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これは君のパラミシア  作者: 御乃咲 司
第六節『これは刹那に見た郷愁の想火』
222/323

219.闇に降る黒

 

 城の望楼にある廻縁から見る景色はここでしか見られないものだ。

 並んだ低い建物の戸には提灯の明かりが灯り、空から差す月明かりは梅や池の畔に咲く花を優しく照らしている。ここにステラの神想結界で見たような星空というものを映し出せば、息を飲むほどのさらに美しい景色となるだろう。

 

 古い歴史を紐解けば、地国も他国と同じような衣服や建物の造りであったという。言語にしてもそうだが、遠い昔は今のように他国同士で共通した言語を使うことはなかった。内界ではディサイア神話に関する説が最も濃厚とされているが、実際のところは定かではない。

 各国の人の名前や建物の名称にはそれぞれ元の国の名残が残ってはいるものの、一番大きく変わったのはこの地国だった。

 

「隣いい?」


 聞こえた声に振り返ると、そこには遠慮しがちに顔を覗かせるシンカの姿があった。

 

「もちろんだ。どうしてここがわかったんだ?」

 

 ロウは少し酔いを覚ましてくると言いながら席を立ち、その足でラヴィの元へ行って少し言葉を交わした後、ここに立ち寄っていたのだ。 

 

「うん。少し遅いなぁって思ってたら、イズナがロウはたぶんここだって」

「そうだったのか」


 シンカはロウの隣に並んで立つと、手摺りに手をつきながら景色を眺めた。

 ちらりとロウの様子を窺うと、ロウは真っすぐに前を見つめたままだ。その表情からはいったい何を感じ、何を思っているのかわからない。しかし、今のロウが独りで何かを抱えこんでいるというのは、推測するまでもないことだった。


 聞きたいことは山ほどある。

 ミゼンと戦った時の会話を思い返せば、ロウがイズナと面識があったのは間違いないだろう。ロウとイズナがというより、神殺しと七深裂の花冠(セブンスクライム)という言い回しではあったが、イズナがこの場所を言い当てたのもそうだし、メロウが戦場に現れたことを考慮すれば、ミゼンとの会話の信憑性も高まるというものだ。

 しかしその割に、二人がそういった昔馴染みのような会話をするわけでもない。

 イズナが屋敷に来た時はロウに記憶がなかったのだから、敢えて他人のように振る舞っていたことも理解できる。

 だが、今もわざわざそういった風に振る舞う必要はあるのだろうか。

 

(でも……なんかそれを聞くのって、やきもち妬いてるみたいよね)


 そして何より、一番聞きたいのはシンカ自身の事についてだ。


”曰く、英雄の傍らにはいつも黒き乙女がいたという話だ”

 

 ミゼンの言葉が蘇る。

 黒き乙女の正体……それがいったい誰であるのか。かつて英雄と呼ばれていた者がロウのことを指すなら、今のロウはその答えを知っているのだろう。


 決して表には出さずとも、シンカはずっと不安だったのだ。

 何一つ違和感なく過ごしてきたカグラとの日々がどこまで本当で、どこからが夢なのか。自覚して振り返ろうにも、過去の記憶は壊れた映像のように不鮮明だ。

 内から聞こえる影の声も何者かわからず、世界を救うように自分へと託したはずの母親の顔も思い出せず、初恋の相手の顔も思い出せない。

 どうしてそんなにも大切な事が、これまでずっと気にならなかったのか。

 最初のきっかけは、エンペラー級と対峙した時に見た自分の中の心象世界。


 すべてが偽物で、すべてがあやふやな中、ずっと持ち続けてる御守りだけが、シンカの深く沈んだ記憶の中と一致するものだった。

 今回の戦いを経て望んだ力は手にしても、結局自分の正体がわかるどころか謎は深まるばかりだ。これで不安に思わない人がいるだろうか。

 それでもそんな不安を表に出さず進み続けることができたのは、戦い続けるロウの姿があったからだ。伸ばしてた手で遠い背中を掴むために、シンカは歩み続けることができていたのだ。だがそれも、限界が来ようとしていた。


 ロウは記憶を取り戻し、自分の知らない真実を前に立ち向かう力を取り戻し、どんどん先へと走っていく。今回のように、いくら自分が力を手にしたとしても、ロウとの距離は縮まるどころか開いていく一方な気がしてなからなかった。


 不安と恐怖、焦燥や胸を刺すような痛み。

 過去の自分は何を成そうとしていたのか。どうしてこうなってしまったのか。それを思い出そうとする度に、嫉妬にも似た黒い感情が這い上がってくる気がする。

 だが、自分の過去がロウと少しでも繋がっているのだとしたら、思い出したい。

 最初は世界を救うことを目的に共に旅を始め、その近道としてロウの記憶を取り戻す事を目的としていた。

 しかし、まさかその立場が逆転するなど、当時は露程にも思わなかった。

 

「あ……あのね、ロウ……」


 手摺りに指を立て、勇気を振り絞って出した声はシンカの思っていたものと違っており、少しばかり震えてしまっていた。


「ロウって、その……昔は英雄って呼ばれてたのよね?」

「……不本意だがな」

「そ、そのときって……えっと……いつも傍に誰かいたの?」

「セツナのことか?」


 確かに”黒き乙女”という言葉を考えれば、ロウを彷彿させるセツナこそがその呼び名に相応しいだろう。

 しかしその黒き乙女がセツナであれば、彼女を傍に置いているミゼンがわざわざあんな話をするのも不自然に思える。

 それでも確信を持てない以上、やはり率直に聞く他ないだろう。

 誤魔化せないように、誤魔化されないように……


 ――私と貴方が初めて出会ったのは、いつ? ……と。


 しかしそれを問おうにも、シンカは上手く言葉を吐き出すことができなかった。

 

(なにやってるのよ、私は。ちゃんと聞かないと……じゃないと、ロウは一人でどんどん先に進んでしまうのよ。……そんなの駄目っ)


 両眼を瞑りながら深く息を吸い込み、肺の中の酸素をすべて綺麗なものへと入れ替える。

 そして意を決したように瞳を開き、勢いよくロウの方へ体を向けた瞬間――


「今日は本当に長い一日だな」


 忌々し気に空を睨み、ロウがそう呟いた。

 低い声音で発せられた言葉を聞き、シンカはロウの視線につられるように空を見上げると……少し風が強いのだろうか。流れる雲の足は速く、美しかった月は流れる曇へと身を隠していた。

 訪れる静寂の中、ざわざわと木々を揺らす風音だけが耳へと届く。


「ロウ?」

「……間違いなさそうだな。シンカ、君は早く中へ入れ」

「急にどうしたのよ」


 軽く握った拳を胸に当てながら不安そうに問うシンカの声も、今のロウには届いていなかった。何かを探るように集中力を高め、空を見上げたままだ。

 

(知らない未来だ。俺がミゼンではなく降魔と戦った影響なのか。……場所はどこだ。すぐに見張りも気付くだろうが、規模がまったく予想できない)


 ロウの中に焦る気持ちはあるものの、それを表に出すことはなかった。

 こんな時だからこそ冷静に、そして的確に見極めなければならない。

 そんな中、ある一点の雲が渦巻くように叢雲と化し、まるで夜の闇を吸い上げるようにどんどん黒へと変色していく。

 

「黒い……雲? ロウ、いったい何が起ころうとしてるの?」

「……雪が降る」


 そう小さく呟いた瞬間、身を竦めさせるほどの大きな警鐘が鳴り響いた。





 部屋の中、イズナは一人で晩酌をしていた。

 ミコトはイズナの膝の上に頭を乗せて丸くなって眠っており、セリスとアンスは鼾を立てながら爆睡し、トレナールは満腹になった腹をさすりながら仰向けに寝ている。リアンはその場でこっくりこっくりと船を漕ぎ、シエルとクベレは座ったまま壁に背中を預け、仲睦ましく寄り添うように寝入っていた。


「みんな、まだ疲れが取れきってなかったんだろうね。まっ、あれだけ戦えば仕方ないことか」


 盃を傾け、それをお膳に置きながら、イズナは退屈そうに息を吐く。


「はぁ……あの御――家主がいないとつまらないさね。酒の相手にメロウの奴を引き留めておくべきだったかね」


 ロウ以外、イズナと酒を飲み交わせるものは今日の宴の面々の中にはおらず、メロウも酒が強いわけではないが、一緒に嗜める程度には飲める。

 沈没した皆をつまらなさそうに眺めつつ、イズナは小言を零していた。


「――ん?」


 途端、獣耳のように跳ねているイズナの髪が何かに反応したように僅かに揺れるのと同時に、廊下を勢いよく走る足音が聞こえてきた。

 この城の者の中に、普段からこのように下品な足音を立てる者はいない。ともなれば、余程火急の用だということになる。

 そして勢いよく襖が開け放たれると、それは案の定――


「失礼します! 急ぎ、ご報告せねばならないこと――がっ!?」


 血相を変えて現れたのはレベリオの部下の一人だ。

 男が言葉を最後まで言い終わる前に、イズナの手元から勢いよく飛んだ小石程度の小さな魔弾が男の額を撃ち、その言葉を遮った。


「客人たちがお休み中さね。静かにしな」

「も、申し訳ありません」

「それで……どうしたっていうんさね」

「――ッ、ゆ、雪です……黒い雪が観測されました」

 

 汗を流しながら息を切らし、僅かに顔色の悪く見える男に対して、イズナは特に焦る様子もなく言葉を返す。


「なるほど……警鐘を鳴らしな。地の武層は総出で周囲の警戒だ。誰一人、このウーレアから出すんじゃない」

「御意」

 

 一言、男は頭を下げるとすぐさま踵を返し、イズナの命令に従った。

 遠ざかる足音を聞きながらイズナは眉間に皺を作り、険しい表情を浮かべる。


(確かに黒雪の気配だね……っ、酒のせいですぐに気付けなかったのは完全にうちの落ち度だ。少し、浮かれすぎてたようさね)


 呟きながら袖の下に手を入れ、取り出したのは一つの魔石、防音石だ。

 周りの音を遮断するといった単純シンプルな性能の石ではあるが、その使い道はとても多い。内の音を外に漏らさぬ用途で使用すれば密会に最適だし、その逆……外の様子を内に知られないように使うこともできる。例えばそう、これから鳴り響く警鐘を、ここにいる者に聞かせないようにするといったように。

 

「あの悲劇から、もう九十年以上になるのかね。家主がこの国にいる間にまた同じことが起きるのは……あの日、救えなかった者を救う為か。それとも……」


 盃に注がれた酒に映った微かな自分の顔を覗き込めば、自分でも驚くほどに景気の悪い表情を浮かべていた。過去の惨劇を思えば無理からぬことではあるが、このような表情を浮かべていては幸福が寄ってくるはずもない。

 だが、空いた手の人差し指でそっと口端を持ち上げてみるも、どうにも上手く笑えそうにはなかった。

 

「気まぐれな運命がもたらした黒雪が……吉となるか凶となるか」


 イズナは盃に口をつけることなくそっとお膳の上に戻すと、窓から見える遠くに立ち込めた暗雲を辛そうに見つめた。

 




 鳴り響く警鐘を耳に、シンカの大きく見開いた瞳が揺れている。

 話には聞いていた黒い雪。魔力を吸い上げ、人の命を終わらせる天からの死の宣告。ロウの発した雪という言葉は、シンカの中ですぐにそれと繋がった。

 

”一度目、二度目の黒雪の降る日。アニキの動向に気をつけろ。そして三度目は、絶対にアニキから離れるな。色仕掛でも泣き落としでもなんでもいい”


 ジェーノの言葉が脳裏に蘇る。

 これが一度目の黒い雪。三度目まであるということは、おそらく今回の黒い雪はさして大きな問題ではないのだろう……そのはずだ。


 だが、シンカの心は酷くざわついていた。胸焼けしたように不快なものが奥から込み上げてくる。自分でも何故だかわらかないが、夜の色を吸うように黒く染まる雲を見て、まるで嫌な感情を詰め込んでいた箱をひっくり返したかのような、そんな複雑な感情がシンカの胸に渦巻いていたのだ。

 シンカが嫌な予感を感じつつ、どこか怯えるようにロウを見つめた。


「ロ、ロウ……」

「朝までには戻る」

「ま、待ってよ。どこに……何しにいくの? まだ体も魔力も完全に回復しきってないのよね? それに黒い雪は危険なんでしょ? だったら……だったら、私と一緒に中に戻ってよ」

「……」


 何も答えずロウが手摺りに手をかけると、シンカは慌てて言葉を紡ぐ。

 

「どうしても行くなら私も一緒に――」

「駄目だ」

「どうしてなの!?」

「……おとなしくみんなと待っていてくれ」

「――ッ、待って!」


 咄嗟に伸ばしたシンカの手は虚しく空を切り、ロウはその身を手摺りの向こうへと投げ出した。


「ロウッ! 待って、行かないで! お願いだから!」


 手摺りに手をつき、必死に叫ぶ声もロウには届かない。氷の足場を作りながら着地すると、脇見も触れず正門の方へと走る背中が遠退いていく。

 

「……っ、ロウ……ロウ……」


 膝を折り、シンカはくしゃりを顔を歪め、何度もロウの名を呼びながらその場に蹲る。耳の奥には儚く聞こえた鈴の音が、微かに残響していた。

 




 時折空を睨みながら、ロウは全速力で駆けていた。

 幸い、今回の黒い雪の規模はそれほど広くなる様子はない。警戒態勢は必須だが、おそらくウーレアまで届くことはないだろう。

 黒い雪は触れることさえしなければ、特に害を及ぼすようなことはない。

 しっかりと戸を閉めて表に出ないようにし、他の自然災害と同様に過ぎ去っていくのをおとなしく待てばいい。

 だが、今まさに黒い雪が降ろうとしている場所は、ロウにとっては嫌な感情を呼び起こす最悪の場所だった。

 

ぬし様』


(機嫌はもう治ったのか?)


『も、元より拗ねてなどおりんせん。魔力の回復に努めていただけでありんす』

『……ワタクシは拗ねていました。……そしてまだ拗ねています。……ワタクシの機嫌を回復する手段としましては、撫で回し、はぐ、添い寝、という順に効果が上がっていきますが、いかがしますか?』

『ッ、ハクレンだけずるいでありんす』

『……オマエがいい子ぶるからです』


(頭の中での喧嘩はやめてくれ。今はそれどころじゃないだろ)


 表でやるならまだしも、頭の中で喧嘩をされては耳を塞いでも意味がない。

 徐々に熱を帯びていくルナティアとハクレンの二人を予めロウが諫めるものの、今回に限っては余程先の事を根に持っているのだろう。引くつもりはないようだ。


『……お言葉ですが、主君。……ワタクシにとってはそれどころの話です』


(はぁ……わかった。今度髪を梳いてやるから)


『……それは魅力的ですね。……主君との約束……ふふっ、勝ち取りました』

『ぬ、主様、それならわっちも』

『……こら狐……今はそれどころではないでしょう』

『どの口が言うでありんすかっ!』

『……主君の為にあるこの口ですが?』

『――ッ、表へ出るでありんす!』

『……いいでしょう……噛み砕いて差し上げます』


(出るな出るな。ただでさえ魔力が回復しきっていないんだ。今二人に出られたら、何かあったとき俺はまともに戦うこともできない)


 本来、魔憑というのは魔獣在ってこその存在だ。誰しも魔力を内包しているが、魔獣を内に宿す魔憑はそれを自由に扱い、魔獣の力を得て戦うことができる。

 そして何かしらの理由で一度目覚めた魔憑から魔獣が離れれば、その魔憑は少し身体能力の高い常人と変わらず、無論魔力を扱うこともできなくなるのだ。

 しかしロウ自身、他の魔憑とは違い、魔獣が抜けたからといってまるで戦えないことはない。身体能力は極めて高く、内に秘めた魔力も扱うことができる。

 例えば血の記憶や、ある程度の耐久力の高さはロウ自身のものだ。

 それでもやはり大きく能力の低下するという意味では、魔獣が持つ力の分がまるまる低下するのだから、一介の魔憑とそれほど変わりない。


『それがわかっていながら、主様はどこへ行こうというのでありんすか?』

『……今、主君の中にあの猫はいません。……その状態で黒雪の中へ飛び込むのはさすがに危険です』


 ルナティアとハクレンは少し間を置き、先程までの言い合っていたような声音から一転。真剣な声で問いかけた。

 だが、そんな二人の危惧もロウには通じない。


(大丈夫だ。俺とセツナの繋がりは完全に途絶えたわけじゃない。今の俺なら、俺の中にあるセツナの残滓を感じることができる)


 ミゼンの能力で契約を結んだセツナは確かにロウと切り離された状態ではあるが、完全に切り離されたというわけではない。何故なら宿主と魔獣の繋がりを完全に断つ手段が限られているからだ。


 一つ目は、宿主か魔獣自身が自らの意志で宿主との繋がりを断つこと。

 魔獣の性質上、本来そんなことは余程の事がない限り起こり得ないが、これに当てはまるのがルナティアだ。

 彼女はかつて、その身に死神を宿したが為に自らの意思でロウの元を離れた。だからこそ、今のようにロウの魔力を糧として表へ顕現する必要もなく、自身の持つ魔力でその存在を維持し続けていたのだ。


 二つ目は単純に、宿主と魔獣のどちからが命を落とせば繋がりが断たれる。

 人の形を成す魔獣の存在が少ない以上、当然宿主が死ねば中に存在する魔獣も同じように死に至る。故に、これが起こり得るのはとても特殊だ。

 正確に言えば、魔獣が表へ顕現している状態で、宿主か魔獣のどちからが命を落とした場合、といえるだろう。


 そして三つ目は、第三者の介入によるもの……つまりは誰かの持つ力によって、無理矢理に主と魔獣の繋がりを絶たれた場合ということになる。

 とはいえ、そんなことをしても基本的に意味はない。何故なら他者が当人たちの繋がりを強制的に断ったとしても、宿主と魔獣に強い信頼があれば、再び繋がりを持つことなど容易にできるからだ。

 死神の一件を解決し、ルナティアがロウの元へ戻ったのは何も難しいことでも特別なことでもなかったということになる。

 故に、これをすることで意味がある状況は一つ。繋がりを遮断し、その間にどちからの命もしくは身柄を狙った場合のみだといえるだろう。


 といっても、そんなことができる者がそうそう居るかと問われれば、否だ。 

 例えば司法の女神サラ・テミスは、虹の塔(イリスコート)の範囲内でのみそれが可能だ。

 実際にロウがそこで記憶を取り戻した際、ロウの中からハクレンとルナティアを弾き出している。本気になれば、あのまま繋がりを断つこともできただろう。

 それはひとえに、虹の塔(イリスコート)内ではサラ・テミスこそが最強という絶対的規則、概念そのものを操る存在だからだ。


 結論として、宿主と魔獣の繋がりについてのこれら三つの規則を超える新たな規則で上書きすれば、その繋がりを完全に断つことができるということになるが、規則を書き換えるには必要不可欠なことがある。

 それは純粋に、相手よりも強い魔力、要は力が備わっていなければならない。

 当然といえば当然のことだ。

 相手に何かしらの強制力を働かせる技が、相手より弱ければ意味がない。


 だからこそ、ロウはシンカからセツナの名を聞いたとき、特にこれといった反応を示すことがなかったのだ。

 危険種である心謎エニグマの能力によって、偶然にもロウの二つ目の記憶の鍵は解かれた。その時にはっきりと感じたのはセツナとの微かな繋がりだ。

 つまりそれは、セツナが自らの意志でミゼンと共にいることを意味している。

 僅かでも繋がり残っている以上、セツナがロウに見切りをつけたという一つ目はまずあり得ない。そして二つ目を当然除外したとして、残るは三つ目。

 確かにミゼンの契約の能力の強制力は侮れないものだが、ロウとセツナの繋がりを断つことができるのは、この世に於いてサラ・テミスだけだと確信を以て言うことができる。

 つまりセツナとミゼン、二人の間にある契約とはミゼンの能力を介さず、互いの意思によって契約を結んだという推測が立てられるだろう。

 

”セツナさんからロウに伝言があるの。私は諦めない、って”


 戦いが終わった後にシンカから聞いた、セツナからの伝言。

 その言葉はロウの推測をより確信づけるものだった。


『だからといって、微かな繋がりではどこまで耐えることができるかわかりんせん』

『……元よりいくらか耐性を持っていたとしても、主君がそうまでする必要があるのですか?』


(ある)


『……ですが――』


(傍にいてやりたいんだ。一人にさせたくない……それだけなんだ)


『主君』『主様』


(なんだ?)


『『どうかお気をつけて』』


(ありがとう)


 そうして、二人の声は聞こえなくなった。

 魔力を少しでも回復させるため、深層意識へと潜ってくれたのだろう。

 魔獣と意思疎通できる者が強いと言われるのは、戦闘以外のこういった部分も含まれている。

 魔憑の魔力は、宿主の魔力に魔獣の魔力が上積みされた状態だ。つまり、意思疎通をすることで魔獣の魔力をより精密に扱うことができれば、戦闘面に於いてより有利になるのは道理だろう。

 そして宿主の魔力が尽きたとしても、魔獣が魔力の回復を担えば普通の魔憑に比べて連続した戦闘が可能だし、総合的な回復力も当然として高くなる。


「っ、降ってきたか……」


 空を睨み、ロウはさらに加速した。

 夜を映した暗雲から、微かな月明かりを浴びてはらりはらりと舞い降りる漆黒の雪。その一粒一粒が淡い光を帯びている。その淡い光はまるで、降魔が消滅するときに霧散させる紫黒の魔力のような色をしていた。


「――ッ(これくらいで……)」

 

 いくらロウの体が丈夫とはいえ、痛みがないわけではない。

 単に人より痛みに慣れ、人より痛みを我慢することができ、人よりも痛みに耐性があるというだけの話だ。

 何故ならロウは知っている……いずれ癒えるような体の痛みなど大した問題ではないのだということを。

 心に負った痛みこそが決して慣れることもなく、我慢できるわけでもなく、耐性がつくこともない本当の痛みであるということを。


 だからロウは走り続けた。

 少し前の戦いの傷など考えず、体の疲労など気にせず、目的の場所を見据えて。


「はぁ……はぁ……」


 そして目的の場所へと辿り着いたとき、さすがに息は上がっていた。

 荒い息を吐き、唾を飲み込み、心臓は破裂しそうなほど強く脈打っている。


 最初は穏やかだった黒い雪は徐々にその勢いを増していた。

 このままいけば確実に積もるだろう。

 そうなる前に目的の場所へと着いたことに安堵し、ロウは目の前の大きな菩提樹の麓に立つと、その木にそっと手を触れた。


「死が二人を分かつこと叶わず、死して尚永遠なり」


 変わる空気。

 濃い魔素に満ちた空間へと、ロウはその足を踏み入れた。


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