295.黄泉の装束を纏う正義
黒い砂がさらさらと流れ落ちる。
遅くもなく、速くもなく、一定の間隔でただ静かに墜ちていく。
漆黒へと変わり果てた純白の砂が、希望を塗り潰していくように。
願いと想い、信頼と期待、それらすべてを……嘲笑うかのように。
未だ背中合わせの運命は向かい合うことなく、ただ無情なる時を刻んでいく。
…………
……
目の前の光景を信じることができなかった。
いや、信じたくなかったと言った方が正確だろう。
そんなことは有り得ない。有り得ていいはずがない。
これは奴の策略だ。これは仲間同士を争わせる為の嘘偽りに違いない。
心を折られるな、奴に呑まれるな。
思い出せ、かの者との日常を、苦難の旅を、そしてあの微笑みを。
だが――
”もっと強くなってくれ。俺を越え、一人でも多くを護れるように”
お前は本気でそう願っていたのか?
お前はいったい、どのような想いでその言葉を口にしたのだ。
”――俺の美徳は偽装した悪徳だ。俺の正義は欺瞞に満ちている”
お前の行いは本当に悪なのか?
ならばなぜ、立ち止まろうと思わないのだ。、
”リアン、セリス。もし黒い雪を見て、何か思い……”
お前はすべてを思い出していたのか?
だとしたら、どうして真実を語ってはくれなかったのだ。
もし仮にここでこの真実を見ることがなければ、お前は何食わぬ顔で共にいようとしていたのか?
大切な人を奪った罪を、ひた隠しにし続けて。
どれだけ自問自答したところで、当然返ってくる言葉などはない。
心謎の能力は、見た記憶を形にすることだ。
つまりこれはあのとき、地国で心謎が見た男の記憶なのだろう。
「そ、んな……」
「まさか……こんなこと……」
スィーネとファナティの口から零れ落ちた音は震えていた。
だが、当然だ。
彼を知る者のいったい誰が、この結末を予想できただろうか。
彼を知る者のいったい誰が、彼のこんな姿を想像できたというのか。
「――っ」
下唇を強く噛んだリアンの切れた口端から、赤い怨嗟の雫が流れ落ちる。
体の傷はいつか癒えるだろう。だが、心の傷を癒やすことは難しい。
乗り越えたはずの心傷は、ただ瘡蓋ができただけに過ぎなかった。
剥がれ落ちた瘡蓋の傷は大きく開き、さらなる心的外傷を植え付ける。
「な、ぜ……」
苦痛に藻掻く幼き二人の視界の中で、ゆっくりと動いた人の影。
闇よりも深き黒を纏った夜。黒き世界にまだ僅かに降る黒雪の中、雲間から零れる氷輪の月光が照らし出した愛する人の姿は赤く紅く染まっている。
彼女を貫く刃先から、ぽたぽたと零れ落ちる命の雫。
その刃の先を辿っていくと、幼き彼らを見つめているのは白き狐。
狐の半面に隠されたその表情を見ることはできない。
だが、今の彼らは知っている。
愛する者から刀を抜き、力無く倒れる彼女を抱き留め、何も語らずに去って行くその男の背中を。
その背中はいつも頼もしいものだった。
共に戦いたくて追いかけた背中。力になりたくて追い続けた背中。
酷く傷つきながらも前に立ち、不屈の意志を語るその背中は彼らの憧れだった。
「なぜだ……」
さらさらと、黒いものが流れ落ちる。
透明の心の器の中、白き思い出を侵食していくかのように。
美しい情景が染まっていく………黒く、黒く、黒く。
置き去りにされていた凄惨なる過去が現在と重なったこの瞬間――
「なぜだッ! ロォォォォォ――ッ!」
大切な母を呼ぶ幼き彼らと、信じていた男の名を叫ぶリアンの声が重なり合う。
半面の男を強く睨んだ彼のあまりに悲愴な慟哭が響いた途端……
再びこの世界と彼らの意識が暗転した。
…………
……
海国エデメーア神都ポントス近海に浮かぶ島、そこにある町ムシェル。
決して大きい町ではなく、そこに暮らす人々の数も多いわけではない。
大局を見るならば、それは不幸中の幸いだといえるだろう。
重要な拠点を失うわけでも、貴重な魔憑を失うわけでもなければ、この港が必要不可欠な要津というわけでもないのだから。
だがそれでも、現地の人々にとってそんなことは関係ない。
この地に黒い雪が降る。それ自体が、ただの不幸でしかないのだから。
「慌てるな! 順番に進め!」
「大丈夫だ、まだ時間はある!」
町の警備兵の声が忙しなく響き渡っている。
背が高く、広い地下まである建物の入り口には、避難してきた多くの住民が集まっていた。
「これでどれくらいだ?」
「町にいた者はおそらくこれですべてのはずですが……」
避難誘導をしている傍らで、二人の兵士が控えめな声で話し合っている。
「しかし、これは本当に使えるのでしょうか?」
「わからん。が、我々に魔力が使えない以上、縋るしかないだろう」
手にした魔塊石をぎゅっと握り、兵士は先の男の姿を思い返した。
空に異常が発生してからすぐ、まるでこの町がこうなると予め分かっていたかのように現れたその男は、ここにいる兵士も見たことのある男だった。
彼を見たのは闘技祭典……ロウ、いや、神殺しと、そう呼ばれていた男だ。
本来であれば警戒対象であり、彼の言うことなど信ずるに値しないものだろう。
だが、一刻を争うこの状況下では、たとえ彼の言葉であろうと信じるしかない。
今手元にある魔塊石はロウが手渡したものだが、それには避難施設の魔障壁を起動させるだけの十分な魔力が込められている。
そう言った言葉が本当なら、今ここにいる者たちは確実に救えるだろう。
「問題は外だが……っ、時間がない」
町にいた者の避難は間もなく完了するものの、問題は漁に出た者や、野草を摘みに出た者、遊びに繰り出していた者たちだ。
使える野草の群生地や狩り場といったものはある程度決まっているため、そこに向かった者たちを見つけるのは難しいことではない。
時機に他の兵士が連れ戻してくるだろう。だが、最も問題なのは……
「兵隊さん、うちの子はまだ見つからないんですか!?」
「落ち着いてください。最善は尽くします」
「ぅ、あぁ……」
「お願いします! 誰か、誰か私の家族を……っ」
洞穴などが近くにあれば、たとえ魔障壁がなくとも難を凌くことができる。
黒い雪から浸透する魔力も、分厚い岩壁を抜けきることはできないからだ。
だが、不安や恐怖に駆られた子供たちが、自分の判断で上手く避難することができるとは思えない。
せめて必死に町まで戻ろうと走ってくれていれば、捜索に出た兵士との合流も幾分早くできるだろう。だが、冷静さを失って怪我でもしていたら、恐怖に竦み動けなかったら、訳も分からずただ厄災から逃れようとあらぬ方向に走ってしまっていたら……と、起こり得る事態に対しての不安が尽きることはない。
魔憑ではない、ただの一般兵が走る速度もたかが知れている。
故に、この島でただ一人の魔憑に縋るしなかった。
この魔塊石を届け、すぐさま他の者を助けに向かったあの男を。
神に祈るではなく、神を殺したあの男に、縋るしかなかったのだ。
「頼む……間に合ってくれ」
そう言って、男は今すぐにでも降り出しそうな暗雲を見上げた。
……………
……
少しでも多くの人を救うため、ロウは必死の抵抗を試みていた。
僅かな希望があったのだ。いや、希望はあると信じていたかった。
だが、この世界は優しさばかりでできているわけではない。
苦難や悲劇はいつだって、唐突に訪れるものだ。
「ここにいれば大丈夫だ。黒い雪が降り止んでも、暫くは外に出たら駄目だぞ?」
「うん」
「おそらく大人たちが迎えに来てくれるが、もしかしたらすぐには見つけてくれないかもしれない。そのときは、地面の黒いのがなくなってから、慌てずお家に帰るんだ。約束できるか?」
「……うん」
入り江にある洞窟の中、その近くで遊んでいた姉弟が、不安げな表情でロウを見つめていた。
本当なら避難所まで連れて行くのが一番だが、その途中で他の子と遭遇する可能性もある。子供二人を抱えていては、万が一のときに対処することができない。
この状況下では、見つけた人をその場で一番近くの安全地帯に避難させることが最適解だとロウは判断していた。
「お兄ちゃんは?」
「他の人を助けにいってくる。君たちが恐いのを我慢して、ここで頑張ってくれるおかげだ。その手を離さず、力を合わせて二人で乗り越えるんだぞ」
「わ、わかった。お兄ちゃんも頑張って」
「が、頑張ってね」
「ありがとう」
二人の頭を優しく撫でると、ロウは後ろ髪を引かれながらも、すぐさま外に飛び出して走り出した。
精神を集中させ、微弱な魔力を探り、心の声に耳を傾ける。
「っ、次は――」
俯くな。何も知らないまま命を奪われる者がいて、続いたはずの命を吹き消される者がいる。その現実は、間違いなく悪だ。
すべてを知りつつ、これを悪だと糾弾することがたとえ偽善だとしても、今この瞬間に成せることは成さねばならない。
胸を張ることなど到底できはしないが、迷っていては救われるはずの者たちすら救うことはできないのだ。
人は過去や自分の立場から逃れられない。だからといって、その過去で今持てる正しさや行いの全てが否定されるわけではないはずだ。
過去を悔いているからこそ、それに勝る未来を築かなければならない。
「まだ……もっと速くッ」
罪とは消えないものだ。過去は必ずついて回る。
しかしそれに負けて未来を捨てるということは、過去の全てが無為だったと認めてしまうことに他ならない。
自分だけが無為に終わるのなら許せもしよう。
だが、道を歩んだ者には歩んだだけの責任があり、そしてそれは歩み続けることでしか返せないものだ。
流された血、奪った命、見捨てた命、支えてくれた者、拾い上げずに捨ててきた幾つもの何か……歩むものの背中には、失われた全てが背負わされている。
故に、悔やんでも悔やみきれない道を歩んだからこそ、挑み続けるのだ。
いついかなる時も、敗れる時は全力を尽くして敗れなけばならない。
「これで最後、か?」
そうして、幾人かを無事に避難させ終えると、砂浜で立ち止まったロウは荒くなった息を整えながらそう呟いた。
「俺は……やれた、のか」
ここでの出来事は、決して許容できないものになるはずだった。
複数の命が失われ、これまであったはずの信頼は砕け、誰かを悲しませ、誰かを憎悪に駆り立て、誰かの未来を壊してしまうはずだった。
だが、ロウの知る未来よりも、暗雲から降り落ちる黒雪までの時間が長い。
それは誰かの意志が介入しているのか、それとも単なる偶然か。
どちらにせよ、そのおかげで町の外にいた者たちを無事に安全な場所につれて行くことができた。そして、助けを求める心の声はもう聞こえない。
これを最良の結果と言わずしてなんと言うのだろうか。
「救えたのか? 今度こそ、俺は……っ」
込み上げる思いを押さえ込むように、ロウは震えた声を漏らした。
だが、油断はできない。即座に頭を左右に振りながら、その意識を切り替える。
知る者の少ない黒雪の真実の一つ。
新たに生まれる降魔の場所を特定し、駆逐しなければならないのだから。
(一度避難所に戻ろう)
そして、ロウは町中にある避難所に向けて海岸沿いを駆け始めた。
と同時に、降り始めた黒い雪。
本来であれば人の命を容易く奪う雪も、ロウにとっては関係ない。
救えた命に心を震わせながら、人のいない海岸をロウは駆ける。
滑りやすくなっている岩に気をつけながら、道無き岩を渡って行く。
未来は変わったのだ。
それは世界を救うという目的の中、大局において他愛のない命かもしれない。
救われた者がこの先で、世界の命運の転機に関わる可能性は低いだろう。
魔憑に覚醒し、幾多の降魔を滅することもなければ、重要な戦の局面を変えることもない。だがそれでも、救いを求める者の声に応えることができた。
それが世界にとって些末なことでも、とても大きな前進だった。
ロウは駆ける。黒い雪の中を、声なき歓喜をその胸に抱きながら。
港まで後少し……港に入れば、避難所まであと僅かだ。
岩壁を周り、高く跳躍したロウは、砂浜に降り立つまでの僅かな時間。
自身が飛び越えたそれらを見た。
「な――っ!?」
驚声を漏らし、膝を深く折って着地すると、ゆっくりと立ち上がる。
そうしてロウは思い出した……再び思い知らされた。
この世界は優しさばかりでできているわけではない。
苦難や悲劇はいつだって、唐突に訪れるものだ。
「よ、よかった……」
ロウの背後から聞こえた掠れた声。
静かに呼吸を整え、ゆっくり振り返ると、そこにいたのは――
「もう、私たちでは……どうしようも、なく……」
上着を被せた子供を抱えた兵士だった。
他にも、同じように上着を被せた老人を背負う兵士や、薄布を纏った子供を抱きながら支え合う夫婦、肩を貸し合う兵士たち。
彼らの肌は黒ずんでおり、意識を保っているのもやっとといった状態に見えた。
体力の劣る子供や老人に至っては、すでに気を失っている。
「ま、まだ動ける人が、いるんですか?」
「でしたらどうか……お願いします。子供たち……だけでも」
おそらく、そう言った兵士たちの視界も酷く霞んでいるのだろう。
魔力を扱える魔憑や亜人と違い、魔力に対して何一つ耐性のない者への黒雪の浸食は、先に挙げた者よりも数段と早い。
自分たちは助からないと悟りつつ、それでもせめて子供たちだけでもと、目の前にいる男が誰かもわからず一縷の望みに縋っているのだ。
「――――ッ」
ロウの固く握った拳と強く結んだ口端から、自責の念が流れ落ちる。
このときのロウは、後悔の念で押し潰されそうになっていた。
悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。
きっと、目の前にいる人たちは諦めていなかったのだろう。
兵士は必ず町の人を救うのだと、親は必ず子を救うのだと、そう自分を鼓舞することで恐怖を呑み込み、足掻き続けていたのだろう。
命を奪う黒き雪。その中で活動できる者などいないと知っているから。
自分の命を諦めていたわけではない。それでもやはり、その身が朽ちることが避けられぬのなら、せめて未来ある子供たちだけでもと。
必死に生きようとしていたのだ。
たとえ戦う力がなくとも、必死にこの絶望を踏破しようとしていたのだ。
自分たちの足で、誰にも助けを求めず……いや、求められないからこそ。
(――違うッ!)
”さぁ……神殺し、選択の時だ。今のあんたに……助けを求める声は聞こえるかい?”
ふと、そんな言葉が脳裏を過ぎった。
それはロウがシエルとミコトを助けに天国チエロレステへ向かう際、イズナに問い掛けられた言葉だ。
助けてと、その声に応えることの難しさなど、身に染みてわかっている。
助けてと、その心に応えることの難しさなど、当の昔から理解している。
助けてと、その無に応えることの難しさなど、後悔の傷跡が示している。
だがそれでも、流した涙は紛れもない音無き声なのだ。
わかっているはずだった。理解しているはずだった。
そんなこと、すべて知っているはずだった。
ならばなぜだ……なぜ、彼らの涙に気付いてやれなかった!
なぜ、彼らの生きたいという願いに気付かなかった!
「もう、苦しまなくていい。後のことは俺に任せろ」
「……よかった」
求めていた言葉を受け、安堵した笑みを浮かべながら崩れ落ちる兵士を、ロウは優しく子供ごと抱き留めた。
そのまま男を砂浜に寝かせると、他の者たちもその場でゆっくりと倒れていく。
「……ありがとう」
ある者はそう口にし、
「私たちの分まで……生きて、ね」
ある者は涙ぐみながら愛しき子の頭を撫で、
「帰ると、約束したのに、な……すまない」
ある者はどこかで待つ大切な人に謝罪の言葉を漏らした。
ここが彼らの終着点。
確かにロウがあのとき立ち止まらず、その十数秒を無駄にせず走り続けていたとしても、ここにいる者を救うことはできなかっただろう。
だが、これが彼らの運命だった……と、そう割り切れるはずもない。
十数秒早くここに辿り着けていたとしても、すでに黒い雪が降り始めていた。
それでも、その十数秒で何か奇跡が起きていたのではないか。
そんな僅かな可能性を考えてしまう。
それがたとえ零コンマ先に、零がどれだけ続くのだとしても、最後に一が現れてくれる可能性。零ではない、すべてを救えたそんな可能性を。
しかし、いくら考えたところでやり直すことはもうできない。
誤った手を指したとしても、これは戦駒などではないのだから。
(……セツナ)
ロウはゆっくりと息を吸い吐き出すと、ある物を取り出した。
それは白き狐の反面だ。
『我が君の御心のままに』
そう言って、セツナは艶美な声で言の葉を紡ぎだした。
朽散逝く徒花の無念や如何に
死出の案内仕る天満月の鎮魂歌
朧の霊藻は叢雲なりて流るる雫を隠し賜う
揺れ落つ灯火の心魂や何処に
黄泉の案内仕る灯願桜の静命舞
躯の魂藻は深く沈みて荒ぶる痕を癒し給へ
絶えた祈りを重ねる御霊
忘れないでと揺蕩う想い
輪廻の先で永遠に枯れぬ花と生れ――
「――黄泉華装」
途端、ロウの身体中から黒い魔力が揺らめいた。
それは朧気な袴のような形を成し、ロウを包み込んでいる。
左腕の中には、小さくも温かい命の重み。
すぐ横に倒れている兵士が、言葉通り命を賭して守ろうとした命。
だが、布きれ一枚で守り切れるほど黒い雪は甘くはなく……故に――
「…………」
子供と自分の間から伸びる柄をそっと握り、ゆっくりと引き抜いた。
そして、鋭利に光る切っ先を、躊躇うことなく突き下ろす。
放っておいていずれ朽ちるその身体へと、無垢なる命を守ろうとした男の胸へと、絶望を踏破しきれなかった……優しき者の心臓へと。
次に血潮に濡れる刃先を引き抜くと、柄を回して逆手にし、その先端を向けたのは腕の中でまだ生きる幼き命。
容赦なく貫いた子供の命が無残に散ると、そっと丁寧にその場で横たわらせ、おもむろに立ち上がった。
「い、き……たい」
震えた声に視線を向けると、倒れていた他の者たちが、最期の力を振り絞るように膝をつき、次々に立ち上がっていく。
「いき、たい……」
喘鳴に紛れた儚き願い。
(あぁ……もっと、生きたかったよな)
わかっている。
彼らは黒雪が降り始めても、それが触れるだけで命を奪う天災だと知っていても、その場で絶望せずに懸命に生きようとしていたのだ。
町の中にいれば、きっと彼らにも続く未来はあっただろう。
長き人生という時の中、今日という二十四時間の中のたった数十分。
そんな僅かな刻の不運が未来を手折る。
世界とは、人生とは、死とは……あまりにも不条理で……
(大丈夫、何も心配するな)
正義の前に立ちはだかる者に強き意志があるのなら、それは悪ではなくまた別の正義なのだと……そう、誰かが言っていた。
確かにそれも一つの答えなのだろう。
”生きたい”
だが、ロウはそれを自分自身に当てはめることだけはできなかった。
どんな信念があろうとも、どれだけ強い意志があろうとも、正義を掲げるにはこの手が赤く染まりすぎているのだから。
”……生きたい”
今でも聞こえてくる……殺めた者たちの最後の言の葉が。
苦痛と無念の表情を浮かべ、ロウに向けた断末の言の刃が……それでも――
”行きなさい”
決して立ち止まるわけにはいかないのだ。
多くの涙を振り切りながら屍山血河を越え、ここまで辿り着いたのだから。
これから先も必ず多くの屍の山が築き上げられ、広大な血の河が流れるだろう。
だがそれでも、託された想いを無駄にはできない。
”……行きなさい”
たとえこの先、どれだけ多くの涙が流れるのだとしても。
たとえこの先、大切な人たちに怨讐の念を向けられたのだとしても。
…………
……
故に、忘れてはならない。
たとえどのような理由があったとしても、たとえ正義のためだとしても、たとえ誰かが仕方のなかったことだと、そう赦しを与えてくれたとしても……
決して人を殺めてはならないという、当たり前の事実があることを。
「あぁ……また、桜色の雪か……」
動かなくなったいくつもの屍の中、血の滴る刀を握り、黒き者は天を仰いだ。
そして、激しく吹雪き始めた黒き雪が……離れたところにいる少女の瞳から彼の姿を遮った。
…………
……
静かな波に揺れる中、その空間はまるで刻が止まっているかに思えた。
小さく空いた口から零れ落ちる音はなく、微かに揺れる瞳に映った光景を、上手く受け止めることができないでいる。
キュステは力無くその場でへたり込み、フルトは静かに瞼を下ろし、クベレとシンカは無意識に伸ばしていた手を握りあっていた。
残り僅かな蝋燭に灯る、小さくなった微かな火。
たとえ消える命だとわかっていても、灯心草に灯る火をその指で摘まみ消すことは、果たして善だと言えるのだろうか。
絶対に助からない、助けられないのなら、いっそ苦しみから解放してやることもひとつの優しさなのかもしれない。
誰もが選べることではないからこそ、安楽な死を与えてやることができる者は、ひとつの正義を掲げているともいえるだろう。
結局のところ、その行いを善とするか悪とするかは、摘み取られる側にしか決めることのできないことだ。苦しみながらでも一秒でも長く生きたいと思う者もいれば、いっそ苦痛から解き放たれることを望む者もいる。
しかしその者にそれを語る力すら残されていなければ、正解のない決断を強いられるのはそのとき側にいる者だ。
だがそれを、何一つ躊躇いなくできる者の心は、果たして真面と言えるのだろうか。
故に、直接問いたいことはたくさんある。
生きようと必死に足掻いていた者の胸に、刃を突き立てたその理由を。
託された小さな命を貫いたときに、抱いていたその思いを。
まだ懸命に立ち上がり、火を灯す幾多の蝋燭を、無情にもすべて吹き消したその行いに果たして正義はあったのか。
胸中に吹き荒ぶ、ありとあらゆる感情の嵐。
自問自答と繰り返しても、見つけることのできない答え。
そんな複雑に絡んだ荒波に、自身の心が押し潰されそうになったとき、シンカの頭の中にはっきりと響いたのは、彼と共に在る黒き彼女の言葉だった。
”後悔先に立たずとも、それでも放つべきではない矢を放たなければならない時もあります。それこそが世界を救うことであり、英雄の先へと至る道”
”英雄の、先?”
”故にセツは殺します。何もかも、我が君の道を遮るすべてを。何度でも何度でも何度でも……嗚咽を呑み込み、諦めることも許されず、ただ進むことでしか赦されない我が君の罪華を摘み取る為に……たとえ、己の全てを捧げても”
そう言ったセツナの言葉に何故か酷く胸を締め付けられ、何も言葉を返すことができずにいたことを、今でもシンカは覚えている。
その後、まるで追い打ちをかけるように言った、あのときの言葉は――
”誰もが幸福でいられる景色を望む者は、剣を取らなければなりませんでした。正義の反対がまた別の正義であるからこそ、己が正義を貫く暴力が必要だった。故に良き王でも時に暴君と呼ばれるのです。そして、その王を討つのは別の正義を掲げた同じ人間であり……英雄を討つのも、また別の正義を掲げた同じ英雄なのです。悪だから討たれるばかりではありません。違うからこそ人は討つのです。すべてを救うという理想を掲げても、相容れぬ正義とぶつかるときもあるでしょう。それを、ゆめゆめ忘れないことです”
紛れもなく確信めいたものであり、シンカの未来を暗示ものでもあった。
「どうして、なの?」
信じていた。いや、今でも信じていたいと思っている。
だから、きちんとその理由を聞かせて欲しい。
貴方の口で……貴方の言葉で……
私と貴方の目指すものは、決して違えてはいないのだと……
貴方の正義が、私の正義と同じであると……
「ねぇ……ロゥ……」
痛む心臓を押さえつつ、震えた声で少女は問い掛ける。
その場にいたすべての命を摘み取り、仮面で素顔を隠したまま、酷くなり始めた黒雪の中で佇む男へと。
血染めの刀をその手に握り、こちらに気付かぬまま、黒に混じる桜色の花弁の中で天を見上げている男へと。だが――
「お願いだから、答えてよっ! ロウッ!」
縋るような少女の慟哭を、黒の嵐が無情にも掻き消した。




