300.月下に帰る想い
旧星歴から星歴にかけて、内界と外界を行き来する手段は現在と同様限られてはいたものの、渡る者はそれほど多くはいなかった。
それは内界にとって不可思議な力を有する神の御座す外界が、特別な力を持たない人間の世界、内界への干渉を極力避けていたからだ。
だが当時、外界にとっても魔憑と呼ばれる存在は今よりも遥かに希少であり、その中でもすべての生命の始まりの地とされる中界、ガイアに渡る力を有した一族はより一層特別な存在だった。
生命樹デンドロビウムが聳え立つ中界へ渡る手段は、守人たる一族のみが開くことのできる聖扉しかなく、どの国にも所属していない彼らはサラやコルを初めとする神々同様、誰や何に対しても中立の存在だった。
その昔、内界は外界によって作られ、故に鏡のように同じ形をしていると言われているが、真実はそうではない。すべては中界から生まれたのだ。
今となっては想像すら難しいことだろうが、かつては生命に必要なありとあらゆるものがそこにはあったのだから。
この世界の誕生がどうであったかなど、現在において最古の神であるサラですら知らないことだったが、そういった推測に至ったのはある出来事が切っ掛けだった。何故ならそう――
「この世界は一度滅びかけているんだ」
「……え」
旧星歴において、降魔に近しい存在はあった。
火精、水精、木精、冥精。現存する所謂精霊と呼ばれるものの中に。
光精……負の魔素を糧に成長する彼らは、取り込んだ魔素を浄化することができる。つまり、この世界に於いて極めて重要な存在だったのだ。
だが、ときに自身の中で負の魔素を浄化しきれなくなったものは、自我を失うと共に凶暴化し、周囲に危害を及ぼしてしまう。
こうなってしまった光精は降精と呼ばれ、討滅対象へと変わる。
ただ、元が精霊ということもあり、降精となった後も特別な個体を除いては、それほど脅威とはならなかった。
中界に生息する光精は負の魔素の元である負の感情を取り込んで成長すると共に中界を豊かにし、降精となって討たれたものは生命樹へと帰る。
こうした循環があるからこそ、世界は安寧であったといえるだろう。
しかし、星歴七年……突如としてこの世界は終焉へと歩み出す。
ある者によって深淵から贈られた殺意や狂気、憎悪や怨嗟、ありとあらゆる負の感情が中界にできた歪より溢れ出し、呑み込まれたすべての光精は降精と化した。それこそが、現在降魔と呼ばれる異形の起源といえる。
中でも危険種たる殺戮、不屍、傀儡は脅威であり、瞬く間にこの世界を負の感情で満たした。
光精が消えたことで負の魔素は溜り続け、一つの天災を生み落とす。
黒雪の天災……そして、そこから新たに生まれる降魔。
それらが中界を混沌へと変えると、生命樹を守護する守人の一族が滅びた影響からか、新たな自然現象が外界に発生するようになった。
それが魔扉であり、聖扉とは似て非なる紫黒の歪だ。
魔力を扱える者が少なかった当時、魔憑以外の兵士たちも多くが死に、戦場で生まれた憎悪が新たな降魔と、そして新たな魔憑を生み出した。
そうしてこの世界は今尚も、終焉へと向かい続けている。
「だが、守人の一族はそのすべてが滅んでしまったわけじゃない。外界の者すべてが魔憑というわけじゃないのと同じく、一族の中にも魔力を扱えず戦えない者たちもいた。彼らは戦えない者たちを聖扉で逃がしたんだ」
「私は……その子孫というわけなんだな」
どんな話でも受け入れる覚悟で来たのだろう。相槌を打つように返したアリサの言葉に一言頷くと、ロウはそのまま言葉を紡いでいく。
「ただ、親が魔力を使えなくても後天的に覚醒する可能性のある魔憑と違って、守人の一族が持つ聖扉の力は先天性のものだ。聖扉を使えない一族の生き残りが子を産んでも、その力を受け継ぐことはできない。そのはずだった」
「だったら、私は……」
「僅かに生き残った一族はレイオルデンで保護されたが、その中に一人だけ、すでにお腹の中に子を宿している女性がいたんだ」
そうして生まれた子は、確かに何かしらの力を宿してた。
しかし何故か、成長してもその子はなんの力も発現させることができなかった。 中界という環境が必要だったのか、魔憑と同じく何かきっかけが必要だったのか。前者であれば混沌と化した中界ではそれが叶うこともないが、後者であればあるいは。
保護するためとはいえ、塔という隔離された閉鎖的な場所では、友達を作ることも艱難辛苦に直面することもないただの檻だ。
本当なら外の世界で自由にのびのびと暮らし、友情を育み、誰かと共に泣いて笑って苦難を乗り越え、恋をして幸せな家庭を築いていくべきなのだろう。
だが、守人の一族であるが故に、看過できない問題があった。
それは聖扉がこちらにとっても降魔にとっても、重要な力だったからだ。
前提として、中界と外界は切り離された空間であるということ。
それを繋げる正当な手段が聖扉であり、自然現象となった魔扉だ。
つまり後者と違って自分の意志で任意に中界へと渡れる聖扉は、こちら側にとって敵の本丸を討つための要であり、敵側にとっては最も危険視すべきものであると同時に、最優先で殲滅しなければならない対象でもある。
だが、大切に檻の中で育てても、力が解放されることはない。
故に何度も……そう、気の遠くなるほどに何度もだ。
繰返し続けた演算の末、一族あることを隠し、もし力が発現したとしても本当に必要なときまでその力を封じるという形で、生き残った者たちは外の世界へと踏み出した。
だが幸か不幸か、一族から聖扉を扱える者が現われることのないまま、彼らは普通の人生を歩むことになる。
アリサの母親が死んだ、あの悲劇が起きるまでは。
「あの日のことを、どこまで覚えてるんだ?」
「あ、あぁ……休暇だったあの日、私は下層区にあるいつもの場所で鍛錬をこなしていたんだ」
いつもの場所とは、ロウの屋敷の近くにある開けた場所のことだ。
魔扉が開きやすいといっても他よりはというだけで、そこまで頻繁に開くことはない。だから足早になったりはするものの、その場所をわざわざ避けて通るという住民は決して多くはなかった。
それでもロウの屋敷の近くということもあり、鍛錬のさいは警護も兼ねてその場所を選ぶアリサも、母親だけは絶対に近づかせないようにしていたのだ。
だが……どうして、よりにもよって……そうだ。悲劇というものは、普段はしないような些細な行動が偶然に積み重なって、突発的に襲い懸かってくる。
数週間に一度起きるか起きないか、そんな現象と、年に一度あるかないか、そんな稀といえる出来事が、一日二十四時間あるうちの数分に重なったりと。
「私が、お弁当を忘れたりしなければ……」
たった一つの忘れ物。それに気付いた母親が、渡すだけなら大丈夫だろうと、娘の元にお弁当を届けに行っただけの、そんな些細な出来事だ。
しかし、まるで母の死が定められていたかのように、魔扉が開いた。
とはいえ魔憑としての能力に覚醒していなかったにしろ、魔力の扱いだけで試験を突破し、ロウの部隊に入ることのできたアリサにとって、焦る状況ではなかった。冷静に母親を後ろに庇いながら、出てきた降魔を倒していく。
たった一体でも逃せば即ち敗北。決して油断することなく、確実に息の根を止めていくが、いつどの時代においても数とは暴力だ。
「一体の降魔が私の横を通過して、その後のことは覚えていない。気が付けば、お前が母を抱きかかえていた」
すると、ロウは瞼の裏にこびりついた情景を思い返した。
後数秒だったのにと悔いる出来事は、人生の中でそう珍しいことではない。
もっと魔力感知を鍛えていればよかったのだろうか。もっと早く走れるように、足を鍛えていればよかったのだろうか。魔力の精密性を、飛距離を、他にもたとえ小さなことでも何かを伸ばしていたら、間に合っていたのだろうか。
まるで、運命は変わらないと誰かが嗤っているように。
決まり切った勝者の余裕を、確定している敗者へと見せつけるように。
いつも、目の前で大切なものが指の隙間から零れ落ちていく。
お前には何一つ掴めないと、誰かが現実を突き付けているかのように。
「……守人の一族の力は魔憑のそれとは違うものの、覚醒に必要な要素は同じだったんだろう。君は母親の危機を前に、力に目醒めた。そこから逃がしたいという思いが、あの場所に聖扉を作り出してしまったんだ」
しかし、母親が傷ついたことと、急激な魔力の上昇のせいで、アリサは力を制御することができなかった。
残存した降魔はすべて屠りはしたが、聖扉は消えることなく残り続けている。
母親は自分は大丈夫だ言って娘を抱きしめ、必死に宥めようとするものの、悲劇を回避するにはすでに手遅れだった。
開き続ける聖扉は、その存在を抹殺するせんとする異形を呼び寄せる。
かつて楽園へと続いていたはずの白黄の門は、いまや混沌へ続く死の門だ。
だが、アリサという危険分子を排除する為に現われた新たな降魔の爪牙は、大切な娘を守ろうとする母の愛によって妨げられる。
同時に駆けつけたロウがアリサを気絶させることで聖扉を消滅させると、そのまま降魔との戦闘を開始。ほどなくして、静寂が訪れた。
「なら、やっぱり私が……降魔が、お母さんを……」
「アリサ、違うんだ」
「……え?」
「何度も言ったはずだ」
母親の負った傷は致命的ではあったものの、決して致命傷ではなかったのだ。
聖扉は降魔にとっての急所。それを感知してその元を絶つという行動は、すべての降魔が本能的に刻みこまれているものだ。
だが、知恵のある人間なら、果たしてどうするだろうか。
答えは至極簡単であり、利用するだろう。何故なら聖扉は相手に使われるからこその脅威であり、自分側が使えるのなら最も有効的な力なのだから。
故にそれは、知恵を持つ降魔であっても同じこと。
あの時に現われた降魔はそう……蝕魔の紛い物だったのだから。
「俺が、君の母親を殺したんだ」
あのとき、アリサの意識はなかった。
暴走したときの記憶がない無いと知っていたのだから、ロウはアリサの意識が回復する前に姿を隠すこともできたのだ。
しかしそれができなかったのは、守らなければならなかったから。
母親としての思いと、アリサ自身のことを。
「それほど傷は深くはなかった。君が暴走させた力が、それによって生じた降魔の攻撃が、君の母親を殺したわけじゃない。もうわかっただろ? この世界のために、君の力は必要なんだ。だから虹の塔で保護することよりも、覚醒する可能性のある外を選んだ。まるで道具のようにしか扱ってこなかった俺に、期待するようなことはなにもない。結果として、君の力は覚醒した。当たり前だ……俺は、そうなることをすべて知っていたんだからな」
「……」
ロウに向けていた見開いていた瞳を細め、アリサは視線を落としながら歯の奥を鳴らした。何かを堪えるように、地面に立てた指を握りこむ。だが……
「俺のことはどう思ってくれても構わない。当然、いまさら従う必要もない」
「…………さい」
「だが、君の力は世界にとって必要だ」
「……うる、さい」
「だからこの先、誰かがそれを求めたときは、その力を貸し――」
「黙れッ!」
我慢の限界だと言わんばかり発した絶叫が、ロウの声を遮った。
そして、アリサはロウの胸倉を両手で強く掴みながら地面へと押し倒す。
「この後に及んでなんだそれは、ふざけるな! お前が嘘を吐かないのは知ってる! だからそれは本当なんだろうさ! だが結局、お前は重要なところをいつもいつもはぐらかす! 私が知りたいのは誰が見ても分かるようなただある事実なんかじゃない! その先にある真実だ!」
「だから、それは……」
「なら私から質問してやる! 私の力が必要だと言いながら、わざわざ遠ざけたのは何故だ!? それに私が目を覚ます前にとっとと立ち去っていれば、嘘を吐かなくても降魔に押しつけることはできただろ!」
「……っ」
複数の者に見られていたからだ、という言葉をロウは口にできなかった。
聖扉の存在が消えてから七百年になる。
あの状況を見たものは思うだろう。アリサが魔扉を開き、降魔を招いたと。
それをどれだけ擁護しても、人の口に戸は立てられず、降魔に大切な人を殺された者たちの憎悪は必ずアリサへと向いてしまう。
事実として、神都内で彼女を守ることがなかった可能性を、ロウは知っている。
「あぁ、確かにお前の言う通りわかっているさ、今気が付いた! 本当にすべてを知っていたというなら、当然私がルインに身を置くことも知っていたんだろうからな! ミゼンは私の力に価値を見出していたし、研究と目的のために私の動きは制限されていた! 降魔を従え手駒にできるミゼンの力があれば、きっとどこよりも安全だっただろうさ!」
「……」
「お母さんが最期に何を願ったのか……当ててやろうか? この意識を保てるぎりぎりまで、娘の傍にいたい……違うか?」
「そこまで……知っていたのか」
それは母親の最期の言葉をではなく、その言葉の意味するところについてだ。
知っていなければ、その言葉に辿り着けるはずがないのだから。
「海国での行動を見て今の話を聞けば、さすがに気付く。どうしてお前が、私のお母さんを殺さなければいけなくなったのか」
蝕魔の手で殺された者は、きっと――
「ははっ……満足か?」
「……」
「お母さんの願いを叶えて、全部一人で背負い込んで、私に生きるための目的を植え付けて、安全な場所に追いやって……私が与えられた役を演じ続けて、お前はさぞ満足しただろうさ」
睨付ける瞳に浮かぶ涙。そんな悲痛な表情を、ロウは何度も見てきた。
その度に思い知らされる。自分は、周りをどれだけ悲しませて来たのかと。
わかってる。全部全部わかっているのだ。
自分の行いで不幸になる者がいることも、悲しむ者がいることも。
だからこそ、それを自覚しているからこそ、何度でも言おう。
「あぁ、俺は、自分のためにしか動けないような……そんな男だ」
わかってる。アリサだって、ロウがそういう男だと知っている。
共に仲間が傷ついても、それが最善であれば誰かを頼ることのできる男だ。
だが、死だけは耐えられない。許せない。受け入れることができない。
たとえ自分が恨まれても、仲間を生かすためなら躊躇わない。
それはきっと、数え切れない多くの死を見て来たからだろう。
わかってる。理解している。だからこそ、思うのだ。
「私は……それでも私は! お前と一緒にお母さんの死を乗り越えたかった」
どれだけ強がっても、隠そうとしても、仮面の奥など透けて見える。
そんな男が、自らの手で誰かを殺して苦しくないはずがないのだから。
「お前の中の私は、そんなに弱い女だったか?」
「……アリサ」
訓練生時代の虐めにも負けなかったアリサの心が、弱いはずなんてない。
あのとき、自分の力の暴走が母親の死に繋がっていたと知っても、アリサは必ずそれを乗り越えて前に進むことができる。そんなことは知っている。
だが、数多の未来の可能性を知っているからこそ、結果ばかりを見て来たロウは気付かない。いや、気付けなくなってしまっていた。
「そうさ、弱いんだ。私は……弱いんだ。私が変われたのはお前のおかげだ。辛い訓練生時代を乗り越えたのも、お前がいたからだ。あのときも、お前がいたらきっと自分の罪と向き合って、お母さんの死も乗り越えることができた」
そう、アリサを支えていたのは、紛れもなくロウという存在だ。
「でも……私の傍にお前はいなかったじゃないか。大事なものを全部失って、憎みたくもない相手を憎み続ける辛さが……お前にわかるか? わかるはずもない。お前は、誰も憎まないからな。私は……辛かったよ。私がお母さんを殺した事実を知るよりも、憧れた人がお母さんを殺したと思わされて憎み続けることのようが……よっぽど……辛かった……辛かったよ、先輩……」
服を握る手は固かった。
まるで大切なものを二度と離したくないといっているように。
零れる涙。額を胸に強く押しつけて泣き叫ぶその姿はあまりにも痛々しく、彼女の心を癒やす術を、ロウは持ち合わせていなかった。
一頻り泣いて、泣いて、泣きじゃぐって、アリサは小さく鼻を啜りながら、今もなお濡れたままの声でそっと問い掛ける。
「先輩……さっき、言いましたよね。私の力は世界にとって必要で、もし誰かが私の力を求めたときは、って。その誰かって、誰ですか?」
「それはまだわからない。この先での戦い次第で状況は変わる。そしてこれからの戦いは……何が起きてもおかしくない。そういった戦いだ」
「いや、です」
「アリサ、君は――」
「嫌です! 私は、嫌です。ただの道具でもいい。ただの門でいい。私はいずれ必要としてくれる誰かじゃなくて……先輩の力になりたいんです。もし先輩が私を不用だというのなら、私も先輩の思い通りになるつもりはありません!」
泣き腫らした顔を上げ、悲痛の思いを口にしながら、アリサはその場から逃げるように駆けだした。それは分かりきったロウの答えを聞きたくなかったからなのか。
残されたロウは倒れたまま黒い空を眺めながら、強く拳を握り締める。
そんな彼の心情を察してか、彼の内なる魔獣が声を掛けようとした瞬間、響いた声は聞き覚えのある凜とした声だった。
「相も変わらず女性を泣かせることが趣味のようですね」
その声の主は視線を向けずともわかる。
艶のある烏羽色の長い髪。身の丈以上の得物を持つ彼女の名はレイラ。
執行の女神が一柱、ティシポネだ。
「……趣味じゃないんだけどな」
「同じことです。勝手に救い、傍には置かず野に放つ。翼の傷ついた鳥はもう、空を自由に飛ぶことはできないというのに。後、髪も服も乱れていますよ」
「…………」
いつものように指摘され、ロウは上半身を起こしながら身形を整えた。
「それで、ずっと静観していたレイラが姿を見せたということは、依頼を果たすときがきた……は違うか。ロコとペロの姿が見えないしな」
「そう急かさないで下さい。私には世間話をする権利すらないと? 貴方は持てる時間すべてを救済のために使わなければ生きていけないのですか? もう少し心に余裕を持つべきだと知りなさい」
「いや、すまない。そういうつもりで言ったわけじゃないんだ」
少し意地の悪い言い方をしたと自覚しつつも、レイラはそれを表情に出すことなく言葉を返す。
「ペロは虹の塔、ロコは別件です。確かに私が姿を見せたのは、世間話をするためではありませんが……生き残った神器はまだ目を覚ましていないのですね」
「そう、だな。早く目覚めてくれるといいんだが」
「本当に、つくづく貴方という男は……(これでは神器の真意に気付けるはずもありませんか。目覚めない……いえ、目覚めようとしない理由など、明白だというのに)」
エプタの身を案じるロウの横顔を見て、レイラは呆れたように嘆息した。
「ロウ、昔から貴方は周りを優先しすぎです。それが自分のためであろうと人のためであろうと構いません。ですが、それが原因で気付かぬこともあると知りなさい」
「それはアリサのこと言ってるのか? それともエプタのことか?」
「どちらもです。折れた翼が癒えたように見えても、もう一度一人で羽ばたくことは困難であり、だからこそ比翼の存在が必要なのです。ただ救うだけではなく、再び空へ羽ばたかせるまでが、救った者の責務ではないのですか?」
「その通りだと思う。だが、今はまだそれができないことを君は知っているだろ」
ロウにはどうして討たねばならない敵がいる。
真実を語るにも、力を合わせるにも、誰かの傍にいることさえも、それが終わらなければ始まらないのだ。
「では、はっきりと告げておきましょう。ここまま進めば、ロウ……二度と失敗を許されないこの世界で、貴方は何も守ることができずに敗北します」
「君は彼女に、いったい何を聞かされたんだ?」
決して聞き逃すことのできない言葉を受け、ロウの瞳がより一層真剣味を帯びた。
「貴方が強くなり、未来の選択肢を増やせるようになる度に、それに比例するかの如く、運命は貴方という存在を抑止の鎖で繋いできました。故に最期の挑戦だからこそ、抑止の力はこれまでよりも大きくなるのは道理」
「あぁ、未来が変化した以上、それは覚悟していた。新たな敵が生まれるのか?」
その問いに対し、レイラは今一度慎重に思案する。
何か見落としはないか。これでいいのか。彼女の答えは正しいのか。
言われるままではなく、自らの意思を再確認し、己の正しきを求めて。
そうして、レイラは小さく唇を開いた。
「貴方が次に見据えているのは――傀儡との決戦。間違いありませんね?」
こくりとロウが頷き返すと、レイラは言葉を重ねていく。
「今節、煌照節は本来であれば漸減作戦が決行されるはずでした。それは終焉に向けて発生する七七五、七七六、七七七年と連続する大戦への布石として、より多くの降魔を間引くためです。それが審秤神の筋書きであり、現在物語を書く筆を彼女から奪い返した貴方とて、そうしたかったのは同じでしょう。ですが、いつからか未来は変化し、黒雪の発生が早まってしまった。このまま漸減作戦が行われなければ、傀儡との戦いはより苦しいものになってしまいます」
「それについては俺も悩んでいたところだ。たとえ知っている未来と同じだったとしても、一挙手一投足まで再現することはできない。それが紙一重な戦いであれば尚更だ。僅かな乱れが結果を変えてしまう。そんな中、敵の戦力が増大するとなれば頭の痛い話だよ」
そもそも仮に未来が分かるとしても、その未来を変える手段を知っていたとても、戦闘が関わってくれば日常と違って望んだ未来を辿ることは困難だ。
余裕をもって敵を制することができるなら、思うように勝利したり思うように敗北、または逃走させることは可能だろう。が、力が拮抗している相手となれば、僅かな力加減だけで状況は変化し、致命的な失敗へと繋がってしまう。
「ですが、仮に漸減作戦が行われていたとしても、今回ばかりは貴方の知る未来を辿ることはないのです」
「……どういうことだ?」
「私に依頼した彼女と同じく、貴方の知るどの未来にも無かった存在。その者こそが、貴方が次に見据えなければならない相手であると知りなさい」
想定外の者……この世界の誰もが知らぬ不可思議な存在。
それに該当する者は四人だ。
冥国の一件でサラに依頼を受けるはずだったレイラだが、先んじてそれを封じることができる者は一人しかいない。間違いなく、レイラへ依頼した彼女とは、不可思議な存在の一人であるデュランタだろう。
そんなデュランタと同じ目的で共に行動しているミオを含め、この二人は今の話に関しては除外できる。
そして、不可思議な存在ではあるものの、カグラに関しては考えるまでもない。
今回だけカグラが現われた理由や能力に関して謎ではあるものの、決して害をなす少女ではないと、それだけは知っているのだから。
つまり、この三人を除けば残りは――
「……ディーヴァ」
「はい」
「だが、彼女はいったい……その正体も依頼主は知っているということか?」
黒と白が入り混じる、凪いだ波のように少しうねった長い髪。
穏やかで優しげな瞳は黒曜石と金紅水晶のような輝きを宿し、小さな口許から流れる旋律は美しく、それは心の荒波を鎮めてくれるような優しい音色だ。
審秤神ですら観測できず、しかし直接であれば見ることのできる存在。
二色の髪に二宝の瞳とあまりにも特徴的な外見を持つ、七百年以上も前に死んだ少女と瓜二つな存在は、戦場に生まれた悲しみを癒やしてくれていた。
そんな謎に包まれた彼女が、今になって動く目的とはなんなのか。
「私に依頼した彼女については、もう察しがついていることでしょう。その正体についても、貴方ならすでに気付いているのではありませんか?」
「確証はない。だが、ハクレンが戻れば、かなり近づけるはずだ」
「それで十分。私の話は彼女からの言伝です。先も言った通り、仮に漸減作戦が行われたとしても、貴方は傀儡との決戦より先にディーヴァと関わることになっていました。そしてそこで、貴方は片目と片腕を失うことになります」
「――――」
その言葉にロウは強い衝撃を受けた。
ディーヴァと関わる未来を知らなかったから? 否。
片目片腕を失うという戦力的に致命的な損傷を受けるから? 否。
その姿を、すでに知っているからだ。
”――カグラを護れ。彼女は運命を変えるための鍵を握っている”
今でもはっきりと覚えている。その言葉を発した者の姿を。
記憶が戻った今だから理解できる。
あのとき、虹の塔で一つ目の記憶の扉を開くきっかけを与えるのは、未来でありながら過去の自分、そのはずだった。
だが、ロウの記憶の中にあの姿の自分は存在しない。
つまりそれは、完全な未来の自分の姿であるということに他ならない。
そして同時に理解できないことが一つ。
”鍵のかけられた記憶の扉は三つ”
そう言っていたはずだが、今のロウの記憶は完璧なはずなのだ。
過去のことも、未来であり過去でもある記憶も、すべてある。
だからこそ、サラからの指示を仰がなかったのだから。そして――
”……これは俺からの頼みだ。デュランタとミオを……――――”
未来の自分がその言葉を口にしたということは、デュランタとミオが今の自分と接触することを知っていたということになる。だが、どうやって。
上手く思考が纏まらず、取り繕う余裕のなくなった……いや、普通なら動揺していると悟られることはなかったのだろう。
だが、ロウの目の前にいるのは古くから彼を知る者の一人であり、そんな彼女を誤魔化せるはずもなく、故に彼女はそんなロウの姿に違和感を覚えていた。
(あの女の言葉通りであれば、ここでロウが動揺する理由などないはずですが。ロウは彼女の知らない何かを知っていた、ということなのでしょうか)
変わった未来の出来事を聞いても、ロウが彼女の正体についてある程度推測できているのなら、いちいち驚いていてはきりがない。
実際、これまでの会話でもロウはただそれを受け止め、知恵としていた。
だというのに、ここに来ての動揺はいったい……当然、レイラが知るはずもない。同時にサラやデュランタでさえ、気付けるはずがないのだから。
「続けても?」
「……すまない、続けてくれ」
「そうした結果が待つ中、黒雪が早まることで漸減作戦は中止となり、敵の戦力は貴方の知る未来の中で最も大きいものと言えるでしょう。ただでさえ体を欠損するほどの敵を前に、二度も続く戦いをどう乗り越えるのか……それをよく考えることです」
「どうして教えてくれたんだ?」
それは純粋な疑問だった。
自分に恨みを抱いているのであろうデュランタと、過去に袂を分かつことになったレイラ。その二人がどうして、自分に情報を与えてくれるのか。
すると、レイラはロウを冷めた瞳で一瞥し、その疑問を解消させる。
「私は憎い。貴方の在り方が、憎くて憎くてたまらないのです。だからこそ、貴方とは違う答えを求め続けて来ました。ですが、貴方に死なれることも望んではいないと知りなさい」
おそらくはデュランタもそうなのだろう。今はまだ、死なれては困るのだ。
「なんにしても、これにて彼女からの依頼は完遂しました」
「ん?」
「ですので、完遂です。監視の目的は、不都合があれば貴方に危害を加えるというものではなく、貴方がここに辿り着くまでの道から逸れたとき、それを正すために助力するものであったと知りなさい。他にも根回しをしていたようですし、幸いその必要はありませんでしたが」
「そうだったのか」
「これまでの話を信じる信じないは貴方の自由です」
そう言って背中を向けるレイラだが、その場を去ろうと踏み出した足をロウの声が留める。
「君のことを信じられなくなったら、俺という存在はもう手遅れだろう。そのときはもう遠慮はいらない」
「えぇ、仮にそのときが来れば、苦痛無く送ってさしあげましょう」
「頼む。それにしても、彼女は詰めるのが上手いと思わないか? 駒戦はそれほど得意じゃなかったはずなんだが……今なら君でも負けてしまいそうだな」
「ふふっ、確かにこうも掌の上で踊らされたというのは初めての経験でした。彼女の計画に不確定な要素はない。何故なら私たちだけでなく、彼女が駒に選んだ者たちはすべて、彼女の望んだ通りに動かざるをえなかったのですから。それは貴方とて例外ではなく……つまり――」
少し強めの風が吹く中、レイラは言葉を切り、揺れる髪をそっと抑えながら振り返った。そして、艶美な微笑みを浮かべて問い掛ける。
「ここでその話をしたということは、そういうことでよろしいのですね?」
その反応から、ここでロウがその答えを出すと最初から思っていたのだろう。
今しがたレイラが言ったように”彼女が選んだ駒たちは彼女の望んだ通りに動かざるをえない”のだから。故に、ロウとしてもこの状態はすでに手遅れだった。
何故なら、本当の意味で降魔を殺せるのは条件を満たした七深裂の花冠とロウ、そして執行部隊である慈しみの女神だけなのだから。
だが執行部隊の性質上、誰かの願いなしに国から出ることは叶わず、受けた願いを完遂するまで他の願いを受け入れることができない。
その上で、ここまで彼女が執行部隊の手綱を握っておきながら、ここに来て、すぐそこまで迫ったもう一つの戦、敵戦力の拡大といった、絶望しかねない情報を渡すと同時に執行部隊の任を解いた。
「最初から、そういうつもりだったんだろ?」
つまり、彼女がいったい何を企んでいようと、掌の上で踊らされ続けた先にあるのが、憎悪を晴らすために彼女の用意した舞台であるとわかっていても、受け入れるしかない。
でなければ、すぐそこまで迫った戦いを乗り越えることなど、間違いなく不可能なのだから。
「貴方が私たちを捨て去ってから幾星霜。結局、貴方は私たちと共に在るべきだったと知りなさい」
言って、レイラは遠い記憶を思い返す。
あのとき、この胸を貫いて去り行く黒衣の背中を。
その背に伸ばした、届くことのない震える自分の指先を。
”いか、ないで…………いかない、で……ロウ”
か細い声で、振り返ることなく行く彼の名を呼んだあの日の自分に、心の中で言葉をかける。あの日の敗北は、決して無駄ではなかったのだと。
「ロウ、あの日のことを気にしているのなら、その必要はありません。あの後、ロコはずっと泣き続け、ペロは何も手につかず、私は一日拘留程度の罪を死罪にしてやろうかとやけっぱちになっていたくらいですので」
「……え、あ」
「貴方の目的は知っていました。故にあの結末は道を違えた以上必然のこと。いまさら貴方が都合良く私たちの力を借りたいと願っても、私たちは快くその願いを聞き届けるつもりです。えぇ、そうです。貴方の都合で捨てた哀れな女を、もう一度拾って使おうとも、誰もそれを咎めることはないでしょう」
「わ、わかった。この恩は絶対に忘れないし、この借りはいずれ必ず、できる限り君たちの望む形で返す。だから、少しだけ手を貸して欲しい」
「よろしい」
そう、あの日の敗北は決して無駄ではなかったのだと、レイラは嬉しさを誤魔化した冷たい表情で微笑んで見せたのだった。




