騒ぐ心
携帯電話の画面を見て、そっと目を閉じる。広い部屋の片隅で年甲斐もなく体育座りをして、顔面を膝小僧に擦り付けた。長いため息の後に、数時間前届いたメールをすらすらっと削除した。どれだけ追い込むつもりなのだろう、楓の事などどうでもいいメールの送り主との意思疎通を放棄して、下の部屋から聞こえる娘の笑い声に耳を澄ませた。なんて可愛らしい声なのだろう。
最近お喋りが始まった楓の娘、璃子はとにかくママの真似ばかり。どちたの?と小首を傾げてみたり、おいちい!と両手を仰いでみたりと可愛い仕草が止まらない。だがしかし、うるさーい!と大声で叫ばれた時は、さすがの楓もひやっとしたことを思い出した。何でも反芻される事を恐れた楓はしばらくの間娘に敬語を遣っていた。そんな娘と孫を見て、楓の父親は穏やかに笑う。父親と楓と璃子。二人がいるから楓は生きていられるのだと実感する。どんなに喧嘩しようと、毎日眠る前に「ありがとう」と唱えてから眠る事が楓の習慣であった。
歓迎会から半月、5月に入った頃だった。医局の秘書に呼ばれて訪ねた院長室の前で、緊張がMAX状態の楓はドアをノックできずにじだんだを踏んでいた。いつまでもこんな所で立ちっぱなしではまずいと意を決してノックをしようと手をかけたその時、トントンと控えめに肩をたたかれた。驚いて勢いよく振り返れば、緊張MAXの原因がにこにこと楓を見下ろしている。
「やあ吉岡さん、呼び出したのに留守ですまなかった。師長に呼び出されていてね。」
はは、と優しく微笑む院長に、楓は緊急停止させられたロボットのように動けない。前の職場の院長は強面で有名であったが、これ程までに緊張したことはなかったはずだ。大杉英一院長の圧倒的な存在感には、初めて会った時からやられっ放しの楓である。彼の前ではなぜか敬礼でもしてしまいそうになる程の緊張感が縛り付けてくるのだ。
「さあ入って、少し話しがしたかったんだ。」
背を軽く押され、部屋に入る。初めて入った院長室はとても清潔に保たれていて、塵ひとつ落ちていない。真っ白な床が輝いていて、すぐ出た所の廊下と同じものとは思えない。何故かここだけ異空間に感じ、きょろきょろと辺りを見回していると、
「ああ、綺麗だろう?毎日掃除してもらっているんだ。いいって言うのに、朝からせっせと磨いてくれるからね。彼には助けてもらっている。私はこう見えて整理整頓が苦手なんだ。」
「そうなんですか・・・ちょっとだけ、意外です。」
「だろう?よく言われる。だからと言ってここまでしてもらうと、私の秘書が手持無沙汰で少し可哀想なんだが。」
眉を下げて微笑む院長は、言葉とは裏腹にまんざらでもない様子に見える。
「理はこれは俺の趣味だからと言ってくれるが、お前に任せておくと病院が潰れるとか怖い事を言い出すから、余計な手出しはしないと決めたんだ。」
「えっ、若槻課長が掃除を?」
「ああ、知らなかったんだね。開院からずっとだ。君たちの医事課も彼が朝から掃除しているだろう?」
若槻課長は誰より早く病院に来て掃除をしてくれている。皆がそんな事をさせるわけにはいかない、と朝早くに出勤すれば、やりたくてやっているだけだと言われたそうだ。コーヒーでも飲んでいろと言われ、手伝うなって事なのか優しさなのかわからないんだよね、と笑う華絵先輩の言葉を思い出す。
「そうなんです、早くに出勤しても、コーヒーでも飲んでいろって言われたとかで・・・そんな事は出来ないし、始めの頃はみんなして早く来てはおろおろしていたと聞きました。」
「理は優しいからね。」
という事は、優しさからきた「コーヒーでも飲んでいろ」なのだろうか。そう解釈してから、何故自分が呼び出されたのかを問う。
「あの、院長・・・お話と言うのは。」
「ああ、すまない。話という程の話じゃないんだ。ただ君が上手く仕事が出来ているか、不安はないか聞きたかっただけなんだ。」
楓の過去を全て知る大杉院長は、楓に背を向けて外の景色を眺めながら答えた。入社試験の面接で過去を明かすことになってしまった楓にとって、病院のトップにここまで気遣われるのはどうしても気が引ける。だからといって特別な待遇を受けているわけではないが、こんな風に気遣われてはどうしたらいいかわからない。
「お気遣い・・・本当に感謝します。華絵先輩・・・木下華絵さんがよく話しかけてくれて。仕事も教育係として常に隣にいてくれますし、何より明るくて・・・救われます。」
「そうか、それはよかった。彼女は君の何も知らないけれど、それでも可愛い部下を彼女なりに可愛がっているんだ。たまに驚く事もあるかもしれないが、大目に見てやってはくれないか。」
「そう・・・ですね、たまにびっくりしちゃいますけど・・・」
「はは、だがね、彼女は意外と周りをよく見ているんだ。ただ、内緒話だけは慎んだ方がいい。耳元で囁いても大きな声で復唱されるだけだ。」
「えっ・・・それは、困りますね。」
「無自覚だからややこしい。理はそれで何度も辱めを受けているよ。前の病院ではプリンが好きなのかと大声で叫ばれて、影のあだ名はプリン課長だったから。」
「プリン?!・・・可愛いですね。」
医事課に戻って若槻課長を見たら真っ先にプリンの事を思い出すだろう。余計な事を聞いてしまった、と楓は一人苦笑いだ。
「理とは上手くやっているかい?外来と入院じゃ違うかもしれないが。」
「上手くやっていけてるかは正直・・・わからないですけど、この間の歓迎会で少しお話が出来たのでよかったです。お若く見えると言ったら、ガキだと言いたいのかと怒られてしまいました。」
「はは、そうだね、彼はそれを気にしているから・・・ああ、そうか、それでこの前はあんな事を。」
「えっ、何ですか?」
「いや、歓迎会の翌日だったかな?朝の掃除をしてくれていたから理にコーヒーを用意したんだが、ぞうきんを絞りながら小さな声で「年相応っていい言葉だよな。」なんて呟いていたのが聞こえたんだ。私には聞こえてないと思ってその後は何も言わなかったが、きっとその事が関係していたんだね。納得できたよ。」
デスクの書類をトントンと整えながら、大杉院長は楽しそうに話す。
「もしかして若槻課長を傷つけてしまったんでしょうか!?どうしよう、謝ったら許してくれますかね!?」
「いや、これ以上拗らせていいことはないよ。気にしなくていい。彼は見た目通り真面目な男だよ。あんな目つきだから、あまりないとは思うが相談相手には打ってつけだ。物事を客観的に見られるし、余計な事は言わない。それに気遣いも出来る。女性の看護師から陰ながら絶大な支持があるんだが、そういうものには無頓着だからモテるにモテないんだ。」
「そうなんですね・・・あっ、そう言えばこの間の歓迎会の時も華絵先輩に家族の事に触れられてあたふたしていたら、課長が上手くかわしてくださって。」
「そうだったのか・・・。彼は見ていないようで見ているんだよ。聞いていないようで聞いているんだ。」
「実は私、課長と目が合った事がほとんどなくて、飲み会の時は対面だったのでどうしようかと思いました・・・一度目が合ってからは話すことが出来たんですけどね。」
「なるほど・・・でも彼は見ていたと思うよ。」
「えっ、何をですか?」
「君を。」
しばらく固まって、うーんと唸った楓は、それはないですよ、と否定した。あれだけ課長の事を気にして見ていたのに一度も目が合わなかったんだ、見ていたはずがない、と一人頷く楓に院長はそうかと一言話してそれ以上は話さなかったが、とにかく若槻課長がとてもいい人だということだけはわかった。そう思ってから改めて課長の顔を思い出した楓の表情が自然と緩む。
「忙しい所すまなかったね。君が元気そうで安心したよ。何かあったら相談するといい。」
「はい、ありがとうございました。失礼します。」
最初の緊張はどこへやら、楓は流れるような所作で院長室を後にした。流されやすいな、と思いながらも、いろいろ気にしてくれている院長には本当に頭が上がらない。ふと時計を見やれば30分も経過していて、楓は急いで医事課へと戻ったのであった。
月初めの医事課は嵐のような忙しさである。診療報酬の請求に追われながら日々の患者対応にカルテ出し、点数計算、カルテバック、その他やる事はもろもろと山積みで、五時頃医事課に戻ると、目の前に置かれたカルテバックの山に楓の目が眩む。午前中に片づけられなかったものが合わさりとんでもない量になっていたカルテの最後のひとつを片づけるのはこの私か、と遅番の楓は密かに残業を受け入れる。
病院での残業など当たり前なのだが、しかしいつも残業が同じ人間では不平等だから、と残業は交代制である。遅番になると帰りが深夜になる事もしばしば、それを考えれば楓が今から成すべきことは明白だった。とにかくこのカルテを片づけなくては。それが終わらなければデスクワークが出来ない。デスクワークの後でのカルテバックなんて、と楓はひとり身震いした。あのおびただしい量のカルテを保管している、なんとなく悪寒が走るカルテ庫に、深夜一人きりだなんて考えられない。
よし、と気合を入れ、お疲れさまでした~と颯爽と帰って行く仲間に挨拶をしながら、台車にカルテを乗せて医事課とカルテ庫を往復していると、チン、と鳴ったエレベーターから若槻課長が降りてきた。
「吉岡か・・・すごい量だな。」
「はい、今日は先生方から戻って来た入院のカルテもたくさんありましたから。」
「運が悪いな、重いだろう。」
「・・・重いです。でも大丈夫です、これを持っていったらあとは片づけるだけですから。」
「しかし、これからアレを片づけるんだろう?何時に帰れるか。」
「ですね・・・お気遣いありがとうございます!では行ってきます!」
・・・初めて名前を呼ばれた。
はっと我に返った楓はそんな事を考えている暇はない!と自分を叱咤して、カルテ庫へと向かった。そして一人で片づける事1時間、ようやく半分以上片付いた所で、自分がたてる物音以外何一つ音の鳴らないはずの静かなカルテ庫に、ガシャン・・・と扉の閉まる音が響き渡った。
「・・・誰か来た・・・?」
たくさんの棚から覗くが、誰もいない。誰かが間違って開けただけか、と気を取り直してカルテを仕舞っていると。
「吉岡。」
「ひっ!?」
背後には若槻課長が立っていて、思わず声を張る楓。
「課長!気配がなかったですっ」
「ああ、消してきたからな。」
気配って消せるの?
楓の驚き様に、若槻課長は少し困ったような顔で続ける。
「そこまで驚くとは思わなかった、すまない。今日はもう全員帰った。後は俺とお前だけだ。」
そう言うと、若槻課長は何気なくカルテを手に取り、棚に戻し始めた。
「えっ、課長、いいですよ!私やりますから。課長はもう上がってください、早番でしたよね?」
「気にするな、俺が勝手にやっているだけだ。」
「でも・・・毎日院長室と医事課の掃除を朝早くからされていてお疲れでしょう?早く帰れる日は四の五の言わずに帰る。課長がこの間おっしゃっていたんですよ?」
「・・・あいつ、余計な事を。」
「あっ、院長室の掃除の件はびっくりしました。ぴっかぴかでした、課長の掃除の賜物ですね!」
「ああ、あんまりぴかぴかにしてやったら転んでしまいそうだとかぬかしやがった。あいつ、コーヒーこぼしてもティッシュでさっと拭くだけで・・・濡れたもんで拭かねえとシミになるってあれほど言ってんのに。」
ぶつぶつと文句を言いながらきちんと隙間なくカルテを戻しつつ、棚の埃をチェックする若槻課長を見ていた楓は、プリンの件を思い出して思わず笑い声を上げてしまった。
「どうした急に。」
「っ・・・いいえ、なんでも・・・っ」
「なんでもって顔じゃねえな、何だ。言え。」
眉間に皺を寄せた課長がずいずいと迫ってきて、楓は仕方なく事の真相を明かす。
「あの・・・大杉院長から聞いたんですけど・・・課長は、プリンがお好きだと・・・伺いまして。」
「・・・・・」
「意外・・・と言ったら失礼ですよね!でもなんて言うか、勝手に甘いものが苦手なイメージがありまして。その・・・プリンっておいしいですよね。」
「・・・俺は甘党だ。」
「そうなんですね、いいと思います!私も好きです!」
「そうか・・・」
何故だか急に元気を失くした課長は、それでもカルテバックを最後まで付き合ってくれた。予定よりもだいぶ早く終わり、その後のデスクワークも課長がいろいろと手ほどきをしてしてくれたおかげでさくさくと進んだ為、七時には帰り支度を始めることが出来た。
「ふう、やっと終わりましたね!課長、本当にありがとうございました。」
「いや、いい。」
男女のロッカー前で挨拶を交わす。課長とはここでさよならだ。何だか少し寂しく感じたが、楓は気持ちを悟られぬように笑顔でお礼を言った。
「では、ありがとうございました。課長、お気をつけて。」
「ああ。」
ロッカールームに入った楓は、自分のロッカーと向き合いため息をついた。すごくすごく疲れたはずなのに、どこか清々しい。ロッカーの鏡の中で、どこか生き生きとしている自分を見ていたら何だか気恥ずかしくなって、バタンと扉を閉めた。なんて顔をしているんだろう。口元が緩んで、目尻の下がった自分の表情。いやいやいや、と頬をたたき、身支度を再開した。
「出来たか、帰るぞ。」
「へっ!?」
ロッカーを出た所で目に入って来たのは、壁に寄り掛かって携帯をいじる若槻課長の姿であった。楓の身支度を待ってくれていたのだと理解する頃には、ぽおっと頬に熱が溜まるのを感じた。
「待ってて、くれたんですか?」
「ああ。」
それだけ言うと、課長は踵を翻してさっさと歩いて行ってしまった。小走りで追う様にして肩を並べると、課長は歩幅が同じくなるように歩いてくれた。課長からしたら何でもないことが、そんな小さな事が楓にはひっかかる。優しくしてもらう、女扱いしてもらう事など久しぶりであったからだ。
澄んだ夜空がなんと美しい事だろう。都心でもなんでもないこの田舎では、夜に空を眺めればキラキラと輝く綺麗な星たちを拝めることは少なくない。寒くもなく、暑くもなく丁度いい気温。頬をかすめる夜風が気持ちいい。
「ああ、お腹が減りました。課長は今日のお夕飯はなんですか?」
「今日はコンビニだな。」
「えっ、私も、です。朝から父親に、今日はコンビニ弁当だからなって宣言されましたから。」
「たまにの息抜きも悪くない。それくらい構わんだろう。」
「ですよね!それにうちの娘はコンビニのおにぎりが大好きなんですよ。」
「現代っ子だな。」
「ですね、ママはちょっと寂しいです。今日は帰りが遅くなると連絡してあるので、父親といい子に食べてくれていると思います。私もこれから自分の分を買って帰ります。」
「・・・何か食って帰るか。」
「・・・えっ!」
突然のお誘いに思わず足が止まる。
「嫌ならいいが・・・」
スタスタと歩みを進める課長の背に、待ってください!と言葉を投げかける。
「えっ、あの、いいんですかご一緒して!」
「食いに行きたい気分になった。何か食いたいものはあるか?」
「そうですね・・・あっ、ラーメン!」
「色気ねえな。」
「え!ごめんなさい!じゃあパスタで・・・」
「ラーメンな。」
課長は足を止めることなく歩いていく。いきなりの展開に動揺しつつも何だか嬉しくなって、その背を追いかける。課長はそんなに背が高くない。人は小さいって言うけれど、楓には頼れる大きな背中だ。車の助手席を開けられた事に驚きつつ、今日はいろいろな事がありすぎた、と助手席で何ラーメンにしようか悩む楓は色気のかけらもなかった。
食後に出てきたサービスのデザートがまさかのプリンであった事に吹き出して笑ってしまったのは言うまでもない。