306.七色の絶望に月は希望の色を塗る
歪から少女が現われて、彼女とロウは動かなくなった。
手は出すな。そうレイラに言われ、そのとき彼女が語った非現実的に感じられた話に、アリサはただ耳を傾けることしかできなかった。
頭の中は白く染まり、時を刻む体内時計の針が異常をきたす。
どれほどの時間が流れたのか分からないうちに、黒白の少女の悲痛な叫びと共に少女とロウの時は再び動き出した。
そして、新たに現われた少女によって、物語はひとつの節目へと加速する。
「……これが……本当の、先輩」
聞かされた話も、目の前の光景も、置かれている現状も、なにひとつとして完全には理解できていない。
ただ感じるのは、これが紛れもない悲劇に繋がるということだけだ。
少しでも力になりたいと、少しでも恩を返したいと願った。たとえ何もできないと分かっていても、僅かに何かができるのではないかという想いがあった。
故ここまでついて来たが、現実とはやはり非情なのだ。だが、
「今のうちに行きますよ。聖扉を開いてください」
「……え? い、行くというのは、その、どこに?」
「内界です。貴女の同行を許可したのはこのときのためと知りなさい。置いて来た彼女を回収しに向かいます」
「エプタを? ど、どうしてですか? レイラ様は、まさか……」
ロウがいまだ眠りから覚めぬエプタをわざわざ内界の安全な場所に置いて来たというのに、ロウが動けぬ今になって迎えに行くと言った発言に、とてつもなく嫌な予感がアリサの中を埋め尽くした。
脳裏を過ぎるのは、最後に見せたペンデの笑顔だ。
「そんなことできません!」
「なるほど……貴女には、わからないのですか?」
最悪のことを想像し、声を荒げるアリサをレイラの鋭い眼光が射貫いた。
だが、膝が折れそうになるほどの圧を堪えながら、アリサは声を振り絞る。
「わかるから言っているんです! どうしてエプタを置いて来たのか、レイラ様にだって先輩の気持ちがわかっているはずです!」
「もちろん、私に彼の気持ちがわからぬはずがないと知りなさい。ですが、私が問うているのは彼の気持ちではありません」
「じ、じゃあ……いったい、誰の……」
「外傷はなく、精神面も安定していたにも関わらず、いまだ眠り姫のまま居続ける少女の気持ちです」
「……エプタ、の? そ、それは、魔力体の調整をできる者がいなく、なったからで……だから……少しでも長く先輩といたいから」
切れ切れに言葉を発しながらも、アリサの表情に影が差していく。
「眠り続けることで体の崩壊が先に伸びたとして、それに意味はあるのですか?」
「――っ」
「少女は愛する姉たちに生かされたときから、すでにその選択を終えていたのです。繋げる手、言葉を交わせる口、抱きしめてもらえる体、兄弟に守って貰った命、その喜びを味わうという我儘にもならないような、しかし少女にとっての我儘はただの数日で構わない。故、その願いを叶えた少女は眠りにつきました。主のために最期の火を灯す、そのときが来るまでと。武器の本懐を果たすために」
「ですが、まだ……まだ何も……楽しいことなんて、なにも……」
「他者の幸福を他人が決めるなど傲慢でると知りなさい。見た目は幼くとも、彼女は数多の戦場を駆けた英雄の神器。知らぬところで主が血を流すことが、彼女の望みだと思うのですか?」
「そ、れは」
「後悔も負い目もあるあの男は、決して自ら少女を使うことはしないでしょう。少女が体を維持できず、そうなる日が来るまでは。私が少女を内界においてくることに異議を唱えなかったのは、論ずることが無駄であると知っていたからです。動くなら、ここしかないと知りなさい」
「でも……わ、私は皆に頼まれたんです……エプタのことを。だから、私は……」
レイラの言っていることはわかる。エプタの想いだってそうだ。
しかし、だからっといってそれをただ受け入れることなど、アリサにはできなかった。それでも――
「故に繋ぎなさい」
「……え?」
「自らの本懐を遂げたいと願っているにも関わらず、再び大切な主から引き離されてしまった少女を。その想いを。少女にとっての一番の望みを」
「…………」
「内界の者より少しばかり生きた程度で、強弱を傲り蔑むのは止めなさい。人は誰しも足掻く時があるのです。自身の強さを計れるのは、足掻いた先の自分自身でしかありません。故、その命尽きるまで足掻きなさい。その先、己が足跡に後悔を見るのなら、何も成せなかったと恥じ入ることもよいでしょう。ですが、貴女はここにいる。最期の灯火を燃やす前から、何も成せぬと己が限界を決めることは、足掻くことすら許されなかった者への侮辱であると知りなさい。貴女に少女を託した者たちの最後を、貴女は知っているはずです」
「…………」
「この世界に残された唯一の守人。その扉は、どんな壁さえも越えられるものであると自覚し、誇りなさい。貴女がここに至るまでに支えてくれた者たち全てを。今、ここにいる貴女の決断、貴女自身と共にその全てを誇りなさい。そして誇りを与えてあげなさい。貴女を生かした今は亡き大切な者たちに、彼女らの行いは価値あるものであったのだと」
凜としたレイラの声で紡がれる言葉は、アリサの胸に絡まっていた何かを厳しくも優しく解きほぐしていくかのようだった。
「死の理由を変えることはできません。ですが、その死に意味を与えることはできます。死の理由が愚行であるのか偉業であるのか、それを未来に示すことができるのはその死に関わった生者だけです。そして眠ったままであるものの、少女はまだ生きている。その死に理由と価値を与えてあげられる者は、貴女だけです」
ぎゅっと拳を握り締め、アリサはレイラを強く見つめて問い掛ける。
「ディーヴァとレイラ様に何かしらの取引があったのは知っています。これも彼女の筋書きなんですか? 彼女は本当に信じられるんですか?」
それは女神に対し、彼女の判断の是非を問うあまりにも不敬なものだった。
しかしそれでも、最愛の妹を託してくれたアリスモスの為にも、ここでただ大人しく従うわけにはいかない。レイラ自身がもし迷っているのなら……。
だが、それは杞憂であると言わんばかりに、
「執行の女神ティシポネの名に於いて、嘘偽り無く答えましょう。彼女自身を、彼女の言葉だけを信じることはできません。ただ、その言動の中にあることが含まれている限り、彼女は決して裏切ることはありません。故、断言します。デュランタと名乗る彼女は、疑う余地もなく信じるに足る者であると」
迷いなく、はっきりとそう告げたのだった。
…………
……
手加減をしているつもりはない。というより、ロウにその余裕はなかった。
同じ面を被り、同じ武器を扱う彼女の力を軽んじているわけではない。
最初から強者であると分かっていたし、だからこそ最初から油断もなかった。
それでも、これほどまでに幾度も刃を打ち合うことになるとは思っていなかったというのがロウの本音だった。
それは、もう繰り返されないこの世界に七七七年より先があると知っているからこそ、彼女の正体に気付いているが故に。
何が彼女をここまで強くさせたのか。考えるまでもないだろう。
「意外、ですか? もっと、簡単にいくと思っていたのでは? たとえ七輝晶を持っていても私に使いこなせるはずがないのだから、と」
「……」
デュランタは巧みに操る二槍の片方を大きく引き、もう片方を勢いよく突き出した。繰り出された一撃をロウが弾き上げると、同時に引いた手に握られていた槍が銃へと変わり、溜める動作もなく強力な魔砲を放つ。
ロウは身を反時計回りに捻りながらそれをいなすと、そのままの勢いで振り上げた足に纏った装靴を叩き付けるも、デュランタは後方に跳躍しながらそれを軽く躱して見せた。
「確かに貴方は多くのものを背負い立っているのでしょう。しかしそれはこちらも同じ。貴方の強さが繰り返された悲劇と継承の産物であるなら、私の力がそれに劣る道理はありません。いえ、むしろ私の方が――」
言葉を切ったデュランタの姿がロウの視界から消失する。
僅かに感じた気配は背後から。が、ロウは左手に作った氷盾を側面の上へと構えた。それと同時に強い衝撃が腕から全身へと走る。
「反応はさすがです。でも、悪手ですね」
さっきにお返しだと言わんばかりに、デュランタが振り下ろしていたのは黒き装靴だ。彼女は受け止められても問題無いと薄く微笑むと、そのまま振り抜いた。
甲高い音と共に舞う氷片。激痛の後、腕の感覚が鈍くなるのを感じならも、ロウはデュランタの肘の関節を掴みながら地面へと叩き付けるように押し倒した。
そしてそのまま地面へと氷で縫い付けるも、
「本当に、愚かな人……」
小さな呟きの後、側頭部に放たれた鋭い蹴りが、鈍くなった腕の防御を許さず直撃し、ロウの体を大きく吹き飛ばす。
その後、デュランタは腕を拘束する氷をなんなく溶かすと、立ち上がって軽く服の埃を払いながらロウの方へと歩を進めた。
「神器の一撃を、ただの氷で防げるはずないのに。神器と神器がぶつかることで、神器が僅かにでも損傷してしまうことを恐れたのでしょうけど、この後に及んでその甘さはなんですか? その上、私に対して殺すではなく捕えようとするなんて……」
咄嗟に魔障壁を張りはしたものの、強い脳への衝撃がロウの平衡感覚を狂わせている。起き上がり膝を立てたところで、即座に立ち上がることはできずにいた。
デュランタの広げた手には爪の付いた手袋が装着され、それを振るうと爪の先端から伸びる魔力の糸が動けぬロウを縛りつける。
「憐夢兎、でしたか。貴方が迷わずに欠けた七つ目のこの神器を手にしていれば、拘束されていたのは私だったかもしれませんね」
「少しでも長く生きていて欲しいと願うことが、間違いだとでもいうのか?」
いずれ人の形を失うのだとしても、苦しみ続けた少女にほんの僅かな日常を与えてやりたいと思うのは決して間違いではないはずだ。
そうロウが問い掛けるも、デュランタは……
「あれも欲しい、これも欲しいと、貴方は子供ですか? なんでも救おうとするから、結局は何も救えず終わるんですよ」
柔らかかったものから、圧の籠ったものへと変わる声。
そんな結末を迎えたであろう未来から来たデュランタの言葉に、ロウは何も言葉を返すことができなかった。
彼女がこれほどの強さを身に付けた世界。その凄惨さは想像に難くない。
「救えるものは救う。見捨てるという選択はない。本当に愚かしい男です。それならばいっそ、あのまま目覚めなければよかった。あのまま、囚われていればよかった。覚悟もなければ決断もできないような英雄なんて、世界の延命装置にしかすぎないんですから。だから、貴方は切り替えた――人を救う愚者から、世界を救う愚者に」
「――っ」
冷めた彼女の言葉に、ロウは鋭く息を呑んだ。
繰返の最後、今回だけは誰一人として知るはずのない、知る得るはずのないロウの狙いがあった。
だが、この世界の未来人であるデュランタの存在こそが、ロウの狙いが失敗に終わっている確かな証明そのものでもある。
当然、彼女の正体を推測したときから、そのことには気付いていた。
それでも他に手がない以上、七七六回の失敗と同じ手段を選ぶよりは可能性があると信じ、ここまで来たのだ。
「それでも結局、人さえ救うおうとしてしまうから愚かなんです」
その性質があるが故、英雄は英雄にしか成り得ない。
否、彼は決して英雄などではない。
多くを救い、自身も救う。残す者に悲しみを背負わせない者こそが、温かな光を灯し続けられる者こそが英雄と呼ばれるべきなのだ。
「その点、貴方がずっと巻き込むことも頼ることも避けてきた、内界の人間の方がずっと強いですよ。ただの歩兵の集まりでもね。貴方は駒戦が得意だと、何度も耳にタコができるほど聞かされていましたが……駒を動かす才は一切感じられませんね」
「……っ、この世界は遊戯じゃない」
振り絞った声は、さも当たり前のことを告げることしかできなかった。
だが、そんな当たり前のはずのことを、デュランタは否定する。
「いえ、駒戦ですよ。将棋と違って、殺られた駒は使えません。弱い駒、強い駒、癖のある駒、それらを駆使して勝利を掴む遊戯です。そもそも駒戦はより多くの駒を使う運命の朔望、神の遊戯を簡略したものですし、規則に見え隠れする隙間の違和感から、その運命戯ですら元となる何かがあった、と言われています」
「……何がいいたいんだ?」
腕の回復に魔力の大半を回しつつそう問い掛けると、デュランタは少し呆れたように小さく息を吐いた。
「すでに理解していることを問うことに意味はありますか? 指し手であろうとしながらも、駒として動く。両立し得ないことをしようとして、結局はどちらも中途半端だということです。すべての駒を奪わせず勝利することはできません。王駒だけが動いても勝利することはできません。有利に駒を進め、駒を対価にそれ以上の益を得ることが指し手の役目です。殺られないように逃げ動くのが王駒の役目です」
最初の繰返しで仲間を頼って失敗した?
多くを犠牲にしても次があると割り切った自分は感情がない? ――違う。
それはそう自分に言い聞かせていただけだ。
だからいつしか犠牲を恐れるがあまり、ロウは慎重になりすぎた。
相手のクイーンをおとすためにナイト、ルーク、ビショップ、ポーンの駒を使えばいい。クイーンにクイーン一騎で足りるなら、ただそれををぶつければいい。
僅かな犠牲で確実に多くを救うという選択を、ロウはしなかった。
それができなかったロウには、そのときからちゃんと感情というものがあったのだ。これは自分自身を理解せず、見失った末路だといえるだろう。
「だがそれでも……」
「えぇ、そうです。貴方にしか成せないことがあるからこそ、すべてを知る本来は指し手であるはずの貴方が、同時に自身が殺られてはならない王駒であると知りながらも、自ら動かざるをえない」
ロウの思考を代弁するかのように、デュランタはそう口にした。
彼は一人だった。いつの間にか横にも後ろも誰もいない。
繰返する度強くなる彼の存在は、誰かと共に在ることを許さなかった。
だが、それでもいいのだ。
戦うときは誰もがひとりだ。仲間がいても、目の前の敵には己の力が必要なのだから。足を地につけたとき、仲間が直接肩をかしてあげられる状況は稀だ。
しかし混戦だろうと、不利な局面だろうと、仲間は心を支えてくれる。
立ち上がる足は己が力で、立ち上がる心は仲間の力で。
しかしロウにはそれすらできなかった。
「自ら動き、安全を確保した戦場でようやく仲間を頼る。それで勝てる相手ではないと理解して、それでも選べず捨てられず……」
言って、デュランタは怒りに震えながら奥の歯をぎりっと噛み鳴らした。
「だからこそ、貴方に教えてあげましょう。未来で散った徒花すべての想いを」
――悠久の生花
デュランタが静かに呟くと同時に、ロウは自分の身に起きた異常に気が付いた。
指先ひとつ動かすこともできず、口を開いて声を出そうにもそれすらできない。
思考は正常。デュランタが神器を解除する動作も正常に把握できる。
それはまるで、肉体の時間だけが停止しているかのようだった。
「どれだけ繰返しても、私のこの力は知らなかったでしょう? そろそろ頃合いですから、貴方との時間もこれまでです。そこで大人しく見ていてください」
そう言って、デュランタが何もない空間に手を翳すと、そこに歪が現われた。
翳した手を引き寄せる動作をとった瞬間、歪から引き摺り出されるように地面に転がされたのは、中界へ逃げたはずのディーヴァだ。
ディーヴァの体を侵食するように紫黒の魔力が覆っており、藻掻き苦しんでいるような彼女を見つめながら、デュランタは掌に指先を強く食い込ませる。
「適材適所。どんな駒にだって意思があり、果たせる役割はあるんです。たとえ無為に散ったように見えたとしても、それは次に繋がる確かな布石。我らが指し手も自陣の王もその決断をすることができないのなら、意思ある駒は自らその手を打つでしょう。敵の王を殺るために」
そう言って、ロウの方へと振り返ったデュランタの口許は――
「貴方にばかり、辛い選択はさせません」
憎悪や憤怒とはあまりにも縁遠い、とても優しい笑みを浮かべていた。
途端、ロウの背筋を悪寒が駆け上がり、肌が酷く粟立つ。
何度も見た。何度も経験した。
それは何かのために、誰かのために、譲れないもののために戦う者の姿だ。
止めなければならない。行かせてはならない。
そうした表情を浮かべた者の末路を、嫌というほど知っているのだから。
彼女がなんのために戦うのか、何を成そうとしているのかは分からないが……
”……これは俺からの頼みだ。デュランタとミオを……救ってくれ”
不意に脳裏を過ぎるのは、虹の塔で見た夢。
その中でおそらく未来の自分であろう人物から託された願いだ。
「――――――っ」
だが、手を伸ばそうと強く意識しても体は硬直したまま動かない。
声を発そうと試みても、喉に蓋をされたように音が出ることはない。
見たことのない、しかし見慣れた背中を見つめることしかできぬまま、ロウはただただ自分の無力さに打ちひしがれることしかできなかった。
「ディーヴァ……いえ、エリス。今から私は、貴女を殺します」
残酷なことを口にするデュランタの声が耳に届いたのか、悲鳴にも似たエリスの声はやみ、藻掻き苦しんでいた体もぴたりと止まった。
そして、ゆっくりと顔を持ち上げ、虚ろな瞳にデュタンタの姿を映す。
「私を、殺す? ……私が、何をしたというのですか? 人々の苦しみを和らげ、お兄様にも、幸せになってもらおうと……それだけ、なのに」
「理解しています。貴女の純粋な想いを」
デュランタはエリスの言葉に耳を傾け、しっかりとそれに応えた。
「私はずっと……この世界の、ために。お兄様の、ために。子供の頃に褒めて頂いた、この歌で……私は、私……は」
「知っています。貴女がとても優しい子であると」
殺すと宣言した相手を前に、それでも愛しむように。
「私の数百年は、すべて無駄だったのですか? 私はなんのために今まで生きて……生き、て? 私は……あのとき…………私は、どうして……独りで……」
自分の言葉に戸惑うようにエリスが頭を抱えると、紫黒の魔力がその感情に揺さぶられるように蠢き出す。
何かに妨げられ、これまで感じることのなかった違和感。生と死の矛盾。認識の乖離。自身と何かの意識のずれがエリスの精神を狂わせていく。
正しいことをしているはずだった。その行為を不思議とさえ感じなかった。
だが、一度それを自覚してしまうと、唯一彼女を彼女たらしめる魂に、ひび割れた硝子のような亀裂が走る。
「私は……誰?」
途端、急に空が暗雲に覆われ始めた。
それはまさに黒雪が降る前兆と同じ景色であり、だがしかし、そこから降るものは黒雪ではなく、世界中のありとあらゆる負という感情を掻き集めたかのような禍々しい魔力がエリスに集まっていく。
そんな異様な光景を前にすれば、誰がどう考えても今すぐ動くべきだろう。
しかし、デュランタは動かなかった。
「いえ、誰であっても構いません。私が何者でも、私が果たすべき役割は変わらないのですから。怒りも怨嗟も、絶望も恐怖も、憎悪も悪意も、それらすべてが私の存在を証明してくれる……私に、意味を与えてくれる。私は――」
そう言ったエリスがデュランタを見据えた直後、全身から解き放たれた魔力の圧がデュランタを大きく吹き飛ばした。それと同時に彼女の姿はそこになく、魔力で編まれた紫黒の巨大な拳がデュランタを地面に叩き付ける。が――
「この程度なの?」
余裕のある声と共に、紫黒の拳が切り裂かれ霧散する。
「世界の滅びに比べたら可愛いものね」
微笑を浮かべ、拾った小石をエリスに向けた弾くと、その場から消えたデュランタが突然エリスの背後に現われ、先程のエリスの攻撃とまったく同じ攻撃を繰り出した。
しかしデュランタはエリスを追撃するでなく、他に誰も居ないその場で何処かの誰かへと言葉をかける。
「今もどこからか見て聞いてるんでしょ? 繰返の終わった最後の世界まで温存した抑止の力。エリスを使って負の連鎖を加速させるなんて、本当に反吐が出るほど悪趣味よね。だけど実際、本当にそれは効果的だった」
少し離れたところでエリスがゆらりと立ち上がり、更なる魔力を掻き集めていくも、デュランタはただ注視するだけだ。
「黒雪はあの人を孤独にし、妹という駒は彼の戦闘力を大きく削ぎ落とした。絶望は加速し、彼がやっとの思いで仲間を頼ることができる状況にしたときには、もう手遅れだったのよ。今日このときの希望に対する抑止力の存在は、破滅の未来を決定づけるには十分するぎるものだったわ。でもね――」
言葉を切ると同時に、デュランタの肌に模様が浮かび上がった。
「だからこそ、今ここに私がいるの。もうやり直しがきかないのは、何処かのあなたも同じでしょ? だから容赦なく、ありとあらゆる全ての絶望をもって掛かってくるといいわ」
「――アァァァァァアァァアッ!」
理性を失ったエリスが獣のような声を上げながら、無数にある紫黒の触手のようなものを蠢かせ姿勢を低くすると、地面を抉る足裏に力を込める。
「悔しげな顔が見られないのは残念だけど、ちゃんと記憶に刻み込んでおきなさい。私の名はデュランタ。エリスが希望への抑止の力だというのなら、私は絶望に対する抑止の力。滅んだ世界のありとあらゆる希望をもって、混沌を滅ぼす道を作るために来た復讐者よ」
そうして始まった絶望と希望のぶつかり合いは、熾烈を極めるものだった。
膨大で純粋な負の魔力の塊に対し、デュランタの有する魔力はそれに並び立つほどのものではない。
だがしかし、デュランタはあらゆる能力でその力に対抗している。
それは本来であれば、まったくもって有り得ない非常識な光景だった。
虹の塔に縛りつけられていることを代償に、その場所でのみすべての能力を扱える審秤神サラ・テミスと同じことをやってのけているのだから。
複数の能力を持つロウという異例の存在以上に、デュランタの存在は規格外としか言いようがないだろう。しかし、それもそのはず。
彼女は託されたのだ。
滅んでしまった未来のこの世界の者たちに、そのすべてを。
ある者は彼女に魔晶石を意思だけで扱える魔具を与えた。
ある者は魔晶石すべてを仕舞い込めるよう収納石に改良を施した。
多くの者はそれら魔晶石にありったけの想いを込めた。
そして、それを扱うための知識と技術を与えた。
これまでデュランタが接触し、持ちかけた話のすべては、その筋書きは、この未来で本人たちから助言され、起こした行動に過ぎなかったのだ。
故、ここに至るまでの長きによる道程は、彼女だけの力ではない。
ありとあらゆる絶望には、ありとあらゆる希望を。
滅びの決まった世界で、尚も強く強く灯し続けた光。
この世界が終わるのだとしても、大切な人が死ぬのだとしても、ここではない別の世界が救われるのなら、大切な人が笑っていられるのなら。
誰もがそう思い、最後の最後まで抗い続けた。
「だからね、名前も姿も知らない混沌の神。あなたがこの先で、必ず敗北する理由を教えてあげる」
幾度も全力でぶつかり合い、互いの姿はすでにぼろぼろだった。
衣服のいたるところが裂けて流血し、その戦いを見ていた者たちが絶句するほどの戦いの跡が深々と刻まれている。
そんな中、今にも崩れ落ちそうな膝に鞭を打ち、デュランタは言葉を吐きすてる。
「あの人に夢中になって、あの人を警戒しすぎるあまり……慎重になりすぎた。のんびりしすぎたのよ。そしてもうひとつ……私の片割れを……人柱に選んだこと」
そう言って、デュランタは地に伏しているエリスへと歩み寄る。
「ごめんなさい。許してとは言わないわ。みんなと、約束したから」
「……っ、約、束? 誰かとの、約束……大切な人との、約束……約、束」
戦闘中、ずっと獣のような声しか上げていなかったエリスの口から、震えた言葉が零れ落ちる。
「わから、ない……わかりま、せん。私にも、あったはず……なのに。でも、何かが……私の中にある、何かが……言っています。私にもあった、大切な人との……でも、私は……きっと、その人を裏切って……だから、私は……痛、い」
「えぇ、そうね。わかってる。だからね……」
濡れた声でそう言いながら、デュランタはそっと微笑んだ。
あぁ、そうだ。いくら未来から来たとはいえ、エリスと戦い打ち倒したのがロウである以上、ここでの展開を完全に読むことはできなかった。
未来の神々でさえ、異なる世界の神でさえ。
それでも、デュランタは信じていた。エリスなら、エリスだからこそ――
(いい駒になると思ったんでしょうけど、あなたたちはこの子を舐めすぎなのよ)
デュランタは全身の痛みと疲労感を堪えながら、毅然とした声を発する。
「立ちなさい、混沌の歌姫!」
当然響いた声は、芯の通った力強いものだった。
「貴女の心は清く正しいものよ。本当なら虹霓神イリスの神名を得て、彼と共に皆をまとめ導く存在になるはずだった。だからこそ、ある者にとっては貴女という存在が邪魔でしかなかった。誰かにとって都合が悪いからと消され、そして都合がよかったから利用されて……貴女はそれでいいの?」
デュランタの言葉の意味を正確に理解できるほどの理性を、今のエリスは有していない。だが、その意味がわからずとも感じるものは確かにあった。
知らない声。見えない顔。
だがしかし、とても懐かしい温かさがエリスの胸を満たしていく。
自分を殺すと宣言した彼女に対し、エリスが抱いたものは紛れもない光だった。
「貴女に魂が宿っているなら、貴女に意思があるのなら、貴女に思い出が残っているなら、貴女が彼の妹で在ろうとするのなら……貴女はただの循環機関なんかじゃない。ちゃんと生きている。だから……立ちなさい」
強い口調ではあるものの、それは懇願しているように見えた。
そして聞きたい答えを得る為に、デュランタは循環機関に問い掛ける。
「混沌の歌姫たる貴女に問うわ。教えて――貴女の真名を」
聞くまでもなく知っていることを、デュランタは敢えて問い掛けた。
彼女の口から、その名を告げて貰うために。
ここから先は意思ある彼女の協力が、必要不可欠だから。
エリスが完全に混沌に呑まれるかどうか、そして意思を取り戻した彼女が自分の意図を理解してくれるかどうか、それは本当に賭けだった。
ここで彼女が呑まれたままなら、これまでの布石すべてが破綻する。
だが、そうはならないだろう。二人は同じ兄を持つ、同じ妹なのだから。
姉妹のけじめは、同じ姉妹がつけねばならないのだから。
そしてそれに応えるように――
「………………私は、エリス」
消え入りそうなほどか細い声。
「私は、エリス・ユーフィリア。敬愛するお兄様の、妹……妹です」
紫黒の魔力はいまだ消えず、半身がすでに完全に侵されてはいるものの、エリスははっきりとした口調で立ち上がり、光の残った片目でデュランタを見つめた。
(えぇ、それでこそ……私の片割れよ……)
ふいに目の奥が熱くなり、自然と拳に力が入るのをデュランタは感じていたが、その感情をそっと胸の奥に仕舞い込みながら、帯刀している柄に手をかけた。
「大丈夫、貴女は死んでないわ。ちゃんと生きてる。だから……あんな奴らに渡さない。私がこの手で終わらせる。堕ちる前に――私が、殺してあげるから」
そうして刀を抜き放ち、その切っ先をエリスへと突き付ける。
「ありがとうございます。もう少しだけ、ご迷惑をかけてしまいますが……よろしくお願いします」
禍々しい力に憑かれながらも、その微笑みは安堵の色に満ちていた。
「感謝するのはこっちよ、ありがとう。……別れの挨拶はいいの?」
「…………」
デュランタの言葉にエリスは僅かに顔を悲しげに顰めると、そっと動けないままのロウの方に視線を送り、すっと息を吸いながら瞼を閉じて下唇を噛んだ。
そして何も言わずに首を振り、耐えるのも限界が近いのか、かたかたと震える自身の手を押さえながら、
「私に、その資格はありませんから」
悲痛な笑みを浮かべてみせた。
…………
……
一方、聖域にデュランタが現われる少し前、神都ニュクスにある月光殿の中の一室では、ある一人の少女が苦悶の表情を浮かべていた。
部屋中に散乱している無数の手記帳。
震える手でそれらをひとつひとつ、丁寧に取りながら、少女は独り言ちる。
「なんなのよ……本当に、なんなの……」
どれだけ必死に堪えようとしても自然と零れ落ちる雫が手記帳の上に落ち、子供が書いたような不格好な文字を滲ませる。
「いまさら……いまさら、こんなの知ったって……私にどうしろっていうのよ」
本当にいまさらだ。何もかもが遅すぎた。
憎んで恨んで避け続けて、自分という存在に、ただ生きているという自分に嫌悪し、死ぬこともできないまま己の命を呪い続けてきた。
「分かってる、全部私が悪いのよ。最初に忘れてしまっていたのは、私なんだもの。でも……」
手にした本を大切そうにぎゅっと胸に抱きしめながら、少女は……
「私はただ、ずっと側にいて欲しかっただけ、なのに」
今までずっと言えなかった胸のうちを、静かに吐き出した。
途端、開いていた窓から吹き込む風が窓布を揺らし、散乱している手記帳の頁をぱらぱらと捲っていく。
どこまでもどこまでも、どこまで捲り続けても、半分だけが真っ白な手記帳。
その想いの丈を知り、少女はさらに自分の命の価値を見失っていく。
そんな中――
「泣いているだけでは何も変えられませんよ。待っているだけで帰って来てくれないのなら、貴女が迎えに行けばいいのではありませんか?」
少女の後ろから聞こえてきた声は、どこか懐かしい音だった。
いつしか涙は止まり、少女はゆっくりと振り返る。
するとそこにいたのは、優しい笑みを浮かべている儚き麗人。
「そして伝えればいいのです。そのときの貴女の想いをたった一言……それだけで十分です。その一言だけで分り合える絆が、貴女たちにはあるのですから」
月光殿の主たる月の女神、アルテミスだった。




