266.皆で見たはずの夢だから
……振り返らずに走った。
誰も言葉を口にせず、ただひたすらに走り続けた。
揺れる足元、聞こえた音が、あの場に残った四人の覚悟を示している。
だから止まらない。止まれない。
ここで振り返ってしまえば、立ち止まってしまえば、託された思いのすべてが無駄になってしまうから……それだけはできないし、してはいけないのだ。
だから、走り続けた。
そうして最後の階段を駆け下り、城の出口まで後少しというところで――
「っ、なんなの!?」
「……うっ」
手を繋いでいたエプタの体が宙を舞い、ペンデの手から引きはがされた。
だが、まるで何かに吸い寄せられるように直線的に飛ぶエプタの体を受け止めたのはテッセラだ。
テッセラが小さな溜息を吐きながら振り返ると、階段の裏手から姿を見せていたのは二人の男。引力を扱うデカと、斥力を扱うウンデカだった。
「まったく……レディに対して野蛮なことをするものじゃないよ」
「うるせぇよ。つか、なんだってんだこれは? お前らどういうつもりだよ」
デカとウンデカはミゼンの指示でこの場に待機していたのだが、まさか本当に一桁のアリスモスが離反するとは思ってもいなかったのだ。
与えられた指示は確保だが、最悪、殺しても構わないという命令を受けている。
城内で起こった戦いの気配を察するに、他の者たちがミゼンの相手をしているというのはわかるが、今になって何が彼らをそこまで突き動かしたというのか。
それがどうしても、デカとウンデカにはわからなかったのだ。
「どういうつもり、かい? それはもちろん……こういうつもりさ」
言って綺麗な笑みを浮かべると、テッセラはエプタとペンデ、アリサの体を風で包み込み、勢いよく入口まで移動させた。
「デカ様!」
「チッ、わかってるよ!」
逃すまいと、すかさずデカが腕を伸ばす、が――
「させないよ」
鋭く突き出した刺突剣の先から、槍と化した鋭風が二人へと襲い掛かった。次いで間髪入れずに放った二撃目の風が階段を穿つと、崩落音が二人を呑み込む。
そうして、テッセラは顔だけ振り返りながら爽やかな笑みを浮かべてみせた。
「さっ、マイロードとの再会だ。僕たちの分まで存分に甘えてきたまえ」
「……テッセラ兄ぃ」
「二人とも行くぞ」
アリサに先を促され、ペンデは再びエプタの手を取り走り出す。
託された思いを背負い、ペンデは兄や姉への思いを振り切った。
すべてはエプタを、捨てられたのだと嘆き続けた可愛い妹を、在るべき人の元へ帰してあげるそのために。
「くそがッ!」
上から崩れ落ちてきた瓦礫を勢いよく吹き飛ばし、デカとウンデカは忌々し気な瞳をテッセラへと向けた。
どの道、一桁ナンバーを二人以上相手にするのは分の悪い話だが、ただ何もせず逃げられたとあっては、後でミゼンから何をされるかわかったものではない。
「お前一人で相手になるっつんなら、舐められたもんだ」
「舐めているわけじゃないよ。君たちを相手にするのに、僕一人で十分という実に美しい事実があるだけさ」
髪をかき上げ、テッセラは奇怪な姿勢を決めてみせた。
「言ってくれるぜ。半端な数のどこが美しいって?」
「ふむ。そういえば君たちは、自分が二桁であることに劣等感を抱いてるんだったね」
頷きながら両眼を瞑ると、テッセラは奇怪な構えを解いた。
確かに四という数字が美しいかと問われれば、実に微妙な数字だろう。
どのような大会でも表彰されるのは三位までだし、今では”幸せ”や”静める”といった、良い意味を連想させる風潮もあれど、元は”死”を連想させるとして忌避されてきたような数字だ。
アリスモスに於いての数字は、決して強さの順というわけではない。
エナ、ズィオ、トゥリアが特に秀でているのは確かだが、実際のところはこの世に生を受けた順番というだけだ。
ただ、それに拘る彼らのように、与えられた数字に敢えて意味を見出すというのなら、テッセラにとっての四という数字はとても特別な意味をもっていた。
「僕らは最初、七人だった。同じ思いを胸にした同志さ。かつて同じロードに仕え、共にロードのために力を振るった僕たちの絆はこう見えても固くてね。そんな中、僕に与えられた数字は四。美しくないわけがないだろう?」
「……は?」
訝し気に眉を寄せるデカを前に、テッセラは瞳を開きながら軽く肩を竦めてみせた。そして、分からないといった様子の彼らに言葉を注ぎ足していく。
「わからないかい? 姉がいて兄がいて、妹がいて弟がいる。上を支え、下を見守ることのできるポジションさ。両手に役得というやつだね。美しいだろう?」
「悪い、わかんねぇわ。でもまっ、とりあえず……大人しくつかまれよ」
途端、デカが伸ばした腕を引き寄せる動作を取ると、テッセラの体が勢いよくまっすぐに引き寄せられる。デカはその場で大槌を携え待ち構えると、それを勢いよく振りぬいた。
しかし、テッセラはその剛撃を刺突剣でいなしながら、そこを支点に回転しながらデカの上を飛び越える。着地と共に、今度はテッセラの体が勢いよく弾かれるように吹き飛ばされ、壁へと激突した。
デカとウンデカ。確かに一桁のアリスモスに力は劣るものの、二対一なら分の悪い話ではない。彼らとて、無駄に時を過ごしてきたわけではないのだ。
別段趣味を持つわけでもなく、魂の記憶は深い奥底。やることといえば鍛錬のみ。いつまでも一桁の彼らに届かぬ道理はない。しかしそれでも――
「まぁ話は最後まで聞きたまえよ」
体に風の障壁を纏い、テッセラは無傷のまま立っていた。
「君たちは自分があまり好きじゃないだろう? その理由を考えたことはあるかい?」
「んなもんねぇよっ!」
「私もありませんね!」
テッセラの背後の瓦礫を引き寄せ、あるいは手前にある瓦礫を打ち出し、それに魔弾を織り交ぜながら二人は激しい猛攻を見せた。
確かに二人は自分を好ましく思ったことはない。
何故自分たちはここにいるのか。なんのために存在しているのか。どこへ向かおうとしているのか。
強者を生み出した際の副産物でしかない虚ろな人形と、いったい何が違うというのか。
失敗作の烙印を押され、目の前にいるアリスモス一桁の連中よりも生まれながらにして劣等。それならば、自分たちが生まれた意味はなんだというのか。
そう自分自身を嘲笑いながらも、彼らは研究に体を捧げ、強くなるために努力し続けてきた。
しかしそれでも、やはり壁は高く険しく、自分の存在意義を見出すには至らない。
テッセラは奇怪なポーズを取りながら巧みに躱し、時には風で撃ち落とし、彼らの猛攻をものともせずに言葉を紡ぎ続けている。
「よくないよ、そういうのは。魔力と意志は繋がっているからね。意志の強さがそのまま力に顕れるというのに、そういった感情はより一層自分を弱くしてしまう」
「くッ、お前にはわからねぇだろうよ!」
「ははっ、確かに君たちの気持ちはわからないね。わかりたくもないとも。だけど、わかってしまうこともある。――優雅な花風」
……訪れたのは静寂だった。
まるで時が止まったのではないかと錯覚する中、優しく穏やかな風が吹き、デカとウンデカの体を撫でたその瞬間、二人の体がそれぞれ左右へと吹き飛ばされ、壁に大きな円状の窪みを作りながら背中を強く打ち付ける。
少し遅れて感じる腹部の強烈な痛みと共に、口から大量の血を吐き出した。
「がはッ……っ、バカな……そいつは……詠唱技じゃねぇのか、よ」
「会話をしながらでも別の言葉を紡げる僕は、とても美しいだろう?」
爽やかに髪をかき上げながら、テッセラは綺麗な笑みを浮かべて見せる。
そんな彼の足元の床には、詠唱の言の葉が刻まれていた。
『佳麗な花々、可憐な乙女。美しきものには儚き運命。
醜き世界に散る君よ。悔いることなく逝くのなら、きっと世界は美しい。
だから僕は送り出そう――』
言葉で紡ぐよりも遥かに威力が落ちるのに対し、それに必要な魔力は変わらず同じ。さらに言葉で紡ぐ方が早い上、習得難易度は極めて高いときたものだ。
つまり喉が潰れるか、よほど相手の裏をかく場合以外、文字を刻んで使う利点はないといえる。
「まぁそんな僕も……いや、僕たちだって、昔は自分のことが好きじゃなった」
ふと、テッセラは初めてその顔に小さな影を落とした。
「もっと自分に力があれば、ロードの悲しみを少しでも減らせたのではないかと嘆いたことは数知れない。だけどね、おの御方は笑うんだよ。戦いの後、どれだけその心をすり減らしていても、僕たちを労ってくれるんだ……ありがとう、ってね。そんなマイロードのために、僕は美しくあり続けようと思った」
こつこつと踵の音を鳴らしてゆっくりと歩きながら、テッセラは両手に螺旋状の風を纏った。
そしてデカとウンデカ、二人の間で足を止めると、そのまま言葉を重ねていく。
「僕たちを愛してくれた。僕たちを必要としてくれた。弱く、脆く、不甲斐ない僕たちを。僕が自分を嫌いで居続けるということは、そんなロードに対する侮辱だ。だから僕は僕を愛す。マイロードの愛したものすべてを……」
「そうか、よ。お前らのように、必要としてくれる奴が俺らにもいたなら……少しは自分を好きになれたのかもな。……ウンデカ」
「は、い。まだ……やれます」
体を起こし、デカとウンデカは足元が覚束ないながらも立ち上がった。
両手を突き出し、全身全霊の魔力をその手に込め始める。
テッセラを挟むように、それぞれの間に浮上した魔力塊がその密度を高めながら小刻みに揺れ動く。斥力と引力の力がその場に留まり、解き放たれるのを今か今かと待つかの如く……だが――
「君たちにもいたはずだよ。姿形を作れるほどの、それだけ強い魂を持っていた以上、当然君たちにもいたはずさ。君たちを必要とし、共に戦場を駆けた……君たちのロードが」
「「――!」」
「だから……」
二人が動揺を見せたその刹那――瞬時に腕を交差し、目にも止まらぬ速さで両腕を伸ばすと、鋭い螺旋状の風槍が瞬く間に二人の胸の中心を容赦なく穿った。
それと同時に、宙に浮かんでいた魔力塊が霧散し、消滅する。
「君たちも帰るといい。君たちの帰るべき場所へ。それが君たちの中に眠る、僕と同じ願いに対する僕なりの手向けだ。君たちのロードが、君たちを待っている」
「あぁ…………そう……か……」
身体にはまるで力が入らず、視界が白くぼやけて見える。
体中から魔力の粒子が溢れ出し、空へ空へと昇っていく命の欠片。
そんな中、デカとウンデカの脳裏に過ったのは共に戦場を駆けた、ずっと守り続けてきた彼らの大切な主の姿だった。
「あり…………がと……よ」
「……貴方に……感謝を……」
テッセラは小さく微笑むと、跡形も残さず消え逝く二人を見送った。
願わくば、あの世で愛する主との再会ができるように、と。
「素晴らしい」
途端、小さく手を叩く音がこの部屋に響き渡る。
その音にテッセラが振り返ると崩れた階段の上、そこから一人の少年が手を叩きながら彼の傍へと飛び降りた。
「これであの二人も救われたというものだ」
「君がここに来たということは、そうか……ズィオ兄様とエクスィは先に逝ったんだね」
「あぁ、立派だったといっておこう。間もなくセツナの方も片が付く。ここでお前が死ねば、後はペンデとエプタだけだ。つまりこれは、お前たちにとっての勝利、となるのだろうな」
「捕らえるではなく、最初から殺す気かい? 野蛮なことを言ってくれるね。確かに僕たちの目的は果たせたんだ。ここで尽きることに後悔はないさ」
「ははっ、野蛮、か……よく言うじゃないか」
「事実だろう?」
「いや……俺が殺す気なんじゃなく、お前も死ぬ気なんだろう? テッセラ」
不敵に微笑むミゼンを前に、テッセラはふわりと髪を揺らしながら、答えを濁すようにそれに応える。
「目的を果たしたんだから、これ以上足掻く必要はないんだけどね。ただ一つ、僕にはどうしても許せないことがあるんだよ」
「ほぉ……言ってみろ」
面白そうだと口角を持ち上げるミゼンに対し、テッセラはいつものような爽やかな表情を反転させた。そして、隠しきれない静かな激情を音に乗せ問い掛ける。
「ロードに刃を向ける気持ちを考えたことがあるかい?」
「……」
「毎日毎日、愛する家族の心の涙を目にする気持ちを考えたことはあるかい?」
「……」
「僕は楽天家に見えるかもしれないけどね、これでも日々ふつふつと沸き上がる感情を抑え込むのに必死だったんだよ。――虎猋閃」
首輪を投げ捨てると同時に生命の灯火が解き放たれ、首輪の下にあった黄皮輪から圧縮された魔力が掌へと集まり、長い鎖で繋がれた二本の槍を形成した。
「姉の嘆きも兄の苦しみも、弟の悔しさも妹の悲しみも……すべて、今ここで君へとぶつけよう」
これまでにない激しい感情の色をその双眸に宿しながら目の前の敵を見据え、テッセラは鎖の音を響かせながら二槍を構えた。
…………
……
そうして広間に鳴り響く音は、戦いの熾烈さを物語るには十分だった。
床を割り縦横無尽に駆けながら、飛翔する魔力塊を手にした二槍で斬り落とし、或いは風で打ち消しながら、四方八方鋭い角度から繰り出される刺突。
切っ先が魔障壁とぶつかる度に火花を散らすが、それを破るには至らない。
その隙を突いて放たれる魔弾を槍で弾き飛ばし、テッセラは一度距離を取った。
そしてすかさず、余すこと無く全力を振り絞る為の言の葉を口にする。
「凄惨な狂気、不浄な心魂。醜きものには悲壮な運命」
「そういえば、お前は唯一詠唱を使えるんだったな」
ミゼンがまるで周囲に指示を出すように上げた手首を振ると、幾多の魔弾がテッセラへと襲い掛かった。
しかし、彼は鎖で繋がった片方の槍を回しながらそれを防ぐ。
「美しき世界に居る君よ。悔いることで生きるなら、きっと世界は醜悪だ」
「その身体でよく習得したものだが……」
「だから僕と共に逝こう。 ――醜悪な狂風ッ!」
「それは見たことのない技だな」
竜巻のような風がテッセラを覆い、周囲のものを巻き込みながら、そして発動した本人の体さえも傷つけながら、その風は勢いも鋭さも増して荒れ狂う。
鮮血が飛び散り、髪も肌もぼろぼろになっていく中、その表情はこれまでに見たことのないものを宿していた。
眉間に深い皺が寄り、食いしばった歯を剥き出しに、ミゼンを睨みつける双眸は確かな狂気を孕んでいる。
「美しさに固執していたお前が、どういった風の吹き回しだ?」
「確かに僕は美しい自分を愛してはいるけどね……大切な人の落涙から目を反らす自分だけは、どうしても美しいとは思えないのさ」
「ほぉ……それで?」
「ここで全力を出せない僕は、この世のなによりも醜いってことだよッ!」
吠えた声は高らかに、吹き荒れる慟哭の風を纏った男は真っすぐ我が敵へと突き進む。魂を燃やし、己の存在を費やし、そのすべてを懸けた最後の一撃。
どうか願わくば……この一撃が、主の道を斬り開く一矢にならんことを。
…………
……
少女たちは駆ける。
託された少女は小さな手を放すことなく握り締め、無垢な少女はただ手を引かれるがままに、残った者たちの覚悟を聞かされていた少女は、そんな二人の背を悲し気に見つめながら。
帰るべき場所を目指し、そこに居るはずの男の元へ、少女たちは必死にかけた。
淡い期待はあったのだ。
きっと、遠い過去の情景のように、また皆で再び共に戦えるのだと。
今度こそ、皆で大切な人の力になることができるのだと。
しかしそれはもう叶わない。
歩み寄れる足も、伸ばせる手も、言葉を紡げる口も今はあるのに。
皆、それを望んでいたはずなのに。
ならばせめて、託された思いを胸に、せめて自分たちだけでも――
ペンデがそう思った瞬間、本当に小さな啜り声が耳へと届いた。
ただ黙って手を引かれる少女とて、感情がないわけでもなければこの現状がわからないわけでもない。
自分のために残ってくれた。自分のために道を切り開いてくれた。
恋い焦がれた想いは等しく、誰もが同じ願いを胸に秘めていたはずなのに。
そんな張り裂けそうな胸に手を当て握りこみ、少女はただひたすらに走る。
小さな少女は新たな願いをその胸に、抱いた淡い期待をその胸に、悲しみを宿したその瞳を前に向け……そうして見えた――
「…………て」
飛び込んだ先にある男の体は、とても懐かしく感じられるものだった。
男の裾を握る手が、固く強張ってるのが自分でもわかる。
一生懸命に振り絞った声は掠れ、まともな音を発してはいない。
「エプタ」
聞こえた優しい声に、エプタは両眼をぎゅっと瞑った。
懐かしい、懐かしい、懐かしい……ずっと、会いたかったのだ。
たくさん話したいことがあった。たくさんして欲しいこともある。
たくさん聞きたいこともあるし、たくさんやりたいこともある。
だが、そんな思いを心の中へと仕舞い込み、そっと男を見上げながら……
「みんなを……助けて……」
そう言って、小さな少女は懇願した。
「……お願い――マスター」
エプタが希った相手はずっと会いたかった彼女の主。
記憶の一部が奪われた中、以前の闘技祭典でエプタが繋いだロウの手に感じていた温かさや懐かしさは、紛れもない確かな真実だった。
「やっぱりそうだったのね」
「あぁ……アリスモスのみんなは、過去に俺が失った神器だ」
地国で言っていたミゼンの目的を思い返せば、いつ、どこで、などと詳細なことはわからずとも、それは決して想像するに難しいことではなかった。
それが本当に真実だったとするならば、アリスモスの皆が自分の神器だと気付いたロウは、これまでどれほどの葛藤に苛まれていたというのだろうか。
すぐにでも助けたかったはずだ。すぐにでも取り戻したかったはずだ。
だが、アリスモスの皆がロウの事を思い出しているかはわからなかったし、仮に思い出していなければ、ルインを相手にするには誰かの協力が必要不可欠。それも、相当の強者が必要だっただろう。
だからロウは気付いていながらも、これまで動くことができなかったのだ。
しかし、それもここまでだ。ずっと助けたかった相手に、ずっとこの手に取り戻したかった相手に救いを求められたのだから。
ここでルインとの――ミゼンとの決着をつける。
「ペンデ……」
ロウは左手であやすようにエプタの頭を撫でながらペンデを見つめた。
そして、空いた右手を伸ばそうとするものの、ペンデは咄嗟に視線を反らしながらアリサの後ろへと身を隠してしまう。
行き場の失った右手をそのままぎゅっと握りこむと、ロウは寂し気に、あるいは自嘲するように小さく微笑みながらその手を下ろした。
「アリサ、二人を任せてもいいか?」
「最初からそのつもりだ。お前に言われるまでもない」
「タキアが遠見石でこの様子を見ているはずだ。事情を説明すれば、問題なく受け入れてくれるだろう」
「あぁ……お前には言いたいことも聞きたいこともある。二人のためにも、さっさと済まして戻ってこい。エプタ、ペンデ……行こう」
ロウと顔を合わそうともしないアリサに促され、エプタは心配するように、ペンデはちらちらとロウを盗み見るように、三人はミソロギアへと歩いて行った。
そんな背中を見送りながら、シンカは胸に当てた手をぎゅっと握りこむ。
(……アリサ)
あの日、自分がアリサに語った彼女の過去。きっと、その真実が気にならないわけではない。ただそれよりも今だけは、決して短くはない時を共に過ごしたアリスモスの皆のことが気がかりなのだろう。
エプタやペンデの様子を見ていれば、一刻も早く助けに向かわなければとも思う反面、どこか落ち着いてしまっている自分が嫌になる。
ずっと傍にいた。ずっと彼を見てきた。だからわかってしまったのだ。
おそらく……すでに手遅れなのだ、と。
懇願するエプタに、ロウは何も言葉を返さなかった。
そして今も、慌てる様子もなくじっと黒の領域を見据えている。
それはあまりにも違和感のある光景だった。端的に言えば、らしくない。
ロウが救いを求める声に応えず、すぐさま動かないということを鑑みれば、シンカが先の結論に至ったとしてもなんら不思議なことではないだろう。
「どうするの?」
「今の俺がミゼンと戦ったとして、おそらく万全でなければ勝つことはできない。これだけの降魔を突破した上で勝利を得る、なんてのは虫のいい話だろう」
「なら私が道を開くから、ロウは力を温存して」
「これは推測だが……おそらく、セツナはシンカを待っている」
その言葉で呼び起こされたのは、地国の神都ウーレアでの戦いだった。
力に目醒めた上で、シンカは一度セツナに敗北している。
”実際、ここに来て覚醒した貴女の想いは強いのでしょう。余程の覚悟を持ち、この戦いに臨んだのでしょう。……セツは思います。貴女の力は脅威であると。ですが、貴女自身は決して脅威に成り得ない。セツは、今の貴女を認めない”
”セツが力を振るう理由はただ一つ。それは決して揺るぎません。たとえその結果、世界のすべてが敵になろうと、世界が滅ぼうと、セツが力を振るう理由は変わらず一つ”
”貴女はどうですか? ――貴女の覚悟と想いは、何に向けられたものですか?”
何も答えられず、何も言い返すことができなかった。
全身全霊を懸けた渾身の一撃をもってして、容易く打ち破られたという事実が、その意志と覚悟の遥かなる違いを物語っていた。
たとえセツナが本当に待っていたとしても、無理に戦う必要はないだろう。
彼女が心の底で何を考えているかはわからずとも、ロウとミゼンの戦いに割って入るような真似はおそらくしないはずだ。セツナと直接相対したシンカだからこそ、彼女がロウを直接その手で傷つけるはずがないと断言できた。
ならば、ここでシンカが降魔を倒しながら城までの道を切り開き、ロウをミゼンの元まで万全の状態で連れていくことが最善のはずだ。
(私を……待ってる……)
だが、それが最善だと告げることをシンカの口は拒んだ。
あの時は確かに想いの力で敗北した。
悔しかった。惨めだった。情けなかった。自分で自分を許せなかった。
どうしてあの時、彼女の問いに答えることができなかったのだろう。
答えはとても単純で、とても簡単なことだったのに。
(私は、きっと……)
落とした視線の先、腰に帯剣している穢れ無き勝利の聖剣の柄を撫でる。
皆が教えてくれた。皆が気付かせてくれた。
胸の中にずっとあった当たり前の答えを、今のシンカは知っている。
つまりそう……この細剣を打った時の気持ちすべてを乗せて、シンカはセツナに勝ちたかったのだ。
ただ純粋に、彼女に勝たなければならないと思ったのだ。
「だけどそれだと……」
言いかけた言葉を切り、シンカは背後からの激しい足音を聞きながら、何かを見据えているロウの視線の先へと振り返った。
すると、二頭の馬が土煙を巻き上げながら走ってくるのが見える。
目を凝らしてみると、その上に跨がっているのは、この地で合流する予定だったリアンとセリスの二人だった。
聖神殿アドゥヴァーニの町で馬を借りたのだろうが、いくらどこの町からでも馬を借りる権利のある軍人とはいえ、普通なら関所で一旦馬を返さなければならない。そして目的地がさらに先の場合はそこで新しい馬を借りるのだが、ミロソギアの周囲に敷かれた関所までの距離は再び馬を借りるほど離れてはいない。
関所近くまで来ていれば、すでに戦闘があったと容易に推測できる灰煙の様子を見て、急いで来たといったところだろう。
二人はロウとシンカの元まで来ると、馬から飛び降りながら、
「どういう状況だ?」
すぐさま、現状の説明を求めた。
ミソロギアの見張り台にいる兵士に合図を送って馬を返しながら、リアンとセリスは口を挟むこともなくロウの話に耳を澄ませている。
そしてある程度の説明が終わると、二人は思い詰めるような表情を浮かべていた。
ロウが地国の森羅城でステラと戦っている間、リアンはエクスィと、セリスはズィオと剣を交えていた。
そのときの言葉や表情の意味が、今なら嫌というほどに理解できる。
彼らの求めていたもの、彼らの帰りたかった場所、彼らの想いと零した涙。
それらが今、二人の中で繋がったのだ。
「つまり、俺たちが外で降魔の相手をしていればいいんだな?」
「頼めるか?」
リアンとセリスは黒の領域から古城まで道程を確認した。
古城までそれほど遠く離れているわけでもないし、集まっているはマークイス級以下の降魔ばかりだ。
先にあれだけの大群が押し寄せていたのだから当然といえば当然だが、ロウとシンカが決着をつけ、引き返す頃にはどうなっているかは想像もつなかない。
だが、ミゼンとの戦いが熾烈なものになると容易に推測できる以上、退路の確保は極めて重要なことだ。
途中で何が起きても必ずロウたちの退路を確保し続ける覚悟がなければ、簡単に返事をしていい役割ではないだろう。
故にリアンは最初にしっかりと確認を終え、ロウを真っすぐに見据えながら口を開く。
「俺たちは二人の道を切り開き、退路を確保し続ける。お前たちが戻るまでずっとだ。”一定時間経っても戻らなければ逃げろ”という細かい注文は受け付けんが……いいな?」
まさに一蓮托生。ロウたちの勝利を信じて戦い続けるという覚悟がある以上、リアンとセリスの二人に撤退という文字はなかった。
「ロウだけじゃなくてシンカちゃんもだぜ?」
「えぇ、絶対にロウと二人ですべてを取り戻してくるわ」
必ずロウは勝つだろう。そして、ミゼンに奪われたものをその手に取り戻す。
だからこそ、シンカも負けるわけにはいかなかった。
セツナの真意を確かめ、必ず彼女をロウの元へと帰して見せるのだ。
神器と魔獣、そのすべてをロウが取り戻すことこそが、きっとこの世界を救うために必要不可欠なことなのだから。
いや、世界がどうこうとそれ以前に、シンカは彼女たちを在るべき場所に帰して上げたいと願っていた。
そうして、先に黒の領域へと足を踏み入れたのはリアンとセリスだった。
初めての中界……肌で感じるその空気は、明らかに内界や外界とは違っていた。
外界へ行った時は魔憑としての練度も低く、周囲の魔素に対しての感覚が鈍かったが、今の彼らは内界と外界の魔素濃度の違いをはっきり感じることができる。
内界よりも遥かに魔素に満ちた外界だが、中界はそれよりもさらに濃密だ。
ガイアと呼ばれていた頃から、生命樹のある中界は魔素の濃い地域ではあったが、今の中界はカオスと呼ばれているだけあり、満ちる魔素はまるで汚染されているかのように心地が悪い。
事実、降魔が蔓延る巣窟となった中界は、魔素の質が降魔の魔力に近いものへと変質している状態だ。
独特の異質な空気……外界の各国にある深域を守護している者たちは、常にこの息の詰まりそうな空間で戦っているのか。いや、その者たちだけではない。
上位の部隊、漸減作戦に参加できる程の外界の魔憑たちは皆がそうだろう。
これがずっと知らず知らずに守られ続けてきた者と、ずっと世界を守り続けてきた者たちの差なのだ。
内界だけで例えるなら、世間知らずの貴族が貧困街に足を踏み入れたようなものだろうか。育った境遇、環境、当然のように外界と内界の者では常識も違う。
民を守る立場であるはずの軍人たる自分が前者側であったというのなら、本当に笑えない話だと、リアンは心の中で自嘲した。
だが、今の二人は違う。何も知らない側ではなく、戦うための力を得た、本当の意味で多くのものを守る側に立った人間だ。
「この異質な空気に慣れるには、ここでの長期戦がいい訓練になりそうだな」
「まったくだぜ。つかよ、リアン。あの剣は使わねぇのか?」
軽口を叩きながら、リアンとセリスは迫る降魔を薙ぎ払う。
「俺の短所は魔力総量と出力のバランスが悪いことだ。それを克服するには、ここでの戦いを生かさん手はないだろう」
マレウスより無事授けられた剣を使い慣らすには絶好の機会と言えなくはないが、新しい力を手にしたからといって、基礎的な部分をないがしろにしていいわけではない。
魔力消費、集束力の高い能力である以上、できる限りそれを抑えて戦えるようになることこそが、リアンのとって目下の課題だった。
ましてや、ここでの戦闘継続時間はロウとシンカの戦い次第であり、どれほど戦い続ければいいのか先がまるで見えない。
今ある全力を試し、仮に長期戦になればなるほど危険が伴うのに対し、温存する戦い方の修練であれば、長期戦になったとしてもデメリットは薄いのだから。
「けど、やばくなったらちゃんと使えよ?」
「お前に言われるまでもない」
鼻で笑い、リアンは炎を宿した剣で降魔を斬り裂く。
だが、セリスと共に道を斬り開きながらも、今のリアンはまた別のことを考えていた。それは戦いながらチラリと後方を確認した際に見た、シンカのことだ。
(……平然としていたな)
以前にも一度、シンカはこの領域へと足を踏み入れている。
これほど奥深くまでというわけではないが、足を踏み入れた瞬間でも肌に感じた空気にリアンたちは顔を顰めていたのだ。
しかし、シンカは何も感じないといった様子で平然とロウの隣を走っている。
たった一度この場に足を踏み入れていたからといって、そう簡単にこの空気に慣れるものなのだろうか……いや、答えはおそらく、もっと単純なものだろう。
「見えたな……セリス!」
「おうよ! 負けんなよ、二人とも!」
業火を纏った風が大地を焦がし、もう少しのところまできた城までの道をこじ開ける。すかさずその炎風の後を追うように、ロウとシンカが走り抜けた。
「お前はきっと……最初からそちら側だったということだろうな」
ロウと共に駆けるシンカの背中を見つめ、リアンはぽつりと呟いた。
「なんか言ったか?」
「いや、なんでもない。溜まれば厄介だ、片っ端から殺り続けるぞ」
「おうよ、やべぇのが来ないのを祈りながらな!」
すでに甚大な被害を受けたミソロギアからの増援は期待できない。
黒の領域の節目からミソロギアの姿は見えるものの、周囲を見渡せばどこまでも果てしなく続く荒野が広がっている。
いずれデューク級並みの降魔が現れないと言い切れない以上、たとえ今この場にいるのが彼らにとって取るに足らない相手とはいえ、決して油断はできない。
常に降魔の数を最小限に抑え続けることを念頭に、二人は武器を手に吠えた。




