273.咲いた花は真実を語る
蒼天の下、商業路を歩く二人の間に交わす言葉はない。
小さな女の子を背負った男と少女の姿は、内界での結婚適齢期や外見の成長が止まる外界からすれば、親子に見えてもおかしくはないだろう。
が、そんな二人の距離感はそういった親しげなものではなかった。
早朝、眠そうに眼を擦りながらペンデの残した帽子を被ったエプタを抱きかかえ、ロウは静かに部屋を出た。
その際、本当ならアリサも置いて行きたかったところなのだが、驚くべきは彼女の執念とも思える行動だろう。こうなることを予想していたのか、彼女は部屋の前で不機嫌そうに腕を組み、出てくるロウを待ち構えていたのだ。
無防備だったロウへ恨みを晴らす絶好の機会ではあったのだろが……
”私はエプタを託された。最期を見届けるまで、お前には手を出さない”
と、そう言っていた昨夜の言葉は本当のようだ。
昨日からずっとロウに近寄らないようにしていたにも関わらず、ロウを目視できる場所に彼女が居続けた理由は単純だった。
アリサを連れていくことに対し、ロウが納得の意を示していなかったことが、彼女にとっては最も警戒すべきことだったからだ。
その話に口を挟まなかったということは、ロウの中で最初からアリサを連れて行く気がなかったということに他ならない。
立場は変われど、かつて共に過ごした日々が、彼が嘘を吐かないということをアリサに教えてくれていたのだから。
そして案の定、アリサの予想は的中し、互いの間に言葉がないまま出発したロウにアリサがついて来た形で今に至る。
「……何も言わないのか」
ふと、少し後ろを歩くアリサに、ロウは振り返ることなく問いかけた。
アリサはロウの背中ですやすやと眠っているエプタを気にかけるように一瞥し、軽く鼻で息を吐きながら問い返す。
「ふん、最低な男だと罵ってほしいのか?」
「シンカと打ち解けていたようだからな」
「そうだな……それでいて、彼女が悲しむとわかっていながら声をかけなかった私も、お前と同じく最低だ」
話が途切れ、再び訪れる静けさ。
すぐそばを荷馬車が通過し、車輪の音がやけに大きく耳へと届く。
遠ざかっていく馬車の音が聞こえなくなると、次に問いかけたのはアリサだった。
「追いかけて来るとは思わないのか?」
「……来ないよ。シンカには夢見桜に行くように伝えたからな」
確かに挨拶もなくいなくなれば、シンカの中に残るのは大きな不満だろう。
しかし、互いの目的地ははっきりとしているし、海国への認証石がないという事実がある限り、シンカは追いかけたくても追いかけて来られないはずだ。
となれば、どれだけ悔しくとも素直に夢見桜へ向かうほか選択肢はないだろう。
そもそも今生の別れというわけでもあるまいし、挨拶の有無で追いかけて来るような無駄な時間は使うまい。不満をぶつけてくるなら合流した後だ。
とはいえ、シンカがあることに気付かなければの話ではあるのだが。
「エデルメーアには何をしに行くんだ? 一緒に行動していればいずれわかることだ。勿体ぶって隠す必要もないだろう」
「……そう、だな」
小さく相槌を打ち、ロウはミゼンの言葉を思い返した。
それは崩壊していく古城の中、ミゼンを抱えて走っているときのことだ。
”お前に伝えておくことがある。今から四日後の逢刻節一日……雪が降る”
”どうしてそれがわかるんだ? 黒雪の降るタイミングをこれだけ早く知られるはずがない”
”正確な地点の測定はできない。しかし、デュランタの助言、降魔の性質、黒雪の原理からあの女の動きのパターンを考えれば、日付くらいは特定できる”
”あの女?”
”信じる信じないはお前の自由だ。場所は――”
ロウはその言葉を信じた。
この期に及んで、ミゼンがロウに対して嘘を吐く利点がないからだ。
彼が復讐という大願を託した以上、それを成せるのはロウだけなのだから。
だからこそ、ロウはただ自嘲するように……
「……多くのものを奪いに」
静かに、そう答えた。
…………
……
朝になり、すでに誰もいないロウの部屋を訪れたシンカは、物憂げな気持ちを胸に抱えたまま一人、ミソロギアを出立していた。
リアンとセリスが呆れた溜息を零しつつ、予定通りケラスメリザ王国の王都クレイオへ向かった後のことだ。
「別に約束を破ったわけじゃないけど……挨拶もないなんてあんまりよね」
思わずぽつりと零れた愚痴。
確かにどこかへ向かう際は事前に告げることを約束していたが、今回も海国エデルメーアへ今朝向かう、ということは昨日のうちに聞いている。
約束を反故にされたわけではない。しかし、まさか挨拶もなしに行ってしまうとは思ってもみなかったのだ。愚痴の一つや二つは仕方のないことだろう。
「……はぁ」
何度目かわからない溜息を零しつつ歩いていると、シンカの視界に見覚えのある顔ぶれが映りこんだ。
馬を走らせている向こうもシンカに気付いたようで、スキアの後ろから顔を覗かせたオトネがぶんぶんと手を振っている。
そしてシンカの目の前まで来ると、彼らは馬を止めて小さく首を捻った。
「シンカちゃんじゃねぇか。一人か?」
「え、えぇ」
「ミソロギアの方面から来たということは、ミソロギアは……」
「来る予定だった月の使徒って、アフティたちだったのね」
珍しく血相を変えているアフティに少し驚くも、シンカはまずミソロギアが無事なことを伝え、起こった出来事を説明した。
ラブロ含む月の使徒が、部下である数名を残し戦死したこと。それ以外、重傷を負った者は多いが、戦死した彼らの活躍で被害を最小限に食い止められたこと。
ルインとの決着をつけ、ロウの手にセツナと神器が帰って来たこと。
それらを掻い摘んで説明すると、
「そっか……教官たちが」
訓練兵だった頃を思い返し、スキアとオトネは憂いを帯びた表情を浮かべた。
アフティの胸を満たすのは確かな安堵と、その感情に対する罪悪感だ。
死への悲しみと生への安堵による矛盾した思いがせめぎ合う中、そんなアフティを気にかけたスキアは彼に指示を出す。
「アフティ、お前は先に行け。行って、その目で彼女の無事を確かめてこい」
「っ、すみません。……失礼します」
馬を蹴り、駆けていく背中を見送りながら、オトネは悲しみを振り払った半ば空元気のような笑顔を浮かべてみせた。
「それで、シンカちゃんはどうして一人なの?」
「それがね……」
オトネの笑顔の意味を察すると、シンカもそれに合わせる苦笑し、今度は昨日の話し合いから先のことを説明し始めた。
最後の方は不満からくる愚痴ばかりになっていたが、
「――と、いうわけなの」
「アリサもついて行ったのか。それで、なんでシンカちゃんは一人でここにいるんだ?」
「だから、夢見桜に行くからって言ったじゃない」
両眼をじっと細め、シンカが機嫌悪そうに言葉を返すと、スキアは小さく首を振りながらその意味を訂正する。
「そうじゃねぇよ。ついて行かなくていいのかってことだ」
「そう言われても……行きたかった、けど」
行けるものなら行きたかったに決まっている。
しかし、認証石がなければ入国はできないし、我儘を言ったところでロウを困らせてしまうだけだ。そう、シンカが不満げに小さく唇を尖らせる。
すると、次に言葉を掛けたのはオトネだった。
「あのね、シンカちゃん。ロウちゃんがロウちゃんの時は、周りに心配をかけないよう黙っていなくなることなんてないんだよ。でもね、ロウちゃんが隊長の時は、これまでにもたま~にそうのがあったの。そのときはね、限って何かがあるんだよ」
スキアの言葉を補足するようにオトネが言った途端、シンカの脳裏を掠めたのはジェーノの言葉った。
”一度目、二度目の黒雪の降る日。アニキの動向に気をつけろ。そして三度目は、絶対にアニキから離れるな”
咄嗟にジェーノから預かった砂時計を取り出すと、すでに白い砂のほとんどが黒く染まっている。
これは白い砂がすべて落ち、黒く染まった時に黒雪が降るという測定器だ。
正確な時間が後どれだけ残されているのかはわからないが、もうすぐ黒い雪が降るのは間違いない。地国で一度降っているから、今回が二度目。まだ三度目ではないとはいえ、二度目と三度目の間隔が開いていると考えるのは早計だろう。
最悪の場合、連日で降る可能性もあるのだ。
「で、でも……私は海国への許可証を持ってないし、追いかけても……。オトネたちは持ってない、わよね」
「残念ながら持ってねぇな。あれを発行できるのは、神か七深裂の花冠だけだ」
「そうよね」
一瞬期待をしてみたものの、返って来た言葉はやはり想像通りのものだった。
地面を見つめ、小さく肩を落としてしまうが、次に聞こえた言葉に思わずシンカの視線が跳ね上がる。
「でも、行くことはできるぜ?」
「え、どういうこと?」
「確かに認証石は持ってない。でも、俺たちルナリス隊のように、それぞれ重要な部隊は各国への入国許可を得ている。一度許可を得れば、それを剥奪されない限り、認証石がなくても入国できるのは知ってるだろ? シンカちゃんだって、最初の一回目以降、認証石なしで月国に入ってんだから」
一度出した許可を剥奪できるのは、許可を出した者かサラだけだ。
確かに知ってはいるが、それがいったいどう繋がるのかが理解できない。
スキアたちが許可を得ていたところで、シンカがロウを追いかけることにはならないのだから。そう、シンカは難しそうな表情で首を傾げてみせた。すると、
「つまりね、シンカちゃん。確証はないけど、もし仮にシンカちゃんが最初からこっち側の人間だったなら、ってことだよ」
「こっち側?」
「少し確認させてくれ。これまでにシンカちゃんが行った国はどこだ?」
「えっと……聖域、月国、天国、地国、冥国……かな」
「その認証石はどうやって手に入れた?」
そう聞かれて、シンカはゆっくりとこれまでの記憶を辿っていった。
まず聖域は誰もが入れる中立地帯だ。これは除外して大丈夫だろう。
最初に訪れた月国は、スキアが仮の認証石を渡してくれた。
次の天国は、予め入手してくれていたイズナが手渡してくれた。
そして地国はリンと共に、アンスとトレナールから拝借した。
最後の冥国は、ミコトとイズナがリリス経由で入手してくれた。
指を一つ一つ折りながら、シンカがそれらを声に出していくと……
「ロウは”シンカちゃんに許可証が必要”だと、一言でも言ったことがあるか?」
「え? 国に入る時にいるからって言っ――――」
言葉を切り、シンカは何かに気付いたようにハッと両眼を大きく見開いた。
ロウは確かに入国する際、認証石が必要だと口にしていた。
だが、シンカが入国するのに必要だとは一言も口にしたことはない。
地国にシンカたちがついて行くこと拒んだときでさえ”駄目だ”と口にし、”許可証がない”とは言ったものの、今思えば”認証石がないから駄目”というのは不自然だ。普通ならこう言うだろう……”認証石がないから無理だ”と。
つまり、認証石がないという言葉は、嘘を吐けないロウによる口実でしかなく、シンカにとって認証石の有無は入国の可否に関係が無いということだ。
「シンカちゃんに関する話はリンから聞いてる」
関する話、というのはブリジットによる推測のことだろう。
「それで俺も考えてみた」
リアンやセリスのように、内界の人間が魔憑に覚醒する可能性は元々あった。
そういった者が外界を知らないのは当然だが、未来から世界を救うために来たと言っていたシンカが、外界のことを知らなかったのはどういうことなのか。
今となっては過去の話だが、ロウとシンカが出会った頃からの未来である運命の枝のタイミングでシンカが魔憑に覚醒し、短い時間遡行をして来たのなら、まだ外界のことを知らなかったのも無理はない。
しかしそれだと、過去へ行く手段がまだ存在していないはずなのだ。
逆に、この先の未来で過去へ行く手段が生まれたのだとしたら、それだけ先の未来の人間が外界のことを知らないはずがない。
時間遡行の影響による記憶の混濁……それがあったとしても、外界に関するすべてを綺麗さっぱり忘れられるものなのだろうか。
「思えば最初から不思議だったんだ。あのときはこっちもどこまで打ち明けていいのかわからなかったのもあるし、未来でそんな力が生まれないと言い切れない以上、誰かが外界を認識できていない幼いシンカちゃんを送った可能性は否定できなかった。でも、その記憶が曖昧だってんなら、ロウを追える可能性はある」
「シンカちゃんだって気付いてたんだよね?」
二人の言う通りだ。
ブリジットからの話を聞き、これまでの戦いを経て、シンカは自分の出自に強い疑念を抱いていた。おそらく自分は未来からではなく過去から来たのだと。
となれば、間違いなくカグラも同様だ。
シンカが他国に入れることをロウが隠そうとしていた以上、おそらくこの記憶の混濁は時間遡行の影響ではなく、ブリジットの推測通り誰かが意図的に行ったものなのだろう。
きっと、本当は気付いていたのだ。だが――
いつか見た心象世界での光景。なんどが脳裏に浮かんだ自分の知らない光景。
それらを前に、わかっていたようで、理解していたようで、本当は自分の過ごした時間が偽りだったという事実を認めるのが怖かった。
苦楽を共にした大切な妹との時間が、いったいどこからどこまで真実なのか。
カグラが本当は、自分の妹ではないのではないか。
そう思ってしまった自分を酷く嫌悪し、そのことを考えないようにしていた。
記憶を取り戻すということは、カグラとの関係さえも思い出すということだ。
過去を知りたいという気持ちと、知りたくないという気持ち。その相反する感情が、シンカの思考を無意識のうちに遮っていた。
「私……」
結局、地国で一度ロウにそのことを問いかけようとしたものの、あのときは何も聞けずにいた。
その後も機会はあったはずなのに聞けなかった……いや、聞かなかったのは、変わったようで何も変わらず、自分の本質が臆病なままだったからに他ならない。
過去と向き合うと決めたはずなのに、自分は逃げたのだ。
沈んだ記憶、知らない自分、眠った力、それらがもたらすものが、今の自分を壊してしまいそうで……カグラとの関係も、ロウとの繋がりも、そのすべてが不吉なものへと変わっていきそうな気がして……怖かったから。
だが、冥国からミソロギアに戻るまでの道中、シンカはロウへと問いかけた。
過去から未来へ行く方法は存在しているのか、と。
その答えは予想通りのもので、シンカが過去の住人であることは確定的だった。
後はそう、眠った記憶を呼び覚ますだけだ。
そこで一歩を踏み出すことができたはずなのに、今回も再び逃げ出してしまった。夢見桜に行けば、ロウの過去を知ることができると。それを知ることが、一番の近道であると思い込み、自分の過去を知ることから逃げ出したのだ。
いや、違う……それすらもただの言い訳だ。
たくさんの鍵はあった。思考を放棄しなければ、もっと早く答えに辿り付けていた。受け止める強さがあれば、より早く自分を取り戻すこともできたはずだ。
想いも覚悟も意志も力も……結局はすべてが中途半端でしかなかった。
「私、は……」
過去を知りたいと思う半面、いざとなれば向き合うことを恐れたのは本当だ。
それをいまさら誤魔化すことはできないし、認めるしかないだろう。
だが、それよりも怖かったのは、このままロウの隣に居続けることだった。
ずっと背中を追いかけて、ずっと手を伸ばし続けて、ここまで走り続けてきた。
しかし、いざその背中に追いつけたとき、告げられるような気がしたのだ。
もう大丈夫だ、と……別れの言葉を。
どうしてそう感じたのか、考えてしまったのかはわからない。わからないが、もし本当にそう告げられたとき、自分は立っていられるのだろうか。
そう思うと、ロウを追いかけ続けた足が竦んでしまった。
だからこうして、それを紛らわすように愚痴を零しながら一人、ただ仕方がないと言い訳をし、夢見桜への道程を歩いていた。
真実と過去を求めたふりをして、臆病な自分を誤魔化して。
「……」
下唇を噛み、シンカが続くはずの言葉を吐き出せないでいると、そんな彼女に真剣な眼差しを向けたままスキアが問いかける。
「嫌な予感がする。それも、とてつもなくやべぇ感じのな。シンカちゃんもそうじゃねぇのか?」
「……えぇ」
「それがなんなのか、どうしてそう思うのかわかんねぇけど……」
それは本当に何一つ根拠のない、ただの感覚的なものだった。
本来ならこうすべきはずの自分が、どこか違う役割を与えられているような、まるで運命を捻じ曲げられているかのような得も言われぬ妙な感覚。
誰かの掌の上にいるような、自分の身体に絡繰り糸がついているような……
それがここ最近になって、より強く感じるようになったのは果たして偶然か。
「ロウの向かった先は海国で間違いないんだよな? これは一部の者しかまだ知らねぇ情報なんだけど……三日後、海国で神々の会談がある」
「ロウはそれに合わせて?」
「さぁな。ただ国が絡む以上、ここで何かを成せる人がいるとしたら……」
「きっと、過去から来てどこの国にも属してない、シンカちゃんだけなんだよ」
「――」
シンカはざわついた胸に手を当て、ホルテンジア群島諸国の方角を見つめた。
「……ロウ」
すると、スキアは”仕方がないな”と言わんばかりに苦笑し、胸の前で重ねた両手をこねこねと、まるで胡散臭い商人のような表情を浮かべながら、いつものような軽快な声で言葉をかける。
「海路を通る内界ルートより、外界からレイオルデンを抜ける陸路がお勧めですよ。今ならこの馬、たったの銀貨一枚でご利用可能!」
「確かにそれはお得だね! でもでも可愛い女の子の一人旅。いつなんどきのことを考えれば、それでもちょっとまだお高いかも」
わざとらしい大袈裟な手振りと言い回しで、スキアの意図を察したオトネがのっかると、スキアの胡散臭い商人のような笑みがより胡散臭さを増した。
「焦りなさんなよ、お客さん。今なら特別大サービス、初回割で半額な上、友情割で半額だ! さらに可愛い割による半額からの、健気さ割での半額! 子羊割の半額に続いてラスト、運命割で半額だっ!」
「え~っ! それってお得どころか、銅貨一枚を実質割っちゃってるから……」
「そう、タダだ!」
「でもでも、タダより怖いものはないっていうし……ていうか、スキアちゃんからタダって言葉が出ると気持ち悪いし……」
最後に演技でもなんでもないよな本音がオトネの口から漏れると、スキアは僅かに笑みを引きつらせながらも……
「おいおい冗談はおよしよ、オトネさん。俺らは光、月の使徒。属する部隊はお人好しで有名な彼の隊長が率いたルナリス隊。闇夜に迷った花を救うことが使命なれば、求める見返りはただ一つ。最高の笑顔で手を打とう。ってわけで……そこの迷子のお嬢さん、馬はご入り用かな?」
そう言って、笑顔を浮かべながら手にした手綱を差し出した。
「そんなに割引されちゃ、借りないと損じゃない」
困ったように微笑みながら手綱を受け取ると、シンカは馬に跨りながら、まず目指すべきアドゥヴァーニ神殿へと視線を向けた。
今からではとても追いつくことはできないだろう。今の自分に海国に関する記憶がない以上、仮に過去に許可を得ていて入国できたとしても、広い大地でロウたちを見つけ出すのは困難だ。
その上、今から急いだとしても辿り着くのは二日後の夜中か三日後の朝になってしまう。ロウが三日後の会談に合わせて向かったとなれば、時間も限られている。
(駄目、また余計なことを考えて……また言い訳をして自分を誤魔化すの?)
考えるのは後だ。動かずに後悔するよりも、動いて後悔する方がいい。
逃げるな……ロウから、過去から、真実から、自分自身から。
そう思った瞬間、名を呼ぶ声に振り返ると、丸い瞳を真剣なものへと変えたオトネが、馬上にいるシンカを真っすぐに見上げていた。
「ロウちゃんの目的はわからないけど、これだけは忘れないで」
「……」
「あの日、月想花は咲いたんだよ。裏も嘘も偽りも許さない真実の蕾が。シンカちゃんのために、確かに綺麗な花を咲かせたんだよ」
あの日、まだ何も知らなかったシンカとカグラの心は折れた。
そのとき、立ち直るきっかけをくれたロウの言葉と、その想いで咲いた綺麗な月想花は今でも鮮明に覚えている。忘れない、忘れるわけがない……それだけは。
シンカは強く頷き返すと、
「二人とも、本当にありがとう」
馬を蹴り、土煙を舞わせながら振り返ることなく走り出した。
その背からは不安も恐怖も伝わってくるものの、もう心配はないだろう。
ここで顔を合わせることが運命だったというのなら、二人の果たした役目はいったいどちらの道を選ばせたのか。誰のためになる道なのか。
それは決して交わることのない二つの道――運命に従う道と、抗う道。
少女の往く道の終着点が、笑顔の咲く場所であって欲しいと願いつつ、地を蹴る蹄の音が遠ざかっていくのを聞きながら、オトネは心配そうな声を漏らした。
「本当に行かせてよかったのかな。暗闇に迷った花を月の光が照らしても、その道の先に笑顔があるとは限らないよ」
「今回ばかりはそうだな。たぶん、ロウの目的は黒雪だ」
それは神都ニュクスを出る前日、シュネルから聞いていた情報だった。
ロウとシュネルが一度剣を交えて以降、父エパナスの言動に疑問を抱いたシュネルは、自分の意思でエパナスの動向を探っていたのだ。
その際、陽国ソールアウラから帰国したクローフィとエパナスが話していた内容というのが、今から三日後の逢刻節一日に海国エデルメーアにて会談が開かれるというものだった。
何故、闘技祭典の開かれた中立地帯である聖域レイオルデンではないのか……その理由こそが黒い雪の予兆によるものだ。
ジェーノ・シェンツァ、神名ヘルメス。彼の作った砂時計は、場所や詳細な日時の特定までは不可能なものの、当然どの国も所持している。
元々会談が行われるのはレイオルデンの予定だったのだが、海国の所持する砂時計が黒ずみ始めた為、海神ヴィアベルが自国を離れるわけにはいかなくなった。
しかし、会談の日程を遅らせるにしても、黒雪がいつ降るのか正確にわからない以上、どれだけの期間ずらせばいいのか見当もつかない。
その上、開始される予定だった漸減作戦の遅れもある。
それらの理由から、海国に開催地を変更することを余儀なくされたというわけだ。
シュネル曰く、間違いなくエパナスとクローフィに気付かれていたらしいが、その場で注意されるわけでも口止めされるわけでもなかったということは”自由にしろ”ということなのだろうと考え、真っ先にスキアへと情報を流したということだった。
なぜなら星歴六七七年の傷痕、降魔の狂宴。
黒雪でまず思い浮かべてしまうのは、各国から恨まれる彼の人物なのだから。
「やっぱり、なにか起こるよね」
駆り立てられる不安が容赦なく二人の心を締め付ける。
とはいえ、それに関してスキアたちが自ら動くことはできなかった。
ただでさえ月国の情勢が危うい今、月国の主軸たる月の使徒がロウに肩入れすれば、月国への風当たりはより強いものとなるのは自明の理。
それについて、まずはロウと直接話をしようと思っていたが、帰って来たのはリンとロリエの二人だけだった。
その後、すぐさま緊急の援軍要請が入り、スキアたちが月国を離れたのが一昨日。想定以上に早く動いた深域のせいで状況は変わり、ミソロギアにいるはずのロウがすでにミソロギアを離れたと聞かされたのがつい先程の話だ。
本当なら今すぐ自分たちがロウの後を追いたいと思うものの、深域が想定外の動きを見せた以上、態勢が整うまでミソロギアを離れるわけにはいかない。
とはいえ、会議が開かれるのは三日後だ。
態勢が整うまで待ってから出立しても、間違いなく間に合わないだろう。
スキアたちがロウと接触する前に海国へ向かったということは、ロウがどこかで黒雪の情報を入手したとしか考えられない。
ルインとの決着の後、夢見桜へ向かうはずだったロウが急に海国へ行くと言い出しからには、おそらくそのタイミングで知ったのだと推測できるが、それがわかったところでロウとすれ違ってしまった現状は変わらないのだ。
何かが起こるとわかっていながらロウと言葉を交わすことはできず、自分たちは動くことさえできない。だからこそ――
「だから、俺はシンカちゃんに懸けた」
「……うん」
「黒雪にはロウが言えねぇ、一部の者しか知らない何かがある。言えねぇってんなら誰かが……誰かがその真実に辿り着いてくれたら……」
「もしもそんな日が来たら、スキアちゃんはどうするの?」
「決まってるぜ。俺はルナリス隊の副隊長だからな。そういうオトネはどうなんだ?」
「それこそ決まってるよ。私は、オトネだから」
辿り着いた先の真実が、決して良いものとは限らない。
秘匿され続け、現神々でも知り得ないものだとするのなら、その先に待っているのは紛れもなく絶望を連想させるに足るものなのだろう。
だが、その中で戦い続けるロウをこのまま独り行かせるわけにはいかない。
だからこそ、二人は祈った。
誰でもいい……どうか、ロウの中にある悪意という欺瞞を、暴いて欲しいと。




