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玄関の扉で美香の姿が見えなくなると同時に、尚幸の笑みが消えた。
「今日、美香さん深夜なんだ」
声もぶっきらぼうになる。
これが尚幸の二面性である。良い意味でも悪い意味でも、ある特定の人物の前でだけこの態度になる。この尚幸の態度を見て怖い、という人もいるだろう。というより、普段の尚幸の姿を見ている大多数がそう思うかもしれない。それくらい違うのだ。
けれど、裕美子は嬉しい、と思う。飾らない尚幸の素の姿はこっちであると思うから。
「うん、そうなの」
「ふーん」
素っ気ない返事だが、裕美子はふふっ、と小さく笑った。きっと今日も家に泊ってくれるのだろう、と裕美子は思った。不器用な優しさに胸が温かくなる。
裕美子は一人きりの夜が大の苦手だ。それを知っている尚幸はいつも、美香が深夜の時はアパートに泊っていく。そして窮屈だろうソファに寝るのだ。違和感のあるソファは尚幸専用のもので、二人が中学生に上がってから尚幸は居間の床で寝ていると知った、美香が急遽買ったものである。防犯上の理由でも、美香は尚幸が泊っていくことにとても感謝している。
「あ、そうだ。尚くん、お弁当」
「ん」
鞄から取り出したお弁当を、尚幸に手渡す。高校から給食がなくなり、各自持参となった当初、尚幸は家で雇っているハウスキーパーにお弁当を作ってもらっていた。けれど一度、ハウスキーパーがいないとかで、尚幸に頼まれてお弁当を作ったことがあった。それからも何度か、様々な理由で裕美子が尚幸の分を作っているうちに、不定期よりも定期の方が計画できて良い、と裕美子が尚幸の分も作るようになったのだ。
尚幸にお弁当を作ることは、負担ではない。どころか、裕美子は嬉しかった。けれどこれも、いつまで作っていられるのかな、と裕美子は思った。
小さい頃から幾度となく歩いた道や、二年と少し歩いた高校に行くための道。二人で歩いてきた見慣れた道も、きっと一人で歩いたら全然違う、見知らぬ道になるのだろう。怖いな、と裕美子は思った。
お弁当を受け渡した後は特に会話もなく、学校に着いた。裕美子も尚幸も特に喋る方ではないから、話が弾むことはあまりない。その分を補うように、アパートに三人でいる時は美香がとてもよく喋る。
けれど、二人きりの沈黙の空間が心地悪いなんてことは全くない。気が置けないからこそ、出せる沈黙の空間なのだ。何も言わないからこそ、相手の存在をより強く感じる。
校門をくぐり、玄関口にある下駄箱で靴を履き替える。裕美子より、尚幸のほうがいつも履き替えるのが早い。下駄箱の前の廊下で裕美子を待つ、裕美子よりずっと大きい背中が眩しくて、切なくて、目を細めて見つめた。
「おせぇ」
「うん、ごめんね」
うっかり。尚幸の背中に見惚れすぎたようで、裕美子は怒られてしまった。駆け足で尚幸に近寄る。二年の教室は二階にあるため、階段を上る。二階というのは遅刻しそうな人には酷だが、裕美子にとっては、尚幸と共に居られる時間が延びるので幸せなことである。教室は一年が三階、三年になると一階になって階段を上る必要がなくなるので、幸せ時間は学年を上がるごとに短くなっていく。
「今日は、放課後なにか用事ある?」
「ない」
「そっか。じゃあ、また帰りに」
「ああ」
そう言って、二人は別々の教室に入るため別れた。
裕美子と尚幸は、学年は同じ二年だがクラスが違う。裕美子が二組で、尚幸が四組だ。尚幸が教室に入るのを隠れて見届けてから、裕美子も教室に入った。
クラスにはまだ誰一人としていなかった。朝早すぎるのだ。尚幸の希望で、校門が開くのとほぼ同時に学校に着くようにしている。部活動をしている者を除けば、裕美子たちが学校に一番乗りなのが常である。
裕美子の席は窓際の一番後ろという、絶好のお昼寝スポットである。けれど、それが活用されたことは一度もない。裕美子は美香の為にも自身の為にも、勉強に手を抜く気は一ミリもなかった。
今でも優秀、と称される裕美子がもっともっと勉強を頑張ろう、と思うのは、尚幸の存在も大きかった。尚幸にこれ以上置いていかれないように、裕美子は必死だ。
裕美子は大抵、学校では一人でいる。それは虐められているとか、避けられている訳ではない。恋愛話をできる友人や共通の趣味を持つ友人もいるし、クラスメイトとの仲も悪くはない。テスト前になると、どこここを教えてほしいと頼まれたりもする。
けれど裕美子は休み時間もほぼ勉強しているため基本、広く浅くの仲だ。特定の仲のいい人がいない。
お昼休みは一人で食べることもあるし、友人と話しながらお弁当を食べることもある。二十分程度で食べ終えて、勉強道具をもってすぐに図書館に向かう。お昼休みの教室は勉強をするには少し騒がしすぎる。
扉を開けた瞬間、梅雨の時期特有の暑くてじめっとした空気に纏わりつかれる。裕美子の足取りが心なし速くなった。
図書館の少しひんやりとした空間が、汗ばんだ肌に心地よかった。十二月から三月にかけて多くいた人も、七月となると随分減った。どこでも座り放題なので、適度に明るく人通りがない場所に腰かける。そして、勉強道具を気ままに広げた。勉強を始めれば、時間はスッと通り過ぎていく。
予鈴が鳴る三分前に、裕美子はペンを置き片づけて、教室に向かう。
教室に向かう途中で裕美子の身体は突然、不自然に固まった。
廊下の窓から中庭を挟んで、向かいの通路が見える。そこに見えるのは、体を寄せあった男女の姿。
男は間違いなく尚幸で、女は長いストレートな黒髪を揺らしている。髪が揺れると垣間見える小さな顔と、華奢なのに豊かな胸があるのが確認できた。
すごく気になるけど、当たり前のように窓の向こう側にいる二人の会話は聞こえない。躍起になって裕美子は口の動きを読もうとした。が、横顔のため口がよく見えない上に、そもそも読唇術なんて使えるわけもなく。
ふと尚幸の顔が真正面に見えた時、裕美子の心臓はズキリ、と刃物に抉られるような痛みに襲われた。
――今の尚くんの笑顔は、本物だ。
尚幸は先にも話したように、二面性がある。実のところ尚幸が普段、他人と話している時にみせるにこやかな顔は作り物で、心の底から笑っていることはほぼ無い。
それは尚幸が小学生一年のときに起きた事がきっかけで、尚幸はそれから、人を信じなくなった。否、信じられなくなった。
今では幼馴染である裕美子さえ、見ることが稀になった尚幸の心からの笑顔を、簡単に引き出してしまうその黒髪の少女は、秋吉咲という。その少女は一昨日、尚幸の彼女になった。
裕美子は、いつだって尚幸の幸せを願ってきた。完璧超人の理想の男にみえて、実は不器用で繊細で心優しい彼に、ぴったりと寄り添える片割れと出逢えますように、とずっと祈ってきた。
そしてそれが私であったらいいのに、ともう何度も、裕美子は願っていた。だから尚幸の隣が別の人で埋まったことに、いっそ死んでしまえるくらいに胸が痛んで、上手く呼吸ができなくなる。
――もう尚くんは、二人きりの世界から飛び出して、いってしまった。だから私も、歩き出さなきゃ。尚くんの後を急いで追いかけて、辛くなった時は支えてあげられるように。
裕美子は荒くなった呼吸を、深呼吸して落ち着かせる。そして、いつの間にか丸まっていた上半身を伸ばす。知らずに力強く握りしめていた勉強道具たちは、皺くちゃになっていた。それに苦笑いした裕美子はふう、とため息を漏らし、ゆっくり目を瞑る。
裕美子の一番の幸せは、尚幸が幸せに笑っていることだから。この全身引き攣るような痛みも、我慢する。こんな痛みなんて乗り越えて、彼の後ろで笑ってみせる。
再び目を開いた裕美子は、教室に向かって一歩ずつ、歩き始めた。
尚幸とは違う速度で、違う方向へと。