一人で生きていく。
目の前が真っ暗になるというとはこういう事なのか。声にならない声が、音の乗らない空気だけが喉からひゅうひゅうと吐かれ、意図しない涙がとめどなく流れてくる。数秒して聞こえてきたのは、今まで生きてきて聞いた事のない音。己の絶叫。
「いやあああああああああああああああ」
夏の夕暮れ。昼と夜の狭間、オレンジがかった雲が、濃い青の空をゆっくりと流れていく。今となっては、覚えている事といえばそれくらいだった。いい加減消し去りたいのだけれど、きっと一生忘れる事のない一瞬を背負って、一人生きていく。ああ、出来る事ならいっそ。
私が死んだらよかったんだ。
「おはようごさいます」
「おはよう、吉岡さん」
入社したての新人事務員、吉岡楓は、今日も張り付けた笑顔で朝の挨拶を交わす。前職と同じ仕事だからだいたいの仕事の流れはわかるし、あとはこの職場の雰囲気にのまれながらここのルールに従って合わせてやっていけばいい。人付き合いも程ほどにしなくては。深く詮索されて困るのは楓自身だ。自分にとって必要のないもの、それは友情、愛情、その類であることを肝に命じ、デスクについた。
病院の医療事務として働き始めた楓に明け渡されたデスクは、最近定年したお局が愛用していた古めかしい錆びれたグレーのデスク。座ればどこまでも反り返る背もたれ、開けば誰かの悲鳴みたいな音がする引き出し。入社して間もない頃、机の開け閉めでよく周りの注目を浴びたものだ、と書類を整理しながら思い出していた。先輩に「ちょっと新しいものの購入を考えようか。」と苦笑いされた時は、楓も同じような顔で頷いた。
外来患者担当の事務員は全員で8人、入院患者担当は4人で仕事をしている。外来患者担当は同じような仕事を毎日繰り返しているが、入院患者担当はそうもいかない。毎日忙しなく点数本を片手にああでもないこうでもないと、デスクから身を乗り出して相談し合っている姿を見ると、ああ、入院担当でなくてよかったと毎日思ってしまう楓である。この病院は開院してからまだ数年ということもありいろいろなことが手探りの状態であるために仕方のない事だ。
ふと、すぐ隣の島のデスクに目をやると、今日も4人して意見を言い合う入院患者担当。いつ収束するのかと思うと、いつも決まって楓から見て島の奥のデスクから、低くあまり通らないその声で決定事項が伝えられ、皆が納得しため息をつきながらどっかりと椅子に腰を下ろす。その声の主の医事課長、若槻理はパソコンから一度も目を反らさずに、事務員の質問に的確に答えていた。
点数本も見ずに入院患者の点数をぴたりと当ててしまうなんてすごい、と楓がパソコンの隙間から密かに若槻課長を尊敬の眼差しで見つめていると、画面に引き込まれるのではと思う程にパソコンとにらめっこしていた切れ長の鋭い視線とかち合った。楓はあからさまに「あっ」という顔をしてしまったが、若槻課長はすぐに目線をパソコンに戻し何事もなかったかのように仕事を再開している。何事もなかったみたいにって、本当に目が合った、ただそれだけの事であったのだが、実を言えば入社して半年、若槻課長と目が合ったのは初めてであったのだ。
しばし呆然と若槻課長を見つめていると、楓の左隣りから小さいけれど嬉しそうな、そんな声が囁かれた。
「そんなに熱い眼差しで楓ちゃんってば、そんなにあいつが気になる?」
「えっ、あ、いや・・・別に・・・。」
「わかるよその気持ち。部下があんなに大慌てで仕事をしてるっていうのにあの冷静さはさすがだよ。あの人のお蔭でうちの入院組は期日までに請求できるからね。私もわからないところは聞いちゃうし。」
楓の左肩に顎を置いて課長を見つめる先輩、木下華絵の眼鏡の淵が耳に当たってこそばゆい。
「木下先輩は、課長と長い付き合いなんですか?」
「だから、華絵でいいって。」
「・・・華絵、先輩は・・・」
そう言い直すと、華絵先輩はくしゃりと笑った。あまり人と関わらないようにと心がけている楓にとって、華絵先輩はくせ者だった。何かと楓を気にかけて話しかけてきてくれるのだが、結構何でもずかずかと立ち入って来るタイプだったもので、楓の中では要注意人物でもある。けれど面倒見がよくとても親切に接してくれるので、何かと断れないでいる。
「まあね、前の病院から一緒だよ。私ら二人は院長に引き抜かれたんだ。特にやめたいって思ってはいなかったんだけど、理が一緒ならまあいっか、くらいなノリで軽く引き受けちゃったが最後。開院の準備はそりゃあ鬼のような忙しさで・・・」
名前で呼んでいるところから、相当仲がいいのだろう。若槻課長の話についてはもう少し聞いていたかったが、看護師からカルテを出してほしいと言われた下っ端の楓は、お決まりの作り笑顔で華絵先輩に別れを告げてからカルテ庫へと向かったのだった。
数日してから、だいぶ遅くはなりましたが、の一声つきで、医事課の新入社員歓迎会が行われた。病院近くの居酒屋で行われたのだが、病院の飲み会といえばここと決まっているらしく、御用達の華絵先輩が幹事を買って出た。総勢12名で行われた飲み会の席順と言えば、何故だか上座の若槻課長の目の前に楓が座らされ、ただただおろおろしているしかない楓であった。席順は若槻課長以外くじ引きで決めたので仕方ない事なのだが、どうにも納得いかず同じく新入社員の小野寺光生のスーツの裾を机の下で必死に引っ張るも、小野寺は隣の先輩にお酌しながら委員会の話に花を咲かせている。行き詰ってゆっくりと顔を上げると、そこには一人ビールをたしなむ若槻課長の姿があった。
「若槻課長・・・どうぞ。」
「・・・ああ。」
若槻課長のビールがなくなる頃を見計らってお酌をする、という流れを、もう幾度となく繰り返す楓は、果たして自分は本当に歓迎されている身なのかと疑問に思う。だがしかし、壁を作って来た楓には酒場で楽しむ仲間もいなければ余裕もない。とりあえず、楓に出来る事はこれしかなかった。他の席の先輩方の話に入れてもらう勇気もないし、面白い話のひとつも持ち合わせていない。一通りお酌の終わった楓の任務は、ビールと枝豆しか口にしていないこの上司にビール瓶を傾ける事。かれこれ一時間は経つけれど、向かい合っているのに一度も目が合わない。こんな状況めったにない。少しくらい話ができないかとちらちら若槻課長を盗み見るが、どこか上の空の若槻課長はビールを煽り続けるだけであった。
半ば自暴自棄になって冷めたフライドポテトをちびちびつまんでいると、おーい!と賑やかな声が背に響き、肩をたたかれた。
「楽しんでる?楓ちゃん。理は乙女に楽しい話のひとつでも聞かせてやったのかな?」
「華絵先輩・・・!私は、私は・・・気の利いた楽しいお話も出来ずに課長に申し訳ない思いでいっぱいです。」
「だってよ理、仕事以外の時くらい部下に脱力させてやりなよねえ。その顔じゃあ楓ちゃんは話しかけられなかったのを明日まで引きずるよ。そういう子なんだからもっとこう、優しい表情でさぁ?」
両方の頬を引っ張り笑顔を作る真似をしてみせる華絵先輩を見つめながら、若槻課長は一気にコップのビールを飲みほした。
「俺は元々こういう顔だが。」
「いやいやわかるけど、もう少し崩してもいいと思うよ?」
「ただビール飲んで大人しくしてただけだろう。話しかけられれば普通に返す。」
「まず、話しかけやすい雰囲気づくりから行こうか。」
華絵先輩に助けられ、両手を握ってお礼を言いたいくらいの楓であったが、次の言葉を聞いてごくりと喉を鳴らした。
「ねえ楓ちゃんはさ、家はこの辺りなんだっけ?」
「はい・・・車で20分くらいです。」
「そっか、割と近いね。そうだ、娘さんがいるんだっけ?確かまだ小さかったよね、名前は何て言うの?」
来た、家族の話。どうしても避けたい話題だが、明らかに善意で話しかけてくれている華絵先輩に申し訳なく、しどろもどろになる。
「えっと・・・名前は、璃子です。」
「璃子ちゃんか、可愛い名前だね!誰がつけてくれたの?パパかな?娘なんか出来たら男はみんな溺愛しちゃうもんだよねえ。」
どうしたらいいのか、顔が引きつる楓。これ以上家族の話を持ち出されても上手く答える自信がなく、無意味に鞄の中をあさってみたりおしぼりを持て余したりしていると。
「おい華絵、ビールが足りねえ。店員呼んで来い、あと枝豆追加な。」
「え、あんた一人でどんだけ食べたんだよ。私一粒も食べてないんだけど!」
はいはいと掌をひらひらさせて、華絵先輩は部屋を出て行った。この席の呼び出しボタンが壊れているので今日はオーダーは声をかけてくださいと笑顔で言ってくれた美少年の店員の顔を思い出して密かに何故か彼に感謝する楓。すると、ふと、若槻課長と目が合った。これでやっと目が合うのは二度目である。前回はすぐに反らされたが、今回は違った。若槻課長は楓を見据えてビールを飲みほしてから、ぼそりと話し出す。
「・・・誰にだって話したくない事のひとつやふたつある。」
「課長・・・その、なんてお礼を言ったらいいのか・・・」
「礼を言われる事はしていない。だがあいつは和ませようとしただけだ、そう悪く思ってやるな。」
「はい、もちろんです・・・私がいけないんです。自分から話しに入って行くのが苦手で。」
「ああいうやつがいると助かる事も多いが、変な事を頼んできやがって苦労することも少なくない。集中すると話しも聞かねえし飯もろくに食わずに没頭するから、そういう時は放っておくのが一番だ。」
「そうなんですね、肝に命じます。」
若槻課長が気遣ってくれた事が素直に嬉しく感じた楓。洞察力が鋭いというか、相手の事をよく見ている。だからあんな風に仕事が出来るのだと楓は一人納得した。どうなることかと思ったが、それからは課長と普通に会話することが出来た。時々お酌をしながら、上手く会話が出来ていると心の中でガッツポーズを繰り返した。今日の任務は遂行できたと言えるだろう。
しばらくして宴もお開きとなり、楓も帰り支度をして玄関に出た。春先の夜風が身に染みて、トレンチコートの裾を合わせて風を凌いでいた時、華絵先輩に話しかけられた。
「楓ちゃん、タクシー?一旦家に帰ったもんね。旦那さん迎えに来てくれないの?」
「あっ、はい・・・。」
「そっか、気を付けて帰りなね。最後あなたたち二人きりになっちゃったね理、ちゃんと帰るところ見届けてあげてよ?」
「ああ、わかってる。」
知らぬ間に隣に立っていた若槻課長に驚いて少し後ずさった楓は、気分よく両手をぶんぶん振って頬を赤く染めながら帰って行く華絵先輩を、小さく手を振って見送る。
「華絵先輩は徒歩なんですね・・・」
「ああ、家が近所だから、病院は関係なくよく飲みに来ているらしい。あの若い店員はよくくだらない話に付き合わされてるって話だ。」
「ああ、あの女の子みたいな顔した彼ですね。すごく丁寧だしキラキラして見えました。若いっていいですね。」
「そりゃ俺に言ってんのか。」
「あ!いえ!決してそういう訳では!」
「冗談だ。」
真顔で冗談かどうか怪しいセリフを飛ばしてくる上司に、楓はおろおろきょろきょろ。タクシーも来る気配はなく、話を繋ぐことに専念するしかないと思った楓は、意を決して若槻課長に質問してみた。
「あの・・・失礼かとは思いますが、課長はおいくつでいらっしゃるんですか?」
「34だ。」
「そうなんですね!とても・・・若く見えます!」
「お前はさっきから俺を老けていると言いたいのかガキだと言いたいのかどっちなんだ?」
「は!いえいえ、あの、そういう訳では・・・!」
「どういう訳だ。」
はあ、と目線を落としてため息をついた若槻課長は、怒っているわけではないらしい。
「まあ確かに、若く見られることが多い。歳を知らない看護師にタメ口聞かれて歳を言ったら、もうそいつ俺に話しかけてこねえんだ。」
余程怖い顔をしていたんだろうなと感じた楓だが、口が裂けてもそんな事は言えない。
「でも!老けて見えるより全然良くないですか?少年みたいというか。」
「35になるおっさんが少年みたいでどこがいいんだ。さっきの若い店員の話といい、お前は若い奴が好きなのか。」
「いえ!そんなことは・・・全然なくって。私はただ、その。若槻課長が素敵だという話をしたまでです。」
「・・・・・」
若槻課長がだんまりしたところで楓のタクシーが到着し、一言お礼を言ってからタクシーに乗り込む。窓を開けて課長を見やると、胸ポケットから煙草を取り出して火をつけている。
「課長は代行なんですよね、では、お気をつけて!」
そう言って手を振ると、開いている方の手で手を振ってくれた。
なんだかあったかい気分になって、今日は充実していたなと、あれだけてんやわんやしていた事を忘れている楓は、タクシーの背もたれに身体を預けて瞼を閉じた。思い浮かんでくるのは若槻課長の顔ばかりだったが、どれもが仏頂面の課長の顔を思い出してはひとりでくすくすと笑ってしまった。
仕事に復帰してよかったと、ほんの少しだけ思えた瞬間であった。