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  作者: さく
6/15

想い

若槻課長の腕の中にいることがわかった。私をゆっくりと抱き寄せた課長の、強くて優しい心が体温を通して伝わってくる。


どれくらい時間が流れたのだろう。時間が許すなら、もうずっとこのままでいたいくらい心地よく感じた。一人でメールを読んでしまった時は、もうだめだと思った。身体の左側は完全に冷たい壁と一体化して動かないし、涙は無意識のうちに流れてくるし、何も考えられなかった。ここが職場だという事も、休憩時間がとっくに終わっていることも、頭にはなかった。


しばらくして、課長がゆっくりと身体を離した。冷房の効いていないこの和室は蒸し暑いはずなのに、課長が離れた瞬間は、一瞬肌寒く感じたのだ。




「・・・楓。」


低くて優しい声。心に沈むような、浸るような、揺らめくような。そんな心地いい声色で、名前を呼ばれた。


ゆっくりと顔を上げると、いつかのあの穏やかな優しい瞳がそこにはあった。あの時と少し違うとしたら、困ったように下がる形のいい眉だ。


「よかった・・・戻って来た。」


心から安心したような声で呟いてふうと息を吐くと、また課長の腕で柔らかく包まれる。




「なあ、吉岡。俺じゃ頼りにならないか。」




少しだけ、切羽詰まったように震える声。




「ほんのちょっとでもいい、お前の気持ちを救ってやることはできないか。」

「一緒に泣いてやる事はできないか。」




「一緒にうまいもんを食ったりな。お前の好きなラーメンを腹いっぱい食って、また味見しあったりして。璃子を連れて公園へ行くのもいい。どこまでも追いかけまわして、俺が先にバテちまうかもな。あとは・・・めちゃくちゃ綺麗な星でも眺めるか。寝ころんで手え伸ばせば、本当に掴めそうなんだ。秋には毎年恒例のBBQがあるんだぞ。俺は毎年当たり前のように火おこしを押しつけられて汗でべったべたで最悪なんだが、今年はお前がいるし、まあ悪くねえなんて思えたりする。」



ぎゅうっと、抱きしめる腕に力がこもる。



「なあ、こんなに小さい世界の話だが・・・お前も悪くないと思わないか、吉岡。」




ゆっくりと優しく。おとぎ話の絵本でも読み聞かされているかのように、言葉の端々には彼の感情がこもっている。その気持ちが伝わってきて、嬉しくて、嬉しくて。決して強制的でも暴力的でもない。彼はゆっくりと細い糸を手繰り寄せるように。糸は何にも引っかかることなく、その優しい掌のにおさまるように、すっと掬われた。




身体を離すと、またあの瞳が覗き込んで来る。先程より、また眉が下がって見える。しかしそれは微笑んでいるようにも見えて、なんだか甘えている子猫のような、そんな表情だ。


かさかさに乾いた楓の唇に、若槻課長の右手が触れる。楓の言葉を待つように、催促するように、親指で撫でられる。なんだかくすぐったくて顎を引くと、くい、と引き戻された。少しだけ拗ねたように見上げれば、ぐっと近づくその瞳。左腕でしっかりと抱き寄せられ、掌で身体を受け止められて、もう吸い込まれてしまいそう・・・






「理?」






和室の襖が開き、顔を覗かせたのは大杉院長である。二人の合わさった視線は、ほぼ同時に声の主に向けられた。三者、しばらくその態勢で見合わせた後。すうーっと大杉院長の首が引っ込んでいき、控えめに襖を閉める音がして、また静寂が訪れた。






先に降参したのは楓であった。いつの間にかポカポカになった身体は自由もきいて、両手で顔を覆い、肩で笑う。見えないけれど、大きなため息と共に、若槻課長の頭が楓の肩に乗っかった。


「・・・課長の仰りたいことはわかっています。」

「そうか、なら今すぐあいつをぶん殴ってくるしかねえな。」

「えっ、謝るんじゃなくてですか?」

「どうして俺らが謝んだよ。」


覆っていた両手を顔から離すと、課長は顔を上げた。右手で前髪をかき上げて髪をくしゃくしゃとかく課長は、なんというか、ものすごい色気。白くて綺麗なレアおでこを見つめていると、また一つ大きなため息をついて、課長は目元を押さえている。


「あの、大丈夫ですか・・・?」

「それはこっちのセリフだったんだが・・・お前は大丈夫なのか?」

「はい・・・大丈夫です。大杉院長が笑わせてくれたおかげで。」

「・・・持ってかれた。」




なんだか恋人同士が喧嘩した後の仲直りみたいに、傍に寄りたいけれど照れくさいみたいな、そんな空気。抱かれていた背中や脇腹は、まだ課長の指の感覚が残っているように感じる。

行くか、と頭を撫でられ、楓は小さく返事をした。若槻課長の後ろに隠れるみたいにして、医事課へと戻ったのであった。










ダァン!!ダァン!!!


ボウリングの球でも打ち付けているかのようなノックに心当たりは今のところひとつしかない。彼のノックの音は必ず気分に比例する。律儀な彼はどんなに気分が悪かろうと必ずそういうことは忘れないのだが、今回の音は流石に今までで一番大きな音だ。室内にいるのが英一(院長)でなければ、今頃大慌てで警察を呼ぶかもしれない。


今日は英一の返事も待たずにドアを蹴り倒す勢いでずかずかと入って来た理は、これまた豪快にダァァン!!とデスクに手をつく。英一の愛用しているデスクは彼の掌の下で果たして無事でいてくれるだろうか。


「英一!!!」


鬼の形相で迫って来る彼に圧倒されながらも、今日は誰が見ても英一が悪かったわけであるからと、英一は立ち上がって彼に首を垂れようとした。すると。


「その・・・勤務中に、仕事を放棄して、悪かった。」


そう言って理の方が頭を下げたのだ。てっきり一発二発はぶん殴られるだろうと覚悟していただけに、どうしていいかわからない英一。


「特に来客や緊急の対応もなくてよかったからとはいえ、軽率な行動だった、申し訳ない。吉岡の分も俺から謝る。」

「いや・・・いいんだ理、私は君の誠意を受け取ったよ。」

「・・・はあ、英一。」


本当にどうしてしまったのだろう。英一のあの世界一空気の読めない行動がこれほどまでに理を追いつめているのは明白だった。


「本当に・・・いいところだったんだ。」

「ああ、それはもう。私にもよく伝わったよ。」

「吉岡の唇はかさかさでな・・・でもそんな事は気にならなかった。その唇の、ほんのわずかな隙間のその先が知りたくて。」

「男なら誰しもそれを望むだろうな。」

「顎を引っ込めたから、引き戻したんだ。そうしたら上目遣いで見つめてきた。俺はあいつの腰をしっかりと抱いていた。これはもう、やるしかねえよな英一。」

「ああ、そこで引いたら男がすたるな。ここまで来たらこちらのものだ。」

「だよな、同感だ。そしたらな、襖から不気味に男が顔を覗かせてきたんだ。」

「・・・あぁ。」

「それでせっかくいい雰囲気だったってのに、吉岡のやつ笑い出しやがって。俺はその時、人生で初めての一世一代の告白をしたから、そこでキスできてたら返事はOKって事だったろうに、その生首野郎のせいであいつの頭ん中には「笑わせてくれた大杉院長」しか残ってねえんだよ、なあ。」

「・・・あぁ。」

「だからな英一よ、俺は聞きてえんだ。そうしてキス出来なかったと思う?俺の敗因は何だ?」

「・・・な、なまくびやろうが、」

「やっぱりてめえのせいじゃねえか!!!!!」


理はひょいとデスクを飛び越え英一の膝の上にまたがると、物凄い剣幕で睨み付けながら胸ぐらをえぐるように掴み取り、近距離でガンつけてくる。英一は目を反らす事しか出来ない。本当に申し訳なく思っているからこそこうして抵抗せずされるがままになっているのだ。理は肩で息をしているが、次第にそれもおさまってきた。すると、ぼすっと英一の肩に顔を埋めて呟く。


「こんなおっさんがキスのひとつやふたつでみっともねえ・・・ましてや初めは慰めるつもりでいたってのに、結局は欲に負けちまいそうになって。」


もしかして泣いているのか?そう思い耳を澄ませるがそれはないらしい。ただ激しく落ち込んでいるのだけは分かる。呼吸はしているが、吐くものは全部ため息のようだ。


「理、そんなことはない。必ず彼女には君のまっすぐな気持ちが伝わっているはずだ。悪いのは私なんだ。特別急用でもないのになんとなくふらふらとしていた私が悪い。そして最高で最悪なタイミングでお前をみつけてしまった私を・・・どうか許してはくれないだろうか。」


しばらくして、掴んでいた胸ぐらはいつ離されたのか、あの力強かった掌は、だらんと力なくぶら下がっていた。一人で何かぶつぶつ言う彼は、だんだんとバツ悪そうな顔になり、そしてゆっくりと膝から降りた。




「英一。」


名前を呼ばれ、彼の瞳に向き合う。


「俺は吉岡が好きだ。」


・・・知っているよ、理。


「出来る限りの事をしてやりたい。誰かと一緒に生きる事は悪くねえんだってことをもう一度教えてやりてえし、俺にも教えてほしい。」

「なるほど・・・君の決意を受け取ったよ。私に出来る事があれば何だってしよう。」

「助かる英一。しかし、俺は俺のやり方でやってみる。同じ思いを抱える身としては、俺にしかわかってやれねえ事がたくさんあると思う。今までこの気持ちを誰かと共有したいなんて思った事は一度だってなかったし、まず無理だと思っていた・・・あいつとは同じ思いでいたいんだ。同じ方向を向いて歩いていきたいと思える。これから俺の知らない事を、何を聞かされようとも、この決意は変わらない。」

「それは本人に言ってやるんだ理。立派なプロポーズの言葉として相応しいぞ。」

「いや、さっきも似たような事を言ったんだが・・・どうもあいつは鈍感らしい。何を言ったら気持ちが伝わるのかわからねえ。こんなに好きなのにな。」




はあ、私までため息が出る。なんて不憫なんだろう。こんなに彼女への想いで溢れているのに、当人に伝わらないとは。まさか、彼女からしたら理は恋愛対象外なのだろうか。


「何か頼むことがあればまた来る。邪魔したな。」

「ああ、遠慮せず言うといい。いい報告を待っているよ、理。」


一度目が合った後彼はすっと身を翻して、来た時の勢いは嘘かの様にスマートに退室した。英一は大きく息をすって、長く長く息を吐く。


どうなることやら。


お互い辛い過去を背負う身。いつか二人の想いが交わりますようにと、英一は静かに祈った。



その後、二度と英一が和室を使う事はなかった。




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