奇跡
「えええっ!?理の車に乗ったぁあ!?」
昼休み、各々が昼食を取る最中、楓の横で菓子パンをかじっていた華絵は急に大声を上げて天を仰いだ。華絵は小声で、なんてこった・・・と呟きながら、自身の椅子に座ったまま頭を抱えてくるくると回り出す。
「華絵先輩!?どうしたんですか、落ち着いてください!」
「ちょっと!口から出た菓子パンが飛んできましたよ!」
「そのうち気持ち悪くなって止まるだろ、ほっとけ。」
「え、てか今若槻課長の車に乗ったって言わなかったか?」
その場にいた事務員が口々に華絵の失態を拾う。しばらく回り倒した華絵は、げっそりと青い顔をして自身のデスクを掴み、自ら回転を止めた。
「ねえ、それ本当に?」
「本当ですって、ていうか、そこまで驚かれる理由がわからないんですが・・・」
華絵にそう伝えると、ふう、と一息ついてからこぼれるように呟いた。
「・・・やっとか。」
「・・・やっと?」
「いや、何でもない。」
相変わらず青い顔をして無表情の華絵からは何の意図も拾えない。初めて華絵のそんな様子を見た楓は、どうしていいのかわからずに顔色を伺うことしか出来なかった。
「で、何なんだよ、いい加減教えてくれ吉岡。結構な時間焦らされてんだぞ?」
楓の先輩、榎本仁が早く早くとせがんでくる。焦らしたつもりはなかったが、楓は昨日の出来事をそのままに話すことにした。
「ですから、昨日の夜に若槻課長とラーメンを食べに行ったんです。」
「おう、俺もあるぞ。だがそれがどうした?上司が部下に奢るのはよくある話じゃないか。」
「はい・・・それで、病院から出てから課長が車の助手席のドアを開けてくれたので、課長の車でラーメンを食べに」
「はあ!?マジか!!」
上半身をデスクに突っ伏して話しを聞いていた榎本がむくっと起き上がり、嘘だろ!?と叫ぶと、その横では同期の小野寺がガンッとデスクに頭突きをかます。年下であるが先輩の佐藤仁香に至っては化粧直しの口紅が勢い余って鼻の穴まで届きそうだ。
「えっ、ちょっと・・・何なんですかみなさん、どうしちゃったんですか!?」
若干引き気味の楓は、回転椅子をさーっと後退させる。椅子の脚がダストボックスに勢いよくぶつかると、乗っかっていた蓋がごろんと落ちた。
「理は・・・今までに一度だって誰かを車に乗せたことがないんだ。」
華絵が神妙な面持ちで話すので、これから怪談話でも始まりそうな雰囲気の中、段々と高まる華絵のテンション。
「これは奇跡だ・・・わかる?楓ちゃん!ついに彼は次のステージに進んだんだ!あの潔癖野郎がついに壁をぶっ壊したんだよ!!」
言っている意味が全く理解できない楓をよそに、全員がうんうんと頷いている。そこへ、ティッシュで唇を拭きながら仁香が口を挟んだ。
「今まで私達は散々若槻課長の車に乗らせてくださいとお願いして来たんです。例えば酔ったふりをして送ってほしいとか、腹が痛くて運転できないとか、課長の運転なら眠れる気がするとか、今日は一人になりたくないんですとか、それはもうえげつない理由をつらつらと並べて。」
最後の方は意味不明だった。
「でも毎回。絶対、それは出来ないって断られてきました。あの鬼の形相とは裏腹に意外と部下には結構甘い若槻課長が頑なにそれだけは断固拒否。プライベート空間に進出したのは楓さんが初めてなんです!」
そ、そうなんだ・・・。
まだ引きが収まらない楓は持っていた書類を両手でぎゅっと握りしめる。ここに課長がいなくて本当によかった。すると、ナイスタイミングで堺稔師長が駆けつけた。
「ここにいたのか吉岡、悪いがまたこれを運んでもらえるか?」
「はい師長、了解です!」
「悪いな休憩中に。急がないから休んでからでいいぞ。」
「いえ、そちらに向かう用事があるので今から向かいますね。」
堺師長にこっそりと感謝しつつ、荷物を受け取った楓はそそくさとその場を後にした。ぽかんと口を開けた部下達に何がどうしたと師長が問う。
「何かあったのか・・・聞きたいような、聞きたくないような。」
「稔、聞いてよ!理が・・・理が、楓ちゃんを自分の車の助手席に乗せたんだって!」
「なっ!それは本当か華絵!」
当然のようなリアクションに誰も驚きもしないままに華絵が続ける。
「本命、現る。」
「あ~ついにこの時が来たのかあ!」
「何て言うかこう、嬉しいっていうか切ないっていうかありがとうっていうか、」
「いやもう、祝福の一言です!佐藤仁香、全力でこの恋応援します!」
仁香が上手く締めてくれたところで、全員がはあああ、と長い息を吐いた。
そんな事態をつゆ知らず、長い廊下を歩きながら、楓は頼まれた荷物を運んでいた。頭の中は昨日食べたラーメンの味の事でいっぱいだ。
「課長の醤油ラーメンのスープ、おいしかったなあ。今度行ったら醤油にしようなか、いや、でも私は結局味噌にしちゃうんだよねえ。でも課長は味噌も旨いって言ってくれたし、また行けるといいな。」
スープの交換までしていたと知ったら、彼らは失神して泡でも吹くかもしれない。何も気にしていない楓は今晩もラーメンが食べたいな、などと女子力の低い事を考えながら、足取りも軽やかに廊下を駆け抜けたのだった。
ほどなくして休憩を終えた理が医事課に戻ると、何とも言えない状況が目の前に広がっていた。小野寺は点数本を逆さに読んでいるし、榎本は彼女に手紙を書いているし、仁香はものすごい厚化粧。華絵に至っては明後日の方向を向きながらパサパサの菓子パンを口の端ではむはむしている。
「おい、誰かこの状況を説明しろ・・・」
尋ねずにはいられなかったので一応一番年上の華絵に聞いてみたが、考えてみれば彼女が一番ヤバそうだった。
「理・・・あんた、男だよ。」
「あ?何だそれ、どういう、」
言い終わる前に、華絵は菓子パンを放り投げて理に飛びつく。
「よかったね!よかったね!本当に嬉しいんだよ私は!絶対に起こらないと思っていた奇跡が起きたんだから!!」
「馬鹿よせ華絵!離れ・・・ろって、何って力だ、ふざけんな仕事始まってんだろうが!」
華絵を引っぺがそうにも中々離れようとはしない。一層力強くなる腕の力とは裏腹に、今にも泣きだしそうな弱々しい華絵の声が耳に届いた。何となく思い当たる節があることに気が付いた理は、抵抗するのをやめ、両手を上げて降参のポーズをとる。
「仁、頼むからこいつを何とかしてくれ。」
「了解です課長。」
何とか事なきを得た医事課は、これから毎日そわそわしながら過ごさなければいけないという残業よりタチが悪く心臓にも良くない試練を食らうはめになる。ただ一人、楓を除いては。
季節は過ぎ、七月にさしかかろうとしていた頃。夏風邪を拗らせていた楓は、休むわけにはいかないからと重たい身体を持ち上げて職場へ向かった。きちんとマスクをして周りへの被害を最小限に食い止め、手洗いうがいを徹底、アルコール消毒を手に塗りたくる。
「そんなにするとせっかくの可愛い手ががっさがさになっちゃうよ?」
「いいんです、元々子育てや家事でがさがさなんですから。おばあちゃんみたいな手なんですよ。」
せっかくの忠告も笑顔で受け流し、周りに迷惑をかけたくない一心で取り組む楓を、華絵は困ったような笑顔で見送った。
思えばあんなにも人を遠ざける様に過ごしてきた楓の職場での生活が一転し、今ではそれがまるで嘘だったかのようであった。張り付けていた笑顔は自然と笑えるようになったし、輪に入る事を躊躇していた頃もあったが、今では話題の中心人物。何かと声をかけられて、しかしそれが好奇心や嫉妬心ではなく見守りのあたたかい眼差しである事に当人は気づいていないが、ひっくるめて皆が優しい人間であるということに安心しきっている楓に、理もまた安心いていた。そのうち皆で飯でも行くかと考えながら、今日も部下である仁の質問に的確に答えてやる。
先程からちらちらと楓を盗み見る。盗み見るなんていやらしい言い方をしてしまったが、上司として部下を心配しているという事にしてほしい。風邪を引いたとは聞いたが、結構深刻なのではないだろうか。大きなマスクで顔の大半は隠れているが、瞳は明らかに充血しているし、時折手を止めてはぼうっとしている。いつもはこっそりと開け閉めしているデスクの引き出しを豪快に開けたものだから、悲鳴みたいなやかましい音が医事課に響き渡って、楓はバツ悪そうに頭を下げている。ああ、これは結構きているやつだと踏んだ理は、楓の元へ向かい告げた。
「吉岡、今日はもう上がれ。もうすぐ五時だ、お前早番だったろう。」
「いえ課長・・・大丈夫です。もうひとつ片づけてしまいたいものがあるので、それを終わらせてから、」
「中途半端に仕事をするつもりか。さっきから手え止めてぼうっとしてんじゃねえか。患者に迷惑かけたくなきゃ今すぐ上がれ。」
楓の瞳はたちまち潤む。今にも溢れそうな涙を我慢して小さく謝った楓に少し言い過ぎたかと理は思ったが、こればかりは仕方のない事だ。出来ないときは出来る奴がやればいい。いつだってお互いさまなんだって事を学んでほしい。その為にこうして仲間がいるんじゃないか。
そこまで言ってやれば楓も笑顔を取り戻したかもしれないが、なんせ心の声とやらは時に酔っているのかと思わせるほどにストレートで甘い。発せられることもなく静かに胸の内に留まる。
「お先に・・・失礼します。みなさんご迷惑をおかけして申し訳ありません・・・」
本当に申し訳なさそうにひどい咳をしながら謝る楓を責める人間などいるはずもなく、皆が心から心配して声をかけた。気遣う言葉を理の代わりに掛けてくれた事務員に別れを告げ、楓は一人ロッカーへ向かう。
「病人にあんな言い方しなくても。フォローも上司の仕事だと思うけど?」
華絵が理の元へ来て詰め寄る。
「ねえ、思うに、あの状態の彼女を一人で運転させて帰らせるつもり?」
「あ?」
「上司にあんな言い方をされて身も心もボロボロ。熱は39度を超えたと来たもんだ。」
「ああ!?そんなにあんのか!?」
「そうだよ、昼間から帰れ帰れって言ってるのにあの子ってば、まだ37度ちょいですとか、38度まで帰りませんとか言って、さっき無理やり測らせたら39度1分だったよ。」
「何でそれを早く言わねえんだ!」
鞄を持って急いでロッカーへと向かった理。パソコンをシャットダウンするのも忘れて、長い長い廊下をひた走った。
「華絵さん、ナイスです。」
でしょでしょ?としてやったり顔の華絵に、医事課は全員で拍手を送りたい気持ちになる。
「理もたまには焦りやがれ!」
楓が辛いというのにどこか楽しそうな華絵は、カチカチとマウスをいじり理のパソコンをシャットダウンしてやる。これで一つ恩が出来た、と、華絵はにやりと口角を上げて微笑んだ。
「吉岡!」
遠くから名前を呼ぶために大きな声を出したが、予想以上に声を張ってしまった理は自分自身に驚いていた。久しぶりに自分のこのような声を聞いた。楓はその声にびくりと反応し、ドアノブに掛けた手を止めた。
「私・・・すでに何かやらかしましたでしょうか?」
消え入りそうな声。視線を合わせようとしない楓の腕を掴む。
「39度あるなんて聞いてねえ。遠慮しないで言え、こっちが焦んじゃねえか。今日は俺が送るから支度しろ。今から稔の所に行って薬貰ってくるから、支度が出来たら玄関だ、わかったな?」
先程の言い方を反省してか、理の口調は穏やかであった。楓はその言葉に逆らわず、静かに了承の返事をする。
「よし、じゃあ俺は三階に行くから、支度して待ってんだぞ。」
ぽんぽんと楓の頭を撫でた理は、すぐに階段を駆け上がった。
熱が一瞬で上昇し、それでも口元を緩めずにはいられない楓がいたことを、理は一生誰からも教えてはもらえないのだった。