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これは君のパラミシア  作者: 御乃咲 司
第九節『これは終焉の先に至る分水嶺』
291/323

289.重なる過去という未来への夢

 

 海に穿たれた大穴の影響で、海流が本来であれば有り得ない動きを見せるものの、海国の主力艦隊が沈むことはない。海国での水棲降魔(ディープ)の出現率は極めて高く、それ故に乗船する者の中には必ず水を操れる能力を有する者がいるからだ。

 空を飛んでいた者たちもロウの指示で難を逃れ、突き放された海馬(シーホース)の牽く戦闘車(チャリオット)も無傷ではあるものの、あの攻撃に呑まれたロウは果たして無事なのか。

 救助しようにも、大穴が自然に塞がるまでの時間的猶予はなく、ただ泳ぎが得意というだけなら容易く不規則に猛威を振るう海流の餌食となるだろう。

 ともすれば、それすらものともしない者に頼る他ないのだが……


「いったい、これはなんだというのだ。我の神力に拮抗した上、この破壊力はあまりにも異常だ」

「神殺しは無事、なのか……」


 まだ手足に痺れが残るものの、ブフェーラが体に鞭を打って立ち上がると、海面を見下ろしていたイグニスがロウの身を案じるような言葉を発する。


「一桁のランカーに匹敵……いえ、それすら上回る力を感じました」

「……ロウ、様」


 降魔の巣ともいえる深域(アヴィス)のすぐ傍に拠を構える星国のヴィーゾでさえ、先の敵と同等の力を持つ存在どころか、それに近しい力さえ今まで感じたことはない。

 対面すれば、おそらく無意識に自分の死を連想してしまうであろう存在だ。

 強く拳を握り絞め、ロウの無事を祈るように彼の名を呟いたエパナスの傍らでは、何が起きたのか理解できないといわんばかりに、表情を凍てつかせたままのミコトがいた。

 そして、そんな彼女の姿をを直視できず、眉間に皺を寄せながら瞼を下ろしたヴィアベルが顔を逸らす。

 しかしそんな中でも、いつもと調子の変わらぬ者が一人。


「心配せずとも、神殺しは無事でしょう」

「…………ま、まことか?」

「えぇ、あそこを見て下さい」


 相変わらずの笑みを貼り付けたアルバが視線で促した方を見れば、そこには浜辺に立つ四人の姿があった。エーデルワイスの三姉妹とシンカだ。


闘技祭典(ユースティア)での出来事を思い返すに、彼女は神殺しのことが余程大切なのでしょう。ですが、今の彼女に酷く取り乱した様子はありません。ただ信じているだけでは、おそらくあそこまで冷静でいることはできないでしょう。つまり、神殺しが無事であるという確信があるんですよ、きっとね。でなければ、この状況下で唯一神殺しを救助できる存在……海の中で無敵を誇る人魚(セイレーン)がすぐ傍にいて、救いを請わないはずがない」


 確かにアルバの言っていることは的を射ているのかもしれない。

 しかし、それは今のシンカがロウに対する闘技祭典での気持ちを抱き続けていた場合の話だ。浜辺での光景を見て、脳が思考を放棄しているだけかもしれない。

 

「神殺しの所業を目の当たりにして同じ関係でいられるのなら、あの娘も狂人の類であろうな。だがそうでなければ、奴の傍にいることなどできぬか」

「ともあれ、これで分かったことは二つ……より分からなくなった、とも言えるかもしれぬが……」

「えぇ、陽神の仰る通り。まず第一に、間違いなくあれは致死の天災(リーサルカタストロフ)……危険種とみて間違いありません。つまり、懸念していた厄災が近いうちに必ず訪れるということでしょう」


 あれだけの力を持ちながら、何故姿を見せず退いたのかは分からぬものの、いつかは討たねばならぬ強敵だ。

 これまで七国に悟られず、その存在を隠し続けて来た理由も不明だが、何か理由があるのか気紛れか、それともまだ万全ではないのか。

 どちらにせよ、あの存在はいずれ必ず牙を剥いて襲い掛かってくるだろう。

 

「第二に、その存在を神殺しは知っていた。そして、それを討つことが彼の目的のうちの一つであるということです。だからこそ、陽神の言葉通り、彼の心が余計に分からなくなったとも言えるのですがね」


 あのとき、ロウは間違いなく敵の攻撃に気付いていた。だからこそ、ロウはその攻撃の範囲からこの戦闘車(チャリオット)を遠ざけるために、手荒な手段に出たのだ。

 その上で、ロウは自分の身を守るよりも、敵を攻撃することを優先した。

 自身の安全よりも敵を倒すことを優先したにも関わらず、それよりもさらに優先したことが神々の身を守ることだったということになる。

 疑問があるとすれば、あのロウが自身と相手の力量を測り損ねるはずがないという点だろう。苦し紛れに放った一撃で敵を仕留めることができないと分かっていたはずなのに、なぜあの状況で無理に攻撃する必要があったのか、とうことだ。

 僅かでも傷を与えられれば僥倖と判断したのか、自らの意志を示す必要があったのか、それとも冷静さを失わせるほどの因縁があるのか。

 どちらにせよロウの行動に対し、特に彼を快く思っていなかったヴィアベルにとっては、救われたということ自体が頭を悩ませる要因に成り得ることだろう。

 それも彼の中の最優先事項としてだ。

 

「かつて英雄と呼ばれ、神々を殺すに墜ち、多くの同胞を殺め、今も無垢な命さえ奪った男に救われた、か。私には、奴の考えていることがまるで理解できない」

「そうですねぇ。まぁ素直に教えてくれるとは思えませんが、やはり彼を捕らえ、直接話を聞く必要があるのは間違いないでしょう」


 たとえ、この期に及んで尚も伏せ続けようとしたとしても、是が非でも語って貰わなければならないのは明白だ。

 あのような化け物の存在が明らかになった今、過去にどのような出来事があろうと、一個人どころか一国内でさえもなく、全世界規模の問題なのだから。


「ブフェーラ様」

「予定に変更はない」


 指示を仰ぎに来たイーリットを一瞥し、ブフェーラは答えた。

 そんな彼の横顔を覗き見ると、アルバは僅かに口角を上げながら、元の海面に戻りつつある海を見下ろす。

 それはまるで、普通なら”予定通りロウと捕らえる”というブフェーラの言葉の中にある別の意味を見つけたかのように。


「そろそろでしょうか」


 すると、ぶくぶくと泡立つ海面から、ロウが無事な姿を現わした。

 包囲されたこの場から離れることもなく泳いでいるのを見るに、やはり氷の力は使えないようだ。

 そんな彼を救助、というよりは捕縛する為ではあるが、一隻の船が彼の方へと慎重に近づいていく中、他の船はロウを中心とした円となるように動いた。

 近づく船に乗っているのはヴィーゾとタンドレス、そして数人の魔憑たちだ。

 

『いくら我が君とはいえ、この状況は些かお辛いでしょう。お望みであれば、セツが出て蹴散らしますが』 

(いや、ハクレンがいない今、セツナまで表に出れば俺がまともに動けなくなる。体力が回復するまでは大人しくするしかないだろうな)


 今も纏い続けている魔力で編んだ黒衣のおかげで、負った傷自体は大したものではない。

 魔力が切れたわけでもなく、問題なのは連戦から海中に沈められたことで大きく消耗した体力の方だ。

 このまま烏衣纏(ウイテン)を使って逃げようにも、疲労した今の肉体で、海や空を得意とする討滅せし者(ネメシスランカー)から逃げ果せることはできない。容易く捕まってしまうだろう。

 接近してきた船が縄梯子を下ろすと、ロウは大人しくそれに手をかけてゆっくりと登り始めた。


『主様……わっちの力が及ばぬせいで、申し訳ございんせん』

(ルナティアはよくやってくれた。アレは、お前たちが揃ってはじめて対等に戦える相手だ)

『あのまま戦わずに済んだのは幸いでした。デュタンタの思惑も空振りに終わった、ということでしょうか』

(それはまだわからない……が、楔は打った。上手くいけば奴を追えるはずだ)

『ですが、いくらセツの能力があるとはいえ、蝕魔(エクリプス)を討ちすぎました。すでに許容量も限界に近いはず。今はまだ、これ以上の降魔との戦闘はお控え下さい』

(わかった。俺もここで墜ちるつもりはないからな)


 自らの半身に釘を刺されなくとも、ロウも自分の限界は分かっている。

 セツナが言ったように、あそこで危険種との戦闘にならなかったのは不幸中の幸いだった。危険種でなくとも、蝕魔(エクリプス)含む降魔との戦闘があれ以上続いていれば、魔力や体力以前の問題であったのは確かだ。

 おそらく、今も黒衣の下の大半が侵されている状態だろう。

 一先ず今は危険種のことは忘れ、この場を逃げ切ることだけを考えながら、ロウは梯子を登り切り甲板に足をつけた。


「…………」


 先の問答があったからか、なんと声を掛ければいいのかわからないのだろう。

 ヴァングはロウの無事な姿に安堵の息を吐きつつ、同時に下唇をぎゅっと噛みながら視線を逸らした。

 周囲の船がこの船を取り囲むように布陣し、神々が降りてこられるよう安全を確保する為に忙しなく動いている中、一歩前に出たのはタンドレスだ。


「今、残存の降魔や逸降魔(ストレイ)がいないかを確認しているところでござる。神々が降りるまでの間、少し拙者と話でもせぬでござるか?」

「……何を問われたところで、答えられるかは分からないが」

「構わぬでござるよ」


 そう言って小さな笑みを浮かべると、タンドレスは穏やかな口調で言葉を掛ける。


「今更でござるが、闘技祭典(ユースティア)での一件に続きミコト様を……ひいては地国を救って頂いたこと、心より感謝するでござる。ずっと直接伝えたかったのでござるが、なかなか話す機会もなく、遅れて申し訳ない」

「感謝されるような」

「ことじゃない、でござるか。それでもおぬしに感謝している者がいることは事実。礼は素直に受け取るものでござるよ」

「……話はそれだけか?」

「ははっ、まるで別人でござるな」

「…………」


 ロウはまだ(・・)、タンドレスと親しい仲というわけではない。

 それなのにいったい自分の何がわかるのか。ロウが思いもよらなかった言葉に返答できずにいると、タンドレスは変わらない音で言葉を重ねていく。


闘技祭典(ユースティア)のとき、ロウ殿はまっすぐに拙者を見てくださった。拙者の苦しみや葛藤を見透かしたように、深く力強いその瞳で。しかし、拙者に誰かの面影を重ねているのか、今のおぬしは拙者を見てはござらん」

「……」

「動揺したでござるな? 拙者の能力を忘れたわけではないでござろう。相手の心を全て知れるなどと、そんな大層なことができるとは言わぬでござる。しかし、少しくらい見透かすのは得意でござるよ」

「それで? 何が言いたいんだ?」 

「ロウ殿はいったい、拙者の姿に何を見ているのでござるか?」

 

 直接的な問い掛けに、不味いと思いながらもロウの心臓が大きく動いた。

 仮面で素顔を隠しても、感情を声に乗せずとも、どれだけ悟られないように努力しても、そしてそれが屈強な戦士でも……心というものは正直だ。

 それはロウとて例外ではなく、


”ロウ殿”


 色褪せた記憶の一頁の中、雑音混じりの声が響いた。


”こんな拙者にも、夢はあるでござるよ”

 

 夢と願いは別物だ。夢という言葉は、それが遙か遠くにあるような錯覚に人を落としてしまう。現実を見て、真実を理解し、最後の最後まで灯火を燃やし続けてこそ、人は願った場所へ辿り着くことができるのだ、と……それはそんな話をしたときに、彼が零した言葉だった。

 そのとき、ロウはある人の言葉を思い出した。

 叶わないから夢なのではない。叶えたいことが夢なのだ。常に伸ばした手の届く場所に理想があるとは限らないが、気の遠くなるほど遠くにある夢だって、確かにそこに在る。夢は決して逃げたりしない。逃げるのは、いつだって目を背けて諦めてしまった自分自身だ、と。

 そうしてロウは思いを改めた。

 彼がその夢を叶えたのなら、自分が夢を見ることも悪くはないのかもしれない。

 だが、彼の夢が叶うことはなかった。正確には――


”タンドレス……すまない。お前の夢を諦めて、未来の為に散ってくれ”


(俺が、その夢を摘み取ったんだ)


 そうだ。そのときは、そうするしかなかった。

 仕方が無いと言い訳をし、世界の為だと自分に言い聞かせ、罪を重ね続けた。

 だから、次こそは――そう思っていたはずなのに……


”ロウ殿、ここは拙者にお任せを”


”馬鹿を言うな、叶えたい夢があるんだろう!”


 どの口が宣うのか。

 罪は消えない。たとえ相手が忘れても、己の心に埋まった罪の種は必ず花開き、自らの心を蝕み続ける。だから、そんな言葉はただの偽善だ。


”ロウ殿に夢の話をしたことがあったでござるか? まぁ、おぬしは元より不思議な御仁でござったからな。驚きはせぬでござるが……”

 

 何度もこの光景を見てきた。彼だけじゃなく、誰もが皆……


”散るは定め。されど桜は必ずや再び咲き誇る、でござったな。桜の紋にすべてを預けたミコト様のために切り開ける道があるのなら、それは拙者の役目。ロウ殿……その先で成すべきことが、おぬしの役目にござる”


(あぁ……また、俺は……)


 はらはらと散り逝く命の花弁。

 泉に水面に映る表情はあまりに空虚で、何度手を洗っても穢れは落ちない。

 やがて花弁は散り積もり、水鏡の美しい月さえも叢雲の如く覆い隠す。

 紅い花弁が水面に散れば、そこはまるで血の泉だ。

 散り溜まった幾多の命の泉の上で――


「ロウ殿」


 呼ばれた声で、霞んでいたロウの意識は強制的に引き戻された。

 脳裏を過ぎっていたのは、息苦しくなるような嫌な光景。

 心臓の鼓動が早まり、滲み出る汗。どれだけ表面を繕っても、無意識に内から湧き出るものを御するのは困難だ。早く鎮めなければと思っても、今のタンドレスと被るあのときの彼の笑顔がそれはさせぬと邪魔をする。


「その仮面に隠れた想い……いつか打ち明けることができたのならば、そのときは、共に戦えるのでござるか?」

「それは…………そう、だな。その日が来ればいいと、そう思っているよ」

「そうでござるか」


 そう言って、タンドレスは微笑んだ。

 自らの死に場所を定めた、あのときのように。

 だがその瞬間、彼の表情は険しいものへと変わり、右手を前に突き出した。

 脳裏を過ぎった光景に緊張の糸を断たれていたロウが咄嗟に動けずにいる中、タンドレスの右手が周囲の熱を瞬く間に奪い去る。

 何が起きたのかと周りの視線が集まり、ロウが空間ごと熱を奪われたせいで鈍くなった体に鞭を打つと同時に、誰もが状況を理解した。


 ロウの背後に上がる水飛沫。海中から飛び出してきた目視できぬ何か。

 極一部の海中生物のように姿を隠し、魔力を遮断し、神々の安全を確保するために行っていた索敵範囲から逃れたそれが、牙を剥いて襲い掛かる。

 ロウと会話をしつつも、ミコトの安全を確保するために熱を感知する手段で索敵を行っていたタンドレスだけがその存在に気付いていた。

 たとえ敵が巧みに姿を隠そうが透明になっていようが、タンドレスにとってのそれは身を晒した哀れな的でしかない。

 タンドレスが右手から奪った熱が左手に持った数枚の札に移り変わり、投げた札がその何者かに張り付く、同時に大きな爆発を引き起こした。

 

 そして、ロウの背後から吹く熱風が……背後から感じる、消えて逝く紫黒の粒子が……タンドレスが何を(・・)討ってしまったのかをロウに悟らせた。

 

「大事ないでござるか?」

「……」


 安否を問うタンドレスに、ロウは何も答えることができないでいる。

 感謝を伝えればいいのだろうか。怒ればいいのだろうか。

 どちらも正解で、どちらも不正解で、込み上げるのは深い悲しみと後悔だ。

 喉の奥がからからに乾き、勘違いであってほしいと祈る思い。

 だが、やはりこの世界の運命とは残酷なのだ。

 変えることは許されず、逃れることは叶わない。

 タンドレスから感じる紫黒の気配が濃くなり、彼の衣服の隙間から見える地肌が黒く侵された、その瞬間――


「夢を叶えさせてやれなくて……すまない……本当に……すま、ない」

「ごほっ……」

 

 彼の口端から伝う赤い血。それは、夢を断絶させる命の雫。


「っ……あぁ……そうで、ござったか……」


 ロウの刀がタンドレスの胸を貫き、それを抜き放つと同時に、タンドレスの体がぐらりと揺れ、大量の鮮血を流しながら膝を地につけた。


 ほんの僅か、世界が凍てつき、時が止まったような錯覚に皆が陥る中――


「嘘、じゃ……ロウ……そんな……」


 信じたくないと首を振り、悲痛に顔を歪めるミコトの口から零れ落ちた涙。


「神、殺し……貴様は、貴様はどこまで……どこまでッ――!」


 ヴィアベルの中から沸々と込み上げる怒りは、これまでのロウに対する疑念や僅かな希望すらも容易く凌駕していた。

 強く握った拳から赤いものが滴れ落ち、今にも飛び出しそうな彼女を見たエパナスは、このままでは不味いと大きく声を張り上げる。


「ヴァング、今すぐに神殺しを拘束しなさい!」


 だが、ヴァングが土でロウの動きを封じようとした、その瞬間――


「っ、ソティス――ッ!!」


 聞こえた雄叫びと共に、ヴァングの視界からロウの姿が消えた。

 そして、今までロウの立っていた場所に突如として現れたのは、アンスとトレナールの二人だ。

 ロウは感じた浮遊感と直後背中に走った痛み、熱をもった頬から、自分が彼に殴り飛ばされたのだと理解した。


「なんでだ!? なんでタンドレスをやりやがった!」


 アンスはロウに馬乗りなりながら胸倉を掴み上げ、その怒りを露わにする。

 能力を使って状況を見ていたアンスと瞬間移動の能力を持つトレナールは、今回の会談がディーヴァと接触することを目的としていたことを念頭にいれたミコトと共に海国を訪れ、少し離れた別の島で待機していたのだ。  


「俺は言ったよな!? ミコト様の笑顔が失われるようなことがあれば、俺はお前を許さねぇって! お前には、今のミコト様が笑ってるように見えるのか!」

「……見えるはずがないだろ」

「くッ、だったら! お前はいったい何がしてぇんだ!」


 そんな叫び声も遠くに聞こえ、自身の身体から熱が失われていくのをタンドレスは感じていた。

 ヴァングが必死に止血をしてくれているようだが、寸分の狂いなく心臓を突き抜かれているその身が助からないと、虚ろげな意識で理解する。

 それと同時に、心臓を貫かれてなお僅かながらに生きながらえている事実と、何かに蝕まれていく感覚が、彼に一つの真実を伝えていた。


「……いき、た…………くッ、拙者は……」

「今は喋らないでください!」


 口を開けば、無意識に出そうになる言葉を抑えこみ、タンドレスは震えた手で札と筆を執りだした。そして、頼りなく不格好な文字を書き残していく。

 ロウを罵倒し続けるアンスの慟哭が聞こえる中、普通ならすでに事切れている傷を負いながら、やっとの思いで書き切ったそれを服の内側から現れた使い魔のような鼠が咥えると、


「――くっ」


 ロウの体がすぐ隣に吹き飛ばされてきた。

 そして、ロウが自らの手で命を奪ったタンドレスに見向きもせず、切れた口端を拭って立ち上がる。すると、タンドレスは最後の力を振り絞った。

 

「ロウ、殿……拙者の、夢を……託すで……ざる。……どうか……皆が……笑って……」


 彼が最期の言葉を残し眠るように息を引き取ると、空からはまるで彼の魂を癒やすかのように、美しい桜色の雪がはらりはらりと花弁の如く静かに舞い落ちた。

 白くもなく黒でもない。その不可思議な現象に周囲の意識が向く中、その隙を決して逃すことなく、ロウの足は動いていた。

 だが、戦場を見下ろす視覚持つアンスに隙などあるはずもなく、トレナールの能力から逃れられるはずもない。

 容易く回り込まれ、立ち塞がる二人の怒りと悲しみが消えることもない。

 そして、そんな負の感情の嵐が胸中に渦巻いている彼らの耳に、タンドレスの最期の声が届いているはずもなかった。


「……これは、ぼくも許せそうになよ、アンス」

「あぁ、絶対に逃がさねぇ。洗いざらい吐いて、そして裁かれろ」


 それぞれに神々からの命令を受け、ロウを取り囲む強者たちの中に、もう迷いを抱いている者はいなかった。

 故に、いくら対多数を得意とするロウとて、絶体絶命の窮地といえるだろう。

 とはいっても、これでロウが大人しく捕まるかと問われれば、周りの者とてそうならないというのは分かっていた。

 捕らえるには、まず全力で弱らせなければならない、と。

 卑怯だとも卑劣だとも思わない。そうしなければいけないと、眼前にいる罪人はそれほどの男なのだと、悔しくとも認めざるを得ないが故に――


 周囲から放たれた魔弾や魔砲が光を放ち、激しい爆発音と白煙が船上に満ちた。

 そして、皆が白煙の中の黒影を注視する。

 このまま攻撃しつづければ視界が悪くなり、船も危険だ。ロウが必ず攻撃を防ぐと分かっているからこその、一度ずつの集中砲火。

 黒影が動く、もしくは白煙が晴れると同時に再び攻撃を仕掛ける構えを取りながら、皆が視線を逸らすことなく見据える視界の中、現れたのは――


「これを受け続けるのは、俺には荷が重すぎるな」


 地につけた大きな盾を構え、球体状の魔障壁に身を包んだ男だった。

 魔障壁と解き、盾を振り払うように横に凪ぐと、背中に広がるは白黒の翼。


「悪いとは思うけど、あの人を捕まえさせるわけにはいかない」


 軍服を脱ぎ捨て神々に背いた堕天の男は、臆することなく毅然と言葉を突き付けた。



 …………

 ……



 一方、甲板の上にいたはずのロウは、いつの間にか浜辺に立っていた。


「ロウ」


 すぐ傍から聞こえた聞こえるはずのない声に振り向くと、そこにいたのはシンカだ。そのすぐ後ろにはクベレ、フルト、キュステの三人もいる。

 

「これは……どうしてパグロが?」


 状況から察するに、これはパグロの能力だろう。

 彼の力は一番大切に思う者、つまりは彼の姉でるパセロとの位置を入れ替えるという特殊なものだ。が、詠唱することで任意の対象と入れ替えることができる。

 ただ、何が起きたのか、そしてその方法は理解できても、問題は何故このタイミングで彼がここにいて、ロウを助けるような行動をとったのかということだ。


「私も詳しくはわからないけど……」


 そう前振りをし、シンカは少し前のことを思い返した。

 


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