215.貴き薄雪の花
海は荒れ波は高く、空を暗雲が覆い、轟く雷鳴が眩い光を放つ。
空と大地を繋ぐ激しい雨は、止まることを知らずに降り続けている。
海水の温度は冷たく、容赦なくロウの体温を奪っていた。
亜人は元より自然の環境に対する適応力が高い。クベレのような人魚は、暑さや乾燥地帯は苦手であっても、冷たい水はどうということはないのだ。
そしてそれは魔憑にもいえることであり、普通の人間に比べて環境への適応力は当然高く、炎を扱う者は比較的暑さに強くなり、ロウのように氷を使う者は寒さに強くなる。だが、雪道を歩く寒さと氷水に浸る寒さは同質ではない。
それでもロウは、まだ意識が少し混濁しながらも手にした氷刀を手放さなかった。それはつまり、ロウの魔力が本当に限界だということの裏返しでもある。
今ここで氷刀を手放してしまえば、同じものを生成するだけの魔力が残されていないのだろう。
一方、神魔総位に席を置くクベレの戦闘能力は確かに高い。しかし、彼女には圧倒的に不足しているものがあった……それは経験だ。
降魔と戦ったことは数知れずとあるものの、こういった窮地に立たされたことは一度もなかった。だからわからない、思いつかない、上手く頭が回らない。
この窮地を乗り切る為の手段が、彼女にはどうしても思いつかなかったのだ。
ただロウを護るように抱き寄せ、浜辺で佇むトレネを強く睨みつけることしかできなかった。
しかし偽りのトレネに対し、クベレの虚勢などまるで意味がない。
「……」
トレネが感情を伴わない冷たい瞳でクベレとロウを見据え、手にした大薙刀の切っ先を突きつけると、同時に渦巻く水柱がうねりをあげ二人へと襲い掛かった。
だが、その水柱が二人まで届くことはなく、先端が鋭く尖った水柱は大きな氷柱となってその動きを止めている。
すぐさまロウはクベレを抱えて氷柱を足場に跳躍し、砂浜へと降り立った。
着地と同時に追撃してくる水泡を氷刀で両断すると、真っ二つになった水砲が一瞬の内に凍てつき、地面を抉りながら砂煙を舞い上げ後方へと落下する。
「ロ、ロウ。ごめんなさい……あ、あたくしが前に出てしまったせいで」
「その話は後だ……っ」
尾を元の綺麗な足に戻しながらロウを見つめるクベレに、片膝をついたロウが肩で息をしながら答えると、握っていた氷刀がひび割れ砕け散った。
これで後は正真正銘、使えるのは己の技のみ……もしくは最後の灯か。
「まさか、変なことは考えてませんわよね?」
「……」
最後の灯は無論、魔力を扱う者ならば誰もが知ることだ。
この状況を切り抜けるには最早それに掛けるしかないだろう。だが、最後の灯を使ったとしても、その間にトレネを倒すことができなければただの無駄死にだ。
仮に倒すことができたとしても、心謎に新たな記憶の亡霊を生み出されればそれで終わり。一か八かの賭けにすらならない結果の見えた茶番劇だ。
幸いなのは、心謎自身の戦闘力が高くはない事と、記憶から生み出せる偽物が一度に一人だけということだろう。あくまで推測の域を出ないが、これまでの事を思い返せばそれについての信憑性は決して低くはない。
とはいえ、窮地であることになんら変わりはなく、良案が思いつくまで当然相手が待ってくれるはずもないのだが。
「偽りの三姉妹」
トレネの前に現れた三体の水人形を前に、このままではどの道最悪の結果を迎えることになるだろうと、ロウは腹を括った。そうして魔力を練り始めると、霜を踏んだような小さな音を響かせながら、ロウの足元が凍てついていく。
「貴方が使うくらいならあたくしが――っ!?」
声を上げたクベレが前に出ようとした瞬間、それよりも先に三体の水人形が動き出した。
魔力さえ出し惜しみしなければ、能力の相性という面ではロウが有利だ。しかし、最後の灯火を使い過ぎればもう後戻りできなくなる。
より効果的に魔力を使いこの窮地を切り抜ける為にも、ロウは一直線に迫り来る水人形を見据え、集中力を高めながら技を放とうとした……そのとき――
「――ッ!?」
数本の水柱が螺旋を描きながら一本の放撃となり、ロウとクベレの視界の中を、三体の水人形を巻き込みながら横切るように通過した。
この現状を正確に整理するよりも早く、先に驚声を漏らしたのは心謎だ。
『ナッ、馬鹿、ナ。誰ダ、我ガ領域ニ干渉スルノハ。ギッ、デキルハズ、無イ』
今の攻撃が飛んできたのは沖の方からだった。
そしてそこに在るのは天高く昇る水柱……いや、水柱というほど可愛らしいものではない。海面に発生した巨大な竜巻が海水を巻き上げているように、大きく渦を成したそれは荒海の中、高く聳えていた。
「……なんですの、あれは。あたくしたちを助けてくれましたの?」
「わからない。だが、そうだしてもいったい誰が」
ロウたちが状況を整理できていないまま、トレネは沖の竜巻を一瞥するとロウに視線を戻し、得物を手に自ら打って出た。
何者か分からぬ相手に邪魔をされる前に、決着をつけるつもりなのだろう。暗雲の雷鳴が激しく轟き、稲光に照らされた大薙刀が鈍く光る。
だがそれと同時に、海面に聳える水の竜巻がまるで自我を持つように動いた。綺麗な曲線を描きながら、ロウとクベレの目の前に勢いよくその先端を叩きつける。
その衝撃にロウは右腕で顔を隠すように眼を細め、短い悲鳴を漏らしながらクベレは仰け反り、トレネは地に得物を突き立てながら急停止し、その足を止めた。
弾けた水が淡い瑠璃色の光を纏いながら霧散し、天へと昇っていく。
鳴り響いていた雷が止まり、降り続いていた雨は止み、晴れた暗雲。
微かに残る薄い雲の隙間から、優しく月明かりが差し込んだ。
すると月に照らされ、淡い瑠璃色の光が天へと昇っていく中に、一人の女性が佇んでいるのがロウたちの瞳に映り込む。
その背には見覚えがあった……いや、見覚えがあるという程度の話ではない。
クベレは口に手を当て、思わず瞳を涙で濡らした。
涙越しに見えるぼやけた視界の中、彼女は確かに其処に居た。
「お母、様……」
反逆の箱船が一人――トレネ・エーデルワイス。
愛する娘を護る為、死んだはずの彼女が其処に居た。
死者は蘇らない……それは当然だ。
神ですら、人の命を現世へ呼び戻すことなどできはしない。
ならばいったい彼女は何者だ。
心謎が作り出したのか……否、それだけは有り得ない。
最初に驚声を漏らしたのは心謎だ。
何より彼女は、確かにロウとクベレを護ってくれたのだから。
そしてその答えをロウは知っていた。――淡く光る瑠璃色の魔力。
(メロウ……そういうことか)
ロウにとっても懐かしいその背中に、複雑な感情がこみ上げてくる。
箱舟を解散してからのトレネの人生を聞き、彼女を救えていなかったことに自分を責めた。謝りたい、言葉をかけたい……だが、そんな音は届かない。
何故なら今目の前にいる彼女は、もうこの世にはいないのだから。
向かい合う二人……紫黒の魔力を纏ったトレネと瑠璃の魔力を纏ったトレネ。
言葉を交わすことなどなく、地を蹴ったのは同時だった。
一際大きな甲高い音が一度鳴り、二度、三度と連続した音が響き渡る。
刃を交える二人を前に、クベレは目を擦り鼻を啜りながら問い掛けた。
「ねぇ、ロウ。あたくしは馬鹿ですけど、あのお母様が本当のお母様じゃないことくらいわかってますわ。いったい、彼女は何者ですの?」
懐かしい背中に護られたことで、思わず感極まって涙してしまったが、それは冷静に考えればわかることだった。
誰かが介入したことは理解できるが、それが相手の姿や力を真似る能力なのか、それとも幻惑を見せる能力なのかまではわからない。
だがどちらにせよ、本物でないことに違いはないはずなのだ。
そのはずなのに、ロウはそれを否定した。
「……母親だよ」
「え?」
「今戦ってるのは、紛れもなく君の母親だ。君が愛し、君を愛した母親だ」
「どういうことですの?」
「この魔力はメロウのもので間違いない。メロウの能力は知ってるか?」
「い、いいえ。七深裂の花冠が戦うことはないですし、お母様もメロウさんの能力は教えてくれませんでしたわ」
「メロウの能力は、簡単に言えば相手の能力のコピーだ。そして、模倣したのは心謎の能力。模倣した瞬間その能力を我がものとし、理解できる彼女にとって、相手がどれだけ不思議な能力を使ったとしても意味はない」
メロウ・インウィディア。彼女の有する能力はロウが言った通りのものだ。
触れた相手の能力を一から十まで完全に模倣する。
そして触れるのは相手を直接でも相手の魔力でも構わず、模倣した瞬間にその能力を自分のものとして扱うことができる。つまり、いくら謎に包まれた能力であったとしても、彼女に触れられた時点で謎は謎でなくなるのだ。
メロウは心謎の能力を理解すると同時に、その能力を発動させていた。
対象の記憶を覗き、自身の魔力を糧にその記憶に在る者を具現化し操る力を。
「相手が心謎の生み出したトレネなら、君を護ってくれたのはメロウの生み出したトレネだ。トレネをよく知るメロウが君の大切な記憶から生み出した彼女は、ただの記憶の亡者じゃない。愛する娘を護る為に顕現した、母親の姿そのものだ」
「――っ」
目を見開き、クベレは息を飲んだ。
そして熱くなる瞳の奥から再び零れそうになるものを堪え、二人の戦いを目に焼き付ける。
同じ姿形をした二人の戦いはまさに互角だった。
同じ得物を持ち、同じ技を放ち、どちらも一歩も譲らない。
それを見ているクベレは、不思議な感覚に包まれていた。
何故ならクベレは母の戦う姿を一度も見たことがなかったからだ。それは、戦いたくとも戦える力がトレネに残されていたなかったのが主な原因だが、クベレは自分の母親がこれほど強い人だとは思っていなかった。
ただ優しく温かかった母親の背が、今はとても強く大きく逞しく見える。
それと同時に、クベレの中に浮かんだのは確かな疑問だった。
「ロウの説明が真実なら、一つわからないことがありますわ。あたくしはお母様の戦う姿を一度も見たことがありません。なのにどうして、あたくしの記憶から生まれたお母様があんなにも戦えるんですの? 先程は必死でそれどころではありませんでしたけど、今思うと降魔の生み出した方もそうですわ」
クベレの疑問は最なものだった。
トレネがクベレの記憶から生み出された存在ならば、クベレの知らないトレネの姿を具現化できるはずがない。現に降魔が生み出したトレネがクベレの技を使っているのは、心謎が見た記憶の中にトレネ自身の技の情景がなかったからだ。
しかし、ロウはその答えを知っている。
この空間にいる者の記憶を映すのであれば、その対象にロウも含まれるのは当然のことであるが、心謎がロウの記憶に対して強い拒否反応を示していた以上、偽りのトレネは記憶の上層部分から生み出されたということだ。
そして、クベレはロウとトレネに面識があることを知らないし、かつて共に戦っていたなど思いもよらないだろう。
「この戦いが終わったらすべて話す」
「……え、えぇ」
クベレは少し首を傾げながら、不思議そうに頷いた。
ロウとて、別に隠し通したいわけではない。いずれ話す必要のあることだし、純粋な想いをぶつけてくれたクベレを騙し続けるなどできるはずもないだろう。
それでも今はまだ、すべてを打ち明けるわけにはいかないのだ。
少なくとも、クベレの病を治すまでは。
それから程なくして、互角とも思われていた戦いは少しの変化を見せ始めた。
見た目は同じ二人だ。扱う武器も能力も、ひいては思考さえも同じであるにも関わらず、紫黒の魔力を纏ったトレネが押され始めている。
淡い瑠璃色の光を纏っていたトレネの魔力がより一層強い輝きを放ち、繰り出される一撃一撃の重さが増し、偽りのトレネへと猛威を振りまいていた。
「同じはずですのに……どうして」
「それがメロウの強さの所以だ」
そう前置きし、ロウはクベレに説明した。
普通なら相手の能力を模倣したとしても、本来それを扱う相手以上にその能力を上手く使うことはできないだろう。それは上辺だけの力、見せかけの力でしかなく、使用したところで使いこなせなければ意味がない。だが、メロウは違う。
彼女は模倣した能力を完全に、完璧に理解し、まるで長年連れ添った己の技が如く使いこなすことができる。
となれば、この結果は必然だった。
いくらキング級となり、その能力の本質が開花したとしても、昇格したばかりの心謎はその本質の部分を完全に使いこなせてはいなかった。
それは偽りのトレネが、クベレの技を使用していたことからも窺えるものだ。
ロウの記憶の上層に存在するトレネしか具現化できなかった時点で、ロウの記憶の下層に存在するトレネを具現化できるメロウに敵うはずなどない。
いや、それ以前の問題なのだ。
記憶にある存在の顕現。それは姿や扱う力が同じなら、扱う武器が同じなら、その記憶の中の人物を正確に顕現させることができたといえるだろうか。
そんなはずはない。それだけでは一番重要な部分が欠けているといえるだろう。
それはその者をその者足らしめんとする想いや意志、心だ。
トレネには戦う為の理由があった。強い覚悟と強い意志があった。その想いをそのまま映し出してこそ、トレネ・エーデルワイスが此処に居るといえるのだ。
心謎が生み出したトレネにはそれがない。それは人では無く人形だ。
仮にあったとしても、やはり結果は変わらず同じだっただろう。
何故なら、紫黒のトレネの後ろには……護るべき者がいないのだから。
瑠璃色の光を纏うトレネの姿は、まるで本当の彼女を見ているように思えた。
実は生きていたのではないか。もしくは、蘇ったのではないのか。
そう思わせるほど、今戦っている彼女はトレネ・エーデルワイスその人だ。
不謹慎だとわかってはいても、ロウとクベレの中にある思いは同じだった。
もう少しだけ、もう少しでいいから、彼女の姿をこの目に焼き付けておきたい。
もう二度とは会えない彼女の姿を感じ、もう二度と語ることのできない彼女の想いを刻み、もう二度と触れられない彼女のすべてを……もう少しだけ。
そんな中、押され始めた紫黒のトレネは弾き飛ばされると、砂浜に長い足跡を残しながら停止し、すかさず大薙刀を中空で振り抜きながら言葉を発した。
「偽りの三姉妹」
三体の水人形が現れた瞬間、それらは間髪入れず瑠璃色の魔力を纏うトレネへと駆け出した。
その瞬間、ロウとクベレが感じたのは果たして錯覚だったのだろうか。
トレネが僅かに口角を持ち上げたかと思えば、一瞬こちたを見たのだ。
それはまるでクベレに”見ていろ”と言っていたように感じられた。
そして――
「愛しの三姉妹」
現れたのは三体の水人形だが、それはクベレの技を模倣したものではなかった。
それは紛れもなく、トレネだけが扱えたトレネ自身の技だ。
後から生み出された水人形は何一つ統一性のないものだが、それも当然だろう。
それがトレネの技の本質。何よりも愛する者の存在と共に戦う力。
その想いが強ければ強いほど、深ければ深いほど、水人形の力は高まっていく。
故に現れた水人形はただの分身などではなく長女フルト、次女キュステ、三女クベレ……トレネが愛した娘たちそのものだ。
そして無論、意志無き自身の姿を投影しただけのただの分身に、トレネの想いの詰まった水人形である彼女たちが遅れをとるはずもなく、すれ違い様、一撃の元にそれぞれ三体の水分身を斬り伏せた。そしてそのまま間合いを詰めると――
「――ッ!?」
振り下ろされた三体の水人形の攻撃を受け止め、紫黒のトレネの体が一瞬の硬直を見せた瞬間、さらに追撃をかける四つ目の閃光がその体を深々と斬り裂いた。
「あたしの自慢の娘たちですわ」
告げると同時に、斬り裂かれた傷口から大量の魔力が溢れ出すと、紫黒の魔力が小さな粒子となって空へと昇り、偽りのトレネはその体を消滅させた。
『グギッ、忘レヌ、忘レヌ、忘レヌ。決シテ、オ前タチノ事ハ忘レヌゾ。記憶ニ深々ト刻ミ込ム、コノ憎悪ヲ。次ニ会イマミエシ時ハ、覚悟シテオケ』
悔し気に心謎が漏らした声が聞こえると、紫黒の靄が空気へと溶けるようにその場から消え去った。残るのは淡い瑠璃色に縁取られた美しい世界だけだ。
心謎が逃げたということは、この世界を維持しているのはメロウの力ということだろう。しかし、そんな事を考えている余裕はない。
「お母、様……っ」
クベレは戸惑うように、小さな一歩を踏み出した。
わかっている。彼女は本物の母親ではない。これはあくまで記憶が生んだ幻だ。現に今も、役目を終えた彼女の体から瑠璃の魔力が粒子となって漏れ始めている。
しかしそれでも、もう会えないと思っていた母親がそこにいるのだ。
手を伸ばせば届く距離に……声が届くその距離に。
だがクベレの震えた足は、二歩目を踏み出すことができずにいた。
「……(クベレ)」
ロウは何も言わなかった。
彼女が本物のトレネなら、これが最後の別れなら掛られる言葉もあっただろう。
もう最後だぞ、悔いを残すな……そう言って、震えるクベレの背中を押してやることもできただろう。
だが目の前にいる彼女は――そう思った瞬間、トレネがゆっくりと振り返る。
そこには二人がよく知る優しい微笑みがあった。そして、小さく動く唇。
「……クー」
「――ッ」
懐かしい声が鼓膜を揺らし、言葉にならない感覚が込み上げてくる。
いつもそうやって、優しい笑みと温かな声で名前を呼んでくれた。
「おいで、クー」
そう言ってトレネが両手を広げた瞬間、クベレは彼女の胸へと飛び込んだ。
まるで子供のような大声を上げ、額を胸へと押し付けながら、服をぎゅっと握り込む。
「お母様っ、お母様っ!」
「……」
トレネは泣き叫ぶ子供をあやすように、クベレの背中を優しく撫でている。
ロウはそんな二人の姿を、胸が裂けるような思いで見つめていた。
自分があのときトレネを救えていたら。トレネの嘘に、彼女の誓いに気付けていたなら……二人は今も幸せな笑顔を浮かべていたはずなのに。
そういった、どうしようもない後悔ばかりが胸を満たしていく。
だが、クベレが強く抱きしめているトレネの体はどんどんと薄くなり、別れの時はもうそこまで迫っていた。
「お母様、嫌ですわ……行かないで、お願いですから」
「……」
トレネは困ったように眉を下げ、微笑みながらゆっくり首を左右に振ると、そっとある方向へ指を伸ばした。その先にあるのは、砂浜の奥にある岩場だった。
そう、此処はクベレとトレネの悲しい別れの地だ。
岩場ではロウが最初に見た幼いクベレが一人、水平線を見つめている。
すると町の方から、クベレの名を叫びながら必死に駆けてくる二つの小さな影が見えた。二人はクベレに抱き着くと涙を零し”ごめんね”と叫び続けている。
「クー……貴女は一人じゃありませんわ。それに……」
「……え?」
トレネの向けた視線につられ、クベレが同じ方を見ると、すぐ後ろにはロウの姿があった。
懐かしむように、愛おしそうに見つめる瞳に、ロウの心臓が大きく脈打つ。
このありえるはずのない現象に、ロウは大きく戸惑っていた。
クベレの記憶とロウの記憶、そのそれぞれが合わさり生まれたのだとしても、これだけはありえない。何故なら互いの記憶の中で、ロウとクベレの二人がトレネを交えて出会ったなど一度もなかったからだ。
クベレの名を呼び抱きしめたのが、死に際のトレネに関する記憶から引き出された行動だったとしても、この行動はどの記憶が繋ぎ合わさったものだというのか。
トレネ自身の確かな意思が介入でもしない限り、そんなことは起こり得ない。
だが、トレネはもうすでに死んだのだ。ここにいるトレネに今の自我は無い。
これはただの偶然……しかしそれでも――
「トレネ……俺はずっと――ッ」
ゆっくりと近づき、膝を折りながら発したロウの言葉の先を、トレネの指先がそっと止めた。
そして柔らかい笑みを浮かべ、ロウの唇につけた指先を離しながら、彼女は死に際に願えなかった願いを口にする。
「最後に呼んでくださいまし。貴方だけの知るわたくしを……」
目を丸くし、ロウは下唇を噛み締め、咄嗟に口にしようとした言葉を呑んだ。
悔やんだ気持ちを叫び、精一杯の気持ちを込めた謝罪をしたい。守れなくてごめんと、何も知らずにごめんと、自分が君の幸せを奪ってしまったと。
だが言えなかった。トレネの微笑みが、それを言わせてはくれなかった。
だからロウはトレネと過ごした日々を思い返し、そのときに浮かべた微笑みを浮かべながら、感謝の想いを口にする。
「君との日々は本当に楽しかった。ありがとう、ジレーネ。昔話は……俺が逝くまでとっておいてくれ」
「ふふっ。でしたら、仲間と共に防衛線を築いてお待ちしておりますわ。すぐに追い返せるように」
二人の会話が理解できず、二人の間で戸惑いを浮かべるクベレを、トレネは再び優しく抱き寄せた。
「クー……愛していますわ」
「っ、あたくしも……愛しています、お母様っ」
名残惜しむように、トレネはクベレの頭を撫でた。
そしてクベレを抱き締めたままロウを見つめ……
「娘を頼みましたわ、――」
音を出すことなく最後にロウの名を呼ぶと、ロウは頷いて返した。
トレネが満足そうな笑顔を浮かべると、瑠璃色の光が一段と強く輝き……
「「……」」
ロウとクベレの間に言葉はなく、ただじっと、海に溶けるように消えていく瑠璃色の光を見つめていた。
そしてその光を見送ると、ぽつりとクベレの口から音が零れ落ちる。
「ロウ……あれは本当に、ただの記憶だったのでしょうか……」
「親は時に、子の為に想像もつかないほどの奇跡を起こす。俺は……それを知ってるよ」
「えぇ、そうですわね」
シエルの母であるニケも、娘の為にその力を残した。
もし仮に揺蕩う魂が、いや、娘の為にずっと傍に寄り添っていた魂が、記憶から生み出されたその姿へと娘を護る為にのりうつったのだとしたら。
そんなことが本当にあるのかどうかはわからない。それでも意志の力が魔憑や亜人の強さの根源であるのなら、そう考えたっていいのではないだろうか。
愛する娘の為なら、きっとどこまでも強くなれるのだが母親なのだから。
「それにしても、どうしてまだこの空間から抜け出せないんですの? 言いたいことや聞きたいことがたくさんありますのに、ここのままでは落ち着きませんわね」
この場から心謎は去り、トレネも消えた。
それだというのにこの空間から抜け出せないということは、この空間を作り出している者の意志がいまだ介入し続けているということだ。
(先に終わらせろということか。厳しいな……メロウは……)
ロウはクベレに体ごと向き直ると、彼女の瞳をまっすぐに見据えた。
「この空間なら大丈夫だ。抜け出すより先に、俺は今ここで君に話しておかなければならないことがある」
「そうですの? ロウが言うなら大丈夫なんですのね。ではまず、あたくしからよろしくて?」
「……あぁ」
いったいクベレからなんの話があるというのか。ロウは間を置いて頷いた。
するとクベレはその場で丁寧に腰を折り、頭を下げながら感謝の言葉を口にする。
「ロウ、本当にありがとうございました。あたくしを見つけてくれて……救ってくれて」
「やめてくれ」
振り絞るように、ロウは声を漏らした。
感謝されるような男ではない。自分はクベレから母を奪った張本人なのだから。
先に自分の用を済ますべきだったと後悔するロウには気付かず、顔を上げたクベレは嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「本当に嬉しかったんですのよ? 誰かの音が、こんなに心へ響くものだとは知りませんでしたもの。今でも心臓がどきどきして……」
「……っ」
「だからあの時も、体が勝手に動いてしまって。そのっ……あの時はごめんなさい。あたくしが前に出てしまったせいで、逆に迷惑をかけてしまいましたわよね……」
あの時というのは、クベレが咄嗟にロウを庇おうとしたときのことだろう。
不意にロウの脳裏を過ったのは、その時と寸分違わぬ光景だった。
運命の枝。記憶を失っていた自分が力及ばずして死なせてしまった、内界の友。
今思うと、本当に愚かしい話だ。
記憶を取り戻したからわかる。あの程度の攻撃、食らったところで死にはしなかったのだ。ただ痛いだけ……そう、ただ体が痛いだけの話だ。
それなのに二人は、庇う価値などあるはずのない自分の為にその命を投げ出した。その結果、体ではなく心への傷を深々と刻む事となった。
こんな愚かな話があるだろうか。
救えたのだ。自分があの時、本当の自分を取り戻していたら、二人を救えたはずなのだ。いや、それだけではない。
フィデリタスやトレイトも、多くの兵たちさえも救えたはずなのだ。
「……そうだ」
無意識に口から出た言葉は、ロウ自身が驚くほどに冷めきっていた。
影を落としていたクベレの瞳が驚いたように丸くなるが、自分の声とクベレの瞳を意識するよりも早く、悔やみきれない感情が音となって溢れ出す。
「俺はあの時、後ろからの攻撃に対処することは可能だった。最悪、受けたとしても俺が死ぬことはない。だが君はどうだ? 割って入って君に何ができた? 受ける術もなくまともに攻撃を食らえば、それこそ致命傷になっていたかもしれない」
「それくらいわかっていますわ」
「――ッ」
「で、でも……どうしても貴方を死なせたく――」
「わかっていたならなおさらだ! 死なせたくないのは俺も同じに決まってるだろう! 無暗に自分の命を投げ出すような真似をするな!」
割って入った怒鳴り声に、クベレは身を竦ませた。
途端、そんな彼女の姿を前に、ロウは我に返ったように額に手を当てながら悲痛な表情を浮かべる。
「すまない……君は俺を心配して助けようとしてくれた。いや、助けてくれたのに。怒るより先に感謝するべきだった。本当にすまない……ありがとう、クベレ」
「……ロウ」
ロウはクベレから視線を逸らしながら”何をやっているんだ”と内心呟いた。
クベレの病を治すまで、嫌われるような発言はなにがなんでも避けるべきだった。人魚の病を治せばどの道自分の正体を明かすつもりだったのだから、言いたいことはそのときに言えばよかったのだ。
今抵抗を持たれては、治せるものも治せなくなってしまう。
もうトレネのような悲劇を生みたくはないというのに……と、ロウは視線を外しながら冷静さを取り戻していく。
(俺は咎人で、クベレはそうじゃない。クベレには幸せになる権利があるが、俺にはない。俺なんかを庇う理由なんてのは、クベレには存在しない。手を血に染めすぎた先の長くない俺よりも、これからを生きる君の命にこそ価値があるんだ。だから……)
故にロウは気付かなかった。
クベレの頬がほんのりと紅潮し、何故かうっとりとした表情を浮かべているということに。
「クベレ、もう二度と俺を――なっ」
「ひしっ!」
ロウが視線を戻した途端、視界に移ったのはクベレの飛び込んでくる姿だった。
「ふざけるな、今は大事な話の途中だ」
「あたくし決めましたわ! 一生、ご主人様についていきますわ!」
「なっご主っ、は?」
しっかりとロウの腰に腕を回し、うっとりと見上げるクベレが言い出した突拍子もない言葉に、ロウの思考はかつてないほど迷走した。
いったいどう解釈すればいいのか。何か裏があるのか、どういう意味なのか。そう混乱するロウに追い打ちをかけるように、クベレは言葉を吐き出していく。
「お傍にいられればなんでもいいですわ! メイドでも、あっ、メイドはいましたわね。でしたら……ん~……とにかく、なんでも言いつけてくださいまし」
「はぁ……とりあえず離れてくれないか?」
「嫌ですわ」
「いいから離れろ」
「あんっ」
強めの口調で言ったロウの言葉を受けたクベレは両目を瞑り、右手の甲を額に当てながら左手を心臓に当て、大袈裟に仰け反るように一歩離れた。
誰かに胸でも狙撃されたのだろうか。
それを見たロウは、嫌な予感を感じつつも呆れたように溜息を吐き出した。
「……はぁ。で、どういうつもりだ?」
「ご主人様に尽くすつもりですわ」
「いや、そうじゃなくて。どうしてそうなった?」
本当にどうしてこうなってしまったのか。
今までのクベレからはまるで想像もつかない。これでは、人格が完全に崩壊しているといっても過言ではないだろう。いや、そうだと断言できる。
クベレは赤らんだ自分の両頬に手を添えながらくねくねと体を揺らし、その想いをさらに吐き出していった。
「あたくし、初めてでしたの」
「何がだ?」
「生まれて初めて叱られましたの。しかも、本気であたくしの事を思ってくれた言葉でしたわ。命を救われ、トラウマを克服する力をくれ、叱られ、あまつさえ病まで治していただけるのでしょう? 初めてづくしで胸と子宮がきゅんとしますわ」
病を持って生を受けたクベレは、生まれてから一度も誰かに叱られたことがない。家ではずっと良い子でいたし、母が死んでからというもの、二人の姉は過剰なまでに過保護になっていた。そして周りに寄って来る男たちは皆が皆、こぞってクベレの機嫌をとろうとするのだから、口から出るのは甘い言葉ばかりだ。
だからこそ、クベレはロウの心からの言葉に、今までに感じた事のないものを感じていた。
「それと君の人格崩壊になんの関係がある?」
「あんっ崩壊だなんて。崩壊させたのはご主人様の癖に、ですわ」
「まずはそのご主人様というのをやめてくれ。俺は君の主人じゃないし、君は俺のメイドでもなければ奴隷でもない。君に何かを命令するつもりはな――」
「それですわ!」
「………………どれだ?」
「メイドがすでにいるのであれば、奴隷でも雌豚でも役職はまだありますもの!」
「待て」
「ふふっ、尽くすという意味では、メイドよりもこちらの方がよいのではなくて?」
「いいから待て。今の二つは役職じゃない」
「そんなのは些末な問題ですわ」
「些末じゃない。重大だ」
「奴隷であるあたくしの事を、そこまで考えていただけるなんて……ぽっ」
「だから、奴隷じゃない。今はもう、昔の冥国にあったようなそんな――」
「雌豚であるあたくしの事を、そこまで考えていただけるなんて……ぽぽっ」
「~~~~っ……はぁ…………」
額に手を当て、成立しない会話に頭を痛めながらロウは深く嘆息した。
「あたくし、何か気に障ることをしてしまいましたの? ということは、初めてのお仕置き……ですのね。あたくし、ご主人様にならどんなお仕置きされても、いえむしろどうぞですわ。さっ、遠慮せずいつでもお早く今すぐに……」
クベレは収納石から取り出した縄をロウの手に乗せ、可愛らしいお尻を控えめに突き出した。
「何かあった時に男を縛り上げる為に持ち歩いていたものが、こんな形で役に立つとは思いませんでしわ。人生、何があるかわからないものですわね」
「……あぁ、俺もまさにそう思っていたところだ。で、どうしろと?」
「お好きなようにどうとでも、ですわ」
「…………」
「ご主人様は焦らすのがお好きでして?」
「違う」
「あっ、縛り方がわかりませんのね? いいですか? こうしてこうやって……こうですわ!」
そうしてロウが目にしたのは、一瞬の内に仕上がった実に見事な自縛したクベレの姿だった。
他人を縛るのが上手い人は、自身を縛ることも上手いのだろうか。というか、どうすればここまで見事に自分を縛ることができるというのか。あまりの手際の良さに見ていても全然わからなかった。
(駄目だ、自分で何を考えているのかわからなくなってきた)
ロウは混乱した思考を一度放棄し、クベレを縛る縄をとりあえずほどこうと試みる。しかし……
「あっ、んっ……縄が食い込んで……」
「……」
「網にかかった魚はこんな快楽を得ていましたのね……んっ、知りませんでしわ、あっ」
「いや、魚は違うと思うぞ。食べられるわけだしな」
「つ、つまり、ご主人様もあたくしを食べてしまわれますのね、んっ」
「食べないから少し黙ろうな」
「それは命令、んっ、ですの?」
「この際、それでもいい」
「あんっ、冷たいご主人様もいいですわ」
「……はぁ」
ロウは固く結ばれた縄をほどきながら、いったい自分は何をやっているのだと苦悩した。
つい先程、こうして甘い声を上げる縛られた人魚の母親に娘を託されたというのに、こんな姿を見られては申し開きのしようもない。
いや、母が母なら娘も娘、ということだろう。
クベレは知らぬだろう母の素を敢えて口にはすまいが、クベレが似たのは病や能力だけではなかった、ということだ。先に感じた嫌な予感は見事に的中。まさか再び、こうした苦労を背負うとは思っていなかった。
少し前に出会った頃のクベレは男に強い警戒心を持ち、常に強い自分を取り繕っていた。だがそれは、臆病で弱い自分を隠すための仮面に過ぎず、その実は心優しいか弱き少女だったのだ。そしてさらにその素顔の下に隠されていたのが、今のクベレなのだろう。
心を開いてくれたといえば聞こえはいいが、やはりこうなる前に先に正体を明かしておくべきだった。
だが、隠していていつかばれるより、まだ傷は浅くてすむはずだ。
再び男に対して心を閉ざしてしまわないか心配ではあるが、いつか立ち直ってくれると信じる他ない。
縄を解き終え、ロウは真剣な表情でクベレと向き合った。
「……クベレ。先に君の病をここで治そう。心の準備は――」
「あっ、それなら心配には及びませんわ」
「なに?」
「あたくしは誓います。クベレ・エーデルワイスはこの身を生涯、貴方の為に――もごもごもごっ」
「馬鹿、やめろ!」
真剣だった表情は一瞬にして瓦解し、ロウは慌ててクベレの口を押さえつけた。
豊満な胸の谷間に見える痣に変化はなく、それはまだ誓いを立てていないことを意味している。なんとか間に合ったことに安堵し、クベレの口から手を放すと、
「クベレ・エーデルワイスはこの身を生涯、貴方の為に――もごもごもごっ」
「だからやめろっ!」
駄目だ。まったく手に負えない。
話の通じない相手はこうもやりにくいものなのかと、ロウは頭を痛めた。
ロウの周りは個性的な面々の集まりではあるが、ここまで話の噛み合わない人はいなかった。いたとすれば、今まさにロウを悩ませている彼女の母親くらいなものだ。親子揃ってやり辛いことこの上ない。
「いいか? とりあえず落ちつけ」
「もごもご」
「よし……」
「口を塞ぐプレイがご所望でしたら、あたくしガムテープを持っていますわ」
「出さなくていい」
「ですが」
「聞こ? 真剣な話だから――言ったそばから出すな。仕舞え。とりあえずガムテープは仕舞え」
「……はい」
少ししゅんとしながらも粘着薄紙を仕舞うクベレの姿を見て、ロウはやっと話が進むことにほっと胸を撫でおろした。
とはいえ、自分は決して悪くはないはずなのだが、こうもしゅんとした姿を見せられると少しばかりの罪悪感が残ってしまう。
などと言った日には、ブリジット辺りに甘いと言われるのだろうが。
「クベレ……君は俺の願いを叶えるんだ。これだけは譲れない」
「どうしてですの?」
悲し気に、クベレは眉の端を下げながら問いかけた。
「理由はきちんと後で話す」
「先に言ってくれないと、納得できませんわ」
「……なら、先に話しても、俺の願いを受け入れてくれると約束してくれ」
「無理ですわ」
「っ、クベレ」
「ご主人様が言ったんですのよ? 言葉は真摯に用いるべきだって。ですのであたくしも、できもしないかもしれない約束はできませんわ」
「……っ」
一度言い出したら聞かないというのは、少し前に出会った頃のままのようだ。
どうして自分の周りには、こうした頑固者が集まってしまうのか。意志の強い者が集まれば、必然的にそうなってしまうのだろうが、これでは八方塞がりだ。
クベレに誓いを立てさせ、神殺しであることを隠し続けるか、先に正体を打ち明け、病を治すことを諦めるか。その二つに一つなら、当然選ぶのは後者だろう。
前者は悲劇しか生まないと、すでにわかっていることなのだから。
それで再びクベレが心を閉ざしてしまうのだとしても、正体を隠した自分に誓いを立てさせることはできない。きっと誰かがクベレの心を再び開いてくれると信じる以外、ロウに残された選択肢はなかった。
「わかった……先に話そう。ずっと隠しておくつもりはなかったんだ。君の病を治したら打ち明けるつもりだった。先に拒絶されることだけは、どうしても避けたかったからだ」
「どういうこと、ですの?」
「クベレ……俺は……俺が君の探していた――神殺しだ」
その瞬間、クベレはまるで時が止まったかのような錯覚に陥った。




