぼろがでるものだが、どうやら本当に周囲には誰もいないようだ。
メフィストは半ば落胆したように嘆息すると、
「そろそろ頃合いということで、終わりにしようか。残す言葉はあるかな?」
仕込み杖から刃を覗かせた。
対してロウは荒い息を一度を深く吸い、ゆっくりと吐き出すと、メフィストの双眸をまっすぐに見ながら言葉を返す。
「俺の辿ったこの道は……偶然か、必然か、運命か……それとも奇跡か。お前にとってはなんだと思う?」
「ふむ。先程のきみとの問答に習って、ここは貴族悪魔らしく”運命”と答えておこうかな」
「そうか……それはよかったな」
「どういう意味かね?」
「これを運命だと受け入れられるなら、その敗北も本望だろう?」
「……理解し難いね。この状況で大口を叩く意味はあるのかい?」
ロウが刀を杖代わりにして立ち上がろうとした途端、眼前で起きた爆発に吹き飛ばされ、魔障壁に強く背を打ち付けられた。
肺の酸素をすべて吐き出し、魔障壁にもたれる形でずり落ちながら僅かに咳き込む。
「ごほっ……ッ、はぁ……はぁ…………仮に俺が死んだとしても、未来の想いを背負い立つ者がいる。俺にとっての、英雄だ」
「なるほど、それは実に興味深い。当然、魂の質もいいのだろうね。それはいったい誰なのかな?」
「誰? ……みんなだ。俺の死を越えた先で、彼女たちはこの世界を救うだろう」
「だからここで死んでも悔いはないと? 託す者がいるから、きみの敗北ではないと言いたいのかな?」
嘲笑うように問い掛けたメフィストの言葉に、ロウは思わず鼻を鳴らして口元を緩めた。
「ここで死ぬと、誰がいった? 確かに俺の死は近い。それは、絶対に避けられないことだ。それでも……ここじゃない。お前の敗北は、そんな遠回しなものじゃなくて……もっと直接的なものだ」
「しかし未だ周囲になんの気配もなく、きみの魔力も枯渇したままのようだけど?」
「これはある悪魔から聞いた話だが、お前の世界の人間は……魔力を持たず、か弱い存在だったんだろ? そんな人間が、悪魔に対抗するためには……すべてを振り絞らなければならなかった。初めて聞いたときは、驚いたよ。何をしたところで、只人が悪魔に勝つなんてのは不可能だと思っていたからな。だが、そのとき俺はある童話を思い出した。亀だって……兎に、勝つこともある」
「はぁ……少しは面白い話が聞けるかもしれないと思っていたけど、時間を稼ぎたいならもう少し興味のそそられる話にするべきだったね」
メフィストが呆れたように肩を竦めるものの、ロウは構わず言葉を重ねていく。
「兎は亀を、見下していた。兎は、亀を……見ていた。だが亀は、折れなかった。亀は兎を、見てはいなかったんだ。亀が勝つことができたのは、兎が敗北したのは……”運命”の悪戯だったのか? いや、それは”必然”だった。わかるか、メフィスト。俺だけを見ているお前が……他者を見下しているお前が、望みの成就に辿り着けることはない」
「……さすがにそろそろ不快に思えてきたよ。残す言葉ないのなら、もう大人しく散るといい」
メフィストから嘲笑すら消え失せ、冷めた瞳でロウを見下ろしながら、これまでと違った低い声音で死の宣告をする中、
「人が悪魔を欺くとき、敗北を勝利と思わせる。亀が見続けていたのは、自身の望む未来だけだ」
「ならば、そのエピローグにこう付け加えよう。それは亀の見た、泡沫の夢だったとね」
そうして容赦なく振るわれた刃が、ロウの頭部と胴を斬り分けんと横一文字に銀線を描いた
…………
……
ロウとメフィストが開戦を告げる中、凄まじい速度で地を駆けている二つの影。
金色の吸血鬼と銀色の人狼だ。
「ロウ様は何かを伝えようとしていました。ですが、それがいったいなんであるのか……」
「一刻を争うというのに……ッ、不甲斐ない」
ロウが間違いなく何かを託したという点には、すぐに気付くことができた。
しかし、彼が何を望んでいるのか、それが分からないでいる。
「仕方ないわ……あの兄様だもの。帰って来たら、これまでの分もまとめて文句言ってやるんだから」
そう口にする女神の少女に、二人は微かに笑みを浮かべながら言葉を返す。
「そう言いつつ、本人を前にすると縮こまってしまうのが目に見えますね」
「違いないな。セリニ様の場合、不満を好意が上回ってしまうでしょうから」
「……そんなこと、ないわよ……たぶんね。それよりも、ひとつ聞いていいかしら?」
「なんでしょう?」
「この荷物みたいな扱いって、なんとかならない?」
セリニは背中に風を感じつつ、遠ざかっていく視界の景色を眺めながら問い掛けるも、
「脇で抱えるよりも肩で抱える方が速く走れますので」
「……そう、よね。いいの。聞いてみただけだから。ごめんなさい」
二人に比べて数段足の遅い自分の非力さを実感しつつ、素直に謝罪した。
「ですが、これだけ離れれば問題ないでしょう」
そう言ったクローフィが足を止めると、セリニを肩で担いでいるリコスもその足を止め、セリニをそっと地面に下ろした。
クローフィは即座に魔力で生んだ蝙蝠に遠見石を持たせると、ロウとメフィストのいる地点へと飛ばす。
「とりあえず、ロウ様の言葉に感じたことを整理していきましょう」
そうして三人は今成すべきことを話し合った。
まず真っ先に考えついたものの、除外した案は二つ。
デュランタのように過去に飛ぶという案と、時間を巻き戻す安だ。
どちらにおいても、いつまで遡るのかという話になるが、神魔を倒してからメフィストが現われるまでの時間はあまりに少なく、遡ったからといってできることは何もない。
それより以前となると、黒雪や神魔の未来が再び変動する可能性もある。
つまり滅びの未来からきたデュランタが緻密に練り上げた計画を、壊してしまうかもしれないということであり、それは絶対に避けるべき悪手だ。
なにより、過去に飛んでもこの世界線は変えられない。それはデュランタの、未来の人々の想い全てを放棄するということだ。
故にセリニの力を使わずに、現状を打破しなければならないわけだが、この未来に辿り着くまで慎重に事を進めて来たデュランタの計画に、メフィストの存在は想定されていなかったのだろうか。――否、それはないだろう。
もし仮にこの出来事が想定外だった場合、デュタンタと共にこの時代に来たというもう一人が動かないというのもおかしな話だ。
ということは、この出来事とそれを乗り越えることまでを含めての計画か、そうでなかったとしても助けに現われない時点で、やはり自分たちで乗り越える必要があるということだろう。
「だとしたら、やっぱり鍵になるのはこれ……よね」
セリニが取り出したのは、ひとつの魔石。
それはデュランタからロウへ、そしてセリニに渡された魔石だ。
「はい。ロウ様もそれを希望と仰っていました」
「しかしなんの魔石かわからない以上、どこでどう使えばいいかもわからんな。セリニ様は何か思い当たることはありませんか?」
「……触れたとき、エリスの顔が浮かんだくらいで、思い当たることと言われても、特には……」
とはいえ、どれだけ材料が少なくても思考を放棄することはできない。
「……あ」
「何か思いあたりましたか?」
「そんな良いものじゃないけど、デュランタと違って私は何も知らないでしょ? 何も経験していないし、努力もしていないようなただの引き籠もりだったわ。ここに来るまで、リコスに担いでもらわないといけないくらい弱い存在なの。兄様と互角に渡り合った未来の私と違って」
「はい、それは否定しません」
「……そ、そうでしょ?」
微塵の躊躇もなくはっきりと肯定されたことに対して、セリニも思うところがないわけではないが、今はそんなことに時間を費やしている余裕はないと言葉を重ねていく。
「だから、こう考えることはできない? そんな私にこの魔石を預けたんだから、これはどこでどう使っても意味のあるものだ、って」
「正解を導く材料がないこと自体が答えというわけですね。確かにロウ様は成せぬ難題を押しつけるようなことはしません」
「そして相手が妹君ともなれば……」
「な、なに……?」
じっと二人に見つめられ、少したじろぐセリニ。
まったくもって確かな根拠などなく、失敗すれば間違いなくロウの死に直結するだろう。そんな重要な選択だというのに、残された時間はない。
やっと心の扉を開いたセリニに、この役はあまりに荷が重すぎる。
これでロウに何かあれば、セリニが再び心を閉ざしてしまうのは明白だ。
だからこそ、セリニの意見はほぼ正解であると二人は感じていた。
なによりロウはこの魔石を希望と言っていたし、その魔石からエリスに関する何かをセリニが感じた以上、これがセリニの心を傷つけるものであるはずがない。
「ロウ様は道を歩んでいるのではありません。ロウ様の歩んだ後ろに道ができるのです。エリス様も未来のセリニ様もそうでした。だから、信じてください。セリニ様……貴女が道を作るのです」
「セリニ様、貴女はずっと過去に囚われていました。ですが、その瞳はずっと未来を視ていたはずです。望んだ結末……何があっても貴女はずっと、その景色だけを視てきたはずです。叶えたい夢があるならばきっと、貴女はそこに辿り着く」
「もう一刻の猶予もありません」
「……ご決断を」
遠見石からの映像を見ると、そこには力無く地面座り込むロウの刀が折られたところだった。たとえロウデモこれ以上時間を稼ぐことはできないだろう。
どの道、他に何も思いつかないのであれば一縷の望みに懸けるしかない。
そう頭では理解していても、万が一を思えば魔石を握った手が震えてくる。
もし他に正解が、ロウの求めているものがあって、自分が至らぬばかりにその答えに辿り着けなかったのだとしたら……また、大切な人を失ってしまう。
そんな恐怖はもちろんあるし、そうなったら耐えられるものではない。
だが、託してくれたロウの期待を裏切ること、かつてのようにロウを再び嘘吐きにしてしまうこともまた、耐え難いことなのだ。
「ここで何もしないでいても、事態が好転することはないものね。なら、やらないと」
セリニは魔石を優しく握った右手の甲に左手を重ねると、それをそっと胸に押し当てて瞳を閉じた。そして一度の深呼吸を挟み、
「……兄様を救うために、どうか力を貸して………………お願い、エリス」
魔石に触れたときに脳裏に浮かんだ愛する妹のことを思い返しながら、セリニは魔石に自身の魔力を流し込んだ。
…………
……
一方で、ロウの危機的な状況は虹の塔にも届いていた。
一難去ってまた一難などと、そんな生易しい話ではない。
これまでの繰返では起こらなかったディーヴァから続く一連の出来事は、この未来から来たデュランタたちでなければ知らないことだったのだ。
しかし、そのデュランタは消え、彼女と来たはずのミオも姿を見せようとしない。
最初は神出鬼没だったデュランタと同様、ミオが動くと思っていたものの、その気配がまるでないことに焦燥ばかりが募っていく。
「私が行きます」
「やめとき、いくらツキノはんでも間に合わん」
「でもこのままだと兄さんが!」
わかっている。だからこそ、考えなければならないのだ。
未来のサラや他の神々、協力してくれた異界の神による計画を、デュランタは寸分の狂いなく見事にやり遂げてみせた。
そんな彼女らの計画の中で、ディーヴァの存在や黒雪のこと、この世界線におけるロウの未来を知っていながら、メフィストの動きを想定していなかったなどということがありえるのだろうか。
ありえるはずがないからこそ、この危機的状況には抜け道があるはずだと、本当に無駄でしかない足掻きを捨て、サラは頭を名一杯回転させていた。
これまでのデュランタの言動の中に、必ず答えはあるはずなのだ。
水面下で慎重に慎重に動いていたからこそ、デュランタの言動に無意味なものなどあるはずがないのだから。
そうして、いよいよメフィストの攻撃がロウに直撃し、元より満身創痍だった体を容易く吹き飛ばしたのと同じくして、サラはひとつの可能性に辿り着いた。
その瞬間、本当にそうなのかと思考が自問自答する中で、直感がそうだと告げるように全身の肌が粟立つのを感じていた。
故に、サラはロウの照明灯を当てながら、舞台裏で仮面を被る。観客からは見えないそこで、舞台に立つ二人には聞こえない声で、語り部としての役を得る。
「あかん……このままやと、ほんまに……」
そんなサラ呟きが、それだけでこの場を氷点下にまで至らせる。
ロウたち二人の周囲に誰もおらず、虹の塔から間に合う距離でもなく、何をどうすることもできないからこそ、皆の背筋に怖気が走りロウの死という絶望が、容赦なく胸中を黒く黒く染め上げる。
「だ、だったら、せめてクローフィ様とリコス様に……そ、そうよ、メルの能力で二人に戻るように言ってもらえればッ!」
縋るような視線をシンカに向けられると、メルはぎゅっと拳を握りながら俯いた。
「駄目、なんだ。特定の人と念話するには、その人との魔力の波長を合わせるために、その質がある程度わかる状態じゃないと……」
「そんな……だったら、どうすれば……」
苦悶の表情を浮かべながら、無駄だと分かっていても何もせずにはいられないと言わんばかりに、シンカは懸けだした。が――
『これを運命だと受け入れられるなら、その敗北も本望だろう?』
背中に届いたロウの言葉が、シンカの足を止めた。
ロウは諦めていない。やはり作があったのだと、淡い希望を抱きながら、シンカが振り返る。しかし、そんな上手い話があるはずもなく……
『仮に俺が死んだとしても、未来の想いを背負い立つ者がいる。俺にとっての、英雄だ』
「……やめて」
『誰? ……みんなだ。俺の死を越えた先で、彼女たちはこの世界を救うだろう』
「やめてッ!」
諦めたようなそんな言葉は聞きたくないと、シンカは両耳を押さえながら悲鳴にも似た叫びを上げた。
(どうして、こんな……なにか、何か方法があるはず……なんでもいい、何か……ロウを助けられるなら、なんだって……でも、どうすれば)
審秤神であるサラのひっ迫した一言に次いで、ロウの今の言葉が、シンカから完全に冷静さを失わせた。
誰かが寄り添い、何か言葉を掛けているようだが、混乱の最中にあるシンカに届くことはなく、無駄にカラ回った思考だけが、シンカを埋め尽くしている。
本当なら真っ赤に腫らした両眼から、滝のように止まらぬ涙を流し、誰もが直視できぬほどに酷く憐れな姿を晒していたことだろう。
しかし、彼女の瞳は干からびた荒野のように、たった一粒の雫すら落ちることはなく、その哀れな双眸に大切な人の最期となる姿を映し出す。
「い、いや……やめてッ、お願い……お願いだから……助、けて」
混乱と動揺で、悲痛な顔をひっかくように両手を当てながら、シンカは己の願いを口にする。ただ無意識に。それは死の間際、人が神に縋るように。
そして、神の力が及ばぬのならと……
「お願い、ロウを助けてっ、誰もいい……誰でもいいからッ! ロウをっ!」
まるで子供のように、ただ我武者羅に、大切な人を奪わせないでと救いを求めた。
そしてその瞬間――
『いいだろう。それがお前の願いなら』
シンカは目を見開いた。
頭に響いたその声は、彼女にとってあまりにも意外すぎるもので。
しかしぶっきらぼうなその音は、彼女にとっての――福音と成った。
…………
……
「ならば、そのエピローグにこう付け加えよう。それは亀の見た、泡沫の夢だったとね」
そうして、メフィストによって容赦なく振るわれた刃が、ロウの頭部と胴を斬り分けんと横一文字に銀線を描いた。
が――聞こえたのはロウの悲鳴などではなく、僅かに甲高い音であり、散ったのは赤き血潮ではなく、僅かな火花。
ここに来て初めて、メフィストがあまりの動揺を隠しきれずに驚愕の色を濃く浮かべる中、
「――貫通魔弾」
なんの前触れもまったくないまま、突如として現われた闖入者の声に、ただ反射的に身を捻りながら予想外の攻撃を避け、後方へと大きく距離を取った。
そんなメフィストの姿を見られただけでも儲けものだと言わんばかりに闖入者は鼻を鳴らし、ロウの方へ半身で振り返りながら、
「女と交わした契約を果たしに来たぞ、優しく甘い愚かな英雄」
皮肉めいた笑みを浮かべて見せた。




