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これは君のパラミシア  作者: 御乃咲 司
第八節『これは愚者と歩む救世の神器』
274/323

272.映る月、消える月

 

「ハクレン」

「……ここに」

 

 ロウの身体から溢れた魔力粒子が一箇所に集まり、形を成したハクレンが姿を見せると、彼女は両眼を瞑りながら小さく頭を下げた。

 そして伏した頭を起こしながら、細く開いた両眼で向かいのセツナを見ると、皮肉めいた辛辣な言葉を吐き捨てる。


「……帰って来ましたか。……もっとゆっくりしていればよかったものを」

「我が君の身を護るのに、貴女では役不足に感じましたので」

「……言ってくれますね、化け猫が」

「その呼び方は不愉快です」


 ロウを挟み、ぶつかり合った二人の眼光が火花を散らす。

 そんなどこか懐かしい光景をロウが呆れたように見ていると、何もしていないはずの自身の体が再び淡い光を纏った。

 同時に、セツナの視線は左へ、ハクレンの視線は右へと横移動(スライド)

 そこには呼んでいないはずのルナティアが、ロウの前で膝をついくように待機していた。その姿はまるで指示を待っているかのように見えるが……


「……オマエは呼ばれていないでしょう、駄狐」

「我が君のお言葉もなく、無暗に姿を晒すものではありません」

「…………」


 ハクレンとセツナに同時に責められ、ルナティアはバツの悪そうな表情を浮かべながら何も言わずに視線を反らした。

 そんな彼女に対し、セツナは呆れたように、ハクレンは苛立ちを孕んだような溜息を零すが、ルナティアは微動だにせずそのままロウの言葉を待っている。

 だが、ロウの口から出た言葉は彼女の望むものではなかった。

 

「ルナティア。すまないが、今回はハクレンじゃないと駄目なんだ」

「――ッ!?」


 その言葉でルナティアの両眼が見開かれ、あまりの衝撃に顔が青褪めていく。

 予想外の大袈裟な反応にロウは思わず苦笑いを浮かべるが、ルナティアにとってのこれはそれほど大きなことだったのだ。

 ただでさえ、ハクレンと獣の縄張り争いが如く活躍の場を取り合っていたというのに、セツナが戻って来たとあっては、自ら進んで主張しなければ次にいつお呼びかかかるかわかったものではない、ということだ。


「……つまり、狐如きの力はいらぬということです。……察しなさい」


 そう冷然と言い放ったハクレンの言葉が止めとなり、ルナティアの瞳が僅かな潤みを帯びてくると、ロウが慌てて口を挟む。


「違う違う。ルナティアは長時間、表に出ていられないだろ? 今回頼みたいことは使いだからな」


 途端、先程まで勝ち誇ったような冷笑を浮かべていたハクレンの表情が凍り付き、元より色白の肌の血の気が引いていく。

 そして微かに震えた唇から零れ落ちたのは、掠れた声での問い掛けだった。


「……しゅ、主君。……それは、その……ワタクシに主君の元を離れろということですか?」

「そうなるな」

「……どうしても?」

「あぁ」

 

 耳も尻尾も表情も、身体全体が萎れていくハクレンの姿とは裏腹に、ルナティアは狐へと姿を変えると、座っているロウの足へと両前足を乗せてしがみつくようにしながら、キリッとした双眸でハクレンを見上げた。

 その瞳は告げている。ここは任せろ、お前は行け……と。

 そんな彼女の言いたいことを察したのか、ハクレンの瞳が鋭いものへと変わり、額にくっきりと青筋が浮かんでいた。

 すると、今にも襲い掛かりそうな雰囲気に待ったをかけたのは、後に続くロウの言葉だ。


「行ってほしいのは月国フェガリアル。誰にも気付かれず、あるものを掘り起こして来てもらいたい。デュランタに関する推測が間違っていなければ、おそらくそれは何かの手掛かりになるはずだ。頼めるか?」

 

 それ以上、宿主と魔獣の間に語る言葉は必要ない。

 これまでの話があれば、彼女らにとってロウの意図を察するには十分過ぎる。

 故に、ハクレンは尖っていた心を落ち着かせるように息を吐き、真剣な瞳をロウへと向けながら冷静に問いかけた。


「……今からでは黒雪(・・)に間に合わない可能性があります。……合流は何処で」

中界(・・)――運命の風見鶏(アネモディクティス)

「……御意」


 静かに一礼し、ハクレンは高い屋根の上から大きく跳躍。虚空でその姿を白狼へと変え、着地と同時に凄まじい速さで振り返ることなく走り去っていった。

 その姿を見送ると、再び人の形を成したルナティアが、次に話に上がるであろう問題……いや、取り上げなければならない問題を言い辛そうに口にする。


「後は、その……ディーヴァについてでありんすね」


 確かに彼女についても不明な点は多い。

 というよりも、わかっている情報とわからない情報が極端といったところだ。

 過去の記憶を取り戻した今、それらを大きく遡った上で、ロウは今の(・・)ディーヴァと出会ったことはない……と、それは断言できる。

 しかし、成長(・・)はしているものの、その姿には覚えがあった。

 

 虹の塔(イリスコート)にある世界の記憶にすらも映らない少女。

 全てを見通す審秤神サラ・テミスですら視ることのできない少女。

 目撃情報を頼りにサラが世界の記憶を覗いたとき、そこに居るはずなのにその姿を観測することはできず、しかしそこに在る黒の魔力がそこに彼女が居るのだという真実を告げている……そんな少女のことをロウは知っている。


 黒と白が入り混じる、凪いだ波のように少しうねった長い髪。

 穏やかで優しげな瞳は、黒曜石と金紅水晶の強き輝きを宿している。

 小さな口許から流れる旋律は美しく、心の荒波を鎮めてくれるような音だ。

 時期的にルナティアが直接出会ったことは一度もないが、この世に生を受けて以来ロウと共に在ったセツナも当然知っている。


「審秤神ですら観測できず、しかし直接であれば見ることのできる存在。それが能力による意図的なものなのかはわかりませんが、目撃した者の言葉が真実であれば、似た外見を持つ者はそうはいないでしょう」

「だが……だが、あの子は……」


 ロウは言葉を詰まらせ、息苦しそうに心臓に爪を立てながら強く握り締めた。

 人前ではそう見せることのない姿だが、彼の魔獣である二人は特に驚いた様子もなく、むしろ心配そうな表情を浮かべている。

 なぜならその少女は……


「あの子は……もう何百年も前に……っ」

「えぇ、ご逝去(・・・)されております」

「――っ」


 まさしくロウの心的外傷(トラウマ)そのものなのだから。


「セツナッ!」

「黙りなさい」


 わかりきったことをわざわざ言葉にし、主を苦しめる必要などないのではないか。そう言わんばかりに声を上げたルナティアに対し、セツナは静かながらも熱を乗せた低い声でそれに応えた。


「何も知らない貴女でも、我が君の魔獣を名乗るのであれば、共に立ち向かう覚悟はあったはず」

「……それは」

「確かに本人ではなく、ムメイのように認識を阻害する類の能力を持つ誰かなのかもしれません。むしろ、その可能性の方が高いでしょう。死者が蘇ることなど、決してありはしないのですから」


 セツナの言ったように、わからないのはそのロウの知る姿をしたディーヴァが、本当にロウの知る彼女であるのかという点だが、確かめようにもディーヴァは一度もロウの前に現れたことがない。

 今日この日に関してもそうだ。ミソロギアでの激戦の後、ロウたちがミゼンとの決戦に臨んでいる間に、彼女は戦場の傷跡の残るフロン平原に現れた。

 そして、心に響く歌だけを残して忽然とその姿を暗まし、ロウたちは兵士がディーヴァについて話しているのを小耳に挟んだだけなのだ。 

 時折、行く町々のどこかで噂を耳にはするものの、これまでの数百年間、ロウが一度も目にしたことがないというのも不自然な話だろう。

 とはいえ、直接顔を見て確かめずとも、ディーヴァがロウの知る彼女でないことは明白なのだ。

 なぜなら、二色の髪に二宝の瞳……そんなあまりにも特徴的な外見を持つその少女は、七百年以上も前にすでに死んでいるのだから。

 そして死人が成長することなど、決してありえるはずがないのだから。

 故に一度会って確認すべき問題は、誰が、なんの意図を以て、その姿をロウの知る少女の成長した姿に酷似させ、いったい何を成そうとしているのかということだ。


「世界の記憶に何も残さずそこに居る者、デュランタとミオ。そして、世界の記憶に存在せず、観測すらできずにそこに居る者、ディーヴァ」


 前者と後者にある明確な違いは次の点だ。

 前者はある一点より過去の記録がなく、観測はできるが巧みに姿を隠し、世界の記憶から逃れている。要は、過去はないが現れれば現在の観測はできるということだ。

 対して後者は過去も現在もなく、そこに居ても観測することができない。

 居るはずなのに世界に在らず、見ることはできるが視ることはできない。


「最後に……シンカの妹となった少女、カグラ。それら四人の存在だけが……いえ、四人もの特異点(・・・・・・・)が存在していると言った方が正確でしょうか」

「あぁ、そうだ。それが此の世界の運命による最後の抵抗、なのかもしれないな」

「ですが、主様……カグラは……」

「わかってる」


 小さく頷き、ロウは虹の塔で見た自身の言葉を思い返した。


”――カグラを護れ。彼女は運命を変えるための鍵を握っている”


 それは紛れもなく、折り重なった悲鳴が呼んだ希望そのものなのだろう。


「故に、我が君……セツはいつものように、畏れながらも残酷なことを申し上げます。運命が変われば、その抵抗はより強くなるでしょう。また新たに、これまでにはない特異点が生まれるやもしれません。それでも……最後となる此度の旅で、我が君はまだ戦えますか?」


 それはとても真摯で真っ直ぐな、ロウ自身の片割れからの問い掛けだった。

 同じ黒髪を風で揺らし、同じ黒曜の双眸で見つめてくる。


「我が君が立ち止まるなら、セツも共に立ち止まりましょう。仮に運命の足掻きが特異点であるのなら、それらは必ず御身の心をさらに深く切り裂きます。諦めることは罪ではありません。それを責める者が居れば、セツが引導渡して差し上げます」


 誰よりも主を大切に想うからこそ、彼女は主の身を第一に考える。

 弱者を切り捨て、強者を潰し、悪を裂き、主の正義とまた別の正義を手折る。


「我が君が進むというなら、セツも共に進みましょう。これが最後であるからこそ、どれだけ傷ついても必ず御身をお支えします。砕けぬことはそれだけで難しいものです。それを阻む絶望が在れば、セツが死出の案内を承りましょう」


 誰よりも主に寄り添って来たからこそ、彼女は主の覚悟を知っている。

 弱者を救い、強者を助け、悪を正し、自身とはまた別の正義を肯定する。


「我が君がどこへ向かおうと……」

 

 誰よりも誰かに憎悪されてきた。

 だが、決して倒れることなく歩み続けた、

 誰よりも誰かに愛されてきた。

 故に、決して斃れることなく進み続けた。


「我ら魔獣は、我が君の望む場所へ往く為の力となりましょう」


 そしてだからこそ、彼女は最後に我が主に選択を迫るのだ。

 故にロウも、いつものように彼女らにとって残酷な言葉を口にして返す。


「運命の最後の足掻きが特異点だとしても、俺はまた選び取るだけだ」


 凄惨な現実に眼を瞑り、悲痛な声を空耳にすることなどできるはずがない。

 死山血河の死臭の中で、肌に突き刺さる殺意や憎悪を受け止めて。

 懐かしきあの日の情景に恋い焦がれ、貪欲なまでに平和を欲するからこそ。

 猛る感情の熱を宿し、罪過を偽善で欺瞞し、その救いが狂信なのだとしても――


「数え切れない選択があった。一方を救い、一方を切り捨てる。どこにでもある生存競争と同じで、言葉にすれば単純なものだ。選択の積み重ねを人生というのなら、俺の物語の結末は酷く愚かなものになるだろう。お前たちを地獄(あの世)にまで付き合わせるつもりはない。だが、せめてこの現実(地獄)に何かを残せるように、その手助けをして欲しい」


 あとどれだけの絶望を踏破しなければならないのだろうか。

 あとどれだけ残酷な選択をしなければならないのだろうか。

 わからない……わからないが――


「……主様」

「…………」

 

 彼女らの心に在ったのは、最後の幸福の可能性すらも手放してしまった主の安息という願い……ただそれだけだった。

 そんな中、セツナがこちらに向かってくる人影に気が付くと、


「ここまでのようですね」

「……主様、わっちは……わっち、は……っ」


 心配そうに瞳を揺らし、何か言いかけた口を固く噤むと、ルナティアは辛そうに両眼を瞑りながらロウの中へと戻っていった。

 それと同時に、議会堂の下から手を振ってくるシンカにロウは軽く手を上げて返す。アリサとエプタも一緒だ。

 風呂から上がり、エプタのためにロウを探していたといったところだろう。

 男であるロウが、幼いとはいえエプタと一緒に入ることは戸惑われるし、何よりシンカがそれを許さなかった。だが、エプタがロウの傍を離れることを頑なに拒んだため、アリサも一緒にということで納得させたのだが、やはり長い時間離れるのはまだ早かったようだ。

 ずっと離れていた自分の持ち主との再会を果たしたものの、一度に多くの仲間を失ったエプタが、そういった心情になるのは無理からぬことではあるのだが。


「セツナは戻らないのか?」

「……あの」


 苦しそうに目を伏せ、セツナは前で組んだ両掌にぎゅっと力を込めた。

 先程の毅然とした態度はどこへやら。どこか弱々しく見える彼女が今何を感じ、何を思っているのか、ロウには手に取るようにわかっていた。

 これまでの自分の行いに対し、それが必要なことだったと思いつつも、やはり許せない自分も存在しているのだろう。要は戸惑っているのだ。

 だからこそ、戦いを終えてからもセツナはロウの中へと戻ろうとはしなかった。


「そうだ、忘れるところだった。これにはたくさん助けられたよ、ありがとう」


 ロウが感謝の言葉と共に手渡したのは、刀の柄についていた黒き鈴だった。

 何度も助けてくれた鈴。セツナの魔力が宿っていたそれがなければ、死神のときも、エンペラー級のときも、危険種心謎(エニグマ)のときも、無事にそれらの戦いを乗り越えられた保証などないだろう。

 たとえ離れていても、彼女の鈴(・・・・)がロウをここまで連れて来てくれたのだ。


「セツの全ては我が君のものです。故に、セツの力は御身の力に過ぎません」


 そう言葉にしつつ、セツナが黒鈴を受け取ると、ロウはいつものような優しげな声で敢えて分かりきったことを問い掛ける。

 自身の全てが主のもので、その力すら主のものだというのなら……


「そうか……ならセツナ、お前は誰の魔獣だ?」

「無論、セツの主は我が君以外にございません」

「だったら、お前が居るべき場所はここだ」

「っ……はい。もう二度と……二度と、離れはしません」


 自分の胸に手を当てながらロウが微笑むと、セツナも同じように微笑み返し、淡い粒子となりながらロウの中へと、本来自分が在るべき場所へと戻っていった。

 それから少しして、心地よい声がロウの鼓膜を揺らす。


「っ、と。あれ、セツナさんたちは? 中に戻ったの?」

「あぁ」


 エプタを抱きかかえながら屋根に上って来たシンカが周囲を見渡しながらエプタを下ろすと、エプタはとことことロウの傍へと歩みより、寄り添うようにすぐ隣に座り込んだ。


「気持ちよかったか?」

「うん。頭洗うの上手だった」

「そうか。ありがとう」

「いいわよ、これくらい」

「アリサはどうしたんだ?」

「あぁ~……えっと、あこそ……」


 苦笑し、シンカが指を差した先では、庭園の木に背中を預けているアリサがいた。どうやらこちらに来るつもりはないらしい。

 

「……当然か」


 アリサはロウを酷く憎んでいた。

 闘技祭典(ユースティア)でのあの日以来、ロウがアリサと顔を合わせたのは今日が初めてだ。

 憎き相手の傍にいるなど、普通なら苦痛極まりないことだろう。

 きっとエプタがいるから、エプタのために、今の彼女は大人しくしているに違いなく、そこには本当に感謝しなければならない。

 明日、海国エデルメーアまでの行動を共にすることを思えば、申し訳ない気持ちで胸が満たされる。

 しかし、行動を共にすることを悩んでいたロウに対し、自らの意思でついて行くと名乗り出たのはアリサだった。

 とはいえ、ルインにいた以上、今日の事情を知らない他国からすれば、当然として彼女も警戒すべき対象だ。故にロウは月国に戻ることを勧めたが、彼女曰く、やり残したことがあるうちは帰るつもりはない、とのことだった。

 要はロウの行動を監視し、”時が来れば”ということだろう。

 彼女の誰よりも愛する母親をこの手にかけたのだ。恨まれるのも当然だと、ロウが自分の気持ちの整理をつけるように、離れた場所にいるアリサを見つめていると……エプタが彼の顔を不思議そうに見上げながら、問い掛けた。


「マスター」

「ん?」

「マスターとオクト、仲悪い?」

「そう、だな。昔、俺がアリサを怒らせてしまったから」

「怒ったら悲しい顔する?」


 きょとんと首を傾げるエプタに、ロウは小さく苦笑しながら答えていく。


「ん~……怒ったら怒った顔をするんじゃないか?」

「悲しい顔はどんなとき?」

「辛い時とか、苦しい時だろうな」

「だったら、オクト、ずっと辛い思いしてた。怒った顔じゃなかったから」

「憎い相手がいない場所でなら……そうだろうな」


 するとエプタは首をふるふると振りながら、小さな願いを口にする。


「マスターと向かい合ってると、オクト怖い顔。でも、マスターの背中を見ていると、オクト悲しい顔になる。仲直りする?」

「いつかそうできたらいいな」

「うん」


 エプタの頭を優しくなでながら、ロウは遠い過去の日々に思いを馳せた。

 ルナリス隊にいた頃、皆に囲まれながら笑顔を浮かべていたアリサ。

 その日はもう二度と帰って来ないのだと、その笑顔を見ることもないのだと思いつつ、ロウが憂いを帯びた息を漏らすと、すぐ傍に座るシンカの気配を感じた。


「来るわよ、きっと」

「どうしてそう思うんだ?」

「別に理由なんていらないでしょ。理由がないと思っちゃいけない?」

「そういうわけじゃないが」


 釈然としない様子で言葉を返すロウを、シンカはどこか悪戯な笑みを浮かべて見つめていた。

 思えば、ロウが虹の塔(イリスコート)にいた間、アリサと何かしらのやり取りをしたのはシンカだ。その時に何か約束事をしたのかどうかはわからないが、エプタを含めて一緒に風呂へ行った際にも何かそういったことを話したのかもしれない。

 いったいどういう話をしたのか気になるものの、聞いても答えてくれなさそうな雰囲気を醸し出している。

 それでも駄目元で聞いてみようかと、ロウが暫し悩んでいると……


「ねぇ、ロウ。此の世界(・・・・)って不思議よね」

「急にどうした?」


 いきなり何を言い出すのかと思い、空を見上げるシンカの視線につられてロウも空を見上げると、そこには掛かる雲一つなく美しく輝く二つの月。


「夜空から星が消えたのは、外界の星国が滅んだからなのよね? 内界は外界によって造られた映し鏡のようなものだから」

「それについては解明されてない部分だな。サラがいうには、星が消えたのは星国が滅んだというより、星を司る大地が汚染されたからということらしいが」

「なら、月が一つしかない外界……月国の大地も、危ないかもしれないってこと?」

「月国の深域(アヴィス)はシュネルたちが抑えているからな。浸食具合でいうなら、まったく進んでないはずだが」

「そっか……やっぱり不思議ね」


 ならどうして外界の月は一つなのか、という話になるが、それは本当にロウ自身わからないことだった。

 外界の神々と大地が内界に影響を及ぼしているのは間違いないが、星国のような場合(ケース)は歴史をどれだけ遡っても初めてだし、代を継がずに国を治める神がいなくなったこともない。

 唯一の例外といえるのは、クレイオでパソスの話にも出た女神ユノーだが、外界のモノが消え、映し鏡であるはずの内界に存在するというのは初めてのことだ。

 ともあれそれらに関しては当然、実験のしようも研究のしようもなく、解明するにはあまりにも手に余る問題ではあるのだが。

 

「それがどうかしたのか?」

「うん、上手く言えないんだけど……ずっとね、この世界ってこういうものだって思ってたの」

「それは普通のことだと思うけどな」


 誰しも今自分が生きている世界に対して、違和感を覚えることや疑問を抱くことなどなく、そういうものだと認識する。世界など、他と比べるようもないのだから当然といえば当然だ。

 自分の家庭と隣の家庭、自分の国と隣の国といったように、自分の家はこうなのに、自分の国はこうなのにと思うのは、比べる対象が存在しているからだ。

 仮に他の環境や情勢を教えられないまま隔離されて育ったなら、自分の生まれ育ったそこがそういうものであるとして、そのまま生きていく。

 昔からそうであったなら、今を生きる者にとってもそうなのだ。


 内界から外界に行って初めて月を見た時、とても不思議に思ったのをシンカは今も覚えている。だが、それが明確な違和感として襲ってくることはなかった。

 人は自分の知らない世界に行った時、理解のできない現象を”そういうものだ”と理解した振りをするものだ。魔力を知らない内界の人間が魔憑と出会って不思議な力を初めて目にした時、魔憑と呼ばれる者はそうなのだと、ただそう認識する。外界が在り、魔力が有り、魔力を扱える者を魔憑という。

 それが新たな知識となり、そこに深い意味など求めない。


 故に、この月に関しても同じことがいえるだろう。

 あの頃のシンカは、内界と違って外界の月は一つなのだと、そういうものなのだと、ただそう認識していた……が、今のシンカの感じ方は違っていた。

 確かに不思議なのだ。

 不思議ではあるのだが、それは外界の月が一つなことに対してではなく――


「でもね、なんだかわからないけど不思議なの。自分でも本当に変だと思うんだけど……月って一つが普通(・・・・・)なんじゃないかなって。二つある方がそもそもおかしいような気がするのよね」

「俺が生まれた時から、内界の月はずっと二つだったぞ?」

「う~ん……そっか。なんか急に変なこと言っちゃってごめんなさい」


 もやっとした感情が消え去ることはなかったが、シンカは空に浮かぶ双月をじっと眺めながら、この静かな時間を心地よく感じていた。

 夜の時間、ロウとこうしてゆっくりと過ごす時間が好きだった。

 隣にいるだけで心が安らぐ。ここにいるのがとても自然に思える。

 ロウの隣が、シンカにとって掛け替えのない大切な居場所に感じられた。

 

「すぅ~……すぅ~…………ますたぁ……」


 聞こえた寝息に目を向けると、ロウの太ももを枕にいつの間にか眠っていたのはエプタだ。可愛らしい寝顔を覗き込み、取り出した毛布をエプタにかけると、自然とロウとシンカの距離が近くなった。

 肩が触れ合いそうな距離間の中、気付かない振りをしてそのまま夜空を見上げるも、少し高揚した気分にシンカの顔から思わず小さな笑みが零れる。

 一方で、こんな時間も当分ないのだという寂しさもあった。


(はぁ……何日もロウと別行動なんていつ以来かしら)


 本当なら明日も一緒について行きたかったが、シンカが向かうのは夢見桜だ。

 確かに寂しいのは否定しないが、自分も少しは強くなったという実感はある。

 夢見桜に行けば、ロウのことも少しくらい知ることができるだろう。

 果てしなく遠く感じていたロウの背中が、すぐそこまで見えたような気がしていた。戦場でも、本当の意味でこうして隣に居ることができた時、きっと自分のことも少しはわかってくるはずだ。だから今はそれでいい。

 焦らずとも、その時が来るのはそう遠くないはずなのだから。


(カグラを見習って、私も少しくらい我慢しなきゃね)


 シンカはこの心安らぐひと時を、せめて今だけはと噛み締めるように過ごした。

 いつか来るはずの、そんな未来に思いを馳せて。

 共に歩み、共に戦い、絶望を踏破した先で一緒に笑い合える光景を夢見て。

 そんな幸福が待っているのだと、そう信じて。


 故に、シンカは気付けなかった。

 この夜、ロウの浮かべた微かな素顔に気付くことができなかった。

 仮面を外した素顔に潜む、その想いに触れることができなかった。

 

 そして次の日の朝――


 ロウを見送るためにシンカが彼の部屋を訪ねた時、すでにロウの姿はなかった。

 

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