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  作者: さく
8/15

悲しみを抱えて

―10年前



年末年始休みを有効に使おうと、俺は朝から台所の油汚れと闘っていた。


「あはは、また掃除?」

「お前は毎日料理しててこの油汚れ気にならねえのかよ。しかし何で換気扇てこんなすぐ汚れんだ。こないだしたばかじゃねえか・・・」

「そのうち理がしたがると思って敢えてしないでおいたんだよ。」

「ほう、よくわかってんじゃねえか。」

「あっ、蹴ってる!」

「おっ、ちょっと待て!今手袋外して・・・」

「・・・あ、おさまった。」

「おい諦めんな!っちくしょう手袋が貼りついて取れねえ!」


半ギレで手袋を取ってそこら辺にぶん投げると、俺は嫁のでかい腹に張りつくがびくともしない。


「・・・やっぱり俺は嫌われているんだろうか。」

「うーん、何でいつも触れないのかな。結構頻繁に動いてるんだけどね。八か月なのにまだ胎動に触れないなんてあまり聞かないよ、タイミングだね。」

「やめてくれ、落ち込む。」

「この際産まれるまで我慢するしかないのかな?」

「なあ、仲間にいれてくれよ・・・」


頬をすりよせてお願いしてみてもだめだった。




妊娠八か月だった。性別は女。

付き合って四年目に入った頃、子供が出来たと告げられた。正直動揺したが気持ちはすぐに固まり、ほどなくして入籍を済ませた。


その日も朝からいつも通りのやりとりをして、昼飯の焼きそばを俺が作り、嫁が皿を洗った。珍しく紅茶を自分で淹れるなんて言い出した嫁は、自分のティーカップを棚から取り出す際に落として割ってしまい、指をほんの少し傷つけてしまった。


「あ、絆創膏こないだなくなったんだった。私買って来るよ。」

「俺が行く、お前は家にいろ。」

「いいよいいよ、紅茶もうお湯入れちゃったから。飲んで待ってて?」


俺のカップを取り出し、紅茶を淹れてくれた。


「行ってきます。」

「ああ、気を付けてな。ついでにお菓子でも買って来い、お前の好きなやつ。」

「・・・ありがとう、理。」


ガチャン






嫁はそのまま帰って来なかった。出て行ってから1時間後には探していた。どこに連絡しても誰も行方を知らない。何かあったとしか思えなかった俺は、夕方には警察で行方不明届を出していた。




翌日の早朝、隣県の警察からの電話で、嫁が死んだと伝えられた。

海から引き揚げた車からは事故の形跡はなく、身体に目立った外傷もなかった。荷物の鞄から1枚の紙きれが見つかった。今にも破れそうな近所のスーパーのチラシの裏には、口紅で「ごめんなさい」と書かれていた。


嫁は自分で運転して、港から海に突っ込んだのだ。








葬儀が終わった後、嫁の実家に1本の電話がかかって来た。お義父さんが出ると、男が俺に代われと言うらしい。すぐに電話を代わると、そいつはとんでもないことを言い出した。




「子供は俺の子だった。お前が殺した。」




それだけ言うと、すぐに電話は切れた。

頭が真っ白になった。受話器を持ったまま、しばらく呆然と立ち尽くすしかなかった。

そこから数日の記憶はない。男からの電話も、その1度きりだった。


何もわからない。嫁になにがあったのか、何故死のうと思ったのか。情報が少なすぎた。その電話だってただのいたずらだったのかもしれない。突然ひとり残された俺は、考えるしかなった。




考えるって何をだ?

何が真実なのかを考えるって?

考えたところで正解を教えてくれるやつなんていないだろう?




なあ、俺はどうしたらいい?
















言葉が出ない。


嘘でしょう?嘘。誰か、嘘だって言って。




若槻課長は淡々と話した。楓の様に涙を見せる事はない。言葉に詰まることもないし、背中に触れる手もあたたかいままだ。


「何で死んだのかなんて誰にもわからねえんだ。お前の旦那だってそうだ。お前に隠して何か一人で悩んでいたのかもしれない。でもな、人間どうしたって物事には理由をつけたくなるんだ。納得したいから。受け入れるために。だから俺は仮説を立てた。嫁は子供が出来るまで浮気をしていて、妊娠を機にそれをやめた。誰の子供かわからなかったが、その時頼れそうな方を選んで結婚した。子供が腹で大きくなるにつれて罪悪感が増し、死ぬことを選んだ。これはあくまで仮説だが、そうだと思っているとそうなんだろうと思えてくるから不思議だな。だから俺の中ではこれで決着をつけて、受け入れることにしたんだ。」


「課長・・・もう・・・いいです。」


「・・・すまない。」






なんて声をかけたらいいのかわからなかった。

こんなに辛い過去を抱えていたなんて。





「なあ吉岡、お前は旦那が憎いか?それとも可哀想か?」

「それは・・・憎いと思って過ごした方が楽でしたから、そう思う事にしました。悲しみより怒りの方が力になるんです。でも・・・時々、かわいそうになったりもします。」

「そういう時はな、それでいいんだ。感情をひとつに決めつけると後々辛くなる。だからその時その時の感情に従え。それで心が納得するならそれでいいんだ。」

「・・・課長。」

「何だ?」

「・・・涙が出ます。」

「・・・俺も泣こうか。」

「課長だって・・・泣いてる。」

「・・・ああ、お前みたいに涙が外に出てくる奴が羨ましいな。」




若槻課長が抱きしめてくれた。楓の傍で、若槻課長の心が泣いている。


どうしたら止めてあげられるだろう。


泣かないでほしい。泣かないで。











涙がおさまって来た頃、課長はゆっくりと腕を離すとキッチンへ向かった。カチャカチャと食器が鳴って、しばらくすると温かな紅茶が出てきた。


「悪いな、俺はアイスティーが許せないんだ。」

「ふふっ、紅茶好きは本物ですね。」

「それに温かいものを飲んだ方が落ち着くしな。飲めるか?」

「はい、いただきます。」

「・・・今日は一段と染み入るように旨い。」

「本当だ・・・おいしい。会社で飲むのと全然違う。」

「茶葉が違うからな。お取り寄せだ。」

「ネット通販ですか?ちょっと意外です・・・でも最高においしい・・・。」


温かい紅茶のおかげで気持ちまでほっこりとあたたかくなる。こんな紅茶を飲めることに幸せを感じた。あたたかい、というのは幸せを感じる温度なのだろう。若槻課長に抱き締めてもらった時は。いつもこういう気持ちになる。







若槻課長が病院の駐車場まで送ってくれた。車内で、実はこの間の和室での件のあの日が自分の誕生日であり旦那の命日であった事を話すと、若槻課長はそうか、と一言呟いてから黙ってしまった。そのうちに駐車場について今日のお礼を述べてから車を降り、自分の車に乗る。すると課長が降りてきて運転席の窓をノックした。


「今日は・・・気の利いた場所に連れてってやれなくて悪かった。」


窓をあけると、課長が申し訳なさそうにそう呟いた。


「何言ってるんですか、そんなこと言ったら怒りますよ?」

「お、初めて吉岡が反抗して来た。」

「課長・・・私は一緒にいられて嬉しかったです。だからそんな事言わないでください。」

「そうか・・・。華絵が、吉岡は乙女だからイタリアンとかカフェとか、あと夜景が好きそうとか言われてな。」

「私が乙女?華絵先輩はそんな風に見てくれていたんですかね?」

「ああ、俺にもそう見える。」

「ほ、本当ですか?チャーシューを課長の分まで食べて、チャーハンも半分以上食べちゃった私をですか?」

「乙女が大食いで何が悪い。」

「あっ、課長。イタリアンをラーメン、カフェを紅茶に置き換えたらパーフェクトじゃないですか?」

「夜景は?」


楓は夜空を指さした。満天の星空が二人を見下ろしている。


「・・・これで俺は合格点を貰える。」


課長は少しだけ口角を上げて、嬉しそうに微笑んだ。


「気を付けて帰れよ、遅いから着いたらメール入れろ。」

「ありがとうごさいます。大丈夫ですよこの距離ですから。」

「俺が安心してえんだよ。」


そう言って課長は数歩後ろへ下がった。最後の言葉にどきりと心臓を震わせながら、楓は気づかれないよう手を振り、車を走らせた。






今日聞いたことが、明日起きたら嘘だったらいいのに。


じんわりと視界が滲むのを止められない。




信号が青に変わっていたことに気が付いて、楓はゆっくりとアクセルを踏んだ。


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