237.冥国オスクロイア
軽い自己紹介を交わした後、シンカたちが向かった先は神都エレボスだ。
ロウの向かった先などいろいろと聞きたいことはあるものの、話は着いてからゆっくりと、と言ったリリスの言葉に従い、雪原の中を歩き続けて数時間。
慣れない雪道はシンカとロリエの体力を奪っていくが、それに反してリリスとリンの足取りは軽かった。リリスに至っては露出度が高く存分に色気を振りまく格好だというのに、まるで寒さを感じさせることもなく、ヒールを履いているにも関わらずその足取りは軽やかだ。
精密な魔力の制御ができている故のことだが、それを自然体のまま平然とやってのけている辺り、やはり相当な実力者なのだろう。
そうしてなんとか神都に辿り着くと、やっと歩きやすい道へと変わる。さすがに町中の道は除雪されおり、普通の道のありがたさをシンカたちは実感した。
そのまま真っ直ぐに向う先は摩天楼レトーだ。
「え? 今向かってるのって、あの塔みたいな建物なんですか?」
「そうよぉ~」
「あ、あのっ、私たちなら普通の宿屋で十分です。よね? 二人とも」
「確かに……この国の神様がいるところに足を踏み入れるなんて、冥の幽衆に目をつけられそうね。私なんて月の使徒だし」
「此方はどちらでも構わぬ。あの男が帰ってくるまで、今日明日の辛抱だしの」
「そ、そうだけど……」
「でもねぇ、この国でレトーほど安全な場所はないわよぉ? 私がいるから、大丈夫大丈夫。だいたい、貴女たちにとってはいまさらでしょ? 聞いてるわよ、天国でのこと。ふふっ」
「「……」」
確かに天国チエロレステでひと悶着はあったものの、だからこそ余計に、他に敵を作りたくないというのが本音である。
パセロとパグロは良い人だったし、結局拳を合わせることもなかったのだから、あのときに限ってはルインに感謝しなければならないだろう。共通の敵である彼らがいなければ、パセロとリンの衝突は避けられなかったはずだ。
とはいえ、ブフェーラの意思次第では、次に会ったらどうなるかはわからない。
そしてそれは冥国とて同様だ。
リリスのお陰で諍いなく済んだとしても、いつ何がどうなるか予想もつかない以上、敵意を向けられるような行動はできるだけ避けたかった、のだが……
「これはこれはリリス様じゃありませんか。相変わらず本当にお綺麗ですね。こんなところでどうしました? 外へ出るなんて珍しいですね」
「ご無沙汰しております、リリス様。何かありましたか?」
「私だって用事で外に出るときくらいあるわよぉ。別に出不精ってわけじゃないんだし。失礼ねぇ」
さっそく鉢合わせてしまったのは、その服装からして間違いなく冥の幽衆だ。
後ろに三人の部下をつれた男で構成された小隊と、女で構成された小隊。リリスに挨拶をしたのはそれぞれの隊長といったところだろう。
紫紺の軍服の前を開け、柔毛のついた短い外套を羽織る男の方は、見るからに言動が軽そうで浮ついた空気を纏っており、淡いマゼンタ色の髪を無造作に盛っている。モテそうな顔つきではあるが、明らかにシンカたちの苦手とする風貌だった。隊長がそうであるからか、後ろの男たち三人も同じような雰囲気を醸し出している。
対して女性の方はというと、彼とは見事に真逆だった。
きっちりとした紫紺の軍服。濃いマゼンタ色をした髪はとても短く切られ、綺麗というよりも格好良い。女性であるにも関わらず男らしい雰囲気を纏った彼女は、さぞ女性に人気があるだろうと思わせる。彼女を含め、後ろにつく三人の女性も見るからに真面目な性格だった。
「外に出る時は一言、お声がけください。護衛をつけますので」
「大丈夫よぉ。今帰って来たところだもの。センシアは真面目ねぇ。それより、貴女たちはどこへいくのかしらぁ?」
「はい、それはですね。巡回中だった使い魔から、サタナキア卿の屋敷へ向かう怪しい人影を見たという報告を受けましてね。おれたちが調査に駆り出されたというわけで」
「へぇ~、そうなのぉ。でも、それなら問題ないから行かなくていいわよぉ」
「どういうことでしょうか?」
「私がそう言ってたって腹黒糸目に伝えて、それでも続行するっていうのなら好きにしなさい。わかったかしらぁ?」
「……了解しました。それと……そちらの方々は?」
センシアと呼ばれた女性の訝し気な視線が向けられたのは、リリスの背後にいる三人だった。
冥の幽衆だとわかった瞬間、背中を向けて他人の振りを装っていたにも関わらず、やはり気付かれていたようだ。
が、それもそうだろう。センシアといえば、よりにもよって討滅せし者だ。この程度のことで誤魔化しきれるはずもない。
観念したかのようにシンカたちは振り返ると、ぎこちない笑みを浮かべながら声を発した。
「は、はじまして……お、お邪魔してます」
「なっ! 貴女は神殺しといた……っ、リリス様、これはどういうことですか?」
「落ち着けよ、センシア」
「アドレスが口を開くとややこしくなりますので、少し黙っていていください」
「これだけの美人を前に口説かねぇのは男の恥だぜ。神殺しの女に月の番犬、後は……っておいおいまじか……」
センシアの制止の声を軽く流しつつ、シンカたちへ歩み寄ってきたアドレスの動きが止まった。驚いたように目を見開いているが、それも無理からぬ事だ。
なにせ、ロリエの耳当てから覗いているのは尖った耳。今ではもう、見た事すらない人も珍しくはない妖精の一族の特徴そのものなのだから。
しかし、アドレスは驚愕した表情から一転。すぐさま綺麗な笑みを浮かべると、どこか柔らかい口調でシンカたちに声を掛ける。
「お嬢さんたち、一緒にお茶でもどうです? おすすめのスイーツのある店に案内しますよ。きっと気に入っていただけると思います」
アドレスに声を掛けられ、慌てたロリエがシンカに寄り添うように身を隠すと、リンが冷めた瞳を向けながら一歩前に出た。
「私たちがロウの仲間って知っておきながら、随分と優しいのね」
「綺麗なお嬢さんと争うのは愚かな男のすることですよ。たとえ神殺しに非があったとしても、お嬢さんたちが特に何かをしでかしたわけでもないんですから。今はおれと甘いひとときを過ごしましょう」
そう綺麗な笑みを向けたままのアドレスを前に、シンカがリンの後ろから軽く袖を引っ張り、アドレスの様子をちらちらと見ながら小さな声で耳打ちをする。
「リン、わかったわ。この人、血の壁を乗り越えたアンスの親戚よ」
「えぇそうね。私も思ってたところよ」
「どうするの? リリス様はなんだかセンシアって人と話込んでるみたいだし」
「気に障らないよう、一応言葉には気をつけるわ」
数度言葉を交わし、リンは軽く咳ばらいをしながら改めてアドレスを見据えた。
そして、実に彼女らしい言葉でアドレスの気持ちに応える。
「せっかくだけどお断りさせていただくわ。貴方に非があるわけじゃないけど、神殺しの方が魅力的だもの。ごめなさいね」
「リン!?」
「ははっ、神殺しを悪く言ったつもりじゃなかったんですけど、どうやら気に障ったようですね。確かにおれたちは神殺しの行いを直接は知りません。それについては謝罪しますので、どうか機嫌を直していただけませんか?」
「……ふん」
「これは参りましたね」
腕を組んだまま顔を背けたリンにアドレスはたじろぐものの、特に機嫌を悪くしたようではなさそうだ。配慮の欠片もないリンの発言に一時はどうなるかと思ったが、シンカはとりあえずの安堵の息を吐いた。
「仕方ありません、今日のところは諦めます。ですが、実は妖精を見たのは初めてでして。よければ最後に、もう少しよく顔を見せていただけませんか?」
リンの反応が遅れるほどの軽い足取りでアドレスがロリエに距離を詰めると、ロリエの左頬に添えようと右手をすっと伸ばした。その瞬間――
「おっと」
アドレスが身を後ろへと引くと同時に、甲高い金属音が響き渡る。
何事かと周囲が騒めく中、交差した得物越しに睨み合うのは大太刀を抜き放ったロリエと、殺気にも似た気配を感じ取り、すかさず割って入ったセンシアだった。
「この神都で得物を抜くとはいい度胸ですね。と言いたいところですが、どうせこの男が何か気に障ることをしたのでしょう」
「その男は不用意にも、此方の耳に触れようとしたのだ。此方に触れてよい男は一人だけ。決して許さぬ」
「なるほど……それについては彼に変わって謝罪しますので、どうか矛を収めてください」
「……」
「どうしても引く気はないというのであれば止めはしませんが、これ以上の揉め事となれば、貴女が心を許したその御仁にも迷惑がかかるのでは?」
「……うっ」
バツの悪そうな表情を浮かべながらロリエは手の力を緩めると、何事もなかったかのようにそっと大太刀を仕舞い込み、逃げるようにシンカへと抱きつ……
「もう、驚かせないでよ!」
「はう!?」
……けなかった。
容赦なくロリエの額に振り下ろされたシンカの手刀。
ロリエは両眼をぎゅっと瞑りながら、自分の額を痛そうに両手で擦りつける。
「あのっ、すみませんでした」
「いえ、こちらこそ。うちの者がとんだ失礼を。……アドレス、貴方は先に戻っていてください」
「なんだよ……ったく。それではお嬢さんたち、お茶はまた次の機会に。いくぞ、てめぇら」
「「「うっす」」」
拗ねたような表情から柔らかい笑みへ、ころころと表情を変えながら、アドレスは部下を引き連れてこの場を後にした。
そんな彼の背を見送りながら、センシアは小さな溜息を零す。
「はぁ……」
「ふふっ、とりあえずお互いのことは知れたということで、よかったわねぇ~。センシアとアドレスを知っておけば、動きやすくなるから丁度よかったわぁ」
「丁度、ですか。リリス様の丁度は、どこまでが偶然なのかわかりかねますね」
「まぁそんなことはどうでもいいじゃない。それより、頼んでも大丈夫かしらぁ?」
「この者たちなら問題はないでしょう。そのように報告しておきます。ですが、神殺しの件については……」
「わかってるわぁ。好きになさい」
すっと目を細めながらリリスが薄く微笑むと、センシアは思わず生唾を飲みこんだ。
リリスはこの国の神である冥神を腹黒糸目と称しているが、他の者たちからすれば、真意が読めないという点に置いてはどちらも変わらない。
むしろ、リリスの紅水晶のような光を宿す双眸に見つめられては、そのすべてを見透かされてしまっているのではないかと錯覚してしまう。それに対し、明らかに見透かそうとする素振りを隠しもしない冥神の瞳の方がまだマシというものだ。
そんなことは、たとえ口が裂けても言えはしないのだが。
「皆さん。華やかというには遠い都ではありますが、アドレスの言ったようにそれなりに見るべきところもある都です。どうか良き滞在を。それではリリス様、失礼いたします」
「じゃあねぇ~」
部下を連れ、アドレスの去った方へと向かうセンシアにリリスが軽く手を振っていると、シンカが不安げな瞳を向けつつそっと尋ねる。
「あの、リリス様。ロウの件ってなんですか?」
「歩きながら話しましょうか。レトーはすぐそこよぉ~」
そうして、再び摩天楼レトーへと向けて歩き出した四人。
曰く、アドレスとセンシアの二人は討滅せし者なだけあり、冥の幽衆の中でも大きな発言権を持っている。そしてアドレスは女性に甘く、センシアは真面目な性格なのだが、重要なのは腹を見せるか否かということだった。
冥国の特徴としては、敵意があるとしてもそれを巧妙に隠し、表面上は上手く取り繕う類の人間が多い。親しくなったように振る舞ってはいても、何かあれば容赦なく得物を抜ける連中ばかりだ。
できる限り敵を作らず、すべての者を敵として警戒するという意向は、この国に住む貴族悪魔たちを相手にしているが故だろう。
しかしそんな中でも、アドレスとセンシアは少し変わっていた。
腹の探り合いをいつまでも続けることを嫌い、最初に相手を試すような事があったとしても、一度自分が認めたならばそれ以上に相手を探るような真似はしない。
立場有る二人から”害はない”と思われれば動きやすくなる、というのはそういうことだ。
かといって、その二人が甘い無能な人間かと問われれば、実に優秀な人材だと言わざるを得ないだろう。
この国において、相手を見極める眼は何よりも必要なことだ。そして二人にはそれがある。彼らほど大きな発言権を持ち、冥神に対しても信頼されている人間はそう多くはない。
故に、リリスはこの場にはいないロウの事に対しても、好きにするように平然と言ってのけたのだ。
あの二人ならばロウと接触したとしても、問題になるようなことはないだろう。
一方、冥神アルバ・ハデスは人と接することを好み、それが他愛無い会話だとしても聞き流すようなことはしない。お喋りが趣味と言っても過言ではないが、付き合いやすいかと問われれば、それは否だ。
彼においての”対話を好む”というのは、つまりは相手の情報、ひいてはその口から漏れる幾多の情報を集めることを好むと置き換えることができる。
つまり、単に人付き合いを好んでいるというわけではなく、自分の知らない情報を集めることが趣味だといえるだろう。
結局のところ、何もやましいことがないのであれば、この冥国で下手に嘘を吐くこと自体が愚策中の愚策なのだ。
何かを隠そうとしたり、誤魔化すような真似は相手をより警戒させるだけであり、いつまでも気を緩められない時間が付きまとうことになる。
その点、シンカの本気の慌てようや、リンのアドレスに対する発言、そしてロリエの行動は、結果として二人にとっての好感触となった。
感情を押し殺し我慢しても、人を視る眼のある相手に対しては、そのすべてを隠しきるのは難しい。僅かでも違和感を与えてしまっただけで、相手の警戒度を引き上げるだけに過ぎないのだ。
「……ただ慌てただけがよかったって……なんか、私だけ情けなくない?」
「ふふっ、私は相手がそういうタイプって肌で感じたからあぁ言ったのよ」
「嘘よ。天国でパセロ相手にだって、同じように啖呵を切ってたじゃない」
「……お、覚えてないわね」
「此方もすべてわかった上での行動だ。た、ただ苛ついただけではない」
「それこそ嘘ね。バツの悪そうな顔してたじゃない」
「……お、覚えておらぬの」
「はぁ……まったく」
「ふふっ、三人は仲良しさんねぇ、と。やっと到着よぉ~」
辿り着いた摩天楼レトーを見上げると、よりその高さを実感することができる。
首が痛くなるほど見上げなければ頂上は分からず、階層でいえば百は下らないだろう。それは距離に換算すれば、約五百メートルをも超える高さだ。
対方向にある時計塔も同じほどの高さだが、今の時計塔は見張り台も兼ねている。
今の、といっても、降魔が現れ始めた頃よりという意味だが、その理由はこの土地柄にあった。
見通しが悪く、悪天候になればまともな方角すら定められないほどになる上、目印になるようなものは存在しない。故に冥国では、旅人や商人が遭難しないよう、各町に必ず一際高い建物が昔から建てられている。
そして降魔が現れて以降、その高い建物は見張り台として最適だった。
リリスに続いて中へ入ると、浮遊石が装飾された昇降板に乗り、上の階へと上がっていく。そうして辿り着いたのは七十七階。
この階層はリリス専用であり、他の魔憑や冥神も、余程の用事がない限り踏み入ることはない。シンカたちにあてがわれた客間もこの階層内の部屋だった。
「本当にこんな立派な部屋を使ってもいいんですか?」
「いいのよぉ。女性にとって安眠できる環境は大切でしょ? 不眠はお肌の天敵だもの。少しくつろいで待っててねぇ」
地国であてがわれた部屋もそれはもう立派なものだったが、この部屋も負けず劣らずといったところだ。部屋の雰囲気はまるで違うが、細部の一つ一つが高価な材質で造られているとわかる。
床に敷かれた絨毯にしても、踏んでしまうのが申し訳なくなるほどだ。
ここまで円滑に事が進んだのも、この待遇にしても、事前にイズナとミコトの口添えがあったからだろう。本当に感謝してもし足りない。
待ってろ、という言葉を残してリリスが部屋を出ると、シンカたちは大人しく椅子に座ってリリスの帰りを待った。
「外の景色でも見ようと思ったけど、この部屋って窓がないのね」
「そういえば……」
何気なく言ったリンの言葉でシンカも周囲を見渡すが、この部屋には小さな窓一つ付いてはいなかった。
高層で危険だから、寒いから、などと理由を考えてはみたものの、別に子供が住んでいるわけでもなければ、いくら寒いとはいえ暖かそうな暖炉もある。
ならば、小窓一つ無いのはどう考えても不自然だろう。
ロウが迷いなくリリスにシンカたちを預け、イズナの盟友ともなれば疑う余地などないのだが、少しばかり不安を掻き立てられるのはここが冥国故だろうか。
どこか落ち着かない感じがする中、ロリエは相変わらずマイペースだった。
きっと歩き疲れたのだろう。いつの間にか寝台の上で丸くなっている。
「人に不慣れなくせに、こういうところは割と図太いのね」
「でも、妖精って本来は警戒心がとても強いんでしょ? リンもいるし、きっと安心してるのよ」
「私だって会ったばかりよ?」
「でも、ロウとの付き合いは長いじゃない。それに……」
ロリエの父親であるジニアの盟友、カリンの娘だから、という言葉をシンカは飲み込んだ。本当に娘かどうかは定かではないが、近しい者ではあるはずだ。
女子会という名の家族会議で反逆の箱舟の話をした際、リンの口からカリンの名前はでなかったし、何より箱舟についても詳しく知った様子はなかった。
それがリンの意図したものでないとすれば、リンはカリンのことを知らないということになる。少なくとも、詳しくは知らないのだろう。
リンの過去がわからない以上、それに触れるようなことを軽々しく口にはできない。
人の過去を知るということは、その人の心に踏み込むということだ。
自身の過去を知らない上に、ロウの過去を知った今だからこそ、人の過去に踏む込むという事が、どれほど覚悟のいるものなのかをシンカは知っている。
シンカにとってリンは大切な仲間だ。リンの為ならなんだってしてみせる。
だが、それで相手を支えることができるかというと、それはまた違った話だ。
聞きたい。知りたい。リンのことを、もっと。
そう思う気持ちはあるものの、それを聞いて自分にいったい何ができるのか。
ロウの過去の一部を知り、それでも何一つとして力になれない自分への後ろめたさが、シンカの口を閉ざしていた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないの」
きょとんと首を傾げるリンに、シンカは小さく微笑んでみせた。
”何かあった時は……リンを支えてやってくれ”
何も起こらなければそれに越したことはない。
だが、ロウの言葉がべったりとシンカの脳裏に張り付いて離れない。
”未来を見る、ではなく、知っている、という表現に違和感がありました”
もしこれも、ロウの知る未来に関係しているのだとしたら。
切実に頼むロウの声が、シンカの不安を駆り立てる。
(……大丈夫。未来は変えられる。きっと何も起こらない)
そう自分に強く言い聞かせ、シンカは心を落ち着かせていく。
そんな中、カラカラと配膳台を押しながらリリスが戻って来くると、寝台の上で丸くなっていたロリエが飛び起きた。
そして、感じた気配がリリスのものであると気付くと、胸を撫でおろしながらシンカの隣の椅子へと腰を下ろす。
「夕食にはまだ少しかかるから、一先ずお茶にしましょ~」
「すみません、気を使わせてしまって」
「いいのよぉ。イズナから話を聞いて、私もお喋りしたかったのぉ」
意外と言っては失礼だが、配膳台の上でお茶を用意する手つきは手慣れていた。
そういったことは女中に任せるものだと思っていたが、どうやらリリスは普段から自分でお茶を用意しているようだ。
「おぉ~、此方はこれを知っておるぞ。だ~じりんだ」
「ふふっ、残念。これはフレーバーティー、桜紅茶っていうのぉ」
「……桜? 桜って、あの花の桜のことですか?」
「そうよぉ。どんな環境の国にも必ず一本……でも、どんな国にも一本しかない不思議なお花。珍しいんだから、貴女たちにはと・く・べ・つ」
「いい香りですね」
桜と言えば当然それしかないのだが、シンカが念の為に確認したのには理由があった。
最初の時とは違い、ミソロギアの慰霊碑の前では意識して嗅いでいたのだから、今でもしっかりと覚えている。
リリスの用意した紅茶から漂う香りは、ロウが口にする煙草のようなものと酷似していたのだ。
月国の桜の名所は名の通り夢見桜。となれば、そこへ向かったはずのツキノたちが、きっと有力な情報を仕入れてくるに違いない。
シンカはこれでまた一歩ロウに近づけると期待に胸を膨らませ、桜紅茶の仕上がりを子供のように今か今かと待ちわびた。
「はい、お待たせぇ~」
「ありがとうございます」
目の前に紅茶杯が置かれて瞬間、上品で優雅な甘い香りが鼻孔をくすぐった。
その温かさは冷えた体を優しく温めて緊張を解し、その香りは不安な気持ちを綺麗に洗い流し、落ち着いた気持ちにさせてくれる。
上質な紅茶を味わいながらシンカがほっと一息つくと、リンがふと思い出したかのように問い掛けた。
「リリス様、一つお尋ねしてもよろしいですか?」
「ん? いいわよぉ」
「この部屋なんですけど、どうして窓がないんですか?」
「あ~、不安にさせちゃったかしらぁ? この部屋には鍵が二つついてて、内と外、どちらからもかけれるのよぉ。中から掛ければ外からは開けられないし、外から掛ければ中からは出ることができない。そういうお部屋なのぉ」
「そいうことですか」
なるほど、とシンカたちは理解した。
イズナからの紹介であり、ロウにも任された以上、身の安全を最優先にしてくれたということだろう。
だが、この塔にいるだけでも本来なら十分に安全なはずだ。仮に窓についた部屋を選んだとしても、七十七階の部屋に外からの襲撃などあるはずがない。
これは単に念には念を入れたものなのか、それともリリスにとって、何か気掛かりなことでもあるのだろうか。
そのどちらとも取ることはできるが、普通の鍵のついた部屋でも十分だろう。
つまりもう一つ理由を上げるなら、これはリリスの冥神に対する交渉材料だったのかもしれない、ということだった。
もし仮にシンカたちに不穏な動きがあれば、外から鍵をかけることで容易く監禁できるというわけだ。
無論、リリスにそんなことをするつもりはないだろうし、シンカたちとて冥国の不利益になるようなことをしようなどとは思っていない。
だが、冥神アルバからすれば神殺しの仲間を居城に招き入れるのだから、それくらいの条件を出してきても不思議ではない。
むしろ、下手に国内の宿に泊まらせるより、何が起きた時の対処はしやすいともいえる。
冥神、そして冥の幽衆が大勢いるこの摩天楼レトーは、シンカたちにとってはどこよりも安全な場所であり、それと同時に、何か問題を起こしてしまえばどこよりも危険な場所になるということだ。
「話が早くて助かるわぁ。ごめんねぇ? 外の景色が見たいなら、昇降板の傍に談話室があるから、そこで我慢してくれるかしらぁ?」
「いえ、問題ありません」
「お気遣いありがとうございます」
「のぉ、此方も一つよいか?」
「な~にぃ?」
「そなたはあの男とどういう関係なのだ? あの男の用事というのを事前にわかっていたようだが……」
「いきなりねぇ。まぁ、浅からぬ関係、とだけ言っておくわぁ。ミステリアスな女の方が魅力的でしょ?」
「むぅ~……」
ロリエの問いかけはシンカたちにとっても気になるものだったが、リリスは妖艶な笑みを浮かべながらそれをはぐらかした。
小さく頬を膨らませたロリエに苦笑すると、リリスは代わりにと言わんばかりに、話せる部分の情報をシンカたちに提供する。
「可愛い子ねぇ。でも、どこへ行ったかは教えてあげるわよぉ。あの人にとって、冥国の数少ない旧友に会いにいったのよ」
「ロウの旧友……ってことは、過去の大戦の経験者ですか?」
それは三人にとってはとても興味深いことだった。
故に、シンカはそれについて深く聞こうと話を掘り下げる……が、冷笑とも思える薄い笑みを浮かべた艶やかな口から返ってきた言葉は、予想外なものだった。
「ふふっ、それはどの大戦のことを言ってるのかしらぁ?」
「……え?」
「六七七年の降魔の狂宴? 四七七年の巨禍の戦役? 二七七年の七重奏の戦律? 七七年の神々の宣戦? それとも、すべての始まりである厄災の贈物……七年に起きた厄災の贈物?」
シンカたちが言葉を詰まらせたのは無理もない。まさかリリスの口からそんな切り返しがくるなどと、まるで想像もしていなかったのだから。
過去に大戦があったのは知っている。
ロウが先々代を殺し、神殺しと呼ばるようになった戦い。ロウが先代を裏切り、多くの同胞を殺したとされる戦い。星国が落ちという戦いなどだ。
これまでの情報と年号を合わせると、どれがどの大戦で起こった出来事なのかはある程度なら想像することもできる。
だが、中には聞いたことすらないような、何も知らない情報も含まれていた。
まっすぐに見つめる艶美な紅水晶のような瞳に、自分たちの顔が映り込む。
リリスは笑みを浮かべるだけで、能力を使用したわけではない。
しかし、色艶のある美しい笑みに、シンカたちはまるで何かに取り憑かれたようにただ硬直してしまっていた。
そんな中、シンカたちが返答できるはずないと最初からわかっていたリリスは、自ら答えを提示する。
「ちなみにその旧友というのはね、始まりを知る人のことよぉ」
「……リリス様も、ですか?」
リリスが両眼を瞑りながら紅茶杯を口にすると、硬直から解けたシンカがやっとの思いで静かに言葉を漏らした。すると……
「私はそうねぇ……」
――コンコン
「リリス様。お食事の用意が整いました」
「残念ねぇ、続きはお食事の後にしましょ」
扉の向こうから聞こえた声に、リリスは悪戯な笑みを浮かべて立ち上がると、扉を開けて外にいた女中を迎え入れた。
女中は食事の乗った配膳台を押し、長机の上に手早く料理を並べていく。
地国の料理が山菜を多く使った芸術のような見栄えのものだったのに対し、冥国の料理は厚いステーキにパンやスープ、そしてサラダ。海国は海鮮料理が多いとクベレがいっていた事からも分かるが、やはり料理には土地柄がよくでている。
なんとも食欲をそそる匂いだ。
「なんだかロウに悪いわ……」
「私たちを放って行く人なんて、別に気にしなくていいのよ。私たちより大切な旧友さんに振舞ってもらうんでしょ」
「拗ねておるのか? リンはわかりやすいのぉ」
「別に拗ねてないし貴女に言われたくないわよ」
「こ、此方とて考えを相手に悟られるようなヘマはせぬ。み、みすてらすな女子の方が魅力的であるからな」
「私からすればどっちもどっちよ。ちなみに、ミステリアスね」
「「うっ……」」
呆れたように言ったシンカの言葉に、二人は気まずそうに視線を逸らした。
リリスはそんな三人を微笑ましそうに眺めながら、
「それが、貴女の箱舟なのね」
とても小さな声で、そう呟いた。
「……? なにか言いましたか?」
「なんでもないわぁ。さっ、冷めないうちにいただきましょ~」
両手を合わせながら一際明るい声で言ったリリスに続いて皆は合唱し、ありがたく目の前の夕食を頂戴した。
そして夕食が終わると、リリスに連れられて行った先は一階層をまるまると使った広い浴場だ。凝り固まった身体をを解し、旅の疲れを一気に吹き飛ばしてくれる。
ついつい長風呂をしてしまった三人が上がると、脱衣所の籠の中には伝紙が一枚置かれていた。
【明日起こしに行くから、ゆっくりと休んでねぇ。戸締りは忘れちゃ駄目よぉ】
結局リリスの調子に乗せられたまま、中断された話はお流れだ。
上手く躱されたのか、単に忘れていたのか……いや、リリスに限って後者はないだろう。
意図して伏せられたということは、今からリリスを探してもおそらく姿を見せることはない。というより、この広さを誇る摩天楼内で探し出すのは無謀だ。
どの道、明日には話を聞くことができるだろう。
シンカたちは少しもやもやした思いを抱えながら、その日は暖かい布団で眠りについた。
…………
……
一方、冥国に着くなりシンカたちと別れたロウは、目的の場所まで後少しというところまで来ていた。
夜も更け、街灯の明かり一つない暗闇の中を、一切の迷いなく走り続けている。
冥国や月国の人間は夜目が効くが、これほど暗闇に強いのはそれに特化した能力を所有する者か、亜人種である悪魔か吸血鬼くらいなものだ。
そして、この数時にも及ぶ距離をほぼ全力で走り続けることのできる体力を持つのは、同じく特化した能力の所持者か人狼くらいなものだろう。
ミゼンがシンカに言った”規格外”という言葉は、あながち大袈裟なものではなかった。
「……見えてきたな」
暗い闇に包まれた雪原の向こう。
まだ距離はあるものの、ほんのりと灯る明かりが見えてきた。
今頃シンカたちはおいしい食事で腹を満たし、暖かい布団で眠っている頃だろう。
ロウは優しい笑みを浮かべながら乾燥食を口に含み、最後の力走だといわんばかりに加速、目的地を目指した。
…………
……
冥国オスクロイア神都エレボスから遠く離れたとある屋敷。
その大広間は薄暗く、灯る明かりは発光石ではなく幾つかの松明だった。
中にいるのは、大きな椅子に腰かける一人の男。顔が見えない程に深いローブを被り、見えるのは長い前髪と口元だけだ。手には人の頭蓋骨の乗った杖。
そんな不気味な部屋の中、突然バタンッ、と開いた窓から何かが飛び込み、外の風が部屋の中へ吹き込むと同時に、部屋中の松明の明かりが吹き消えた。
薄暗かった部屋が更に暗くなる中、一羽の鳥……というにはいささか問題があるか。皮どころか肉も削げ落ち、骨となっても尚羽ばたく姿を生きている鳥と呼ぶかどうかにもよるが、その骨鳥は部屋の中を旋回し、男のもつ杖の上に舞い降りた。
「ふひっ、やっと……やっとですか。闘技祭典以降、ずっと張っていた甲斐がありましたね。かつて見た事もないほどに上質な魂。これをあの男に捧げれば……ふひっ。ぼくの願いは成就する」
「ギギ、グ、グガッ」
「……ん? 神殺しの傍に……赤髪の女? まさか……まさかまさかまさかぁ!」
左手で俯けた額を覆い隠し、男はわなわなと体を震わせた。
「あぁ……そんな。こんなことがあっていいのだろうか。いや、いいに決まっている。ここですべての運を使い切ったとしても構いません。あぁ、構わないとも……ふひっ。上質な魂と理想の肉体。神殺しの力は衰え、すべてのツキはぼくの方へと向いている。そう、向いて……あはっ……あははははははっ!」
途端、男が両手を大きく広げて高笑いすると、骨鳥がばさばさと飛びあがった。
男の頭上を旋回する最中、男は高揚感に包まれたような声音で叫ぶ。
「あぁ、待っていてくれ! 再誕の時はすぐそこだ! ぼくが……ぼくがすぐにきみを! もう少し……もう少しです。あぁ……愛おしいカリン。ふひっ……あははははっ!」
不気味な屋敷から零れる哄笑に呼応するように、外の天気が急激に荒れ始めた。
亡者たちの嘆きのような吹雪の音が聞こえてくる。
強い風が窓をカタカタと揺らし、骨鳥が奇怪な声を発しながら飛び回る。
歪な音が複雑に奏でられる中、男はただただ、不気味な声で嗤い続けていた。




