二次元に恋した男
鏡は生死を曖昧にする。
誰の言葉であったろうか……
あの古物商は言っていた。
決して此の絵を鏡に映してはなりません、と。
彼の云う絵とは、今わたしの眼前に置かれている絵の事だ。
押絵細工なる技法を用いられた此の絵は、奇妙と云う言葉がシックリと似合う。
簡素な額の内には、幽霊の手のように垂れた柳の葉が遠近を狂わせるように、ポツリポツリと、深い緑黒色でぼんやりと乱雑に描かれている。
その背景の中に、一人の人物が浮き出していた。浮き出していたというのは、その人物丈けが、押絵細工で出来ていたからである。死装束を着た十七八の、長い黒髪を弛く結った美少女が青白い顔に嬌羞を浮かべながら佇んでいる。
死人の着物を身につけながらも妖艶な表情をした美少女が、甚だ異様であったことは云うまでもない。だがわたしが「奇妙」に感じたというのはそのことではない。
背景の粗雑さに引かえて、押絵の細工の精巧なことは驚くばかりであった。顔の部分は白絹に丁寧な着色を施し、髪は本当の毛髪を一本一本植えつけて、人間の髪を結う様に結ってある。娘の乳のふくらみ、腿のあたりの艶めいた曲線、指の爪に浮かぶ白い半月、また細部の凹凸などは狂気すら感じられるほどに緻密であった。虫眼鏡で覗いて見たら、毛穴や産毛まで、ちゃんと拵えてあるのではないかと思われた程である。
これ程までに巧緻を極めた押絵だ。恐らくその道の名人の手に成ったものであろうか。だが、それが私の所謂「奇妙」な点ではなかった。
余程古いものらしく、背景の絵具は所々はげ落ちていたし、娘の死装束も、見る影もなく黄ばんでしまっていたけれど、それが逆に名状し難き毒々しさを煽り、ギラギラと、見る者の眼底に焼きつく様な存在感を持っていたことも、不思議と云えば不思議であった。だが、私の「奇妙」という意味はそれでもない。
それは、若し強いて云うならば、押絵の娘が生きていたことである。
何を馬鹿なと思うだろうが、生きているのだ。
此の絵の娘は、生きているのだ。
此の絵に出逢ったのは、昨日昼間の事である。
特に何をするでもなくブラブラと散歩をしていると、わたしは古物店を見つけた。
はて、此のような場所に店が在っただろうかとも思ったが、店の雨樋はボロボロで、庇には蜘蛛の巣。店先の硝子戸に至っては、割れた処を新聞紙で塞いでいるではないか。
新聞紙が日に焼けているのを見るに、わたしが気付かなかっただけで、かなり前から此の古物店は在ったのだろうと察せられる。
宛の無い散歩である。
わたしは何の気なしに、其処へ入ることにした。
「いらっしゃいませ。
アア、人がいらっしゃるとは珍しい……」
わたしを出迎えたのは、四十後半と思しき古物商であった。丸眼鏡の奥では薄気味悪い双眸が、ジットリとわたしを観察している。
「本日は、どの様な物を御求めでしょうか」
「イヤ、特に欲しい物は無いんだ。
散歩がてら入ってみただけさ」
「成程、成程……」
尚もジットリとした視線を向けながら頷く古物商は、「それでしたら……」と何かを思い付いた様子で店の奥へと下がって行った。
古物商が戻って来るまでの間、手持ち無沙汰なわたしはグルリと小さく埃臭い店内を見て廻ったのだが、やはり面白い物は無かった。
掛軸やら西洋画やらが置かれているため、どうやら絵を主軸に扱っているのだろうと判る。しかし生憎わたしには、絵に対する興味も関心も教養も無いのだ。
何の面白みも無い。
古物商が戻って来たら店を出よう、そう考えて始めた矢先、古物商の足音が店の奥から聞こえてきた。
「御待たせ致しました。
実は、貴方様の御気に召すであろう絵が御座いましてですね……」
「その事なのだが、申し訳無い。
わたしは絵に疎いものでね、そろそろ帰ろうかと思っていたんだよ」
「アア、そうおっしゃらずに。
きっと貴方様ならば分かって下さいますでしょうから……」
戻って来た古物商の手には額を包んでいるのだろう、扁平な風呂敷包みが抱えられていた。
帰ろうとするわたしを引き留める古物商の顔は、何か確信めいた意思が見て取れる。
何故であろうか。
古物商が引き留めたからか、目的の無い散歩に意義を見出そうと無意識に考えたのかは分からない。
気がつけば、わたしは古物商が勧めるままに椅子に腰を下ろしていたのであった(!)
古物商はわたしが座るのを待った後、店の片隅に備えられていた三本脚の木製器具――後に知ったのだがイーゼルと云う物だそうだ――を目の前に置いた。
そして針金細工の様な細長い指で器用に先の風呂敷包みを解き、わたしに背を向けて絵を立てかけはじめたのである。
古物商の背に隠れた其の絵はどの様なものだろうか。愚直にも好奇心が鎌首をもたげた。
しかし古物商の背からチラリと絵の表面が見えると、思わず目を閉じた。今でも其の理由は分からないのだが、何となくそうしなければならぬ感じがして、数秒の間目を塞いでいた。再び目を開いた時、わたしの前には嘗て見たことの無いような、奇妙なものがあった。
其れが、先述した押絵である。
わたしの表情に驚きの色を見て取ったからか、古物商は満足げに深く頷いた。
「……御気に召されましたでしょうか?」
「ああ、此れは凄い。
まるで此の絵の娘は生きている様ではないか」
「イエ、イエ。違いますよ。
此の娘は、実際に生きているので御座います」
普段ならば、生きているわけがあるか、と一笑に付すのだが、何故であろう、古物商の言葉には漠然とした説得力が在った。
「成程、実際に生きているのか……」
「左様、実際に生きているのです……」
実際に生きている。
其の言葉にわたしの心は歓喜で打ち震えていた。今になって思い返せば、此の時すでにわたしは絵の娘に惚れていたのだと分かる。
そう、惚れていたのだ。
男が女に抱く独占欲を恋と云うのであれば、まさしく此の感情は恋に他ならない。
気がつくとわたしは古物商に決して安くない金を払い、大風呂敷で丁重に包んだ絵を自宅へと持ち帰っている最中であった。
件の押絵を買ってから、わたしの心には一つの想いが巣食っていた。
此の娘と一緒にいる自分自身を見てみたい。
けれども、古物商は此の絵を鏡に映してはいけない、と云っていた。
わたしの心と古物商の言葉、どちらを選べば良いか。
一晩明かした末、漸くわたしの心は定まった。
長らく座っていた重い腰を上げ、目の前に立てかけていた彼女を優しく持ち上げた。心地良い重みが、わたしの両腕から伝わる。
わたしの絵。
わたしの娘。
わたしの恋。
全てわたしのものだ。
ならば、わたしには此の絵を、此の娘を好きにする権利が有るのだ(!)
姿見に映る、愛おしき絵を裏向きに抱えたわたしの顔は、色褪せた甚平も相まって、幽鬼の様であった。落ち窪んだ眼が、ジットリとわたしを見つめている。
決して此の絵を鏡に映してはなりません。
またしても古物商の言葉が、わたしの頭を掠めた。其の言葉を、髪を振り乱して追い払う。
黙れ、此れはわたしの絵だ(!)
ゆっくりと絵の表面を姿見に映しこむ。そして遂に、幽鬼の顔をしたわたしと、嬌羞を浮かべた娘の顔が、鏡に映った。
云い様のない幸福感に包まれる。いま此の瞬間を以って、真にわたしと娘が結ばれたのだ。
だがしかし、次なる瞬間には身の毛もよだつ恐怖が我が身を襲ったのである。
ポッカリと浮かんだ恐怖が身体を巡る血液に混じり込み、産毛の先までも忽ち震え上がらせた。
「ア、アア……アア……
死んでいる……わたしが、死んでいる…………」
鏡は生死を曖昧にする。
誰の言葉であったろうか……
鏡に映ったわたしは、右前の甚平を着ている。死人の着物だ。
鏡に映った娘は、左前の死装束を着ている。生者の着物だ。
なんと鏡の中では、わたしたちの生死が反転しているではないか(!)
生きた娘が、艶めいた顔でわたしに笑みを浮かべている。
死したわたしが、恐怖に慄いた顔で娘を見つめている。
分からない。
鏡のわたしは死んでいる。ならばわたしは死んでいるのか。
分からない、分からない。
死装束を着ていたはずの娘が、何故変哲もない純白の着物を着ているのか。
分からない、分からない、分からない。
最期にわたしは、簡素な額が床に落ちる音を聞いたのであった…………
× × ×
とある一軒家の人気のない一室。其の部屋に置かれた姿見の前に、絵が転がっている。
表面が下になっている為、どの様な絵なのかは分からない。
果たして其の絵に描かれている人物は、一人か、二人か……
其れは誰にも分からない。
贋作『押絵と旅する男』