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からす天狗とるぅむしぇあ

作者: 浅名ゆうな

 目の前にひざまずくのは、絶世の美貌を持つ青年。

「私は、からす天狗の天風と申します。鉄心殿に、あなたの守護を命じられました。これより全身全霊であなたをお守りさせていただきます」

 鉄心とは亡き祖父のこと。

 墨色の羽織に鉄紺の小袖と袴をまとった、均整のとれた体躯。からすの濡れ羽のような艶やかな髪と、冷たく輝く黒曜石の瞳。背中には、人ではあり得ない漆黒の羽。まるで闇を切り抜いたような硬質な美貌。一体祖父はこの美しいあやかしとどこで知り合ったのか、という疑問はさておき。

 ⋅⋅⋅本当に、完璧な容姿だった。涼やかな眉が激しく波打っている以外は。

 慇懃無礼な、恐ろしく不本意そうなからす天狗を見下ろし、にっこり微笑み口を開いた。


「――丁重に、お断りさせていただきます」



  ◇ ◆ ◇


 五月晴れの空の下、ピカピカの墓石が輝く。

 我ながら完璧な仕上がりだ。

 天本蓮実は額を拭いながら満足げな息をついた。元来綺麗好きであったし、何より大好きだった祖父の墓である。磨き上げる手に力が入るのも道理だった。

「蓮実、お花はこんな感じでいいかしら?」

「いいも何も、うちのお墓にはもったいないくらいの花だよ。ありがとう、凛子」

 これだけでいくらするのだろうと考えずにいられない大輪の菊に、深い紫のりんどう、かすみ草。しかもそのどれもが、これでもかというほど大量だ。

 天本家のごく庶民的な墓石には少々不釣り合いだったが、せっかくの厚意だ。それに、お祭り好きでけんかっ早く、血の気の多かった祖父ならきっと喜んでいると思った。

 一周忌の墓参りをこうして手伝ってくれる親友の石蕗凛子に、蓮実は改めて頭を下げた。

「本当に、じいちゃんのお墓参り、付き合ってくれてありがとう。誘ったのもダメ元だったんだけど」

「あら、私が鉄心さんの一周忌にも行かないような、薄情者だと思ったの?」

「そういうわけじゃないけど、凛子は一応華族のお嬢様だし、習い事だって忙しいでしょ?」

「一応ってどういうことかしら、蓮実さん?」

 凛子は急に丁寧な口調になって微笑んだ。女学校でも先生に称賛される、楚々として品のある笑み。その上普段は呼ばない『蓮実さん』だ。かなり嫌みったらしい。

「まぁ、確かにうちは、没落ぎみの貧しい家だけど。華族なんて肩書き所詮お飾りよ」

 被っていた猫を一瞬で脱ぎ捨て、凛子は肩をすくめた。

 上品な所作と雅やかな佇まい。茶道や華道の心得もあり、勉学も難なくこなす。下級生からもお姉様と慕われ、教師からの覚えもめでたい凛子だが、親友の蓮実は知っている。彼女は、お嬢様らしからぬ超ドライな性格だった。

 ちなみに比べて蓮実は、比べることもおこがましいほど何もかも平均点である。親友とのスペックの差に時々うちひしがれる。現実とは残酷だ。

「それを言ったら、うちなんて名家ですらないよ。本当なら凛子と話すだけでおそれ多いもんね」

 女学校という場がなければ、親友と出会うこともなかっただろう。そう考えると不思議なものだ。

「私は、蓮実と友達になれてよかったわ。鉄心さんにも色々お世話になったし、大好きだった」

 凛子がおもむろに手を合わせだしたので、蓮実も口をつぐみ手を合わせた。心に静寂が広がっていく。

 鉄心は、蓮実の唯一の肉親だった。幼いころ両親が船の事故で亡くなって以来、ずっと二人で生きてきた。

 大切な祖父が重い病だと知ったのは、彼が亡くなったあとだった。鉄心の囲碁仲間だった医師が、葬儀の席で教えてくれた。見つかった時既に手の施しようもなく、薬で痛みをごまかすしかなかったという。壮絶な痛みだったろうに、蓮実に悟られまいと日常生活を送っていた。それが、鉄心の愛情だったのだと。

 心の一部が千切れてしまったような喪失感だったが、悲しんでばかりもいられなかった。

 鉄心は江都でも名の知れたからくり技師だったのだが、がらくたと呼べるものから国宝級の作品まで、作業部屋に雑然と置きっぱなしだったのだ。処分に寄贈に管理維持に、かけずり回ったのは言うまでもない。

 目まぐるしい日々を思い出しかけ、げんなりしていた蓮実の横で、凛子が呟いた。

「鉄心さん。蓮実はこう見えて、結構抜けてるから心配です。ちゃんと見守っててあげてくださいね」

「凛子。失礼すぎだし聞こえてるし」

「あらやだ。蓮実って耳がいいのね」

 どちらかというと聞こえるように言っていたとしか思えないが、何も言い返さなかった。口では負けが見えている。

「さて。お参りも済んだし、もう行かなくちゃ。このあとお花のお稽古なの」

 凛子が手を叩いて立ち上がる。

「うそっ!やっぱりあったんじゃん、習い事」

「あるって言ったら蓮実は遠慮するでしょ。私だって鉄心さん好きだったのに」

「そりゃそうでしょ。先生方遅刻に厳しいって言ってたじゃない!っていいから、とにかく早く行きなって!」

 急いで凛子を追い立てる。彼女も遅刻する気はなかったのか、門前にちゃっかり馬車が控えていた。

 寺の前で別れ、蓮実も家路につく。

 そう。祖父の遺品は埋もれそうなほどあった。

 弓曳き童子や茶運び人形など、多くは祖父と懇意にしていた青年実業家に譲った。からくりの手入れには、結構な資金と技術がいる。蓮実の元にあるより保存状態がいいだろうと考えた。鉄心の作品を見られる博物館を創設したいとも言っていたので、たくさんの人にその魅力を知ってほしいと思ったのもある。

 しかし、一体何なのだろうと感じるような代物は、蓮実の判断で手元に残した。祖父は器用だったので、からくり以外のものも多くあったのだ。例えば、怪しげなかんざしや、まだ珍しい舶来の眼鏡。不思議な形の壺や、懐中時計などなど。

 ――その中に、あれがあったんだよね。

 つい先週の出来事を思い出し、蓮実は額をおさえた。正直、頭痛を禁じえない。

 まだ親友にも話していないことがある。自分の身に降りかかった、ある災難を。

 大和国の首都⋅江都は、東に貴族や武士の居住区と、西に商人や町人の居住区と別れている。整然として閑静な東側と、ごみごみとした西側。蓮実は西側の住人で、活気があるこの居住区に愛着があった。

 さらに西寄りの、江都でもはずれの方に、蓮実の住まいはある。生前両親も暮らしていたので、祖父と二人で住むには少し広すぎる家屋。一人きりになってからは、ますます広く感じていた。女学校から帰ると、自宅の静かさによく驚いたものだ。蓮実の周囲を耳が痛くなるほどの静寂が取り巻いていた。 

 それが今は――。

 玄関に近付くと、トントンと包丁の音がした。辺りにほのかな味噌の匂いが漂っている。蓮実は息をつき、重く感じる引き戸に手をかけた。

「⋅⋅⋅ただいま」

 小声で呟き、蓮実は玄関を上がろうとした。が。

「泥棒でもあるまいし、ただいまくらい言いなさいといつも申し上げておりますが」

「⋅⋅⋅ちゃんと言いました」

「聞こえなければ言ったことになりません。それくらいのことも分からないのですか?呆れたものです。『ちゃんと』などとよく言えますね」

 玄関に立ちふさがったのは、件のからす天狗だった。割烹着を着込んでいて、闇の化身のようなあの時の面影は一切ない。 

 天風は、ただいまを言わない限り蓮実を家に上げないつもりだ。一週間も一緒に暮らしていれば、相手の考えそうなことも分かってくる。

「⋅⋅⋅ただいまっ」

「お帰りなさい」

 無言の圧力に耐えかね、とうとう素直に挨拶した。分かればよろしいとばかり、天風はようやく道を譲る。というか、ここは蓮実の家なのだが。何かが間違っているのにはっきり指摘できないもどかしさが喉元まで込み上げてくる。

 なぜこんなことになっているのかというと、話は一週間前にさかのぼる。

 祖父の遺品整理も最近になってようやく目処がつき、蓮実は残りの怪しげなからくりたちを検分していた。外国土産の人形みたいな、いらないけど処分に困るというような物で溢れかえる中に、ある書物があった。

 表紙に歯車が並びんだ不思議な本。何が不思議かというと、開く箇所が見つからないのだ。見た目はさながら箱のよう。だが、本棚に並んでいたので、やはり本なのだろう。

 蓮実はこの手のからくりが結構好きだ。作る方はからきしだったが、からくりを解くのは得意だった。

 解きはじめると周りのことは耳に入らない。そこにある謎に、ただ没頭していく。

 まずはからくりの仕組みを分析する。噛み合った歯車といくつものねじ。祖父の作り上げた、精巧で緻密な世界。いくつもの仕掛けが複雑に絡み合っているため、まず最初に裏表紙のパズルに手をかけた。時間をかければ子供でもできそうな、絵柄を合わせる様式のパズルだ。

 それを解くと、背表紙の下から金属の棒が飛び出してきた。葡萄と蔓の複雑な彫りが施されている。一体何に使う物なのか。

 しばらく考え、背表紙の上部に描かれた狐の絵に目をつける。葡萄といえば狐。外国の童話だ。

 何か仕掛けがないか丹念に調べ上げていると、狐の右目に黒い石が埋め込まれていることに気付いた。黒曜石だろうか。

 強く押し込むように触れると、石が動いた。ぽっかりと空間ができる。その形は、先ほどの金属棒の先端とよく似ていた。どうやらこれは鍵だったらしい。

 それを差し込むと、表紙の歯車が動きだした。かちかちかち⋅⋅⋅と微かな音が誰もいない部屋に響く。

 歯車が動きを止めるころには、すっかり紙が露出していた。なんとか解けたようだ。

 生前の祖父と、よくこういう遊びをしていた。祖父が作ったからくりは、幼い蓮実にとって楽しいおもちゃだった。亡き祖父とあのころのように交流している気分になり、懐かしさに胸がうずく。こんなふうに、ふとした時に面影がちらつく。

 感傷に浸りながら、ゆっくりと本を開いた、その時、突然本から白煙が上がった。

 蓮実は着物の袂で口を覆った。

 ――本から煙って、どういう仕掛けよ、じいちゃん!?

 白煙が少しずつ晴れ、怖々目を開けると、流麗な所作でひざまずく、天風の姿があったのだった――。

 そうして出会った二人(?)だったが、第一印象は最悪だった。

 からす天狗は、別に頼んでもいないのに蓮実を守るとか言い出したのだ。祖父との約束だか知らないが、いかにも義務で嫌々ですと言わんばかりに。

 蓮実はすぐさま丁重にお断りした。しかし天風は怪訝な顔をした。断られるとは想定していなかったようだ。

「は?今なんとおっしゃいました?」

「ですから、必要ありませんと」

 慇懃無礼に対抗し、お嬢様然と微笑むと、明らかに向こうの顔が歪んだ。意味するところは、『その喧嘩、買った』。

「それですとこちらも困るんですよ。私も鉄心殿にご恩がある。果たさねばならない義務ですので致し方なく」

 冷たい顔に笑みを浮かべ、天風も朗らかに対抗してくる。朗らかだが、内容は皮肉満載だ。迎え撃つべく蓮実も笑みを深めた。

「あら、そんなに無理することございませんわ。孫が不要と断ったなら、あなたに非はないと祖父も言うでしょう。そもそも、この平和な世に守護などという物騒なものが必要でしょうか?」

 江都幕府が開幕してから五百年あまり、誰が歩いても大平に当たりそうなご時世だ。守護と言われても正直ぴんと来ない。『あんたみたいな上から目線の嫌味な守護なんか願い下げ』と心を込めて礼を言った。

「ありがとうございます。ですがうちは結構ですので」

 まるで新聞の勧誘でも断るみたいな文言は、天風の矜持をおおいに傷付けた。

「そうおっしゃられましても、私も使命を全うしなければ。というわけで、こちらに住まわせていただきます」

「―――――は?」

 勝ったも同然と油断していたら、爆弾が投下された。蓮実はまず耳を疑った。今、なんと?

「あなた様を四六時中お守りするためには、それが一番かと。よろしくお願いしますね」

 にっこりと嫌味たっぷりで微笑まれ、すでに自分は劣勢にあると悟った。

 それからどんなにわめいても、事態は動かなかった。天風は淡々と空き部屋に自分の荷物を運び込み、割烹着を着て食材を確かめはじめ、驚くほど手際よく料理をはじめた。

 あっという間にできたのはじゃがいもと手羽元の煮物、大根とキャベツの塩昆布浅漬け、余った大根の葉の味噌汁。そして炊きたてのごはん。

 ほかほかごはんの誘惑に負け食べてみると、文句のつけようもないほどおいしかった。蓮実も料理は下手な方ではないが、比べるのが気まずいほど。

 こうして、強引に押しきられる形で、同居生活がはじまった。もとい、餌付けされる形で。

 それでも、気を許したわけではない。蓮実はこれまでの戦績を思い出しながら、ようやく家に上がった。

 同居しはじめたものの、とことん反りが合わない蓮実たちは毎日喧嘩ばかりしている。舌戦で相手を負かす機会をうかがう日々だ。

「一応言っておきますけど、あなたとルームシェアなんて、私まだ認めてませんから!」

「ルームシェアとは、他人同士が一つの住居を共有すること。まぁ間違ってはいませんが、ここはあなたの持ち家ですから、正しくは家主と居候、ですかね」

 居候に偉そうに講釈された。

「そもそも家事のほとんどを引き受けていますから、それが住まわせていただく対価と私は認識しております」

「まどろっこしい言い回しやめてよね!それに、それくらい今まで自分でやってました!おじいちゃんの遺産もあるから、困ったら家政婦さんだって雇えたし!」

 おいしい料理の虜ということは、この際わきに置いておく。

「あなたは馬鹿ですか?これから目減りしていくばかりの遺産をあてにするなど愚の骨頂。今から節約を心がけて生活しないと、将来苦労するのはご自身ですよ」

 もちろん蓮実もそれくらい分かっている。論破したいがために発した言葉で見事揚げ足をとられ、悔しいばかりだ。

「確かに、家事能力はあなたの足元にも及ばないですけれど。むしろ、どうしてそこまで生活力がおありになるのか、ぜひお聞きしたいわ」

「人と同じように都で暮らしておりますからね」

「えっ、うそ!?あやかしなのに!?」

 嫌味のつもりだったのに、思わず前のめりになってしまう。皮肉合戦はひとまず中止だ。

「そういえば、様々なことをあなたに説明しておりませんね」

「様々なこと?」

 言われてみれば、ここ一週間は同居生活に慣れることに追われ、疑問を抱く余裕もなかった。天風のあとについて軒先を歩きながら聞き返すと、彼は振り向いた。

「ちょっと早いですが、あなたが風呂から上がったら夕食にしましょうか。長い話になります」

 説明はその時、ということだろう。好奇心に駆られ、蓮実は急いで風呂場に向かった。



 今日の献立は、刻み大葉の入った鶏つくねと豆腐のあんかけ。厚揚げがたっぷり入ってボリューミーなひじきの五目煮。かつおぶしと白ごまのかかったほうれん草のおひたしと、かぶの味噌汁。炊きたてほかほかのごはんの横には、お手製のおかかが添えられていて心憎い。

「あっ、あんかけに入ってるこの野菜、もしかしてレタス?」

「はい。火を止める寸前に入れるだけで、こんなに柔らかくなるんですよ」

「レタスをサラダ以外で食べるの初めて。おいしいのね」

 体によさそうな薄味でさっぱりした料理ばかりだが、厚揚げでボリュームを出したりと、食べ盛りに嬉しい工夫がされている。

 ぱくぱく食べ進めていると、正面に座った天風が少々呆れながら口を開いた。

「おいしそうに食べてくださるのは料理人冥利に尽きますがね。気にならないのですか、色々?」

「!」

 忘れていた。とはいえ急いで飲み込むことはせず、ゆっくり大葉の風味を味わってから飲み込んだ。その様子を見て天風はますます呆れる。

「まぁ、食べながらでいいので聞いてください。私と鉄心殿の関係について」

 天風は湯呑みを持ったまま物思うように瞑目した。

「江都に住むあやかしのほとんどは、私のように人に混じって生きています。日々の穏やかな生活を愛している。けれど正体がばれるとそうはいかない。何もしなくても、人は我々を怖れる。私は全てのあやかしが安心して暮らせる居場所が欲しかった」

 この話に祖父がどう関わってくるのかいまいち分からなかったが、口を挟まず素直に聞いた。

「五十年ほど前、私は怖れられるのを覚悟の上で、先代将軍⋅徳長直義公に直訴しました」

 いきなり将軍の名が飛び出し、思わず箸が止まる。

 直義公と言えば、優れた政治手腕を持つことで有名だった。

 長年続いた鎖国制度を廃止したのも、女性にも学びの場が与えられるべきだと唱え、女学校をつくったのも彼だ。おかげでまさに今、文明開化のまっただ中。便利な物やおいしい食べ物がどんどん流入するおかげで、暮らしはぐっと楽になった。

「直義公は素晴らしい方でした。我々あやかしも江都の住民と認めてくださり、それどころか安心して暮らせる住居まで用意してくださったのです」

 そこはあやかし長屋と呼ばれ、ここよりさらに外れの方にある、あやかしだけが住まう集合住宅だという。彼らは必要以上に周りを気にせず、助け合いながら暮らせるようになった。今まで江都に散らばって暮らしていたあやかしたちに、ようやく居場所ができたのだという。

「けれど直義公は条件も設けました。江都に住むからには、人に危害を加えてはならないと」

 当然のことのように思えるが、これが難題だった。あやかしたちが持つ力はあまりに強大で、その気がなくても何かの拍子に人を傷付けてしまう恐れがある。

「そこで登場するのが、鉄心殿です。あの方ほどの名工になると、物を作ると不思議なことが度々起こっていたはずです。蓮実様はご存知でしたか?」

 今や蓮実は食べるのも忘れて聞き入っていたから、急に話をふられて目を瞬かせた。

「えっと⋅⋅⋅うん。聞いたことある。作った物が動き出しちゃったりしたって」

 力作であればあるほどそういったことが起こりやすく、祖父も苦労していた。

「そう。鉄心殿が作り出す物には、魂が宿る。それは、あの方自身が持つ特殊な霊力によるもの」

 以前から風の噂で、そういう人間がいることを知っていた天風は、急いで鉄心の元を訪れ、書を作ってほしいと頼み込んだ。

 祖父は、いきなり目の前に現れたあやかしにも驚かなかった。それどころか頼みを聞き入れ、すぐ製作に取りかかったという。

「私の目論見どおり、完成した書には力が宿っていました。そこに名を記すと、あやかしの妖力は完璧に封印されたのです」

 そうして、あやかしたちは無事、江都に住む権利を与えられた。今でも多くのあやかしが、鉄心に感謝しているという。

「なるほど。おじいちゃんに恩があるって、そのことなんだね」

 しかし五十年も前の話だというなら、恩義があるにしてもずいぶん義理がたいことだ。それともあやかしの感覚では、五十年なんてあっという間なのだろうか。

「ん?でもじゃあ、なんであなたは力を使えるの?」

 羽根を自在に出し入れできるということは、妖力を封印されていない証拠ではないか。

「私は守護のため、特例として妖力を封印されていません」

「ああ、なるほど。てゆーか、そもそも守護って必要ある?大げさだよ」

 たくあんをぽりぽりとつまむ蓮実とは対照的に、天風はやけに深刻そうだ。

「決して大げさなことではありません。説明がまだでしたが、あの書物には特別な力があるんです」

「あやかしの妖力を封印する力でしょ?」

 それはもう知っている。

「たくさんのあやかしの妖力が封印されています。合わせればとても強大な力でしょう」

 蓮実は居間の隅に放りっぱなしの封印の書に気付き、そそくさと食卓に置いた。あまりぞんざいに扱うと呪われそうだ。

「江都にも少数ですが、人と交わらず生きているあやかしがいます。理由は様々ですが、力を封印されるのを拒んだ者たちです。我々は『はぐれ者』と呼んでいます」

「え?力を封印してないあやかしがいるの?それって危ないんじゃ⋅⋅⋅」

「危ないですよ。人間が気付いていないだけで、彼らは時折事件を起こしています」

「そんな⋅⋅⋅」

 不審な死、人知の及ばぬ現象。そういった事件の影には、必ずあやかしの存在があるという。

「そして彼らは、より強い力を常に欲している。そういうあやかしにとって、その書は最高に魅力的です。今こうしている間にも、強い力の気配がぷんぷんする」

 天風の目が怪しく光った気がして、蓮実は素早く封印の書を抱え込んだ。けれど、そうすると危ないのは自分自身だと気付く。天風も蓮実の考えていることが分かったようで、一つ頷いた。

「そのとおり。だから守護がいるんです。ちなみに私は平和に生きたいだけなので、他人から力を奪おうなんて思いません」

 そうだ。力を欲するのは『はぐれ者』だった。

「でも、今まであやかしなんて、見たこともないのに⋅⋅⋅」

「封印されてましたからね。それを解いたのは、誰です?」

 指摘され、どっと冷や汗が出た。天風の普段から冷たい眼差しが、より冷ややかに突き刺さる。考えなしに、むしろ嬉々としてからくりを解いたのは―――蓮実だ。

 すっかり動転した蓮実の声が上ずった。

「だって!そんな大切な物ならなんであんな無造作に!!」

「ええ。そこは鉄心殿にも、間違いなく非があるでしょう」

 死してなお人を混乱に陥れる祖父の豪快さ、非常識さに戦慄する。破天荒もほどほどにしてほしい。

 蓮実は着物の袷から、封印の書の鍵を取り出した。綺麗な細工だったし、祖父の遺品を身に着けたいと思い、金鎖に通して首から下げていたのだ。

「どうしよう!どうすればいい!?今さら鍵したってもう遅いかな!?」

「遅いですが、一応鍵はかけておいてください。これ以上『はぐれ者』の気は引かなくなるでしょう」

「ならもっと早く教えてよ!」

「一度封印が解かれた時点でもう手遅れですからね。文字どおり気休めです」

 焦って錠をかけるのに手間取ったものの、なんとか再び封印する。けれどほとんど無意味らしい。

「なんでそんな冷静なのよ!どうしよう、私殺されちゃう!?ああもう勘弁して――⋅⋅⋅」

「殺されません。そのために私がいる」

 凛とした声が蓮実を遮った。天風だ。

「髪一筋すら傷付けさせません。申し上げたでしょう。全身全霊で、あなたをお守りすると」

 黒曜石の涼やかな瞳には、妖力でも宿っているのだろうか。奥底にまで浸透し、心を落ち着かせていくようだ。

 初めて出会った時にも言われた言葉。なのになぜか、あの時とは違う気持ちになる。天風があまりに揺るぎないから、今回は不思議と信用できる気がした。

「って、ならあなたがこれを持っていればいいんじゃない!?私みたいな小娘より、あなたが預かっていた方が封印されているあやかしたちも安心でしょう!?」

「逆です。たとえ私でも、いつ心変わりして妖力を手に入れようとするか分からない。心からの信用を、全てのあやかしから得ることはできません。公平を期すためには、人間が持つことが最善なのです」

「そんな⋅⋅⋅」

 それはあやかしの事情だ。蓮実には関係ない。

 見も知らぬ他人に押し付けてしまおうか?けれど、誰かを身代わりにするのも気が引ける。

 ――おじいちゃんは、その頼みを受けたんだ。

 想像だが、おそらく快く。だからこそ、封印の書は天本家にあったのだろう。そしてこれも、祖父が魂を込めた作品。祖父の遺品だった。

 ――手放したく、ない。

 ぎゅっと抱えると、ますます誰にも譲れないと思う。

 どうすればいいかなんて分からないが、封印の書を、というより、祖父の遺品を守りたいと思った。それがどれだけ自分本意な考え方か、分かっていながら。

「あなたをお守りします。この命に代えても」

 蓮実の気持ちをくみ取ったように、天風が断言した。真っ直ぐな視線に射すくめられる。

 というか、よく考えるとものすごいことを言われていると気付いた。命の危機もあり得る深刻な状況にもかかわらず、不覚にも頬が熱くなる。

「どうされました?」

「いえ⋅⋅⋅よろしくお願いします」

 うつむき、顔を髪で隠しながら答えた。ここでありがとうくらい言えればかわいげもあるのだが、男に免疫のない蓮実にはこれが精一杯だった。

 いつの間にか封印の書を引き受けていることに気付いたが、もう遅い。そうして、投げやりながら覚悟を決める。どうせ手放すことはできないのだし、と。

「あの」

「は、はい」

 話しかけられると先ほどの余韻で、まだどぎまぎしてしまう。

「早く、食べてくれます?さっさと片付けたいんで」

 蓮実のときめきは一気に冷めた。



   ◇ ◆ ◇



 しとしと雨が降る。

 静かに降る天の恵みに、かえるたちも嬉しそうに合唱している。紫陽花も日増しに色付いており、まだ五月は終わっていないのに、すっかり梅雨の風情だ。

 女学校からの帰り道、蓮実は神社の境内で雨宿りさせてもらっていた。雨が降りそうだから一緒に帰ろう、と凛子に言われていたが断った。今でこそ一般的に利用されるようになった馬車だが、蓮実には貴族の乗り物というイメージが根強く、恐縮してしまったのだ。

 断らなければよかったとは、思っていない。

 憂鬱になる人も多いだろうが、蓮実は雨が結構好きだ。

 しっとりした空気や、喧騒が遠ざかる感じ、何より雨が地面を打つ音が楽しい。

 そう思えるようになったのは祖父のおかげだ。蓮実も子供の頃は、外で遊べなくなる雨が嫌いだった。

 けれど、ある時祖父が言ったのだ。なにごとも知ろうという気持ちがなければ分からない、と。

 そしてどしゃ降りの中、外へ連れ出された。一粒一粒がつぶてのように体中を打つ感覚は鮮烈だった。かえるを捕まえて遊んだ。家から食器やらバケツやら引っ張り出して、音楽を奏でた。水たまりに飛び込み、どれだけしぶきが上がるか競争した。

 その日から、蓮実は雨が好きになった。全身が濡れても風邪さえひかなければいいと思っている。だがさすがに、女学校の制服を着ている時はまずい。品行方正な才色兼備を育てようという学校の方針を、近所の方から疑われてしまう。

 ――去年は、じいちゃんが来てくれたな。

 今思えば体も相当辛かったはずだが、祖父はいつでも笑って迎えに来てくれた。一つしかない傘に二人で入って、少し肩を濡らしながら帰ったものだ。

 でももう、祖父は迎えに来てくれない。 

 目を閉じてうつむいていると、傘を打つ雨音が近付いてくることに気付いた。

 顔を上げると、渋茶色の傘が目の前にあった。傘を持つ人は、全身黒ずくめ。

「こちらにいらっしゃいましたか。危うく通りすぎてしまうところでした」

「⋅⋅⋅天風」

 わざわざ迎えに来てくれたのだろうか。いや、そんなはずはない。彼にそんな義理はないのだ。

「朝から降りそうな気配でしたから、傘を持っていくようお伝えするべきでしたね」

「降るって分かってたの?うっそだぁ。あんなに晴れてたのに」

 うろたえて、茶化すような言葉しか出てこない。こんな時こそきちんとお礼を言うべきなのに。

 けれど天風も、目くじらたてるようなことはなかった。

「分かるんです。私の羽根は湿気に敏感ですので」

 返答に耳を疑った。

「あなたが冗談を言うなんて思わなかったわ。しかも全然つまらないし」

「すみませんね、面白くなくて。事実とはそんなものですよ」

「え?じゃあ本当に?」

「私もあやかしの端くれです。人には想像もつかないような能力だってあります」

「どんな?」

 好奇心から聞いたが、答えてくれると思っていなかった。けれど天風はスッと手のひらを蓮実に向けた。と、温かな風が全身を包み込んだ。目には見えないから分かりにくいが、彼の手から生み出されたのだろう。

 蓮実の周りでのみ吹く不思議な風は、しばらくするとやんだ。

 雨に降られて少し濡れていた着物がすっかり乾いているのは、偶然ではないだろう。

 ――着物を乾かしますとか、言ってくれればいいのに。そしたら私だって、ちゃんとありがとうって言うのに。

 短い付き合いだが、最近彼の性格が分かってきた。几帳面で真面目、なにごとにも手を抜かない。優しいのに不器用で素直じゃないから、伝わりづらい。伝わらなくてもいいと思っている。

 だから、優しさに気付いた時が困る。天風自身がお礼を欲していないから、今みたいに何も言えなくなってしまう。蓮実の場合、そもそも嫌みや皮肉の言い合いが日常会話のようなものだから、なおさらだ。

 毒舌は少し控えようかと考えながら、ため息をつく。

「なにごとも知ろうという気持ちがなければ分からない、か」

「今日習った偉人の名言ですか?」

「どっちかと言うと、奇人」

 不思議そうに首をかしげた天風は、話を戻した。

「まぁとにかく、風を自在に操るのが私の妖力です」

 そう言って、今度は道端の小石に手のひらを向ける。つむじ風でも起こったみたいに、小石はどこかへ飛んでいった。小さいとはいえ、石を持ち上げたのだから結構な強風だ。

「そっか、だから天風⋅⋅⋅」

 天つ風。彼の名前の意味が分かった。呟きをひろった天風が、横目で蓮実を見る。

「名前」

「え?」

「先ほども、初めて名前で呼びましたね」

 そういえば、蓮実の中で彼は敵という認識だったから、名前なんて呼んだこともなかった。嫌みが飛んでくるだろうと、すぐさま臨戦態勢に入る。

「あら。天風様とでもお呼びした方がよろしかったかしら?」

 彼は前を向いたまま、静かに答えた。

「いえ。天風とお呼びください」

「――」

 今日の天風はいつもと違いすぎて、なんだか調子がくるう。

 ――優しすぎる。もしやニセモノ?

 蓮実が現実逃避している間に、いつの間にか家に着いていた。

 ふと、祖父と傘に入った時、お互いの肩が濡れていたことを思い出した。今、蓮実の肩はまったく濡れていない。

 先に玄関に上がっている天風を見る。彼は髪からも雨粒がしたたり落ちていた。

 気付いた瞬間、なんだかたまらない気持ちになった。胸の底がむずむずするような、切なく痛むような、初めての感覚。

 蓮実は今度こそ素直になった。

「ありがとう⋅⋅⋅天風」


  ◇ ◆ ◇


 なんだかんだと、からす天狗との奇妙な同居生活がはじまってひと月が経った。

 小競り合いは多いが、互いにそれさえ楽しんでいたし、言いたくないが関係はとても良好だった。二人(?)での生活に慣れてきたふしもある。

 日射しが強くなってきたころ、凛子に甘味処へ誘われた。冷しぜんざいがおいしいと評判の店らしい。

 店の内装も洒落ている。一面若草色の壁に、桜色の淡い色合いのふすま。障子の代わりに、窓はステンドグラスになっていた。西洋化は進んでいるが、飲食店にはまだ珍しい。テーブルの上のコースターもレース編みでかわいい。こだわっているだけあって、店内の客も女性がほとんどだった。

 そんな華やかな空気の中、凛子が物騒なことを言い出した。

「知ってる?最近通り魔が流行ってるらしいよ」

 深刻な顔は、冷やしぜんざいとあまりに不釣り合いだ。蓮実は驚いて何も返せなかった。

「しかも、狙われてるのは、うちの学校の生徒らしいのよ~」

 凛子いわく、学校帰り、一人で歩いていると、ひと気のない通りで声をかけられるらしい。『藤ヶ丘女学校の生徒か?』と。顔も隠していて、どうにも怪しいので答えずにいると、男は一歩ずつ近付いてくるという。

「被害に遭ってる子達はみんな、そこで走って逃げたから、何もされずに済んだらしいわ」

「人相は分からないの?」

「その状況で顔を確認できるほど度胸ある子なんていないわよ」

「確かに。犯人と取っ組み合いでもして、学校側に知られたら大問題だもんね」

「いや、問題はそこじゃないから」

 凛子はあきれた様子で答えたが、やがておかしそうに笑った。

「でも、あなただったら他の子たちみたいに怖がらず、変質者を捕まえちゃいそうね」

「凛子ったら。いくらなんでも相手は男だから敵わないよ」

「だからそこなの?」

『藤ヶ丘女学校の白百合』とか騒がれ、下級生の憧れである凛子は、苦しそうに、お腹をおさえて笑い続けた。



 すっかり話し込んでしまい、店を出る頃、辺りはもう薄暗くなっていた。帰りが遅くなると伝えていないので、天風も心配しているだろう。

 ふと、そんなことを考えるのは、一年ぶりだと気付く。家に帰りを待つ誰かがいるというのは、ちょっと嬉しい。

「蓮実。一人じゃ危ないし、私が送っていくわ」

 店を出るなり凛子が言った。

「いいよ。そんなに遠くないし」

「馬鹿ね。変質者の話、もう忘れたの?」

 あきれたように肩をすくめる凛子のそばには、石蕗家の使用人が控えている。彼女が一人で帰る方が心配だったので、蓮実は一安心だ。

「走って帰るから、大丈夫。凛子こそ早く帰らないと」

 彼女の家には門限がある。蓮実を家まで送り届けていたら間に合わないかもしれない。

 それでも互いに譲らず、道端で押し問答していると、第三者の声が割って入った。

「蓮実様」

 聞き覚えのありすぎる声に凍りつく。振り返ることさえできなかった。

 声の主の衝撃的な美しさに凛子が、ついでに彼女の使用人が言葉を失う。

「蓮実様、帰りが遅いのでお迎えに上がりましたが」

 聞こえていないと思ったのか、彼――天風は、再度声を上げる。それでも振り向かない蓮実に焦れたらしく、わざわざ正面に回り込んだ。凛子と話していたのに関係ないとばかりに。 

 親友の無言が怖い。ちゃんと相談していればこんなことにはならなかっただろうが、どう話しても正気を疑われる気がしてできなかったのだ。

「ああ、一応言っておきますが、ここが分かったのは尾けていたからではありませんよ。あなたの気配を妖力でたどれば――」

「こここここの人は、最近雇った使用人なの!態度の大きさがたまにキズだけど、本当、何でもできて頼りになるのあはは」

 ――頼むからもう少し空気を読んで!

 なぜ蓮実の居場所が分かったのか?なんて顔はしていない。

「それじゃ、また明日!」

 適当に言い繕い天風をぐいぐい押して、なんとかその場から歩き出す。逃げきれたとは思っていない。明日学校で根掘り葉掘り聞かれるだろう。だとしても、天風がいないだけでずいぶんましだろうと思った。彼が意図せず爆弾を投下しそうで気が気じゃないのだ。

 さかさか歩く蓮実の背中に、凛子の声が届いた。

「また明日!色々言いたいこと聞きたいことはあるけど、とにかく気を付けてね!」



 食卓に並ぶのは熱々の天ぷら。大きな穴子やなす、かぼちゃ、大葉などがある。

 他には輪切りのおくらと茹でた豚肉を和え、ごまや醤油、少しの唐辛子で味付けしたもの。天ぷらが盛りだくさんだから、味噌汁はシンプルに豆腐と長ネギのみ。あとはおいしいご飯と漬物が何種類か。

「今日もおいしそう。おくらを見ると、いよいよ夏が来るって気がするわ。大葉の天ぷらも大好き」

「そんなに好きなら育てましょうか?庭も広いですし、私が管理しますよ」

「家庭菜園?近所の人に珍しがられそう。大体、天風を見られたら、色んな意味でまずいもの」

 まず、近所中が『なんだあの美しい男は』と騒然となる。それから『ん?何者?天本さん家に住んでるの?』となり、『えっ!あそこ確か、年頃の娘一人しかいなかったよね!?』と、町中に激震が走るに違いない。

「そうですか?やってみたかったのですが」

「私の平穏な日々のためにやめて」

 天風は不思議そうだったが、とりあえず頷いてくれた。安堵しながら穴子の天ぷらにかじりつく。 

「! なにこれおいしい!タレが甘口でいいわ!」

「濃口醤油にみりんや砂糖を加えて少し煮詰めただけですよ。あと、少ししょうがが入っています」

「さっぱりして絶妙ね!なんにかけてもおいしそう」

 ちらりとご飯に視線を移すのを、天風は見逃さなかった。

「それだけはいけません。白飯のつゆがけなんて淋しすぎる」

「そう?私はありだと思うけど」

「見てる方がもの悲しくなるんです。卑しい真似は常日頃からお控えくださいね」

「あら?それじゃまるで私が、常日頃卑しい行為に及んでいるように聞こえるけれど?」

「失礼。あなたは普通に過ごしているおつもりだったんですね」

 完全に喧嘩を売られている。蓮実が気付いていないだけで、全身から卑しさがにじみ出ていると言わんばかりだ。

「そりゃ高貴な身分ではありませんから。卑しい人間に仕えるのも、さぞご苦労がおありでしょうね?」

「ええ。分かっていただけますか」

 澄まし顔で肯定され、心の中で歯噛みする。敵は一枚も二枚も上手で、まるで手の上で転がされているようだ。

「ところで」

「?」

「ご友人が最後に言っていた『気を付けて』、というのはなんですか?常套句にしては真剣味がありました」

「あぁ、あれね。なんだか最近、うちの女学校狙いの変質者がいるとかなんとか⋅⋅⋅」

 かちゃり、と箸を置く音がやたら響いて、蓮実は肩を揺らして顔を上げた。

 食べる手を止めた天風は、凪いだ海のような顔をしていた。最近では珍しくなった、ひどく無機質な表情。硬質な瞳が蓮実を射抜いて、わけもなく動揺する。

「な、なに?」

「そういうことでしたら、明日から毎日、私が送り迎えさせていただきます」

 深刻な雰囲気で何を言い出すかと思えば。蓮実は肩の力を抜いて笑った。

「大げさだよ。学校もそんな遠くないのに」

「何が大げさなのですか?そもそも私はあなたの護衛としてここにいる。少しでも危険があるかもしれない事柄は、率先して伝えるべきだと思いませんでしたか?」

 護衛としてここにいる。そんなことは承知しているはずなのに、なぜか反論していた。

「でも、それは『はぐれ者』から守るって話でしょう?」

「事件を起こしているのが『はぐれ者』でないと、なぜ言いきれますか?もしかするとあなたを、ひいては封印の書を探しているのかもしれません」

「封印の書から妖力が漏れているって言っていたじゃない。もし正体があやかしだったら、人違いなんてありえない」

「封印しなおしたことで妖力の漏れはなくなりましたから、はっきり目星をつけられる『はぐれ者』はいないでしょう。それに、そんなことを言っているわけじゃありません。あなたが身近な危険を話さなかったことが問題なんです」

 言い合う内に互いの口調が刺々しくなっていく。丁寧な言葉とは裏腹に、天風が苛立っているのが分かった。

「あなたを守るのは私の義務。守られるあなたにも、少しは協力する姿勢が必要です」

 義務。その言葉があまりにすんなり胸を抉る。

 喉の奥に何かつっかえているみたいだった。無理やり飲み下すと、それは胸まで落ちてきて、ぎゅっと絞られるような痛みに変わった。

 出会った時にも言われた言葉だった。あの時はただ怒りしか感じなかったのに、今はとても苦しい。

 いつの間にかこんなにも、心を傾けていた。こんなにも、近い存在になってしまった。一人で生きていけると思ったのに――。

 蓮実はうつむいていた顔を上げ、お嬢様然とした控えめな笑みを顔に貼り付けた。

「⋅⋅⋅自分のことは自分で何とかいたします。これまでだって一人でやってきましたから」

 いつもの舌戦の始まりとは、何かが決定的に違う。天風との間に、深い溝を刻み込むような。

 蓮実は、夕飯の残りを淡々と食べ終える。彼の料理もこれで最後。立ち上がると、あくまで楚々とした態度のまま頭を下げた。

「今まで、お世話になりました」

 いっさいの言葉を寄せ付けず居間をあとにする。

 天風は最後まで引き止めなかった。


  ◇ ◆ ◇


 言い負かしたみたいだったが、実際負かされたのは蓮実の方だ。『義務』という一言に、ただ打ちのめされた。

 布団にもぐり込むと涙が自然とこぼれた。

 馬鹿みたいだ。自分から終わりにした。手を離した。泣くなんて勝手すぎると分かっている。

 ただ、純粋に悲しかった。一緒にいて楽しかったのも、幸せだったのも、蓮実だけ。

 頼れる人がいなくなって、ずっと平気なふりをしていたくせに、こんなにも孤独に怯え、温もりに飢えていたことに気付かされた。天風に必死にしがみついていたみたいで恥ずかしい。彼は蓮実なんて必要としていないのに。

 こんな関係続けてなんになる。これ以上馴染まない内に、傷付く前に、離れた方がいい。そう思ったから、ひどい態度で彼を拒絶した。逃げるように楽な道を選んでしまったけれど、仕方ない。ぽろぽろ、ぽろぽろ。大切な人を失い続けて、もう、疲れてしまった。

 天風に泣いていると知られぬよう、蓮実は嗚咽を殺して泣き続けた。それが、ずたずたに傷付いた心を守る、ささやかな矜持だった。

 

  ◇ ◆ ◇


 朝起きると、当然天風はいなくなっていた。

 日常が戻ってきた。彼がいなかった頃と同じ生活が始まる。

 顔を洗って、制服に着替える。長い髪の表面だけ後ろでまとめ、りぼんで留める。疲れない程度に床の雑巾がけをしてから、朝食の準備だ。

 味噌汁と卵焼き、鮭と納豆、お漬け物。そしてご飯。どれもおいしそうにできたけれど、味なんてどうでもよかった。

 使ったお皿を洗い終え、かばんに教科書を入れて家を出た。

 一度だけ、振り返った。

 静かな玄関。蓮実は俯かないよう歩き出した。



 予期せぬことが起こったのは、その日の夕方だった。

 家に帰る気になれず、なんとなくぶらぶらしていると、いつの間にか日が落ちていた。さすがに変質者の噂もあるし、真っ暗になる前に帰ろうと家路を急いでいた、その時。 

 音もなく忍び寄った何者かに、突然羽交い締めにされた。

 驚き、一瞬動けなくなった蓮実の耳元で、男は囁いた。

「天本蓮実だな?」

 声に聞き覚えがあった。それに、夏のむせかえるような熱気の中、気分が悪くなりそうなほど強く焚かれた、香の匂い。めまぐるしく蘇る過去の情景に、思考が押し流されそうになる。

 ――だめ!

 そんな場合じゃないと頭を振り、猛然と暴れ出した。にわかに抵抗され、相手の腕がゆるむ。その隙を逃さなかった。

 しかし素早く走り出そうとすると、前方に男が数人立ちふさがった。一人じゃなかったのだ。顔を隠した、いかにも怪しげな風体の男たち。

 ――そういうこと⋅⋅⋅。

 蓮実は抵抗をやめた。男の仲間が複数いるなら、さすがに逃げきれそうにない。

 藤ヶ丘女学校の周辺に出没していた変質者の狙いは、本当に蓮実だったらしい。天風が危惧していたようなあやかしの犯行ではなかったが、結局窮地に陥るのなら、彼の言うとおり、もっと気を付けているべきだった。

 悔やむ胸に彼の顔が浮かぶ。冷たい黒曜石の双眸。常に眉間に寄ったシワ。嫌味を言う時の、どこか楽しそうな声――

 ――嫌味を言う時楽しそうなんて、どれだけ底意地が悪いの。

 考えていると、不思議と恐怖はおさまった。これから自分の身にどんなことが起こるか、ある程度予想もつく。冷静にものも考えられる。とりあえずそれで十分。誰の助けも望めないなら、自分でなんとかするしかないのだ。

「もう抵抗しないから、乱暴しないで。どこに人目があるか分からないし、醜聞を避けるためにも下手なことはしない方がいい。でしょう、関屋さん?」

 後ろからゆったりした足取りで近付いてきた男は、にやりと酷薄そうに笑った。


  ◇ ◆ ◇


「鉄心殿の遺品を、全て譲っていただきたい」

 突然訪ねてきた男がそう言ったのは、雨が降りそうで降らない、蒸し暑い日のことだった。

 初老の男は、関屋文左衛門と名乗った。

 四十九日も済み、ようやく蓮実の身辺が落ち着いた頃の訪問だった。とはいえ、心まではそうもいかず、関屋の放った言葉に不快感を覚えるのも仕方のないことだった。

 金ならいくらでも出してやると言わんばかりの態度。小娘と侮りきった目。成金らしく品のない派手な着物。そして、むせかえるような強い香の匂い。なにもかもが祖父の作品に相応しくない気がした。

 嫌悪感は顔に出さず、信頼する人に寄贈することが決まっていると告げた。将来的には、誰もが祖父の作品を見学できるようにする計画なのだと。

 もったいない、金なら払うと、関屋はずいぶん粘った。けれど蓮実は頑として譲らなかった。誰の目にも触れないようしまっておくより、たくさんの人々に愛される方が蓮実は嬉しいし、祖父もきっとそれを望んでいる。

 渋々引き上げていく時も、関屋が未練がましい顔をしていたのをよく覚えている――。


  ◇ ◆ ◇


 蓮実が連れて行かれたのは、東の区画にある、関屋の大豪邸だった。入った途端目隠しをされ、そのまま屋敷の中を進まされる。右に折れ左に折れを繰り返したため方向感覚はすぐになくなったが、屋敷の中枢に連れられているらしいことは分かった。

 しばらくして、ようやく解放された。手足は縛られていなかったので、すぐさま目隠しをはずす。見回すと、蓮実を連れてきた男が扉の向こうに消えていくところだった。急いで駆け寄るも、目の前で扉は閉ざされてしまった。

 ため息をつき、改めて辺りに目をやる。屋敷の中とは思えない、殺風景な場所だった。閉じられた扉も石をそのまま削り出したものだし、長く続く回廊も石造りだ。等間隔に明かりが灯されているものの、なんとなく不気味な雰囲気だった。

 石の扉はびくともしない。誘導されているようで不安だが、ここで座り込んでいても仕方ない。蓮実は憂鬱なほど真っ直ぐ伸びた回廊を進むことにした。

 歩きだすと、靴音が高く反響する。石造りのせいか、夏なのにどこか肌寒くさえある。関屋は一体、なんのためにこんな場所を作ったのだろうか。ここに蓮実を閉じ込める意図は?

 ひたすら歩き続け、突き当たりを曲がる。と、そこには先ほどと同じような石の扉が待ち構えていた。

 ここまで歩かせておいて、ただの細長い牢屋だったのかと、視線を落とす。すると石の扉の下部に、正方形のくぼみがあることに気付いた。屈んで観察するが、特に変わったところはない。

「なんだろう、これ?」

 扉の脇に台座があり、そこに石の欠片がいくつも入っていた。一つ手に取ってみると、表面は加工されていて実になめらかだ。

「もしかして⋅⋅⋅パズル?」

 直線的な側面を持つ欠片から、扉のくぼみにはめていく。周囲から埋めていくことで、少しずつ中心部もはまっていく。それほど難しいパズルではなかった。

 最後の欠片をパチリとはめると、石の扉が轟音をたてて動きだした。何も考えずパズルに没頭していたが、どうやらからくり扉だったようで、欠片を全てはめると開く仕組みだったらしい。

 扉が開ききると、同じような通路が続いていた。少しためらったものの、蓮実は先を進んだ。

 次に突き当たった石の扉の前には、小箱が置いてあった。何の変哲もない木で組まれた箱。けれど振ってみると、からからと音がする。これもからくりの一種だ。ただの箱に見えて、仕組みさえ分かれば開けることができる。祖父が作ってくれたことがあったので、蓮実にはそんなに難しくなかった。

 ここもすぐ通過し、長い石廊をしばらく進む。そんなことを何度か繰り返し、なんとなくここの構造が分かってきた。真っ直ぐ伸びた回廊を四回曲がれば、もう元の場所に戻ってもおかしくないはず。そうならないのなら、おそらく曲がり角が直角ではないのだ。例えるならかたつむりの甲羅のように、少しずつ内側に入り曲がっている。

 石ではない扉が現れたのは、しばらくしてからだった。

 家屋らしいあさぎ色の漆喰壁に、杉の太い梁。大きな扉は豪奢な彫刻が施されている。察するにこれが最後の扉だろう。

 扉の前には二枚の絵が飾ってあった。その間には、動かない柱時計。時計の針は短針しかない。

 蓮実はそれらを丹念に調べ上げていく。絵はなぜか両方とも、白い花瓶に活けられた十二本の雛菊。けれど全く同じというわけでもなく、所々相違点があった。

 二枚の絵は、細心の注意を払って描かれていた。花の長さや反り具合、葉脈の一本まで一致している。ここまで精密に似させているなら、相違点はむしろ故意によるものだ。

 違っているのは雛菊が咲く向きと、幾つかの花びらの枚数。

「花の向き、枚数、十二本、それに時計⋅⋅⋅⋅⋅⋅」

 花びらの枚数を数えるのに骨が折れたが、蓮実はようやく答えを導き出した。

「柱時計はダイヤルの役割なんだ。そしてこの絵は、回す番号を暗号化したもの」

 よく見れば、十二本の花は時計のように円を画いて並んでいる。そのうち、花の咲く向きが異なっている本数は四本。その花の位置を時計の時間に割り当てれば、それがダイヤルの番号だ。全て正面向きに咲く方の絵を基準に、右を向いていれば右に回せばいいはずだ。

 そして、ダイヤルを回す順番。それは花びらの枚数で分かる。咲く向きが異なっている花だけ、花びらの枚数も違っていた。ある花は一枚、ある花は二枚、三枚、四枚⋅⋅⋅おそらく、単純にダイヤルの順番だろう。

 蓮実は柱時計に近付き、短針に触れた。

「えっと、右に八、左に六、左に二、右に十一⋅⋅⋅」

 かちり、という音とともに、大きな扉が少しずつ動きだす。

 からくりに夢中だった蓮実は、この時ふと我に返った。 

 自分は十分冷静だと思っていた。けれど本当に冷静だったら、一旦踏みとどまっていただろう。堅固な牢に入れるならまだしも、からくりさえ解けば脱出できる場所に蓮実を閉じ込めたのはなぜか。ご丁寧に明かりが灯っていたのはなぜか。関屋の思惑はなんなのか、ちゃんと考えたはずだ。

 けれど蓮実は、冷静なつもりがそうでなかった。胸を占める心細さを遠ざけてくれる、からくりに触れていたかった。無意識に祖父とのつながりを求めていたのだ。自分の心の弱さに嫌気がさした。

 扉が左右に開いていく様に、冷や汗が背中をつたう。この先には、一体何がある――?

 まず驚いたのは、高い高い天井だった。太い石柱が幾つも立っているが、その先が闇にのまれて見えないほどだ。空調設備が整っているのか、足元をひんやりとした空気がなでていく。広大な床には、大理石が惜しげもなく敷き詰められていた。関屋のこの場所へのこだわりが狂気じみて伝わってくる。寒さだけでなく、思わず身震いしてしまった。

 正面の壁は、一面に硝子が張られていた。よく目を凝らしてみると、その硝子の向こうに――

「!」

 蓮実はまろぶように駆け出した。

 硝子越しに整然と並ぶのは、茶運び人形や弓引き童子。からくりだけにとどまらず、螺鈿細工の文箱や美人画なんかもある。

 一見共通点はなさそうだが、蓮実には分かる。全て、祖父⋅鉄心の作品だ。離れの工房で見たことのあるものばかりだった。

 全体が石造りなのも、祖父の作品のために湿度と温度管理を徹底しようということなのか。そのためだけにこんな場所を作ったのだとしたら、関屋のからくりへの執着は異常だ。

 おそろしくなって後退りする蓮実の肩を、男の手が掴んだ。

「ようこそ、天本蓮実」

 体に絡みつくようなねっとりした声、そこににじんだ狂気じみた執着で、顔を見なくても誰か分かった。ゆっくり振り返ると、やはり関屋がいた。感情を押し殺すように笑っているが、目だけ異様にぎらついている。彼を取り囲むように屈強な男たちもいた。粗野な雰囲気から、金で雇った用心棒だろうと分かる。

「どうだ、美しいだろう、私のコレクションは」

 関屋が硝子を撫でながら、恍惚とした顔で呟いた。

「天本鉄心は天才だった。何を作っても後世に残る傑作だ。私の専属になってくれと頼んだことも、一度や二度ではない」

 関屋が作業部屋を何度も訪れる姿を、蓮実も目撃していた。

「だがきっぱり断られたよ。評価してくれるのは嬉しいが、俺は作品を色んな人に見て、触れてほしいんだ。とね」

「じいちゃんが、言いそうなことだわ」

 挑むように言い返すと、関屋は皮肉げに笑った。取り巻きたちが気色ばんで身を乗り出そうとするのを、余裕の態度で制する。

「そうこうしている内に、あの男は死んだ。一生報われない片思いのようなものだ。だからこそ⋅⋅⋅せめて、天本鉄心の遺作を手に入れようと思った」

 そして、鉄心唯一の肉親であり、遺品を全て相続した蓮実を連れてくるよう下働きに命じた。けれど苛立っていた関屋は、蓮実の顔や住居を詳しく説明しなかったらしい。主人に聞き返すわけにもいかないと、下働きが手を尽くして調べ分かったのは、藤ヶ丘女学校に通っているということくらい。それが、あの変質者騒ぎになったのだ。

 結局、業を煮やした関屋が出て来たのだから、下働きは無駄な犯罪を犯したわけだが。

「お前には長年いらいらさせられた。だがな、一つ気が付いたことがある。からくり回廊に閉じ込めたのはそれを確かめるためでもあった。難なく仕掛けを解く姿を見て、私は確信したよ」

 関屋が一歩踏み出す。近寄られ、蓮実は後ずさった。けれどすぐ距離を詰められてしまう。

「幼年より祖父に叩き込まれた、からくりの知識。危ういまでの情熱。からくりへの愛情。その全てが――」

 一歩、一歩。近付くほどに目が離せなくなる。差し出された手にからめ取られるように。ついに腕を掴まれても、蓮実は振りほどくことができなかった。自分が震えていることに、その時ようやく気付いたほど。

「天本蓮実。お前こそが、鉄心最後の傑作ではないかとな」

「―――」

 なにを言い出すのだろう。やはり関屋は狂っている。早く逃げ出さなければ。頭の中で警鐘が鳴り響いているのに、体が動かない。まるで本当に、からくり人形になってしまったように。

「知っているか?異国では生き物を、ホルマリンという液体に浸けて保存するらしい。そうすると少しも腐敗しないのだとか」

 関屋の手が、腕を伝ってはい上ってくる。二の腕、肩、そして頬へ。髪をさらりとすかれ、気が遠くなった。何もかもが現実ではないように思える。関屋が触れたところから、体が汚されていくよう。心までざらりとなでられたような不快感。

「人形になったお前は、さぞ美しいだろうなぁ。そうしたらこの私が永遠に愛でてやろう」

 助けて、の言葉は声にならないまま頼りなく消えていく。誰の名を呼べばいいのか分からなかった。鉄心はもういない。こんな危険に親友は巻き込めない。蓮実には、頼れる者がいなかった。

 いや、一人だけいる。はじめからずっと顔は浮かんでいた。もしかしたら、祖父よりも早く。

 けれど、ひどい言葉をぶつけてしまった。傷付けたくてわざと。たとえどんな義理があっても、彼は来てくれないだろう。今さら頼ったところでどうにもならない。

 ――天風。

 涙が出そうになった。護衛を追い払ったのも、全て自分の責任なのに。

 けれどだからこそ、名前を口にはできない。蓮実は強く歯を食いしばった。

「ここまできても助けを呼ばないとは⋅⋅⋅あなたは本当に愚かですね」 

 低音の冷たい呟きに、蓮実の震えは止まった。

 間違いなく天風の声だ。でも怖くて振り向けない。本当に本物だろうか。それとも、都合のいい幻聴?

「そこまで強情を張りますか。それとも、関屋にホルマリン漬けにされてもいいと?」

 漆黒の羽根がふわりと体を包む。関屋の視線から、蓮実を覆い隠すように。驚いた関屋は二、三歩後ずさった。

「ば、化け物だ⋅⋅⋅!」

 男たちが情けない悲鳴を上げても、天風はまったく意に介さない。彼にとって、この場には蓮実しかいないような態度。

「頭のおかしい男にいつまでも付き合ってないで、さっさと帰りますよ。数秒で片がつきますから」

 そう言いながら天風が手を上げた時、さすがに我に返った。感動している場合ではないと、咄嗟に彼の手を掴む。

「えっと、片がつくって、ちなみにどうやって⋅⋅⋅?」

「決まっているでしょう。私は化け物ですよ?化け物なら化け物らしく、全員跡形もなく消し飛ばしてやりましょう」

 どうやら先ほどの化け物発言、しっかり耳に届いていたようだ。言った男が飛び上がって逃げ出す。それに呼応し、関屋以外の男らも散り散りになって逃げまどう。

「天風、殺すのはやめて。見たくない」

「怖いなら目を閉じていればいい。全員生きて返しません」

「そうじゃなくて!天風が人を殺すところを見たくないって言ってるの!」

 血を見たくないと言うのが本音だが、なら血の出ないやり方に変更します、とでも返されそうだ。なんとか思いとどまってほしくて必死に訴える。

 こんなことを言われたくらいで意思を曲げないだろうと思われたが、意外にも効果があった。ずんずん男たちを追い込んでいた天風は、渋々といった顔で蓮実を振り返った。

「まったく。注文の多い主人ですね」

「人として普通のことを言ってるだけだから」

「自分をさらい、危害を加えようとした相手でも?」

「どんな悪人でも、自分のせいで死んだら寝覚めが悪いでしょ。私が嫌なの」

「『かわいそうだから』という感傷的な理由でないのなら、理解はして差し上げましょう」

 本当は、天風が助けに来てくれた瞬間から、関屋などどうでもよくなっていたのだ。今までのように普通に話せていることが、ただ嬉しい。

「では⋅⋅⋅」

 天風は拳を鳴らしながら関屋を振り返る。関屋は防衛本能を失ったのか、明らかに不穏な空気をまとうあやかしを前にして棒立ちのままだった。視線はずっと、天風に釘付けのまま。

「美しい⋅⋅⋅」

「は?」

 天風の眉が不快げに跳ね上がる。 

 一方、関屋はたいへん興奮していた。宝物を前にした少年のようにはしゃぎ、あろうことか天風の手をがしっと握りしめた。

「漆黒の翼!夜闇に輝く星のような瞳!完璧な美貌!君の何もかもが崇高な芸術品のようだ!」

「私、一応あやかしですが」

「あやかしだろうと構わない!そんな小娘よりどうだ、私のところに来ないか?小娘にいくら貰っているか知らないが、その十倍、いや百倍の給料を約束しよう!」

 先ほどまで鉄心の最後の傑作だなんだと騒いでいたくせに、あっさり天風に乗り換えられて蓮実は複雑な気分だった。助かったけど釈然としない。

 しかし天風は、中年オヤジのほとばしる情熱などどうでもいいようだ。小蝿でも叩き落とすように関屋の手を振り払った。

「うるさい」

 関屋の頭を片手で軽々持ち上げ、すたすた歩いていく。相手の後頭部が壁に当たったところで、天風はようやく止まった。

 蓮実には聞こえないよう、関屋の耳元で囁く。

「お前ごときが蓮実を小娘呼ばわりするなんて許さない。お前はあいつを傷付けた。本当ならその体を切り刻み、はらわたを引きずり出してやりたいところだ」

 言うなり、相手の腹に拳を叩き込んだ。


  ドゴォッ⋅⋅⋅


 広間に響き渡る低い音に蓮実は戦慄した。人間が持つ全ての力を込めても、これほどの音は鳴るまい。

 関屋の体がずるずると崩れ落ちていく様を見て、ようやく彼らの元へ駆け寄った。

「ちょっ⋅⋅⋅やりすぎじゃない!?」

 天風は笑顔で答えた。

「この場合、自衛のためですから仕方ないですよね」

「いや、最初から殴る気だったように見えたけど」

 指をぱきぽき鳴らしていたことを忘れてはいない。

「その場合、脱出のための時間稼ぎと言うつもりでした」

 とにかく殴る気満々だったことは否定しないようだ。

「関屋は――」

 屈んで関屋の状態を見る。白目をむいて気絶しているが、なぜか嬉しそうな笑みが浮かんでいた。もう一発くらい殴っても許されるんじゃないかと思うほど腹立たしい顔だが、とにかく命に別状はないようだ。

「蓮実様がそんな男の心配をする必要ありません。ちゃんと手加減しましたから」

「あやかしの手加減ほど意味のないものはないね」

 会話が途切れた時、ふと視線が交わる。

 なぜ、来てくれたの?

 聞きたいが怖い。また義務だからと言われたら、今度こそ心が折れてしまう。

 期待、してしまっているから。助けに来てくれたことに、何か特別な意味を見出だそうとしているから。

 だが、何を聞くよりまず先に謝らねばと思った。天風とは喧嘩別れしてそれきりだったが、悪かったのは蓮実だ。彼はいつもの嫌味を言っただけなのに、義務という言葉に過剰に反応して、ひどい言葉を投げつけてしまった。

 謝る時は、誰しも勇気がいる。蓮実は思いきって頭を下げた。

「ごめんなさい」

「すいませんでした」

 驚いて顔を上げる。天風も同じような顔をしていた。

 しばらくお互い無言でいたが、先に口を開いたのは天風だった。

「あなたが謝る必要はありません。私に全ての非があります。あなたがあまりに無用心で、腹が立ったのです。それでいて私を頼ろうともしない態度に。けれど、あんな嫌味を言う必要はなかった。あれでは蓮実様がお怒りになるのも当然です。ですが」

 そこで言葉を切って、天風は真摯な瞳を向けた。

「これだけは約束してください。危険があるかもしれないと思ったら、迷わず私に頼ると」

 彼が本当に心配してくれていると分かるから、蓮実は素直に謝った。

「⋅⋅⋅はい。ごめんなさい」

「分かってくれたのならいいですが、とにかくあなたは誰かを頼るのが下手すぎる。昔からそうでした」

「昔?」

 聞き返すが、天風は口をつぐんだ。

「いえ。何でも」

 露骨に怪しい態度が気にはなったが、謝るのが先だと思った。

「私こそ、ひどいこと言った。自分が傷付いて、だからあなたを傷付けたくて、ひどい言葉を。義務なんて、初めから分かってることだったのに⋅⋅⋅本当にごめんなさい」

 袖をぎゅっと握りしめていると、その手を天風の手が包んだ。

「義務なんて、言うつもりありませんでした」

「本当に大丈夫よ、ちゃんと分かってるから⋅⋅⋅」

 笑って首を振ったが、自分で言いながら泣きそうだった。天風の手がとても温かくて優しくて、気持ちがゆるんでしまったのかもしれない。

「いいえ!本当にあの時は言い間違えたのです」

 天風は握る手に力を込めた。真っ直ぐ蓮実を見つめる瞳は、彼にしては珍しいほど切迫している。

 何度も何度も口を開き、そのたび苦しそうに言葉をのんで、眉間にますますしわを寄せている。そして、半ば睨み付けるような鋭い瞳をして、重々しく口を開いた。 

「――あなたを守るのは、私の生き甲斐です」

 ぽかん、と見つめる先で、天風の顔がじわじわ赤くなっていく。それでも彼は言葉をつむいだ。 

「あなたをお側でお守りするのが、楽しいのです。あなたのために食事を作ったり、掃除をしながらあなたの帰りを待ったり⋅⋅⋅とても幸せだった。同じように、あなたが幸せだと思ってくれているなら、こんなに嬉しいことはないと」

 なんだか男女の立場が逆転している気がしないでもない。天風の言い分は、まるで妻の鑑だ。

「⋅⋅気持ちわる」

「えぇそうでしょうね」

 ぽつりと呟くと、天風はやけっぱちで答えた。蓮実はくすりと笑い、つないだままの手を改めて握り返した。

「でも、私も気持ち悪いみたい」

 繊細だが男らしい節のある大きな手。蓮実の手をすっぽり包んでしまう、優しい温かさ。

「あなたが、そう思ってくれることが、嬉しい。――すごく」

 頬がじんわり熱くなった。気持ちを全てさらけ出すのは、謝るよりずっと勇気がいる。

「幸せだったの。帰って家に明かりが灯ってると、一人じゃないって思えた。あなたが迎えに来てくれた時も、心配してもらえて嬉しかった。いつだって、あなたがいれば、私は幸せだったの」

 恥ずかしくて顔を上げることができない。天風もなにも言わないから、ますます彼を見れない。しばらくの沈黙ののち、天風が口を開いた。

「それは、本当に気持ち悪いですね」

 まさかそんなにきっぱり肯定されるとは思わず、びっくりして顔を上げると、天風がにやりと笑った。開戦の合図だ。気まずさも吹き飛んで、蓮実も意地悪げに笑い返す。

「えぇ。あなたと同じくらいにね」

「おや。ご自分の方が気持ち悪いとは、お認めにならない?」

「あなたに比べれば、私なんてまだまだですわ。大体、ここへはどうやっていらしたの?」

「分かりますよ。あやかしですからね」

「あら。私はてっきり、あとを尾けていらしたのかと思いましたわ。今流行りのストーカーというやつね」

「ストーカー?私があなた程度の方を?少々自意識が高すぎるのではありませんか?」

「私程度とはどういうことかしら?あなたの大切なご主人様でなくて?」

「ご自分でおっしゃいますか」

 陰険な皮肉合戦を繰り広げながら家に帰る。道中、二人はずっと手をつないでいた。


  ◇ ◆ ◇ 


 春先だというのに、雪がちらほらと舞っていた。

 低くたれ込めた鈍い雲の色を、蓮実は一生忘れない。海難事故に遭った両親が、物言わぬ姿で帰ってきた日だった。

 庭先の桜の枝がほしくて、何度も飛び上がる。ぴょいこら、ぴょいこら。まだ幼い蓮実には、なかなか届かない。

 ふいに涙が出そうになった。

 母が作った甘い卵焼きを思い出す。きれいな黄色で、ふわふわで、お日さまみたいな味だった。

 父の肩車の力強さを思い出す。とても高くて、普段見ているものが全部違って見えた。

 もう、全て戻ってこない。

 それでも蓮実は涙をこらえて上を向いた。泣いていては、桜が取れなくなってしまう。父と母が好きだった桜。最後にもう一度見せてあげたい。

 雪の舞う中、何度も必死に飛び続けていると、急に視界が暗くなった。頭から羽織を被せられたのだ。

「泣け。ちゃんと泣いておかないと、ずっと悲しいままだぞ」

 祖父ではない、若い男の声。蓮実は羽織を被ったまま答えた。

「ずっと悲しいなら、ずっと忘れないでいられる?」

 思いがけない返事に相手は少し黙り込んだが、すぐに答えた。

「ずっと覚えていたいなら、楽しかったことや嬉しかったことを覚えておけばいい。その方が、お前の両親も喜ぶ」

 そうかもしれない。蓮実は相手を見上げた。

「泣く時は一人で泣くな。俺がそばにいてやる。それと、桜も俺が取る。蓮実が風邪をひいたら、みんなが心配するからな」

 そう言って、ひどく不器用な手つきで頭をなでてくれた人は、不機嫌そうな顔をしていて―――


  ◇ ◆ ◇


「おはよう」

「おはようございます」

 事件のあと帰宅したのは朝方で、ほとんど眠れなかった。蓮実はようやく布団から起き出してきたのに、天風はまったくいつもどおりだ。すでに朝御飯の準備もできていた。

 焼き茄子と油揚げ、長ネギ、わかめが入った具だくさんの味噌汁、きれいな焦げ目の焼き鮭、納豆、卵焼き、そして漬物の盛り合わせ。朝食らしい献立だ。蓮実も一人になった時、同じような朝食を作ったが、こちらの方が見た目にもおいしそうだ。

「手紙を預りました。どこの使いか名乗っていかれませんでしたが、利発そうな少年でしたよ」

「ありがとう」

 手紙は脇に置いておく。できたてごはんが最優先だ。

「いただきます」

 二人向かい合い、いつものように食べはじめる。

「お味噌汁おいしい!お茄子が一度焼いてあるから、食感も風味も全然違う!」 

「味噌も今度手作りしてみようと思っています」

「天風の料理はますます進化していくのね。あ、そういえば。思い出したんだけど、あなたの料理ってうちの母さんの味付けと似てるのよね」

 何気ない言葉だったが、天風が妙に反応した。 

「どうかした?」

「⋅⋅⋅いえ。似るのも当然だと思いますけどね。甘じょっぱい味が、江都の住人の好みですから」

 納得の解答だ。もし天風が不自然な様子を見せなかったら、そのまま聞き流していたかもしれない。

「ねえ。天風って、前にも私と会ったことない?」

「なぜですか?」

「今朝見た夢に、天風っぽい人が出てきたの。うろ覚えだから自信はないんだけど⋅⋅⋅」

「では気のせいでしょう。あいにく、あなたのような方と長く付き合っていたら、さすがの私も過労死してしまいますから」

「⋅⋅⋅」

 どうにも皮肉ではぐらかされたような気がする。蓮実は質問の順番を間違えたのだろう。先の質問で防御の態勢が整っているから、動揺する素振りさえ見られなかった。けれど天風には、まだ話していないことがあるのだとよく分かった。悔しいが今回はここまでにしておこう。

「今日は帰り、遅くなりますか?」

「どうだろ。さすがにもう凛子から逃げきれない気がするから」

 天風の件を聞き出そうとする凛子から、昨日はなんとか逃げきったが、今日もあの勢いなら無理かもしれない。そうなると、学校帰りに甘味処でも寄ることになりそうだ。

「もし遅くなるようでしたら、迎えに行きますから」

「分かった。ありがとう」

 食事を終え、天風が早々に食器を洗いはじめる。蓮実は緑茶を飲みながら一心地つき、ようやく先ほどの手紙を開いた。

「あら、久遠寺様からだ」

「何者ですか、久遠寺とは?」

「じいちゃんの作品を引き取って管理してくださっている方よ。子爵家の三男だけど、やり手の実業家でもあるの。外見も華やかで才能もあって、しかも子爵家の方だから、ご令嬢方にものすごい人気なのよ。ちょっと変わった人だけどね」

 若い頃から鉄心のからくりが好きで、天本家にもよく遊びに来ていたのだ。いつも手土産に流行りの菓子をくれたので、蓮実はたいそう懐いていた。

 もう三十歳を越えているというのにいまだ独身で、年頃のご令嬢から既婚女性まで、幅広い世代の視線を集めている。

 凛子に紹介したら天風の件がうやむやにならないかな、などと考えていると、当の本人が皿を洗う手を休めて寄ってくる。

「変わった方なのですか?」

「私がまだ十歳にもならない頃から、結婚しようなんて冗談をずっと言い続けてるのよ。相当変わってるでしょ」

 蓮実は手紙から少し顔を上げて笑った。けれど天風は笑い返さず、しばらく固まっていた。

「⋅⋅⋅本気ということでは?」

「まさか。将来性のある殿方に嫁けば家族も安心ってことで、三男坊とはいえ、侯爵家や伯爵家からも縁談がわんさか来てるって話よ」

 蓮実は手紙を読みながら答えた。

「あ、また食事のお誘い。いいって言ってるのに」

 今人気のフランス料理店でと書いてあった。一流の、とても庶民が行けるところではない。

 最後まで読み終え、蓮実は顔を上げた。

「私に身寄りがないから気を遣ってくれるのよね。じいちゃんと親交があったから、見捨てるわけにもいかないって思ってるんでしょうね」

 緑茶の残りを飲み干し、ようやく重い腰を上げる。そろそろ家を出ないと遅刻してしまう。

「それじゃ⋅⋅⋅」

 振り向くと、天風はにっこり微笑んでいた。だが違和感がある。なんだか、表面だけに張り付けたような笑みだ。

「天風?なんか怒ってない?」

「いいえ、全く」

「⋅⋅⋅⋅⋅⋅本当に、怒ってない?」

「私のどこに怒る必要があります?」

 分からない。分からないが、部屋の温度が若干下がったような気がするのはなぜだろう。

「じゃ、じゃあ、行ってくるかな」

 蓮実は逃げるようにそそくさと居間を出た。

 ハーフブーツを履き、玄関戸に手をかける。空は澄みきって青く、もう入道雲が浮かんでいる。気の早い蝉もちらほら鳴きはじめていた。今日も熱い一日なりそうだ。

「そうそう、渡そうと思ってた物があるの」

 家を出ようとして、玄関先まで見送りに来ていた天風を慌てて振り返った。かばんから、手のひらくらいの白い箱を取り出す。

「じいちゃんの部屋、まだまだわけの分からない物がたくさんあるでしょ?昨日また整理しはじめたんだけど、これ、天風にどうかなって」 

「鉄心殿のからくりですか?」

 天風は嫌そうにしながらも、素直に箱を開いた。

「これは⋅⋅⋅」

 小箱から出てきたのは眼鏡だった。華奢な銀のつるが繊細な細工になっている。大和国にも眼鏡は普及しつつあるが、こんなに美しい作りの物は外国にだってないだろう。

「天風って、いつも怒ってるみたいな顔してるじゃない?なんでかなっていつも思ってたんだけど、もしかしたら目が悪いのかもって気付いて。ほら、じいちゃんと何度か会ってるんでしょ?だからこれ、天風のために作ったんじゃないかなって」

「私のためなら、生前に渡してくださると思いますが⋅⋅⋅」

 一理あるが、祖父の思考回路が蓮実に分かるわけないのだ。

「いいから、付けてみてよ」

 有無を言わさず無理矢理かけさせる。細い銀のつるが、天風の冷俐な容貌によく似合っていた。

「どう?『度』というものが合ってないと見えにくいって聞いたけど⋅⋅⋅」

「見えます。よく――」

 のぞき込むと、彼は驚いたように一瞬止まり、慌てた素振りで顔を背けた。なぜか顔が赤い。

「⋅⋅⋅これは、ありがたくもらっておきましょう」

「うん。じゃあ行ってきます」

 今度こそ出て行こうとすると、今度は天風が引き止めた。

「蓮実様。鉄心殿の作品に不用意に触れたら何が起こるか分かりません。封印の書のような例もありますし、今度から整理は私も手伝いましょう」

「え、いいよ別にそんな――」

 慌てて断ろうとして、はっとする。これからは何でも頼っていいと言われたばかりだ。

「⋅⋅⋅えっと、じゃあ、お願いしようかな」

 着物の袖をいじりながら言い直すと、天風は今まで見たことないくらい優しく微笑んだ。そして、蓮実の頭をぽんぽんと、子供にするようになでる。

 あまりのことに、蓮実は動けなくなってしまった。全身がしびれるように震え、顔に熱が集まりだす。

 けれど天風は、そんな様子には全く無頓着で、いつものように皮肉を言った。

「いいんですか?早く行かないと、遅刻常習犯と教師方に目をつけられてしまいますよ」

「わ、わかってるわよ!」

 蓮実は我に返って外へと踏み出した。

「行ってきます!」

「行ってらっしゃい」

 さあ、素晴らしい一日がはじまる。


 

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[良い点] 江都という、時代背景がパラレルな世界の不思議さが良かったです。 将軍がいたり、文明開化だったり、ストーカーという言葉があったり。これならあやかしが居ても全然違和感がないかも!しかも美人だし…
[良い点] 美しいあやかし、興味深いからくり、そして一人でがんばってきたヒロイン、どれも好きです。 [一言] 長めの短編ですが引き込まれて一気に読みました。 まだまだ伏線が残っていると思うので、ぜひ続…
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