真実
理は自分の車の助手席のドアを開け、楓を乗せてやるとすぐに自宅方面へと車を飛ばした。うつらうつらと大きな瞳を瞬かせてはぼうっと遠くを見ている楓。
「なあ、お前の家のだいたいの場所を教えてくれねえか、目印になるものとかあるか?」
「えっと・・・薬局があって、銀行があって・・・美容室があって、名前は・・・えと、何だったかなあ、ふう。」
だめだ、これは完全にやられている。
「学校とかないか?小学校とか保育園とか。」
「・・・あ、娘が○○保育園に通ってます。」
「よし、じゃあナビに入れるぞ。」
すぐさまカーナビに頼る。少なくとも今の楓よりは、はるかにスマートに目的地へと導いてくれるはずだ。
「じゃあ向かうからな。なあ、お前何か食いたいものはあるか?食欲はないだろうが、胃に何か少しでも入れておいた方がいい。あんなちっこいお握り二口じゃあ力なんかでねえぞ。」
「見てたんですね・・・」
「あ、ああ・・・。」
先程も言ったように、盗み見ていたわけではない。あくまで部下を心配する上司としてだ。重ねて言うが、心配からくるものだ。口元ばかり見ていた訳じゃない。
コンビニに着いてから楓を少し待たせ、理は何か胃に入れられそうなものを物色した。いくつか購入してから車へ戻り、師長の稔から分けてもらった解熱剤をすぐに飲ませる。家に着いてから飲んだってたいして変わりはしないのだが、一刻も早く下げてやりたくて気がもめるのだ。楓は小さくお礼の言葉を述べると、7月だというのに身体を小刻みに震わせている。熱が上がりすぎて寒気がきているのだ。
「吉岡、大丈夫か?寒いか。」
俯いた楓の顔を覗き込むと、歯までガタガタさせながら小さく頷く。両手で自身の両腕をさすり、足をもぞもぞと動かしている。何か後ろに積んでいなかったかと理が後部座席を覗き込むと、数日前、夜中に煙草がきれてひとっ走りした時に着ていた黒のパーカーを見つけた。
「吉岡。」
名前だけ呼んで、すぐに着せてやる。関節が痛むのか上手く身体が動かない。袖を通すため、その細い腕を掴む。気痩せするタイプかと思ってはいたが、本当に楓は痩せ細っていた。流石にメンズだからか少々だぼっとしているが、着ないよりはましだ。色白の手が黒い袖からちらりと見え、その素肌が際立つ。チャックも閉めてやり、また車を走らせた。
保育園からは一本道で、無事に楓の家に到着した。なんだかんだで時刻は6時を回った頃であった。
「吉岡、歩けるか?無理なら寄っかかれ。」
「ありがとうごさいます課長・・・お願いしていいですか?」
楓は玄関を開けると、力のない声でただいまと呟く。するとリビングの扉が勢いよく開かれ、小さな女の子が楓に飛びついて来た。
「ママ!ママ!」
しかし、ママの隣にいた得体の知れない男の存在に気づき、女の子は思い切り顔をしかめている。当たり前だ、と理は慌てることなく、女の子に挨拶をするために屈んだ。すると部屋から楓の父親が出てきた。
「ああ、若槻課長ですね、わざわざ申し訳ありませんでした・・・娘から一報をもらっていたので心配していたところです。本当に助かりました。」
深々と頭を下げる父親は、楓の父親にしてみれば随分と若く見えた。確か還暦を迎えたばかりだと聞いていたが、とてもそんな風には見えない。仕事帰りなのかスーツを着ていて、かちっとした眼鏡をかけている。企業の重役か何かなのだろうか、着ているスーツはそこらに売っている安物じゃあないことくらい、そんなに詳しくない理でも分かるほどだ。
「いえ、容体に気が付かず無理をさせてしまったのは私の責任です。申し訳ありませんでした・・・熱が上がってきているようなので休ませてやりたいのですが、上がらせていただいても?」
どうぞどうぞと中に通されたが、楓の部屋は二階にある。片足ずつゆっくりと登る楓は息をするのも難儀なようだ。しびれを切らした理は、先に父親が上がって行った事を確認してから一言楓に詫びる。
「吉岡、すまない。」
それだけ言って、俗に言うお姫様抱っこで階段を登る。高熱で意識が朦朧とする中でも理のこの行動に驚いた楓は、恥ずかしそうに腕の中で縮こまっている。なんて軽いんだろう。ちゃんと食ってんのか。そう思い眉をしかめて楓を見やると、上目遣いであった大きな瞳が伏せられた。実に勿体ない事をした。
部屋に入り、楓をベッドに寝かす。
「何か掛物を・・・」
「すぐ持ってきます。」
父親は抱いていた孫を床に下ろす。すると小さな娘はベッドに横たわる母親を見つめた。
「ママ・・・どちたのかな。」
「ママはお熱があるんだ。ねんねしないと元気にならないから、それまでおじいちゃんといような。わかったか?」
我ながら思い出すと顔中燃え尽きそうな程恥ずかしいセリフだ。娘の頭を撫でてやると、笑顔で返事を返してくれた。この笑顔もママにとってはいい薬になるんだろうと思う。
「課長・・・パーカー・・・」
楓がパーカーを脱ごうとしたのでそれを制す。父親が掛け布団と毛布を持ってきたのでそれを身体にかけてやると、やっと暖かいものに包まれた安心感からか楓は目を閉じて今にも眠りに落ちそうだ。そっと部屋を出て行った父親と娘。理が楓を見つめていると、規則正しい呼吸の音が聞こえてくる。パーカーのフードを深々と被り、すう、すうと眠る楓に、理もやっと一息つく。
布団からはみ出た楓の指先をそっと入れてやる。だがその時、楓の指先に触れた理は、何故か手を離せない。どうしてか、じっくりと見つめたくなった。色白で柔いこの小さな手で、理の知らない何かを乗り越えてきた、いや、乗り越えようとしていると思うと胸の奥がぐっと重くなる。
確信はないが、もし、もしも、理の予想が的中しているのだとしたら、このただっ広い部屋を見渡せば納得がいく。14畳ほどのフローリングのこの部屋にはダブルベッドがひとつ。壁にはコルクボードか何かの痕が日に焼けて残っていた。写真の入っていない写真立て。部屋の隅には3箱の段ボールにそれぞれ送付状がつけられ、一番下の箱には男の名前が書かれていた。
ああ、もう決まりだ。やっぱりそうか。
そう思った。これは理の直感ではない。楓がたまに見せる、とても美しいが嘘みたいに恐ろしい表情。それを思い出して、確信したのだ。
目が離せなかった。
俺はあの顔を知っている。
あの表情の奥底の感情を知っている。
恐ろしい目つきの裏側にある憎しみを知っている。
締め付ける様に噛みしめた唇の痛みを知っている。
血の気の引いた白い素肌の儚さを知っている。
それは俺のことじゃないか。
そういうように、心臓がドクンと音を立てて鳴った。
いつの間にか握りしめていた掌の力を緩め、その柔肌を親指で撫でた。指の関節の皮膚がぱっくりと割れ、痛々しい。日々の家事の為に出来た湿疹も、水分が足りないのか酷く乾燥したその肌も、とても愛おしく感じてしまうのは何故だろう。どれもこれも、楓が生きている証である。彼女を悩ませている元凶を理解した理は、一生忘れることの出来ない苦しみだと知っているからこそ、何も言えない。言葉が出てこないのだ。
そう、楓の旦那だった男は亡くなったのだ。
それも、自死という形で。
楓は28歳にして人生の伴侶を失い、幼い子供を残して死んでいった夫に複雑な感情をぶつけられないまま、きっと何度も自分を殺してきたのだろう。
わかっている、吉岡
俺も、そうだったから。
その熱い手の甲に、触れる唇。
理は静かに立ち上がり、部屋を後にした。
階段を下りリビングの扉を軽くノックすると、まんまるい頭をした小さいのが突進してきた。
「わかちゅき、わかちゅき。」
「なんだ、俺の名前がわかるのか?」
「ママ!わかちゅき、かちょう!」
「そうかそうか、ありがとうな。」
屈んで頭を撫でてやると、その大きな口を掌で覆いながら嬉しそうに微笑む。
「かっくい、かっくいね、かちょう!」
「かっくい?って、何だ?」
首を傾げると、真似して娘も小首を傾げた。
「かっこいいと言いたいんだと思いますよ。楓はいつも、家で仕事の話をする時は必ずと言っていいほどあなたの名前を上げますから。孫はそれを聞いて、覚えていたんでしょうね。」
なるほど、そういう事か。理は改めて娘に向き直り、優しく問う。
「なあ、璃子ちゃんだったな。ママのお友達だ、握手しよう。」
そう言って右手を差し出すと、娘は自分も手を差しだし、理の人差し指を握って微笑んだ。ここに天使がいる。
「璃子はお恥ずかしながら男の人が大好きでして。特に若い男の人には目がなくてすぐ飛びついていくんです・・・この歳にして、大型スーパーなんか行くと数人引っ掛けてくるんですから、大したもんです。」
呆れながら笑う父親は、それでも可愛くて仕方がないといった様子で小さい頭を撫でまわした。
「楓から、若槻課長は仕事が出来て優しくてかっこいいんだと聞かされておりました。どうしてお嫁さんをもらわないのか、なんて首を傾げていましたが、独身でいらっしゃるんですか?」
吉岡、最後の一言は余計なお世話だ。
「・・・はい、独身です。」
「そうでしたか・・・若槻課長は、娘の過去をご存じで?」
恐る恐るといった様子で尋ねられる。本人に聞いたわけではないので何と答えてみようもなく、曖昧な言い方をしてしまう。
「ああ・・・実はその、誰からも聞いてはいないのですが、もしかして・・・と思う事はあります。」
「そうですか・・・。きっと璃子は父親を思い出しては若い男の人に重ねているんでしょう。そう考えると切なくなってしまいますが、ここはひとつ開き直って、男好きなんだということにしようと楓と話したばかりです。」
それはそれは切ねえ話だ。このちびは今も俺を見上げては、もう会う事のない父親の姿を思い浮かべて甘えているつもりなのか。
「歓迎会の時に若槻課長に助けていただいたと聞きました。何も言っていないのに察してくれたんだ、とはしゃいでいました。それから目が合った事が嬉しかったと。」
「目・・・ですか。」
「なんでも、なかなか目を合わせてもらえずにいたところ、パソコン越しに一度だけ目が合ったとかで、それはもうきらきらした顔で私に報告してくるものですから、どんなに素敵なひとだろうと思っていましたが、本当にその通りでした。娘は今度こそ、間違わないんだと思います。」
なんだかいろいろと照れくさい事を言われ、理は体中がむず痒くなってきた。何よりも、理が密かに盗み見ていた時の、初めて目線がかち合った時の事を覚えていたなんて。
もうやめてくれ、穴があったら頭から入りたい。必ず蓋もしてほしい。
いい歳こいたおっさんが赤面していい事なんかひとつもない。これは早く帰った方が無難だと判断した理は、もう一度謝罪してから家を出た。今度は是非食事に来て欲しいと誘ってくれた父親と、帰らないでと言わんばかりに理の膝にひっついていた天使の事を思い出しては、自然を口元が緩む。
あの父親の元で育った楓があんな風にまっすぐ育つのは当たり前だ。だがそれを阻むものがいる事を思うと、どことなく殺意すら芽生えてくる。
隠していたつもりの気持ちがダダ漏れであった事は、読み手の皆様にはすでにお見通しと言ったところか。もやもやとした気持ちのなかで一つだけ揺るがないものがあるとすれば、それは彼女に対する特別な感情だろう。それを思い出すと、どこか心がほこりとあたたまるような気がした。