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これは君のパラミシア  作者: 御乃咲 司
第六節『これは刹那に見た郷愁の想火』
210/323

207.桜の雪と鈴の音


 不気味さを漂わせる薄暗い森の中、ロウは一人歩いていた。

 空に浮かんでいるのは金銀の双月。

 一つの月には薄く雲が掛かり、もう片方は厚い雲に覆われている。

 動物の気配はなく、虫の鳴く音すら聞こえてこない。

 風が木々を揺らす音もなく、地を踏む自分の足音だけが耳へと届く。

 

「……二つの月、か。これは内界の景色ということなんだろうな」


 あまりにも静かな空間に、控えめに呟いた声すら大きく聞こえるほどだ。

 デューク級の降魔を地面に叩きつけ、周囲が紫黒の靄に包まれたところまでは覚えていた。そして気が付けば、いつの間にかこの森の中に立っていたのだ。

 気を失っていた覚えはない。ロウからすれば、瞬間移動にも似た感覚だった。

 これが降魔の能力なのだとしても不明な点は多いが、行動しなければ道が開けるはずもなく、ロウはすぐさま周囲の探索へと歩き出していた。

 

(ルナティア……は、まだ眠っているみたいだな。もうそろそろ目覚めてもいいはずだんだが……ハクレン)


『……ここに』


(降魔がどこにいるかわかるか? 俺にはまったくわからないんだが)


『……その理由はおそらく、この空間すべてにあの降魔の気配が満ちているからです。……ワタクシが実体化すれば特定することもできるかもしれませんが、狐が居眠りをしている以上、ワタクシが主君の中から出るのは危険でしょう』


(そう、だな。血の記憶のストックも一つしかない。みんなのことは気になるが、ここは慎重に行くとしよう)


『……ッ!? ……主君、やはり実体化しても?』


(どうしてだ?)


『……ぴったりと寄り添っていれば、主君を危険に晒すことなく降魔の場所を突きとめることができるかもしれません。……奇襲を受ける可能性を考えれば、ぴったりと寄り添う条件は外せませんが、断じて。……そう、ぴったりと』


(……)


『……主君?』


(ハクレン)


『……はい、今すぐ御身の御傍に――』


(ここって見覚えがないか?)


 ハクレンの声を遮り、ロウはぴたりと足を止めて周囲を見渡した。

 見えるのは同じような木々ばかりであり、別段特徴のある木でもなければ限定的に分布している珍しいものでもない。

 どこにでもあるような木。満ちた嫌な空気で不気味に見えるが、普通の森だ。

 だからどうしてそう感じたのか、どうしてここを知っているのかはわからない。


『……嫌な予感がします。……主君、ワタクシは潜ります。……くれぐれもお気をつけて』


(わかった)


 ハクレンの声が頭の中に聞こえなくなると、ロウは再び歩き出した。

 魔憑と魔獣の関係は深い。魔獣が宿主である魔憑の深層意識により深く入り込めば入り込むほど、魔憑の扱う力は大きなものへと変わる。

 だが、それがなかなかどうして難しく、互いのすべてを曝け出し、互いに確かな信頼がなければより深くまで潜ることはできない。その点、ロウとハクレンの信頼関係はこれ以上ないほどにまで達しているといえるだろう。


 記憶を失っていたロウの心象世界にハクレンがいたのも、神想結界でハクレンがその力を振るえるのも、そこに確かな信頼があるからに他ならない。

 魔獣と対話できる魔憑の力は大きなものだが、それはこの域に到達するまでのただの一歩にすぎず、魔獣を顕現させるには魔獣自身の力も必要だ。

 そのハクレンが自ら潜る、と言ったからには、彼女の本能が危機を察しているということだろう。激しい戦いになるのは避けられそうもない。


 ロウは慎重に、周囲へ注意を払いながら足を進めて行った。

 そうしてしばらく歩いたところで、この森に既視感を覚えた理由はすんなりと解けることとなる。


「そうか……ここは――」


 目を見開き、ロウは言葉を詰まらせた。

 開けた場所にでると、そこは切り立った崖の麓だった。

 その麓には白い百合の女王(カサブランカ)の花が綺麗に咲いている。

 此処はロウにとって、忘れられない辛い出来事のあった場所なのだ。

 産まれた時からロウと共に生き、ロウの半身ともいえる、ロウの本当の魔獣……その彼女との別れの地。


(誰だ)


 背後から聞こえてくる静かな足音に振り返ると、森の奥から一つの影がこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。


 途端、時が止まっていたようなこの空間に風が吹き、空に浮かぶ月を覆う叢雲が静かに晴れ、嗅ぎなれた花の香りと共に淡い月明かりがその影を薄っすらと照らし出した。

 見えたその姿に、ロウは小さく開いた口から思わず掠れた音を零す。


「……セツナ」

「お久しぶりでございます。セツは、この日を心よりお待ちしておりました」


 柔らかくもその中に芯の通ったような声色、聞きなれた音。

 横を斜めに切り揃え、長い後ろをさらしのような白い布で細く纏めている髪は漆黒の色。猫のように鋭い瞳は黒曜石の光を放ち、目尻に引かれている紫紅が彼女の妖美さを際立たせている。

 黒を主体とした着物を身に纏い、艶やかな黄色模様の中に咲く白い百合の女王(カサブランカ)は美しく、袂から伸びる細い手には鍔のない黒き刀。

 

「本当にセツナ……なのか?」

「セツは申しました。セツはセツであると」

「だが、セツナはミゼンに……そもそもここは、降魔の能力で作り出された空間のはずだ。どうしてセツナがここに……」

「セツのことが信じられませんか?」

「そんなことは――」


 ない、と言おうとしたところで、ロウの声はセツナの視線に遮られた。

 無言でゆっくりと下ろされたセツナの瞳は、ロウの腰の辺りを見つめている。

 つられるようにロウが視線を落とすと、ロウの右手が左腰に携えられた刀の柄へと伸びようとしていた。

 ロウにとってそれは無意識であり、その行動は自身の心を深く抉り込んだ。

 

「――ッ、セツナすまない、これは……」

「セツは悲しく思います。数年の時を経てこうして再会できたというのに、我が君は喜んではくださらない」

「セツ、ナ……」


 セツナは悲し気に目を細めて微笑みながら、そっと一歩を踏み出した。

 ゆっくりと、静かに、目を閉じていれば近づいてくるのがわからないと思わせるほど、音も無くロウへと歩み寄っていく。


「あの日、この場所で……セツは……」


 震えた拳を握り込み、ロウは奥の歯を鳴らした。

 それ以上の言葉は必要ない。

 言われずとも、今のロウには当時の記憶があるのだから。

 


 それは星歴七六七年にまで遡る。

 その年、ミゼンが月国フェガリアル神都ニュクスに現れ、彼に破れたロウは満身創痍の状態で中界へと落とされた。思うように体は動かず、周囲には数多の降魔が集まり始め、窮地に陥ったロウはまさに絶対絶命ともいえる状況だった。

 そんな中、偶然にも開いた魔扉リムを抜け、無事に内界へと辿り着けたのはセツナとハクレンが居たからに他ならない。

 しかし、そのときの代償は決して小さなものではなかった。


 そのときの状況で魔獣が表に顕現し続けて戦うということは、言うまでもなくとても危険リスクの伴うものだったのだ。

 魔獣が表に出ている間、ロウの身体能力や自然治癒力は大きく低下してしまう。

 つまりS級魔獣が二人も同時にロウの中からいなくなれば、それによる落差は大きく、すでに深手を負っていたロウの身が極めて危険な状態になるということだ。

 それでもそうしたのは、ロウ自身に戦えるだけの力が残されてはいなかったからであり、そうする以外の選択肢が存在していなかった。

 故にセツナとハクレンは苦渋の決断として顕現し、ロウを護る為に戦い続けた。


 その結果、内界で目を覚ましたロウは記憶を失っていたのだ。

 魔憑の状態ですら重傷と呼べる傷を放置せざるを得なかったのが原因か、中界の淀んだ魔素にほぼ生身の人間の状態で触れ続けたことが原因か、それとも単に頭部に受けた傷が原因なのか。その全てが合わさったことが原因なのかもしれないが、結果的にロウが記憶を失ったのはそういった経緯からくるものだった。


 そこでハクレンはロウの中に留まり、時には狼の姿で寄り添い、ロウの力となり続けた。そして、セツナは記憶を失ったロウに多くのことを教えた。

 セツナの能力は限定的な上に、身に掛かる危険性リスクは大きいものだ。記憶を失ったロウにその力は危険すぎる為、この配役は必然だったといえるだろう。

 事前にロウが見ていた夢で記憶を失う可能性を知っていたということが、彼女たちが動揺せずに済んだ大きな要因でもあった。


 すぐに外界へ戻らなかったのは、星歴六七七年に周囲から再び向けられることになった神殺しへの恨みが大きな理由だ。

 ただでさえロウは仮面を被り、姿を隠しながら”名無し”として過ごしていた。

 それが記憶を失ったとあっては、意図せず姿が露見してしまうことも有り得る。


 その上、外界は魔門ゲートが開きやすく、降魔との戦闘が起こりやすい。たとえ記憶を失っていても、ロウの性格上必ず助けを求める者を救おうとするだろう。

 戦いの記憶なくして降魔と戦っても、本当の意味で全力を発揮することはできない。それは実際、今のロウが身に染みてわかっていることだ。


 それらの理由から外界へ戻るのは危険だし、記憶が戻るまで身を隠すなら偽りの平和だったとはいえ、当時まだ平穏だった内界の方が都合がいい。

 と、いうのは確かにそうなのだが、それがすべてではない。

 未来を知るサラの助言……そして、ロウが交わした約束の為だ。



 それから一年、内界で過ごす日々はとても穏やかなものだった。

 周囲に危険がない普段は、ハクレンも狼の姿のままロウと行動を共にしている。

 常に戦いの中に身を置いていたロウが、戦いとは無縁の時間を過ごしているということが、セツナやハクレンにとってはこれ以上ない喜びだった。


 二人に限らず、魔獣とは主を第一に考える存在だ。無論、主の意見こそ尊重すれど、相手がたとえ誰であろうとも主を危険に晒す者には一切の容赦がない。

 かつての仲間であろうと、親しき者であろうと、恩人であろうと。

 人であろうと、亜人であろうと、神であろうと、世界であろうと。

 それが魔獣の本質であり、本懐でもあり、魔獣としての力が強ければ強いほど、主の意志の力に呼応するようにそれは顕著なものとなる。

 だからこそ、この一年は二人にとって、幸せともいえる時間だった。


 そして次の一年、セツナはロウに降魔や此の世界のことを教えた。

 戦い方を教え、知識を詰め込み、いつか再び戦いの日々へと戻れる様に。

 記憶を失っているとはいえ、元よりロウは戦う為に(・・・・)生まれた(・・・・)ような存在だ。鍛え抜かれていた体が衰えていたわけではないし、身体が戦い方を覚えている以上、一定の強さを取り戻すまでそう時間は掛からなかった。

 しかしそれは彼女たちにとって、とても耐え難い日々だった。


 もし仮に、これが突然起きた記憶障害だったとしたのなら、二人がロウに降魔のことを教えることはなかっただろう。たとえこの世界の未来が絶望だったとしても、ロウを戦いから引き離し、ひっそりと暮らしていたに違いない。

 どれだけ人が死のうと、世界が滅びに向かっていようと、神の意に背こうと、主こそが彼女たちにとって何よりも大切な存在だからだ。

 だが主であるロウ自身が記憶を失う前に強く望んでいたのは、再び戦いの中へと身を投じることだった。

 だからこそ、その願いに応える為のこの一年は、二人にとって辛く苦しい時間だったのだ。


 そして最後の一年、セツナはロウとハクレンと共に世界中を旅して回った。

 逸降魔ストレイとの闘いを実際に見せ、二人が見守る中で戦いを経験させ、ゆっくりとロウの状態を過去のものへと戻していく。

 だが、セツナはロウに能力の扱い方だけは教えなかった。

 ハクレンがほとんど狼の姿でいたのはそれが原因だ。ハクレンが表にいる以上、ロウが能力を使うことはできない上に、突然ふらりといなくなろうが、言葉も通じぬはずの狼であれば問い詰められることもない。

 故に当時のロウからすれば、セツナが氷の力を扱っているように見えただろう。


 それだけ”ロウの記憶”というものは慎重に、丁寧に扱う必要があったのだ。

 他のこと(・・・・)まで思い出し、ロウの心が再び(・・)壊れてしまわないように。


 その件に関してだけは、セツナとハクレンによる独断だった。

 記憶を失う前のロウにそうしろと言われたからではない。

 

 そうして同年、三年目の星歴七七〇年……春の訪れが近づいて来た頃。

 唐突に訪れたのは、ロウとセツナの悲しき別れだった。


 

「この場所で、俺は……俺はお前を……」

「えぇ……ですが、もうよいのです」


 立ち竦むロウの前に立ち、セツナはそっと両眼を閉じた。

 互いの刀の間合い。

 そのまま抜刀すれば、相手を容易く鮮血に染めることができる距離だ。


「あの日のことがあったから、こうしてセツは――」


『――主君ッ!』


「くッ!?」


 突如として鳴り響いた金属のぶつかり合う甲高い音。

 それと同時に土を擦る音を残しながら、ロウの体が後方へと弾き飛ばされた。


 嘘だ。有り得ない。こんなことあるはずがない。

 ロウの脳内を満たしたのは、目の前の光景を疑うようなそんな言葉だった。


 まさに紙一重……ハクレンの声がなければ、今頃ロウの頭部は間違いなく体と引き離され地に転がっていたことだろう。 

 戦闘の最中、主から声が掛からない限り、基本的に魔獣から主に声を掛けることはない。主の深層意識に深く潜り込めば潜り込むほどその力は増していくが、対話することで力の供給が僅かながらも不安定になってしまうからだ。

 故にこれは、危機を察したハクレンの本能に救われたということになる。


 自身の魔獣に救われた……そして、自身の命を奪おうとしたのもまた――


「――貴方に募った恨みを晴らすことができるのですから」


 両眼を開き、小さな口許からそう告げた声は酷く冷たい音だった。

 ロウと同じ黒曜石の光を宿した揺るぎない双眸が、しっかりとロウを見据えている。その右手に、左手の鞘から抜き放たれている鍔のない黒刀を持って。

 注ぐ月明かりが刀身に反射し、その鋭さをより一層際立たせている。


「セ、セツナ……助けるのが遅くなったのはすまないと思っている。だが――」

「セツに言い訳は必要ありません」


 瞬時に間合いを詰め、再び振るわれた黒刀をロウは刀で受け止めた。

 しかし、これまでの戦いで受けた傷が、この短時間で当然治るはずもない。

 全身が軋むような痛みを堪えるものの、セツナの振るった一撃を受け止めきることは叶わず、ロウの体は力任せに弾き飛ばされた。


 すかさずセツナは納刀、そして――


「宵闇ノ太刀――月虹」


 一瞬の内に再び抜き放たれたセツナの黒刀よりもほんの僅か、コンマ先にロウは動いていた。途端、ロウのいた地面に刃で抉られたような傷が走り、背後の木々が八つに切断される。

 セツナの技を知らなければ、今の距離で回避することはできなかっただろう。


 放たれていたのは、刹那の内に神速で飛翔する七つの黒き刃。

 まさに刀を扱うロウの魔獣に相応しき技であり、さすがはロウを護り共に戦場を駆け続けて来ただけのことはある。

 ロウの片割れ、ロウの半身、ロウと魂を分け合った存在だ。

 しかし裏を返せばこの技を放った時点で、ロウにとってはセツナが本気である事を嫌でも理解させられるものだった。


 腹部の刺創、神想結界を破られた代償、ステラとの戦いで負った打撲等。

 ロウの体は最早、全力で戦える状態ではない。

 セツナを相手にするには、あまりにも無謀といえる状況だ。

 

「……本気、なんだな」

「セツは申しました。募った恨みを晴らす、と」


 恨まれることには慣れていた……蔑みの言葉も、侮蔑の視線も、命を狙われることですら、今のロウは慣れてしまっていた。

 だが、自分の片割れにその想いをぶつけられるというのは、ロウにとっては当然初めてのことだ。


 ロウはこの場所でセツナと別れて以来、彼女は死んだのだと思っていた。

 そしてハクレンの力であるこの氷の能力は、セツナが自分へ与えてくれたものなのだと。

 しかし、サラの手によって記憶を取り戻したロウは、セツナが生きているのだと確信していた。たとえ離れていても、他者の介入によってその繋がりが断たれていても、胸の奥底にセツナの存在を感じることができていたからだ。


 すべてを思い出して虹の塔(イリスコート)を出た後、本当ならすぐさまセツナを取り戻したかったのは決して嘘ではない。

 それでも、記憶が戻ったのが最近だから、ルインを相手にセツナを取り戻すにはそれなりの戦力と準備が必要だったからといったような、そんな言い訳染みた理由を並べても、セツナの心が納得できるかというのは話が別だ。

 セツナの想いも辛さも、ロウに計り知れるはずもないのだから。


 胸が苦しい。心が痛い。慣れていたはずの苦痛がロウの中で荒れ狂う。

 セツナの言葉は、痛みに鈍くなっていたロウの心に深く鋭く突き刺さった。


 だが、それでも……


「セツナ。本当なら、お前の恨みをすべて受け止めてやりたい。だが、俺にはまだ成すべきことがある。俺がすべての恨みを受けて死ぬのは、それを成した後だ」

「セツもそれは存じております。ですが、セツには最早関係のないこと」

「俺は約束を守る為に生きる。だが、お前を斬りたくはない。俺の元に戻りたくないのなら、頼む。せめてここは退いてくれ」

「……常闇ノ太刀――朧月」

 

 問答無用といわんばかりに、セツナの体が闇に溶けて消えた。

 途端、微塵の気配のも感じさせることなくいつの間にかロウの懐にいたセツナに、ロウは斬り飛ばされた。咄嗟に作った氷の盾が砕かれ、ロウの体がそそり立つ崖へとぶつかると、衝撃で丸くひび割れた崖を背にずるりと滑り落ちる。

 額から流れる血が視界を霞め、揺れる脳が思考を朧気に歪ませる中、そんなロウを冷めた瞳で見据えながら、セツナはゆっくりとロウへと歩み寄っていた。


「……セツ、ナ」


 震える声で名を呼ぶ男の視界の中に、はらりと一つの淡い光が舞い落ちる。

 まるで桜の花弁のような色をした雪は、誰かが零した涙のような儚い光だった。





 森羅城レイアにある大広間は悲惨な状態だった。

 板床や壁、天井のいたるとろこは赤く彩られ、焼焦げ穴が開き、ここで起きたこれまでの戦いの熾烈さを容易に想像させるものだ。

 その部屋の中、シンカは壁に背中を預けて座り込んでいた。口端から血を垂れ流し、そこから漏れる掠れた呼吸音が彼女の状態を明確に表している。

 苦痛に顔を歪めながら、シンカはぼやけた視界を持ち上げた。


「なかなかいい一撃だったぞ。反射というのは実に厄介なものだな」


 軽い声でそういったミゼンの体には傷一つなく、嫌らしく持ち上げた口角には余裕の色が濃く浮かび上がっていた。

 事実として、魔力反射カウンターを利用して作り出した隙を突いて放ったシンカの渾身の一撃を容易く返してみせたのだから、余裕を浮かべるのも無理はない。

 外傷がまったくないミゼンに対し、シンカの体はすでに満身創痍だ。

 

”最悪と最善、その二つに成り得る手は、その二つにしか成り得ません。そのどちらに転ぶかは貴女次第。最悪、貴女はここで死にます”


 ふいに脳裏を過るデュランタの言葉。

 それを聞いた時、シンカの中にあったのは死に対する確かな恐怖だった。

 そして今、紛れもなくその最悪への道を進んでいる状況であるというのに、同じ言葉を前にシンカの中に浮かんだのは恐怖などではない。

 シンカはただ可笑しく、嗤った。

 

「ふふっ……最悪の、未来……か。やっぱり……ロウに任せておけば、よかったのかな」

 

 そう言ってしまう自分が情けない。

 そう思いつつも、不甲斐ない音を零すその口に蓋をすることができなかった。


 よくよく冷静に考えてみれば、これは当然の結果なのだ。

 シンカとミゼンの戦いは、未来を知るサラが選ばなかった一手。

 ならば、最善か最悪のどちらに傾くかなどいうまでもない。元よりこの選択は、本当に細い一縷の糸のような道だったのだ。

 

「勇気と無謀は紙一重なものだが、お前はただの蛮勇だったようだな。まぁ、お前を手に入れることができる上に、神殺しの始末もできるというのは重畳だ」

「バカね……降魔なんかに、ロウが負けるわけないでしょ」


 精一杯、シンカは傷の痛みを我慢しながら余裕の笑みを浮かべてみせた。

 たとえ自分がここで敗北しても、降魔を相手にロウが遅れをとるはずがない。


 ここでミゼンに掴まったとしても、すぐに殺されるようなことはないだろう。何があっても、何をされても必ず耐えきってみせる。

 この戦いでの敗北は認めざるを得ないが、決して命を諦めたわけではない。

 どれだけ自分が情けなく、惨めで醜く思えても、シンカが死ねば優しいロウはきっと自分を責めるだろう。愛するカグラは泣いてしまうだろう。

 だからこそ絶対に死ねない、死ぬわけにはいかないのだ。


 しかし、そんなシンカをミゼンは楽しそうに眺めながら問い掛けた。


「本当か?」

「……なによ」

「ふふっ、あははははっ! いいだろう、教えてやる。これだけ力の差を見せつけても変わらないその生意気な瞳が、絶望に満ちるさまを見るのも一興だ」


 そう言って、ミゼンは後ろに手を組みながら歩き出すと、壁に空いた大穴の前に立ちその先を眺めた。


「俺の能力は悪魔の契約(メフォスト)といってな。能力の説明をした後、互いに納得のできる契約を結べばそれを破ることはできない。つまり、場合によっては相手を従えることも可能というわけだ」

「それを聞いて頷く人なんて普通いないわ」

「あぁ、そうだ。それでも、そのときの状況や相手の望むもの次第ではそうとも限らない。俺の能力を生かすには、予め盤上を固めておくことが重要というわけだ。ただ厄介なのは、その契約は俺自身にも影響があり決して破ることができない。でだ……過去に交わした契約の中、相手を納得させるために面倒なことを受け入れたことがある」


 振り返り、ミゼンがシンカを見る瞳は、まるで子供が与えられた贈物の封を切るときのように、興奮と愉悦の色を浮かべ輝いていた。

 そして、告げられた言葉は、シンカの心をへし折るには十分過ぎるものだった。


「俺が、神殺しをこの手で殺せないということだ」

「そ……れって……」

「そしてあの降魔はただのデューク級じゃない。危険種と呼ばれる特別な個体であり、神殺しを殺す手段を持っている」

「……あっ……っ」

「つまり、だ。神殺しを殺したのは――貴様だ」

「っ、そ、そん……な……」


 震えた声で呟いたシンカの身体から、急激に熱が失われていく。

 

「神殺しの周りには常に誰かがいるし、奴が万全な状態ならいくらあの降魔でも結果はわからなかっただろう。しかし今の神殺しは弱り切り、奴を救える者はいない。お前が出しゃばらなければ、神殺しはここにいた。神殺しがここに残れば、俺は奴を始末することができなかったが、お前が俺との戦いを選んでくれたおかげで神殺しを始末することができる。つまり、だ……神殺しを信頼するお前が、奴を大切に想うお前が自らの手で……奴に地獄への切符を手渡したというわけだ」

「う……そ……」


 シンカの瞳が色をなくし、漏れた音は酷く弱々しく掠れていた。

 蒼白に染まる唇や細い身体が小さく震え、今にも意識が途切れてしまいそうだ。

 信じられない。信じる必要なんてない。

 だがしかし、本当にデュランタを信じてもよかったのか。


”私は貴女方の歩む運命を許しません” 


 もし仮に初めから、デュランタの狙いがロウであったのなら。

 もし仮に最初から、自分が騙されていただけだったとしたら。

 そう考えるとミゼンの言葉を疑うことはできず、自責の念が溢れ出す。


「心の底から感謝しよう、か弱き少女。かつて神をも超越したと言われる神殺しを始末する、その手助けをしてくれたことに」

「あっ、ッ、……うっ……あぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 直視した現実に耐え切れず、シンカは悲鳴を上げて床に蹲った。

 涙はない……それでも、シンカの心は泣いていた。

 酷く傷ついた満身創痍の体より、更に酷く傷つき血塗れになったその心が、誰かに救いを求めていた。

 自分のことなど最早どうでもいい。自分なんかより、ロウを、どうか誰か。

 誰でもいい……誰でもいいから、ロウを助けてくれ、と。


「あぁ……いいぞ、最高だ。強い信念を宿した心が折れ、絶望にその瞳を染め上げ、泣いて叫ぶさまは気分が高揚する。さぁ……命乞いの時間だ」


 ミゼンの声は耳に届かず、シンカはただロウのことだけを考えていた。

 ロウの無事を願い、ロウを救ってくれと願い、ロウとの再会を願っていた。


「……誰、か」


 激しい動揺で周囲の音が遠のく中、小さな音が彼女に脳裏に微かに響く。

 まるで鈴の音のような澄んだ音は、誰かが求めた救いのような儚い音だった。






 一方、シンカがミゼンと戦っている城の裏手、そこにある豪奢な平屋。

 雅で美しい庭園には、綺麗に整えられた木々や池があり、立派な錦鯉が悠々と泳いでいる。そんな建物の木造の通路を歩いているのはミコトとレベリオだ。


 一番奥の部屋に辿り着くと、すぐ隣の部屋にステラを寝かせた。

 見たところ特に外傷もなく、神想結界の反動で意識を失っているだけのようだ。命に別状はないがいつ目覚めるかはわからず、どうにかしてやりたい気持ちはあるものの、今の彼女たちにできることは何もない。

 ミコトは眠るステラの額を優しく撫で、部屋を出た。

 そして、最奥の部屋の襖の前で膝を付け、


「母上、ミコトが参ったのじゃ」

「うむ」


 小さな声が中から聞こえると、ミコトはそっと襖を開いて中へと入った。


「……」


 レベリオは中へは入らず、思い詰めたような表情で庭先を見つめている。

 思い返せば先代の体の調子が良い時は、この縁側でお茶を啜りながら、ミコトの鍛錬を眺めていたものだ。

 ミコト……いや、彼女に限らず現神々が産まれたのは星歴五七七年であり、まだ二百年と経っていない。

 同じ頃に生まれたレベリオに戦いの才覚はなく、魔憑としての能力が遅咲きで覚醒し、今の外見に固定されたのはすでに五十を過ぎた頃だ。

 その頃から、レベリオはミコトの努力をずっと見てきた。

 

 それだというのに……自分は――


「神殺しよ……貴様は何を思い、何を感じ、何を視て、なんの為にその力を振るっている。もし、老い先の短い私にもう一度機会があるのなら、今度こそ国の為に、ミコト様の為にこの身すべてを捧げよう。だから貴様も……もう二度と、ミコト様の笑顔を奪うような真似はしてくれるな」


 そう一人で呟いた言葉は、誰の耳に聞こえることもなく静かな風に溶けて消えた。

 


 ミコトが部屋の中へ入ると、畳に敷かれた布団に座る一人の女性がいた。


 暗く艶やかな紺青の髪と菫青石のような美しい瞳。

 白い寝巻に包まれていても痩せ細っているのがわかるものの、その美しさは衰えず、血の抜けたような病弱な白い肌でありながらその瞳は強い光を宿している。

 あどけなさの残るミコトが大きくなればこうなるのだろうか。


 そしてその奥、付き添うように正座していたのはイズナだった。


「イズナ、無事じゃったか」

「あぁ、アンスとトレナールが迎えに来てね。ミコトの方こそ無事でなによりだよ。ステラのことは気にしなくていいよ。そのうち、目が覚めるさね」

「うむ」


 互いの無事に安堵し微笑み合うと、ミコトは母であるラヴィ・デメテルの横で膝を折り、正座しながら心配そうに問い掛ける。

 

「身体の具合はどうじゃ?」

「ミコトは心配症じゃの。神力が及ぼした代償は大きくとも、時間と共に回復する。時機、外を自由に走れるようになるじゃろうて」

「はははっ、走れるってのは言い過ぎさね。最初は歩くだけで我慢しな」

「であるか。ままならぬものじゃの」


 ラビィが今のように床に臥せった直接の原因は、星歴六七七年に起きた大戦だ。

 神力を長時間使いすぎた代償であり、今現在セレノが眠り続けているのも似たような原因だった。最初の数年は、ラビィも深い眠りについていたものだ。

 こうして起きていられる時間が長くなったのも、ここ数年での話だった。

 

「母上、この国の現状はイズナから聞いたのか?」

「うむ。イズナ、というよりはサラ殿からじゃの。丁度先ほどまで、サラ殿と話していたところじゃ。芳しくはないようじゃの」

「サラ様と?」


 途端、ミコトの胸中に膨れ上がったのは大きな不安だった。

 司法の女神からの直接の連絡など、虹の塔(イリスコート)へ送られた罪人の判決が出た時か、年に一度の七国会談の時だけだ。または、これまでの歴史の中で一度も発令されたことはないが、誰も逆らえぬ審秤神からの勅命……。

 わざわざ問題の起こっている地国にこのタイミングで連絡をしてくるなど、不安にならない方がおかしいだろう。

 

「ミコト。おぬしがここに来たのは、封じておった力を再び戻すためじゃな?」

「話が早くて助かるのじゃ。事は一刻を争う。早速、余の力を――」

「無理じゃ」

「――なっ、母上!?」

「ミコト」

「このままではロウとその仲間たちが危険なのじゃ! これは余が撒いた種!」

「ミコト」

「地国の問題で、あの者たちが犠牲になるなど間違って――」

「ミコト」

「――ッ」


 三度目の名を呼ぶ声に、ミコトは言葉を呑み込んで押し黙った。

 決して怒鳴られたわけではない。

 静かに、ただ力強く、芯の通った声と、本当に体が弱いのかと思わせるほど強い光を放つ瞳に、ミコトは喉に蓋をされてしまったのだ。


「ミコト、よく聞くのじゃ。これはおぬしが撒いた種ではない。こうなるよう、余が導いたのじゃ。故にこれは必然であって、おぬしに責はない」

「……どういうことなのじゃ?」


 目を丸くしたミコトが訪ねながら視線をイズナへ移すと、彼女はいつものように瞑目し、何も話すつもりはないという態度だった。

 だが、それはイズナも知っていたという事実の表れなのだろう。

 ロウに会えると諭しながらも少しの間、月国へ身を隠すように提案をしてきたのは、他の誰でもないイズナだったのだから。

 

「おぬしが神位についての相談に来たとき、力を封じるよう申したのは余じゃ。力ある者の言葉には従わざるを得ぬ。故にできる限り対等な話合いをしたいのであれば、その力自体をまずは封じてはどうか、との」

「た、確かにそうじゃが……」

「これは必要なことじゃった。おぬしは優しくとも強い子じゃ。力を持ったままのおぬしは、必ずその力を振るったじゃろう。事実、おぬしはここに来た」

「それの何が……」

「おぬしが力を振るうのはここではない。ここで振るってはならぬのじゃ」

「――ッ、ならあの者たちを、ロウを見捨てよというのか!? この国の為に戦ってくれておるのじゃぞ!」

「そうじゃの」

「ならばなぜじゃっ!」


 悲痛な表情で訴えるミコトを前に、ラビィは暫し瞑目し、努めて冷静に一度肺の中の空気を入れ替える。そして、


「おぬしが、女神だからじゃ」


 再びその両眼を開きながらはっきりとそう告げた。


「だ、誰かを見捨てることが女神のすること、なのか? そんな……余は……」

「見捨てるのではない。多くを、救うためじゃ」

「…………なん、じゃと?」

「この世界は残酷じゃ。進む未来はあまりに過酷で、いずれ訪れる絶望は無慈悲に世界を染め上げる。その残酷な運命に抗うには、辛くとも目を瞑らなければならぬ不条理もある。神とてすべてを救うことはできぬ。どれだけ犠牲を払おうと、この世界を救うことこそ、より多くの命を救うことに繋がるのじゃ」

「……」


 言っていることの意味は理解できた。

 だが、それを上手く呑み込めるかと問われれば、ミコトは女神としてあまりにも優しすぎたのだ。

 誰とて、親しき者と知らぬ者との間には、決して越えられない壁があるものだ。信頼、愛情、友情、絆、どんな関係であったとしても平等に扱うことはできない。

 それが人であり、人として当然の感情だといえるだろう。

 しかし、ラヴィの言ったことは、それすら否定する言葉だった。


 いずれ本当に滅ぶともわからない世界の為に、そんな未来の為に、今危険に晒されている者たちを犠牲にする。助けることができるにも関わらずだ。

 そんなことをどうして納得することができるだろうか。


 だが、ミコトの口からそれ以上、反論の言葉は出てこなかった。

 顔を伏せ、太腿の上に乗せた両手をぎゅっと握り込む。

 そんなミコトの姿に、ラビィは悲し気に目を細めると、ゆっくりと丁寧に言葉を重ねていく。

 

「代々、地の、豊穣の女神に宿る神力は、蓄えれば蓄えただけその力を増していく。おぬしの力は世界のために使うのじゃ。より多くの者を救うために」

「……っ、うっ……」


 ぽたりと、ミコトの手の甲に透明な雫が滴り落ちた。

 自分がもっとしっかりしていれば、自分がロウにもう一度会いたいなどと思わなければ、自分が助けを求めなければ……そう、ミコトが自分自身を責めているのだろうということは、ラヴィにもイズナにもわかっていた。

 だからイズナは”本当に困った子だ”といわんばかりに眉の端を下げながら、苦笑を浮かべ優しい声音で問い掛ける。


「ミコト。お前さん、家主と何か約束をしたんじゃないのかい?」

「……どうして、それを」

「わかるさ……わからないはずがないさね。家主が求めているのはいつだって、誰かの笑顔なんだから。今のお前さんは……笑ってるのかい?」

「――」


 ミコトがそっと顔を上げると、イズナは優しく微笑んでいた。


「確かに審秤神の知る未来から逸脱したようだね。分の悪い状況に違いない。だけどね、ミコト。家主は決して約束を破らない。過去の約束も、今の約束も、あの人はすべてを守ってみせるのさ。そして、あの人が約束を違えないよう支えているのは、あの人を慕う者たちだ」


 言って、イズナは手にした扇子をミコトに突きつけながら、


「あの御方を舐めちゃいけないよ」


 そう、妖艶に微笑んで見せた。

 ぎらついた獣のような深い瞳は、いったいどこまで先を見据えているのか。

 それがわからなくとも、一つだけわかることがあるとすれば、イズナはミコトにとっていつも正しかった。自信に満ち、自分の信じたものを疑いはしない。

 だからミコトはただこくりと、小さく頷いた。


「結構結構」


 するとイズナは満足そうに目を細め、開いた扇子で口許隠しながらいつもの調子でけらけらと笑いながら立ち上がった。


「さてさて、それならうちは今宵の宴の準備でもしてこようかね。ミコトはたっぷり母君に甘えるといいさね」

「よ、余はもう甘えるほど子供ではないぞ」

「それは寂しいのう。ほれ、母の胸に飛び込んでくるのじゃ」

「~ッ」


 顔を真っ赤に染めながら、ミコトはラヴィの胸に顔を埋めた。

 とても久しぶりの感触……口では元気そうに振舞っているが、体の線は折れてしまいそうなほどに細く、今にも倒れてしまうのではないかと心配になるほどだ。

 だがそれでも、母親の胸は温かかった。


 そんな二人の姿に笑みを零し、イズナは音を立てぬよう襖を開いた。、


(メリー……お前さんの推測が正しければ、デュランタの狙いは――)

 

 珍しく何かを真剣に考え込むように眉間に皺を寄せながら、その険しい表情を悟られないよう、イズナは部屋を後にした。



 …………

 ……



 神都ウーレアを見下ろせる山道。

 燦々と輝く太陽の木漏れ日は心地よく、冷たい風が少女の長い髪を揺らしている。山道の脇にある大きな岩山の上に腰かけ、狐の半面をつけた彼女は正門前で繰り広げられている戦いを眺めていた。

 開いた包み紙の中から金平糖を一粒取り出すと、小さな口へと運びながら、


「……甘いわ」


 デュランタはそう小さく呟いた。

 彼女の心を隠すように貼り付けられた狐面の下は、いったいどんな表情が隠されているのだろうか。

 それを知り得る者は同じ想いを背負う彼女……


「予定通り、ですか」


 浅い霧と同時に歪んだ空間から姿を現した、黒のドレスローブを纏ったミオと名乗る少女だけだろう。


「そうですね。本来ならここで一気に、といきたいところですが……えぇ、ようやくここまで辿り着いたのです。焦りは禁物」


 デュランタは後ろのミオに視線を送ることなく、前を見つめたままそう答えた。


「最初から失敗するとは思っていないみたいですね」


 鍔の広い帽子から垂れるヴェールの奥で微笑みながら、ミオはデュランタの隣に並んで立ち、彼女の視線の先を見る。


 正門前の戦いは遠目に見てわかるほど、その凄まじさが伝わってきた。

 前衛も後衛もなく、ほとんどすでに乱戦状態だ。

 だが、リアンとセリスが魔力系による技の援護ができない以上、魔力の残量的にこうなるのは必然といえるだろう。

 長剣と槍をそれぞれの手に持ち、魔力切れという不利を強い気迫で補いながら互いを補助カバーし合い、勇猛果敢に虚人形クークラを殲滅してる。

 さすが同じ孤児院で育ち、ずっと共に人生を歩んできた二人といったところか。決して不利など感じさせない見事な連携だ。


 そして、連携といえばアンスとトレナールのそれも目を見張るものがあった。

 決して攻撃的な能力ではないが、それでも虚人形クークラなど降魔に比べて遙かに御しやすい。いくら数を並べても、彼らを捕らえることは決してできないだろう。

 身体能力と得物を扱う技量、基礎的な魔力技さえあれば十分だった。


 その四人と呼吸も動きもばらばらなのは唯一の亜人、シエルだ。

 ほぼ初対面の状態で、彼らの動きに合わせて行動するのは不可能。無理に連携など取ろうと考えたなら、互いの足を引っ張り瓦解するのは目に見えている。

 それでもそんな中、シエルは最大限に己の力を発揮していた。

 シエルが視ているのは四人の動きではなく、戦場だ。

 仲間の動きが読めず足並みを揃えられないのであれば、戦場の動きを読めばいいというのは、生まれ持った戦闘感覚センスの成せる技だろう。

 虚人形クークラの動きを見ながら、天使アンジェならではの機動力を生かして厚みを消していく。

 その結果、シエルの行動は四人へと大きく貢献していた。


「もちろんです。失敗など考えるだけ無駄というもの。これで必要な駒は粗方揃うことになるでしょう。後はナイトの覚醒ですが……」

「兆しは見えていると思いますよ。それよりも問題なのは……はぁ……考えただけで頭が痛いです。これから赴くつもりではいますが」


 これからのことに珍しく深い溜息をついたミオに、デュランタは苦笑した。 

 

「その気持ちはわかりますよ。えぇ、私もそうですから。後、例の件についてはどうですか?」

「それについては朗報です。やっと補足しました。これで、より正確な時間を割り出すことは可能です」


 その答えに、デュランタは満足そうに口角を持ち上げた。

 

「まだ大きく運命が変わらないようにしてきたつもりですが、それでも少しの誤差が未来を大きく変えることもあります。特に今日という日の出来事が、後にどれだけの影響を及ぼすのかは私にもわかりません。重要なのはより正確なタイミング。これを外せば、私たちの想いの全てが無に帰してしまいます」

「それでも、これは必要なことでした」

「そうですね……これで後は、小さく変わった全ての点を線で結ぶだけ」

「そのためには……」

「えぇ……例え何を犠牲にしてでも、叶えたい願いの為に」


 言って、二人が見下ろした先には、黒で縁取られた紫の靄が立ち込めていた。

 中央で戦うリアンたちはまだ気付いていないだろうが、その靄は徐々に徐々にと広がってきている。

 このままでは一時間もしないうちに、中央にまで広がることになるだろう。

 しかし虚人形クークラの数は止まることを知らず、全勢力と言わんばかりの勢いで現れ続けている。

 魂の籠った武器の数だけ当然それを扱う主の存在があり、そしてその存在はもういない。現れ続ける虚人形クークラの数は、暗にこれまでの犠牲となった者たちの数を明確に表しているものだった。

 

 ふいに、デュランタの掌の上にある包み紙の中から、ミオが金平糖を一粒つまんで口の中に放り込むと、戦いの結末を見届けることなく踵を返した。


「それでは、私は行きます」

「えぇ、思う存分、痛めつけて差し上げてください」

「酷い人ですね。私もそのつもりではありますけど。では……」


 ミオが霧の歪に身を投じると、再び景色は晴れやかなものになり、そこに彼女の姿はなかった。

 一方デュランタは岩の上から動くことなく、ただじっと戦況を見下ろし続ける。


 確かな想い。確かな意志。確かな覚悟。

 叶えたい、叶えなければならない願いをその胸に秘めて――


「……兄様。私が必ず、貴方の願いを届けてみせます。運命を砕き、世界を壊し、その先にある場所まで……必ず」


 それは亡き者の意志を受け継いだ少女の、世界に捧ぐ復讐の言葉。


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