3
「尚くん、起きて」
尚幸の耳に慣れた柔らかい声が近くできこえたあと、とんとん、とさらに眠くなるような優しさで、肩をたたかれた。
「ん、うぅぅ」
まだ寝かせろ、という不満を込めて目は開けず尚幸は唸り、声とは逆方向に身体を丸めた。
「尚くん、寝るにしても、制服脱がないと。皺になっちゃうよ」
皺になるのは困る、と観念してゆっくりと目を開けば、尚幸にとって世界で唯一の存在である幼馴染の顔があった。そのまま何度か瞬きをして、体を起こす。
「……おなかすいた」
「お母さんがカレー作っておいてくれたの。食べる?」
「ん」
上手く開かない目を擦りつつ、ソファから移動して、テーブルの前に座る。裕美子が、キッチンから持ってきた夕飯を手際よくテーブルに並べていくのをぼんやりと見ていた。
尚幸が寝ている間に美香のカレー以外にも、裕美子はいくつかおかずを作ったようだった。尚幸の好物ばかりでいてけれども、バランスもきちんと考えられた料理。
いただきます、と手を合わせてからは、二人ともに無言で箸を進めた。裕美子の料理はどれも旨い、と尚幸は思う。裕美子の作ったものでないと、味すらしないときもある。
裕美子はなにが楽しいのか、尚幸の食事姿をみながら、微笑んでいることが多い。
「……見てないでお前も早く食えよ」
「あ、うん、そうだね。食べる、食べる」
尚幸が声をかけるとハッ、としたように正気に戻った裕美子が、照れ笑いを浮かべたあと恥ずかしそうに食事を再開した。
食事が終わると、二人とも立ち上がって食器を台所へ運ぶ。
「尚くん、お風呂はどうする?」
「あとでいい。皿は俺が洗うから先入れ」
「……ありがと」
心底嬉しそうに裕美子は笑って言った。その顔をちらり、と尚幸は見たがすぐにぷい、と顔を逸らした。その仕草は尚幸が照れた時に行うのだと、幼馴染はよくよく知っていた。
ぷふ、と変な笑い声を漏らした裕美子を、尚幸の長い脚で放たれた蹴りが襲う。びゃ、とまた変な声を上げて、裕美子は一目散にお風呂場へ逃げた。その後ろ姿を、尚幸は冷めた目で見送る。
食器を洗っていると、思考が全く別のところにいくのは尚幸だけだろうか。つらつらと思い浮かぶのは、尚幸の大切な幼馴染のこと。
裕美子の父親は、裕美子たちが小学校入学を目前に控えたころに、交通事故で亡くなった。職場に向かう途中の出来事で、父親に一切の非は無かった。あの頃のことは、あまりよく思い出せなくなってきたがわんわん泣く裕美子の姿と、今の明るさなど全くみえないボロボロになった美香だけは、尚幸の記憶に鮮明に焼き付いている。
尚幸はその時、何もできなかった。かける言葉も見つからず、ただ泣いている裕美子の片手を握りしめることしか、できなかった。誰にとっても、苦しい思い出だと思う。
尚幸の手は、深い思考の海に漂ううちに止まっていたらしい。ジャーッ、と流れる水に慌てて食器を洗う手を再開させる。勿体ないことをしてしまった、と反省する。
シングルマザーであるが、公務員である美香の収入は多く、またその他諸々で経済的余裕は割とあるらしい。けれど、尚幸は二人に金銭的負担をかけるつもりはない。自身で稼いだ金銭ではないことが悔しいが、食事代などは月の初めに父親から渡される金から渡している。
食器を洗い終わりソファで寝転んでいると、洗面所に繋がるドアが開いた。
「あ、尚くん。ありがとね。お次どうぞ~」
お気に入りである、クリーム色がベースの水玉模様のパジャマを着た裕美子が、タオルでがしがし髪をかきながら出てきた。ソファから起き上がった尚幸は、入浴準備をする。
「髪、ちゃんと乾かせよ」
「ん~、熱いからちょっと自然乾燥させる」
「風邪ひいても知らねーぞ」
相変わらず、ドライヤーが嫌いな幼馴染を横目に、洗面所へ向かう。尚幸と入れかわるようにソファに寝転んだ裕美子を見て何となく、尚幸は声をかけた。
「裕美子」
「なに、尚くん?」
こうして名を呼べば必ず返事が返ってくるのだと、この笑顔はいつだって自身に向かっているのだと、尚幸はそう思っていた。裕美子の中で一番が自身であることを、疑いもしなかった。
二人きりの世界など、尚幸は考えたこともない。けれど、裕美子が尚幸の隣から離れていくことはないと、当たり前のように思っていた。
裕美子の姿が尚幸から遠ざかっていくことなどないと、そう傲慢にも、思い込んでいたのだ。
「別に、何でもねぇ」
「なあにそれ、変な尚くん」
あはは、と笑う裕美子につられるように、尚幸は優しく笑った。