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紅白の殺戮者 昭和十一年浜松一中 毒大福もち事件

作者: 久保 親弘

紅白の殺戮者                くぼちかひろ


第一章


静岡県の西部,かつて遠州といわれた場所に位置する浜松は,県下屈指の大都市である。戦国時代には,徳川家康の城下町であり,江戸時代には交通の要衝として栄えた。

浜松の北部は赤石山系に接し,林業が盛んである。東部には豊富な水量を誇る天竜川が流れ,静岡県はもちろん,他県にも潤沢な電力を供給していた。南部には豊かな漁場として知られる遠州灘がある。そして西部には広大な浜名湖が控え,天然資源と景勝地を多く有する,恵まれた土地であった。

明治四年の廃藩置県によって,浜松には浜松県の県庁が置かれたが,明治九年には浜松県は静岡県と合併された。明治二二年,この土地に東海道線の駅が置かれた。名実共に静岡県西部の中核と成長した浜松は,人口は一万三千人を超えて,同年には町制が施行されて浜松町が成立した。明治二七年には,町民の待望であった中学校も設立された。静岡県尋常中学校浜松分校,のちの静岡県立浜松第一中学校である。

明治四四年には,人口が四万人近くに増大し,市制が敷かれた。同年には,かねてから念願であった鉄道院浜松工場が開設され,また浜松の最高学府として,官立浜松高等工業学校と浜松師範学校が開校した。こうして江戸時代を通じて,上等な綿織物を産出することで有名であった浜松は,近代工業の土地として,生まれ変わろうとしていた。

浜松は軍都としての顔も持っていた。日露戦争後の師団拡張計画に基づき,明治四一年に歩兵第六七聨隊が浜松に衛戍することになった。歩兵六七聨隊に応召された壮丁は岳南健児と呼ばれ,精強の名も高かった。「ろくしち」と愛称された郷土聨隊であったが,大正の末年に宇垣軍縮によって部隊は解散した。それと入れ代わるように,日本で唯一の重爆撃機部隊である,陸軍飛行第七聨隊が新たに浜松に開隊し,ついで高射砲第一聨隊も設置された。昭和八年になると浜松陸軍飛行学校が開校し,浜松は陸軍航空部隊のメッカとして,知られるようになった。

浜松の人口が増大するとともに,周辺の農村が次々と市街地に編入され,浜松市は巨大都市へと変貌していった。市の中心部にはエレベーターを設置したデパートも開店し,休日には多くの買い物客が訪れた。


浜松駅からほど近い,鍛冶町にある三好野は市民から愛された菓子司である。

この店は菓子を販売するだけではなく,喫茶店も併設しており,まだ浜松では珍しかった洋食も提供していた。フルーツポンチ,支那そば,チキンライス,カレーライス,ハヤシライス,オムライス,カツライスなどはとりわけ美味で,人気も高く,家族連れや学生,兵士などで賑わっていた。店舗は赤レンガ風の西洋式二階建で,そのモダンな外観は,浜松市内の目抜き通りの中でも,ひときわ目立つものであった。この店の自慢の商品は和菓子であり,大福餅,桜餅,吹雪饅頭などは評判も良く,多くの甘党をひきつけた。

昭和一一年五月六日の水曜日,三好野の調理場では四人の菓子職人たちがおおわらわで作業をしていた。十日の日曜日に六千個もの大福餅の注文が入ったのである。

三好野では,三種類の大福餅を製造し,販売していた。ひとつは餅が赤で,中が白い漉し餡の紅大福,ひとつは餅が白で,中が黒の漉し餡の白大福。そして白い餅に黒豆をまぶし,中が黒の潰し餡の豆大福であった。六千個もの大福餅を注文した先は,県立浜松第一中学校であった。

浜松一中では五月十日に運動会が開催される。大福餅は,そのときの祝いの引き出物として全校生徒と教職員に配られるためのものであった。浜松一中は,白大福と紅大福をそれぞれ三つずつ,合計六個を竹の皮にくるんで調整するように命じていた。三好野では,大量の注文に応じるために,六・七・八・九日の四日間を製造の準備のために費やすことに決めた。そのために店頭でも白・紅大福の販売を中止して,全力を傾けて,浜松一中の注文に答えようとしていたのである。

白大福の材料である小豆の漉し餡は,地元の遠州小豆を用いて,三好野で自家製していた。紅大福の材料である白の漉し餡は,市内の石川製餡所から砂糖無しの状態で購入し,三好野で砂糖の練り込みを行い製造した。

砂糖は国産の,無色のザラメ糖を用い,塩は国産の食塩を使用した。

餅はすべて浜松付近で収穫されたもち米を使い,三好野で調整した。

餅にまぶしたり,餅同士がくっつかないようにするため使用される餅取粉(浮粉・打粉ともいう)は,大福餅の製造の過程で欠かすことのできないものであった。その餅取粉(打粉)は,優雪という名前の澱粉質の甘薯の粉で,千葉県の高橋商店が詰めた物を,市内の桝井弥重商店から仕入れて使用した。紅大福に用いる食紅は,東京の谷川商店が製造した桜印という紅餅専用の物であった。

六日の午前,餡は作り置きが利くために,早朝から黒漉し餡の準備がなされた。六日には七・八貫の小豆が煮られ,砂糖との練り込みがされた。通常,黒の漉し餡は小豆一升から六〇〇匁製造される。一日で四三キロあまりの漉し餡が作られた。それと平行して,店頭で売るための潰し餡も製造された。こちらには七・一五貫の小豆が使用され,この潰し餡は豆大福の材料として,十日まで使用された。

黒鉱餡の製造は七日も八日も続けられた。おなじく七・八貫の小豆が加工されて黒の漉し餡となった。八日の金曜には石川製餡所から一二貫の白漉し餡が届き,ただちに塩と砂糖が練り込まれて調整された。九日の土曜日には,六貫の白漉し餡が届けられ,すぐに三好野の味に調整された。完成した黒の漉し餡と白の漉し餡は,ネズミや虫が入らないように木綿の布をかけて,調理場の隅の冷暗な場所に置かれた。

納入日の前日,三好野の営業が終った午後一一時から,いよいよ大福に使用するための餅がつかれた。四人の菓子職人が,十八人もの男女の雇人を指揮して,不眠不休で餅をつき,餅と餡とが用意されてから,二手に分かれて,白大福と紅大福とが作られた。ひとつひとつ,手で丸めて大福餅を製造してゆく。翌朝の六時,ようやく注文の大福がすべて完成した。同じ大福の包みに見えても,餡の製造された日時は大きく異なるものであった。最初に作られた黒漉し餡は四日前の物だし,最後に作られた黒漉し餡でも二日が経過している。いかに餡は作り置きが利くとしても,時間にして両者に四八時間以上の差異がある。白漉し餡も,古い物は二日前に調整した物であるし,新しい物でも二四時間が経過している。

いくら冷暗所に保管したとはいえ,五月晴の暑い日が続いていたために,六日から九日の菓子製造場の平均気温は一六度であった。平均最高気温は二〇・五度を示した。納入日の十日は特に気温が高くなり,最高気温は二四・四度を記録した。

ここ数日のバカ陽気に,店主も菓子職人たちも,できあがった大福餅を口にし,餡が傷んでいるかどうか慎重に確認した。四日前の餡も,一昨日の餡も,まったく味に変りは無く,腐敗したような臭いも,すえたような味もしなかった。職人たちは紅白の大福餅を試食した結果,すべて安全である事を確認し合った。無事に完成した,大福餅の千四十包み,白大福・紅大福それぞれ三一二〇個は,店員の手によって,午後には学校にまで届けられた。

浜松一中からの注文で忙しいさなかではあったが,三種類の大福の中で,豆大福のみはふつうに製造し,販売もしていた。この日五月十日,学校に納めるはずの白大福約二五〇個が余ったので,豆大福とともに店頭に並べられた。赤大福の余りは無かった。


第二章


浜松陸軍衛戍病院は,三等衛戍病院である。衛戍病院とは部隊が駐屯する場所に設置された,恒常的な病院を意味する。その任務は駐屯部隊の将兵の健康管理や,治療に専従するものであった。そのために衛戍病院に所属する軍医は,隊附軍医の兼務が多く,浜松陸軍衛戍病院の場合,ほとんどの軍医は,飛行第七聨隊附か陸軍飛行学校附,もしくは高射砲第一聨隊附であった。

病院長のもとに,病院業務は庶務・診療・教育・経理・衛生材料に分かれる。それぞれに主任が置かれ,軍医正もしくは一等軍医が庶務科長・診療科長・教育科長に任命された。

ただし三等衛戍病院の場合は,経理部の将校相当官は置かれないために,経理部下士官である計手が経理科長を代行する。また衛生材料科長は薬剤官の職掌であった。

病室は,内科病室・外科病室・眼科,耳鼻咽喉科病室・皮膚科,花柳病科病室・伝染病科病室(隔離病室)の五つに分かれ,また将校病室も置かれていた。

三等衛戍病院の定員は

病院長・二等軍医正 一名(衛生部中佐相当官)

病院附・三等軍医正 一名(衛生部少佐相当官)診療科長となる。

    薬剤官   一名(衛生部尉官相当官)衛生材料科長となる。

    看護長   八名(衛生部下士官相当官)

     計手   一名(経理部下士官)

    嘱託歯科医 一名(陸軍嘱託・陸軍部内限り奏任官待遇)

    看護婦長  一名(陸軍傭人・陸軍部内限り伍長待遇)

    看護婦   二名(陸軍傭人・陸軍部内限り二等兵待遇)

    雑仕婦   一名(陸軍傭人)

     厨夫   二名(陸軍傭人)であった。

衛生部の兵卒である看護兵の定員は,病院には無く,病院に勤務する看護兵は,それぞれの近在部隊の隊附看護兵が,交代で上番していた。

もともと衛戍病院の看護婦の数はきわめて少なかったが,女性である看護婦の方が入院将兵には信頼が篤く,また技量が優秀なために,しだいに看護婦の増員が図られるようになった。浜松陸軍衛戍病院においても,昭和一〇年からは,陸軍看護婦(婦長一名・看護婦一五名)が増員されていた。病院勤務を兼務する隊附軍医は六名,隊附看護兵は四〇名(初年兵二〇名,二年兵二〇名)この人数で,三千名を越える浜松衛戍部隊の将兵の健康管理を行っていた。


 昭和一一年五月八日の午後,浜松陸軍衛戍病院長である安倍伯彦二等軍医正に,飛行第七聨隊附の高級軍医から電話連絡が入った。


安倍伯彦二等軍医正(佐賀県出身・明治二五年生まれ,昭和一四年・軍医大佐・航空兵団軍医部長・昭和一七年第一航空軍軍医部長・昭和一八年軍医少将・昭和二〇年航空総軍軍医部長と,航空医学の要職を歴任)


聨隊長である岩下新太郎大佐の一家が,突然の下痢と嘔吐で苦しんでいるとの報告であった。


岩下新太郎(熊本県出身・陸大二七期,昭和一二年少将,航空兵団参謀長,熊谷飛行学校長,昭和一四年中将,航空技術学校長を歴任)


 昨日の七日,岩下大佐の一家で働いている女中が,三好野の豆大福を買って帰り,一家で昼の茶うけで食べたところ,本日になって大佐の妻と長男,次男が発病したとのことであった。長女と女中は発病しなかった。

「どうも食中毒らしいのですが,熱発も伴っております。」報告を受けた安倍病院長は,ただちに大佐の一家に往診することを隊附軍医に命じた。

報告してきた隊附軍医は,はじめから「三好野の豆大福」を決めつけていたが,安倍病院長は半信半疑であった。豆大福は製造の過程において,何回も熱を通している,食中毒の原因としては疑問を感じたのである。安倍病院長は,家族を別室に隔離することを,直接,岩下聨隊長に電話で連絡した。そしてあらゆる可能性を探るために,部下には患者の糞便からの細菌培養を指示した。

 岩下大佐宅に赴いて,大佐の家族を診察した安倍病院長は,薬物中毒とも,虫垂炎とも異なることを確信した。あまり嘔吐は見られないし,下痢は伴うものの,それほど激烈なものではない。ただ熱発は三八度を超える。治療方針としては,まずは絶食を命じる。その上で下剤を服用させて,中毒の原因物質を体外から排泄させることとした。熱発に対しては氷嚢で額を冷やすとともに,強心剤としてカンフル注射を行った。ついで補液のために,全員に二〇〇ミリリットルの生理食塩水の皮下注射を行った。担当する軍医に対しては,状況によっては,適宜リンゲル氏液の静脈内注射を行うよう指示した。

安倍病院長は,すべての兼務医官を集めて,ただちに部隊に帰り,ここ数日以内に三好野の豆大福を食べた者を調査することを命じた。対象者は,営外居住している将校と古参下士官である。


安倍伯彦二等軍医正が岩下聨隊長の家族の病因を解明しようとしていた頃,市内に住む医師の未亡人が,三好野の豆大福を買い求めていた。八日の午後に行われる亡夫の法要に集まる人たちのために,ふるまう菓子を求めたのである。法要は未亡人の自宅で行われ,僧侶をはじめ,ごく近い親類縁者,故人と親しい友人などが呼ばれただけの,ささやかなものであった。精進料理と酒が給され,豆大福も並べられた。酒を好まない者や,女や子どもなどは,喜んで豆大福を賞味した。法要が無事に済んだのも束の間,その夜中から,なんともいえない不快感と吐き気に,未亡人はほとんど寝ることができなくなった。

家庭に常備してある胃腸薬を飲み,下痢のために何度となく便所に通った。明け方頃には悪寒を伴い,体温計で熱を測ると三八度の値を示した。食欲は全く無く,ただ喉が渇いた。生水は症状を悪化させると思い,ぬるい番茶を飲んだ。朝になると,昨日の法要に参加してくれた親類縁者などからも,下痢や吐き気を訴える電話が鳴るようになった。

いずれも豆大福を口にした者であり,酒だけを楽しんだ左党には,そのような食中毒のような症状を訴える者はいなかった。

驚いたことに,法要の導師がふたりも,同じような下痢と嘔吐に悩まされて,歩くこともままならないという連絡があった。未亡人は意を決して,朝の八時に三好野に電話をかけた。医師の妻であった経験から,三好野の豆大福が原因で食中毒が生じたとしたら,これ以上の販売をしないように助言するのがつとめだと思ったからである。

電話には三好野の細君が出た。「昨日の法要でふるまった豆大福が原因と思われる,食中毒が発生したこと」,「原因がわかるまで,豆大福を売らない方が良い」と訴える未亡人の話を聞くと,細君は大声を出し,怒鳴りつけるような応答をした。

「わたくしどもの店では,食べて毒になるような餅は売っておりません。」三好野の細君の声は憤慨のあまり,震えを帯びていた。医師の未亡人は重ねて「もちろん,そうであろうが,ここ数日は初夏のような気温が続いたこと」「万が一のことがあると暖簾に傷がつく」と諭すように話すと,細君はますます激昂した。

「そんな言いがかりをつける貴女は,営業妨害だ」と叫ぶと,叩きつけるようにして電話を切ってしまった。呆然とした医師の未亡人は,「食中毒の疑い」として警察に電話をするべきかどうか,ちょっと悩んだが,三好野の細君の電話越しの乱暴な応対を思い出すと,二の足を踏んでしまい,結局は届けなかった。幸い,未亡人も親類縁者も,それほど激烈な症状ではなく,一日横になっていただけで,翌日には症状は軽快した。

こうして医師の未亡人は,結局,誰にも食中毒の事実を告げないままに,口を閉ざしてしまった。


浜松衛戍病院の安倍病院長が,三好野の豆大福が原因ではないかと考えていた頃,食中毒症状を示していた岩下大佐の家族たちは,すっかりと恢復していた。また,営外居住している下士官や将校の中にも,三好野の豆大福を買い求めていた者は無く,安倍病院長は「単なる食あたり」であったのかという疑問をぬぐえなかった。

翌日の九日は土曜日であった。地方(軍隊以外の世間)では半ドンと称して,学校も官庁も午後からは休日であった。軍隊でも土曜日は演習などは行わず,内務の整理や員数の検査など,軽い作業だけが行われていた。十日の日曜日は,兵士にとっては待望の外出日である。一月に入営した初年兵も,四月には師団長の第一期検閲が終了し,自由に外出が許されるようになっていた。軍隊の衛戍地から浜松の繁華街までは二里ほどの距離にあったが,兵士たちはバスや軽便鉄道を利用して,三々五々,映画館や食堂に出かけていった。なかでも三好野は,酒も給されるために兵士に人気の店であり,何人かがまとまって来店する姿が見られた。


第三章


 浜松一中は創立以来四〇有余年,浜松市内でもっとも伝統が古く,「自主独立・自主自律」という,誇り高い校風で知られていた。上級学校に進学する生徒も多く,難関で知られる名門校などにも毎年多数の合格者を輩出し,一中の生徒たちは英才の誉れも高かった。

昭和一一年五月十日の日曜日,浜松一中では恒例の陸上大運動会が行われた。運動会の数日前からは,まるで初夏を思わせるような蒸し暑い日が続いていた。運動会の当日も,抜けるような青空に晴れ上がり,生徒たちは汗でぐっしょりと濡れた体を厭わず,組対抗のリレーや,五千メートル走,騎馬戦など,さまざまな競技に体ごとぶつかっていった。やがて弁当の時間も過ぎ,午後には全校生徒が「武田信玄」軍と「徳川家康」軍に分かれて,三方ヶ原の一戦を模した競技が行われた。新聞紙を硬く丸めた剣を手に持ち,頭や肩には叩かれると紙吹雪を散らす袋がつけられた生徒たちは,歓声を上げながら,敵軍に向かって走っていった。

この競技は「野仕合」と呼ばれ,生徒にもっとも人気がある華やかな戦いで,生徒の多くは郷里の英雄に思いを馳せて,「徳川軍」に参加することを希望していた。全校生徒がひとり残らず参加する競技は,この種目だけであり,運動会最大の見せ場でもあった。

見物の父兄も,生徒の弟や妹たちも,自分たちの息子や,兄の姿を見つけると,夢中で応援の叫び声をあげた。幼い弟や妹たちにとって,秀才として市民から一目置かれる,浜松一中生の兄を持つことは,なによりの誇りでもあった。

笛の音とともに,敵陣に向かって突進する生徒たちは,紙の剣を振り上げて,敵兵に武者振りついていった。あちこちで,紙で作られた五色の「徳川軍」の幟旗と,「武田軍」の幟旗とが,一進一退の激戦を続けている。

校庭のいたる所で,撃剣を受けた生徒たちの紙吹雪が散った。五年生から一年生まで,一八歳から一三歳までの生徒たちは,我を忘れて,この模擬合戦に校庭を駆けめぐった。あちこちで,審判をつとめる教師たちが,「生徒の討ち死」を宣言して,退場を命じる。合戦がまさに,たけなわになろうとしたときに,審判長の笛が高らかに鳴り,「三方ヶ原の合戦」は終了した。校庭の端にゴザなどを敷いて,食べることも忘れて観戦していた生徒の家族たちからも,応援の声や拍手,歓呼の叫びなどが一斉に挙がった。

審判長が,「徳川軍」の勝利を宣言すると,会場はどっという歓声につつまれた。退場する両軍の生徒たちは,破れた紙の旗指物を誇り高くかかげ,どの顔も興奮と激しい運動とで,真っ赤な頬をしていた。何百人もの観衆は,生徒たちの活躍をねぎらい,負けた生徒たちにも声援は惜しみなく贈られた。

やがて校庭はきれいに掃除され,生徒たちは各学年,各クラスごとに整列した。校長の錦織兵三郎は,簡単に運動会の感想を述べ,生徒たちの健闘をたたえた。ついで,教職員も生徒たちも,見学の家族たちも起立して,高らかに万歳三唱を唱えると陸上大運動会は無事に終了した。時計は四時に近かったが,春の陽射しはまだまだ暑い。

千人を超える生徒たちは,各教室に入って汗をぬぐい,制服に着替えた。汗で火照った体には,いまだ冬服の制服は,誰しも暑苦しさを感じていた。

運動会の熱気は教室に入っても冷めやらず,生徒たちは,「何某はクラスリレーで大活躍をした」とか「何某は,どたんばで惜しいことをした」などと,しきりに運動会の感想を声高にしゃべりあっていた。

やがて担任の教師が教室に入ってきても,生徒たちのおしゃべりはなかなか止まなかった。教師が,何回か生徒たちに注意を与えると,ようやく教室内はいつものように静粛になった。教室には,日直の生徒によって,すでに生徒に配る菓子の包みが用意されていた。

浜松一中では,陸上大運動会のあとには,祝いとして菓子の包みが全生徒に配られることが,大正半ばから続く恒例であった。

今年の菓子の包みは,紅白の大福餅であった。それぞれ三個づつ,合計六個宛がまとめて竹の皮で包装されていた。大福餅を調理した三好野は,一中生にも人気の店であった。ここの菓子は,浜松市内でも味の良さで評判で,高級菓子と目されていた。生徒たちの中には,「ほう,三好野の大福か,学校も奮発したな」と微笑む者もいた。。

大福餅の包みは,全生徒と教職員に手渡された。生徒たちは運動会のために,今日は手ぶらで通学している。大福の包みを抱えて,弟や妹たちといっしょに食べようと,家路を急ぐ者,友人と公園のベンチでとぐろを巻いて,談笑しながら全部,ひとりで食ってしまう者,生徒たちは思い思いに,大福餅に思いを馳せて,家に帰っていった。運動会の翌日の月曜日は,学校は休校である。友人たちと,休日の計画を楽しげに語る者も多かった。

家に帰った生徒たちの多くは,家族と夕餉をともにして,運動会の感想や興奮を伝え,大事に持ち帰った,とっておきの大福餅を,家族と分け合って食べた。


第四章


翌日の一一日の月曜日も快晴で,新緑がまぶしい程であった。午後三時ごろ,中学の宿直室に,市内の医師から電話があった。それは「本日,一中の五年生が三人受診したのだが,いずれも猛烈な腹痛を訴え,同じ症状である。なにかの中毒が疑われるので,心当たりは無いか。」という内容であった。

応対に出た当直の三浦悟教諭は,「もしかしたら,運動会のあとに生徒に配った大福餅でないか」とすぐに思い当たった。三浦教諭は,あの暑さの中で長く教室の隅で放置されていた大福餅が腐敗したのではないか,と考えたのである。三浦教諭は甘い物が苦手なために,大福餅を受け取らなかったのである。

午後五時,今度は生徒の父親から電話があった。「息子が腹痛で苦しんでいるが,なんらかの中毒ではないか」という内容であった。三浦教諭は,不吉な物を感じて,ただちに錦織校長の自宅に電話をかけて,何か分からないものの,ある種の中毒が発生したとの疑いを報告した。

その直後,今度は市内の別の医師から電話がかかってきた。「一中の生徒が複数,同じ症状で来院した。明らかに中毒と思われるので,学校も早く適切な処置をとるように頼む」と要請するものであった。同じ頃,錦織校長の自宅にも,浜松市内近郊の和地村に住む生徒の父兄から電話が寄せられた。和地村から通っている一中生のほとんどが,罹病しているという,驚くべき事実を伝えるものであった。校長は,和地村の生徒たちが治療を受けている医師の名前を聞き,ただちに確認の電話をかけた。すると医師は,一中生徒が何人も食中毒の症状を示していることを告げた。その後も三浦教諭は,市内はもちろん、中泉,二俣などに住む生徒の親からの電話の照会に追われた。教諭はあまりの事態に三好野に電話をかけて詰問すると,応対に出た店主は「ご冗談でしょう,絶対に大福は間違いないと誓いますよ」とにべもなく告げて,電話を切ってしまった。

校長は,容易ならない事態が進行しつつあることを知り,ただちに電話を通じて,市内居住の全職員を招集した。実はこのとき錦織校長は,床に臥せり,激しい腹痛と戦っていた。昼頃から下痢が続き,立とうとしても下半身に力が入らない。校長自身,自分も中毒に罹患したと考えざるを得なかった。果たして登校できるかどうか,校長も自信がなかったが,とにかく校医を自宅に呼んで,善後策を検討することにした。馬淵貞司学校医の診療所にも一中生は受診している。

夕方頃,市内で開業医を営む馬淵校医は,校長宅を訪れた。校長は馬淵校医が驚くほどに,すっかり目がくぼみ,憔悴している有り様が著しかった。それでも床から半身を起こすと,次のような事項を校医から聴取した。

一・本日診察した一中生の病状はどのようなものであるか

二・中毒とすれば,何の中毒であるか。毒物の中毒か,食物の腐敗か,

あるいは何らかの黴菌によるものなのか。

三・治療方法,あるいは家庭でできる看護の方法

などを問うたのである。

もっとも考えられる原因は,昨日,生徒と全職員に手渡した大福餅であることに,校長と校医の意見は一致した。すでに夜になっていたが校長は,急遽登校していた冨田一夫教頭に電話で連絡し,大福餅を調理した三好野の店主と,調理にあたった店員を学校に呼び,事情を聞くように命じた。冨田教頭も左党のために,大福餅を口にしなかった数少ない教職員の一人である。すでに学校に駆けつけていた冨田教頭は,

一・餅を製造した日時

二・原料の仕入れ先

三・餅を製造した従業員や家族などに,健康の異常はないか

四・学校に大福餅を納入した時刻,およびその時の搬入方法

などについて事情を聞いた。しかし店主も店員も,大福餅は当日に調理したものであり,原料の仕入れ先も,今までどおりの商店であり,食中毒の発生など考えられないと,一貫して冨田教頭の示した疑問を否定した。冨田教頭は,事情聴取を打ち切ることにした。

教頭は改めて全ての職員に登校を促し,同時に浜松警察署に「生徒の約三分の一が高熱,下痢,嘔吐等の症を惹起しあるも,右は三好野の大福餅による中毒ならん」と通報した。

その頃,杖にすがるようにして錦織校長が登校し,とにかく,集まった人間だけで臨時職員会議を開催することにした。教諭の中には,家族が罹患したために,どうしても登校できない者も多く,七時から開催された会議の出席者は,校長と教頭を含めても一六名にすぎなかった。

職員会議の結果,動ける教諭が全員手分けをして,電話を持っている生徒の自宅に一人づつ連絡を取り,生徒およびその家族の罹患の有無,病状などを把握することにした。さらに市内のすべての診療所に電話をかけ,一中生の受診の有無,病状,人数を聞き,罹患した生徒のもとには教諭が手分けをして,家庭訪問することにした。 

それとは別に校長は,全ての生徒の父兄に対して,現在学校が把握している中毒事件の詳細を示し,翌朝,郵便で書面を配布することにした。

校長は病身をおして徹夜でガリ版刷りを行い,翌朝の四時には千通の封書を作成して,直ちに投函した。


その文面は次のようなものであった。


前略

 

 昨日運動会終了後,例年の通り分配仕候ぶんぱいつかまつりそうろう餅が原因にて,中毒と覚しき(おぼしき)症状を呈せしもの 諸方に有之由これあるよし今十一日夕刻判明,誠に驚愕致居る次第に御座候。就ては(ついては)御令息様御別条無之候や(おんべつじょうこれなくそうろうや) 全く意外の出来事にて一同深く心痛致し居り原因は目下調査中に御座候へござそうらえども若し左の如き症状有之候はば(これありそうらわば)至急診察を受けられ学校にも御通報願上候ごつうほうねがいあげそうろう

先は(まずは)不取敢御伺い申上候とりあえずおんうかがいもうしあげそうろう

 症状は何れも(いずれも)四十度内外の発熱あり頭痛するあり下痢又は嘔吐をなすもの

有之由に(これあるよしに)御座候

 五月十一日 

  静岡県立浜松第一中学校長 錦織兵三郎

保護者殿


この書面作成の作業を続けながら,校長は午後十時に電話にて,県学務部長に中毒患者続発の旨を報告した。午後十一時,生徒の家庭訪問をしていた教諭から,食べ残した大福餅が八個ほど集められた。校長はただちに浜松警察署に連絡し,来校した警察官は,この食べ残しの大福餅を証拠物件として押収した。


 夜十一時,浜松警察署長からも静岡県庁に食中毒事件発生の報告がなされた。深夜ではあったが,事件の重大さに県庁の動きは素早かった。県の緑川門弥衛生課長は,「毒物化学的検査」と「細菌学的検査」の両面から事件に対処するように,薬剤官と医官三名を浜松に派遣した。浜松に派遣された石黒衛生技師(薬剤官)は毒物混入の有無を調査し,工藤県衛生技師と森谷県衛生技師,藤井衛生技師(医官)の三名は,県立鴨江病院において患者の症状や汚物を検査し,細菌学的な見地から原因の究明にあたることとなった。責任者の工藤治助衛生技師は,患者の救護や感染拡大の予防を指揮するために,直接一中に赴いた。


第五章


この段階で、警察がもっとも不信を抱いていたのは、あまりに激しい中毒症状である。その凄まじさは、過去の食中毒事件では、まったく例が無いものであった。浜松では、過去にも食中毒事件も発生している。また、夏になると毎年のように赤痢やチフスも流行していた。しかし、今回の中毒事件は、過去のそれとは比較にならないほどに激烈で、しかも広範囲である。症状の経過も著しく、医師の手当てにもかかわらず、患者の容態はみるみる増悪してゆく。警察は現場検証の手応えから、大福餅の中に、なんらかの毒物が混入されているのではないかという疑問を持っていた。犯人の心当たりは、今のところ無いとはいえ、あるいは過去に三好野を解雇された従業員の恨みか、繁盛する三好野に対しての、同業菓子店のねたみか、浜松一中に憎しみを持つ者による、無差別殺人事件ではないかと考えたのである。もし予想外の事故であったとしても,原因は銅鍋から生じた緑青ではないか,との疑いも強く持たれていた。これも,三好野で使用されていた銅の大鍋が,相当に古いもので,外面に緑青を吹いていた事実に対しての,現場警察官の勘であった。

一二日の深夜,浜松警察署は三好野の店主夫妻と製餡職工など一四名を召喚した。司法主任の高井警部補以下が夜を徹して取調べを行ったが,犯罪を臭わせるような徴候は何一つ得られなかった。


午前二時、工藤・森谷のふたりの衛生技師が自動車で一中に到着した。ただちに校長や学校職員を交えて、対応策を講じるとともに、午前三時には、両名は浜松警察署で署長と協議した。警察から被害状況と、地域的な拡大を報告されると、ふたりの衛生技師は毒物中毒事件の可能性が高いと判断した。すぐに工藤衛生技師の指示で、砒素化合物、銅化合物、青酸化合物の三種類の有無を調査するよう、県立鴨江伝染病病院検査室に依頼が出された。

それとは別に,石黒衛生技師は鴨江病院の薬剤師と共同して,専従で薬物検査を行うこととなった。石黒衛生技師は,ただちに食べ残された大福餅の検査をはじめた。まず検体を黒餡と白餡,皮(白大福と紅大福),餅取粉に分けて,それぞれに対して,砒素化合物,銅化合物,青酸化合物の有無が調べられた。予備試験に引き続いて,精密試験も行われたが,一切、反応を認めることはできなかった。続いて前記三種類の毒物以外の,全般毒物の精密試験が行われた。しかし四昼夜に及ぶさまざまな薬物試験を行っても,一切毒物は発見できなかった。

石黒衛生技師が行った薬物検出試験は,銀,鉛,水銀,銅,カドニュウム,蒼鉛,砒素,アンチモン,錫,亜鉛,ニッケル,コバルト,マンガン,クロール,バリウム,青酸,亜硫酸,燐,フッ化水素,アルカロイド,ズルチン,サッカリンという膨大なものであったが,いずれも全く検出されなかった。

毒物調査をより詳細に調べるために、一二日の午後六時には、内務省衛生局から毒物学の権威である松尾仁内務技師が到着することになっている。毒物事件ではないかという疑惑は、県の行政部はもとより、内務省も強く疑っていた。内務省の隷下にある警察では、すでに毒物混入の犯人の探索へと、ひそかに活動を開始していた。

その頃,やはり鴨江病院で患者の糞便から細菌を分離していた,藤井義明県衛生技師は細菌倍地上にパラチフス菌B型ときわめて類似したコロニーを発見し,それを鴨江病院長と県衛生課に報告するも,なぜか黙殺されてしまった。


警察の活動も活発化していた。午前中には検事立ち会いのもとに三好野で現場検証が行われ,店主も実況検分に同行した。また,三好野に餅取粉(打粉)を卸していた桝井弥重商店と,白餡を納入した石川製餡所の経営者や従業員も,同様に拘束され,取調べを受けた。浜松署では安達署長が事件捜査の総指揮を執り,全署員が動員される大事件となっていた。司法主任の高井警部補を班長とする原因捜査班と,衛生主任の山崎警部補を班長とする患者調査班,それに大石次席警部を班長とする統計記録班が設置され,事件の解明と収束に全力をあげた。

三好野の店主は警察の取調に対して「学校の方から御問い合わせがありましたが手前共では思い当たる節が更にございません。器具も全部新しく,古い餡は使って居りませんし,残りの餡を調べて見ても全く異常ございません。十日は大変暑かったため,生徒さん達は皆大分水を飲み,陽にカンカン照らされたようですから,日射病になったのではないでしょうか。」と大福餅中毒説を真っ向から否定した。


一二日の朝も快晴の天気が続いていた。朝の七時半の時点で,徹夜組も含めて参集した教職員は二二名になっていた。その中には,明らかに罹病し,高熱に苦しむ者も数名含まれていた。休校の指示は届いていないために,生徒たちも通常通り登校をはじめたが,出席者は八時の段階で三三八名にすぎなかった。欠席生徒は六六二名に及ぶ。しかも工藤衛生技師と,馬淵校医が診察したところ,登校者の中から,明らかに罹患している者が八五名も見つかった。その中には四〇度近い熱発を伴う,かなりの重症患者も含まれていた。 その間も早朝から学校の電話は鳴り続けていた。そのほとんどは生徒の家庭からの欠席届であったが,中には生徒の重態を告げるものも有り,教諭たちは重い表情で,電話からの報告を書き留めていた。

 午前九時,全生徒を集めて工藤衛生技師は,「大福餅を食べた者はすぐに下剤を服用して,家で安静にすること」「熱がある間は安静を続け,決して登校しないこと」を指示し,直ちに生徒を帰宅させることを校長に進言した。校長はその場で,一三・一四日の両日を臨時休校にすることを宣言し,欠席生徒にも工藤衛生技師の指示を伝達するように依頼し,解散を申し渡した。下校を命じられたにもかかわらず,生徒の中には,自力歩行が困難な者が数名混じっていた。自宅が学校から近い者には,保護者が迎えに来るように求め,遠方の生徒に対しては市内のタクシーに連絡して,自動車で自宅まで送り届ける処置をとった。

 ついで浜松放送局長に依頼して,ラジオで以て「浜松一中の臨時休校」と「罹病者に対しての手当て」の注意を呼びかけた。ラジオ放送は午後四時と,午後七時の二回行われ,「市内のお医者さんでは手が廻りかねるから,市役所内に開設した臨時救療所に,県から派遣の数名の医師が詰めて居ります故,申出あれば直ちに往診します。」と臨時ニュースとして放送された。

そのころ浜松一中には大勢の新聞記者が押し寄せ,錦織校長も病身ながら原因の釈明に追われていた。激しい口調で食中毒の原因を問い詰める記者たちに対して,校長は「飛んだ事件になってしまいはなはだ申し訳ない。中毒の原因については目下,県当局と浜松警察署が慎重にお調べ中ですから,いずれ真相は判るでしょう。学校では十数年前から運動会当日は,恒例によって生徒に餅を与えることとなっており,今回もそれを踏襲したもので,それが騒ぎの原因を成したものかも判りません。生徒の中から悶死者を出したことは,真に痛惜に堪えない。」と男泣きに語った。


教職員たちは生徒が下校したあとも,手分けして生徒の家庭訪問を続けた。その頃の浜松市内には流言蜚語が飛び交い,道を歩く者すらまばらな状態が続いていた。

「三好野に怨恨を持つ者が餡に毒を混入させたらしい。」などという噂が,あっと言う間に拡がった。さらに警察には「何某は九日に三好野で汁粉を食ったがピンピンしている。あいつが毒物を投入したにちがいない。」というような類の密告が相継いだ。乱れ飛ぶデマの中を,救護班を乗せたタクシーだけが疾駆して行った。同乗する医師や看護婦の白衣だけが夜目にも鮮やかに見えた。


この一二日の昼頃から,食中毒患者は激増している。患者を観察するとほとんど共通の症状が見受けられた。

すなわち軽症者は,はじめ感冒様で発熱は三十八度ないし三十九度程度,下痢と嘔吐を認める。中程度の者は顔面潮紅,発熱四十度,下痢と嘔吐,ときには口唇にチアノーゼが見られた。さらに重症な者になると,発熱四十度以上,下痢と嘔吐,胃部の圧痛,口唇チアノーゼ,譫言,意識混濁,運動不安などを伴う。さらに重症になると痙攣,激しい頭痛,眼球結膜の充血がみられ,便は水様となり吐瀉物は黄緑色を呈した。発病の早い者は,大福餅を食べてから一九時間後,平均は二五時間から三〇時間後であった。

市内の医師は,いずれも患家からの往診の要請を受けて,とても需要に応じきれていない有り様であった。ましてや郡部の,医師の少ない地方においては,患者は医師の手当てを受けることもできず,むなしく病床に苦しむのみであった。場合によっては,家族のほとんどが食中毒に倒れ,介護する者すらいない家もあった。そのため浜松市役所から各方面に医師の応援が要請された。豊橋市役所,日本赤十字社静岡支部,磐田郡医師会などが,応援要請に快諾を示し,市役所内に救護所が設置された。日赤のみは独自に活動することとなり,浜松市軍人会館が日本赤十字社救護本部となった。


 午後一時,県の学務局から,斎藤視学官と属官の二人が来校した。校長や校医,工藤衛生技師などから話を聞き,一中の食中毒事件が予想以上に悪化していることを知ると斎藤視学官は色を失った。その頃,被害の拡大を知った浜松一中の卒業生,とりわけ浜松師範に進学していた生徒二〇名が自発的に母校に駆けつけ,走り使いや訪問者の応対,電話の取り次ぎや,ガリ版印刷などの雑務に協力を惜しまなかった。浜松二中生や商業生徒,工業生徒なども自発的に雑用を申し出て,電話を持たない罹患生徒の家々を,自転車や徒歩で連絡に走り回った。

 しかしこの段階にあっても,食中毒患者の概要は掴むことができなかった。被害者は一中生とその家族のみならず,さらに拡大しているようであった。一中生のすべての家庭に電話があるわけではなく,特に郡部に居住する生徒の電話の普及率は低く、全員に連絡を取ることは不可能に近かった。職員全員が途方にくれていると、師範学校長の板倉が、「幸い、一中生ならば連絡を取る方法がある」と提案した。浜松市内といえども、小学校を卒業した男児が,上級学校に進学する数は多くは無い。せいぜい、卒業生の三割に留まるだろう。郡部にいたっては進学の比率はさらに低く、クラスで数人程度であった。郡部では,中学進学者の父兄は地方名士であり,その地域の訓導ならば,一中生の家庭の事情にも詳しいはずである。板倉浜松師範校長は,市部,郡部のすべての小学校に印刷物を配布して,小学校の訓導を通して,一中生とその家族の状況を,詳細に調査してくれるように依頼した。師範の生徒たちは,ただちに各小学校に散って行った。

 また午後からは,工藤衛生技師と,市内にある鴨江かもえ伝染病病院の西本利男院長が,重症患者を回診することを快諾してくれた。その手伝いと道案内のために,教師も回診に付き添うことになり,ただちに出発した。こうして浜松一中内にも,救護本部が設置された。

 一方,市役所内に設置された救護本部の方においても,午後三時からは市内を五ヶ所に分けて,各区毎に医師一名,看護婦一名,警察官一名で救護班を作り,患者の救護と罹病状況を調査することになった。


その間も浜松一中の電話は,絶え間なく鳴り続けていた。自分自身も食中毒に罹患しているために,生徒宅への家庭訪問ができない教諭たちが,電話番としてメモを取っていた。かれらは激しい腹痛や,高熱に冒されながらも,できるかぎり丁寧に応対し,見舞いの言葉をくり返していた。

午後四時のラジオで,「市役所内に救護本部が設置された」旨が放送されると,続々と診療の申し込みの電話が入った。市役所で確認したところ,診療希望者は,またたくうちに五百名を越えてしまった。その中の三分の二は発症以来,医師や看護婦から何の手当ても受けていないまま、自宅に放置されている。行政側は,自分たちの想像以上に食中毒禍が拡がっていることを知り,底知れない恐怖を感じていた。

浜松一中内の救護本部に入る連絡のほとんどは,一中生の家族や父兄からの病状報告である。そのような中,電話で応対していたある教諭から,小さく悲鳴のような声がもれた。

一、二度,聞き直す声がしたが,やがて沈痛な面持ちで教諭が電話を切ると,何事かを察した周囲には,重苦しい空気が流れた。

「校長」電話から離れた教諭が,低い声で呼びかけた。「四年の高山新一が死にました」

高熱にうなされながら椅子に体を預けていた錦織校長は,一瞬,目をむいて,やがて力なく手を下ろした。「ついに生徒が死んだのか」つぶやくように校長は言った。死んだ生徒の担任が,生徒名簿の写真を取り出して,机の上に安置すると,教師たちが無言で頭を下げた。電話は止むこと無く,それからわずかな間に,一年・河合平一郎,二年・内藤常治の死亡が報告された。死亡した生徒のもとには,ただちに弔意を伝えるために,教師が派遣された。


第六章


建設中の国会議事堂は,陸軍省から手を伸ばせば届きそうな距離にあった。国会議事堂の建設が始まってから,もう七年もの歳月が流れている。あたりを圧するような白亜の威容が,足場の間からも観察された。陸軍省医務局衛生課員兼軍医学校防疫学教室教官の北野政次二等軍医正は,たまたま陸軍省にいた。ふだんは軍医学校で教鞭を執っているので,めったに永田町に来る事は無かったのである。医務局でつまらない事務仕事を片づけたら,すぐに市電に乗って,戸山町の軍医学校まで戻るつもりであった。


(北野政次・兵庫県出身,昭和十六年軍医少将,昭和十七年関東軍防疫給水部長,昭和二十年中将,第十三軍軍医部長,戦後はミドリ十字に勤務)


帰り支度をしていると,第三師団軍医部の高級部員から,北野軍医正に対して電話が入った。その内容は「浜松部隊に食中毒患者約四〇名が発生,内二十数名が入院,熱発四〇度に達するものあり。重症患者多数。原因は兵が五月十日外出し,三好野で大福餅を食べた事に基因す。同日浜松一中にて運動会あり。三好野製大福餅にて二,三百名中毒発生,内死亡四名」という驚くべきものであった。

北野軍医正は事の重大性から,ただちに上官の梶塚隆二衛生課長に報告するとともに,軍医学校の平野林教官にも報告した。


(梶塚隆二,宮城県出身,昭和十二年軍医少将,第二軍軍医部長,朝鮮軍軍医部長,関東軍軍医部長を歴任,昭和十五年軍医中将)


平野林はやし,福岡県出身,昭和十三年軍医少将,北支方面軍軍医部長,昭和十六年予備役)


平野一等軍医正は防疫学教室の主任教官である。平野軍医正は,防疫学教室の主幹である石井四郎二等軍医正と相談し,細菌性の食中毒の可能性が高いことを知った。毒物混入の疑いについては,すでに安倍衛戍病院長の検査が行われていることから,その可能性は低いものと考えられた。平野軍医正は防疫学教室の総力を挙げて,食中毒事件の解明にあたることを考え,その旨ただちに,軍医学校長に具申して了承を取った。総責任者として石井軍医正を指名し,まずは北野軍医正を浜松に派遣することにした。


(石井四郎・千葉県出身,昭和十一年関東軍防疫給水部長,昭和十六年軍医少将,第一軍軍医部長,昭和二十年軍医中将,関東軍防疫給水部長)


命を受けた北野軍医正は,浜松衛戍病院に対して,ただちに軍医学校防疫学教室に検体(食べ残しの大福餅と,罹病者の排泄物や吐瀉物)を送付するように電報を打った。


第七章


一方,事件の渦中にある浜松一中救護本部では,やがて日が落ちて、夕刻から夜になると悲報は続々と入り,職員一同は悲嘆のあまり声を発する者さえいない有り様となった。弔問から帰った教師は,休む間もなく,ふたたび出発しなければならなかった。教師たちの疲労も限界に近づいていた。

午後八時には,県境をこえて豊橋救援隊が市役所に到着した。救援隊長は豊橋市の学務課長である森下勘蔵が就き,豊橋市立病院の副院長をはじめ医師四名(うち女医一名),衛生技師一名,看護婦長一名,看護婦五名で編成されていた。豊橋救援隊は本部を浜松一中の校内に設置し、四班に分かれて,それぞれの班には一中の教諭や配属将校が付き添い,午後一一時から巡回診療を開始した。

 夜十時,三九度の高熱をおして不眠不休で学校に詰めていた錦織校長が,ついに昏倒し,半分意識不明のままに帰宅した。一中内救護本部では,星子県学務部長が校長に代わって指揮を執った。


 一二日は悪夢のような日であった。悲報は相次ぎ、以下の生徒の死亡が報告された。

三年・秋田八郎、三年・田代毅雄、四年・松本達治、三年・斎藤隆正,五年・山下満,三年・内山健,四年・河合久彌,二年・黒田豊,三年・増井徹志,四年・飯尾陸平,三年・宇波御坂・二年・内藤義雄,二年・池田功

一二日が終ろうとしたとき,すでに一中生の死者は一六名になっていた。内訳は五年生一名,四年生四名,三年生六名,二年生四名,一年生一名である。

さらに救護本部を悲嘆させたのは,大福を口にした一中生の家族たちが,つぎつぎに死亡しているという報告である。

中村侊一二歳(生徒の妹),牧野美恵四歳(生徒の妹),奥野てる三八歳(生徒の母),村木加代子八歳(生徒の妹),鈴木淳司六歳(生徒の弟),川合静六歳(生徒の妹)太田次男七歳(生徒の弟)

 救護所に詰めていた誰しもが,いまだ頑是ない生徒の弟や妹たちの死を知り,被害の重大さに言葉を失った。生徒の家族たちの死者は七名に上った。


第八章


一三日と日付が変った直後,いまだ学校が把握していない重病患者を掌握するために,教職員が浜松署を訪れた。その結果,一三日の午前二時の段階において,重症患者は百五十名と判明した。ただし学校から離れた湖西地域の詳細は全く不明のままであった。   

それぞれの地域に派遣された救護班の活動も,互いの連絡の悪さから,同じ地域に重複して活動したり,まったく訪問していない空白地域が生じるなど,不手際が目立った。市役所,浜松一中,日赤の三つに分かれた救護班は,いずれも統制も連絡も不十分で,総指揮官不在のままに,救護要請のたびに右往左往していたのである。この日の早朝には,周智,引佐,浜名,磐田,清水,沼津の二市四郡の学校医たちで作られている学校衛生会より,学校医十五名と看護婦五十名が浜松一中内救護本部に到着した。


浜松警察署は,いまだ「人為的な毒物混入」という可能性を払拭しきれていなかった。三好野での従業員の雇用状況を調べていた警察では,明らかに怨恨を持っている元従業員が,容疑者として浮上していた。この二七歳の菓子職人の男は,先月まで三好野で働いていたが,この男の周辺でしばしば盗難事件が発生していた。店主がさりげなく「盗難に心当たりは無いか」と問い詰めたところ,この男は激昂した。「俺を泥棒だとでも言うのか」と店主を罵り,まわりの店員たちがとりなす言葉も耳に入らず「この後始末は自分でつけてやる」と放言し,店を辞めてしまっていた。警察は一三日の払暁に,この男が住んでいる市内の下宿を急襲し,重要参考人として検挙してしまった。

その一方で,死体から事件性を探索するために,名古屋医大教授で法医学の権威と目されていた小宮喬介博士を呼び,検察官による司法解剖を行う事となった。解剖遺体には,最初に死亡した生徒たちの中で,もっとも年長である四年生の高山信一が選ばれた。「あんなに酷く死んだ息子に,これ以上痛い思いをさせたくありません」と激しく拒む母親を,検事は三時間にわたって説得した。母親は愛児の解剖の場面を想像しておびえきり,説得の間も泣き続けていた。

ようやく実施にこぎ着けた司法解剖は,午前七時から行われた。食中毒事件の背後に,凶悪な犯罪が隠されているかもしれないとの危惧から,鴨江病院の周囲は厳重な警戒が行われた。多くの警察官が病院の周囲に目を光らせ,物々しい警備の中,解剖には浜松検事局の松井検事,浜松警察署の高井警部補が立ち会った。

その間も浜松署の刑事は,検察当局の命を受けて八方に散り,事件の裏付けのために,聞き込みや検証を続けていた。

しかし法医解剖の結果,新知見は何も得られなかった。胃や腸の内容物にも,粘膜の病変や肺の形状にも,これといった異常所見は無く,わずかに脾臓の腫大が認められたに留まった。関係者は一様に焦燥の色を浮かべていた。小宮教授は表情を硬くしたままで,検事の質問にも無言で立ち尽くしていた。その表情を察した高井警部補はただちに安達署長と協議し,毒物事件の可能性が低いことを報告した。事実,刑事たちの地道な捜査もまったく暗礁に乗り上げており,事件性を疑わせる物証は皆無に近かった。原因がわからないとすれば,すでに二千名を越えている中毒患者に対しての治療方針は何も決まらない。市内での流言は拡大するばかりであった。「心労のあまり,錦織校長がついに発狂した」というまことしやかなデマが,市内のいたるところでささやかれた。「校長は責任を感じて自殺した」との噂すら流布していた。


新聞記者たちの死因に関する質問にも,沈黙を守っていた小宮教授が,正午ごろに検事局にあらわれた。小宮教授は大急ぎで取りまとめた死体検案書を提出したのである。その内容は簡単なもので,「鉱物性毒物による死亡に確定したが,その毒物が何ものであるか目下判然としない」と書かれてあった。浜松検事局は,この簡単な死体検案書を静岡県検事局に報告し,今後の捜査方針の打ち合わせを行うこととなった。


そのころ市内では,一中生と同じような食中毒症状を示す患者も,続々と発見されていた。いずれも日曜日に三好野の菓子を食べた者であり,市内の中学生,高等女学校生徒,小学校児童などを中心にして,各校とも数名から数十名におよぶ,生徒の罹患を確認した。

特に浜松師範学校附属小学校では,訓導三名,生徒六〇名が罹患して,臨時休校が決定された。浜松市内の織物工場でも,一〇日の行楽で三好野の大福餅を食べたところ,六〇名を越える女工が罹患する事件が発生した。浜松市役所でも,収入役をはじめ吏員やその家族,三〇名あまりが罹患していた。いずれも三好野で大福餅を購入した者か,一中生からのおすそ分けを貰った者であった。

また,罹患した母親から授乳されていた乳児二人にも,食中毒症状が発見され,母乳を媒介とした二次感染が疑われた。

県立鴨江病院・西本利男病院長の家族も,三好野の菓子を食べて,妻子二人が病臥していた。しかし事件発生以来,すでに三日間の間,西本院長は昼夜を徹して往診に飛び回っていた。その間,一度も自宅に帰ることも無く,寝ることも無く,家族の手当ては看護婦にまかせたままであった。西本院長自身も,家族と同じ菓子を食べていたために,下痢と熱発に悩まされながらの救護活動であった。


そのころ鴨江病院で患者の糞便から細菌培養にあたっていた藤井衛生技師は,患者の病状や死亡する経過からも,「毒物説はありえない」と強く確信していた。大福を食べてから死亡するまでの時間は,平均して五五時間,最短は五一時間で最長は一一九時間である。発症まで平均して二五~三〇時間かかっていることを考慮すると,このように長時間が経過したあとに死亡するような毒物など存在しない。しかも死者の多くは心臓麻痺の形をとっている。脈拍が微弱になり徐脈となる。呼吸は浅く早く,いわゆるチェーン・ストークス型呼吸となって死への機転を取った。これはチフス類似の症状である。

藤井技師は患者の糞便や,食べ残した大福餅などから遠藤氏寒天培地を用いて,細菌培養を行って見たが,その中のいくつかから「チフス」様コロニーが発見された。「パラチフスB血清」を使用してみると,凝集反応を示した。顕微鏡で調べて見ると,コロニーの細菌は,グラム陰性の球菌で,ところどころ桿菌が混在していた。明らかに赤痢菌ともチフス菌とも異なるものであった。大福餅の黒漉し餡からも,同じコロニーが検出された。


一三日の夕刻,藤井衛生技師は患者の水様糞便を〇・三㏄ほど「マウス」の腹腔内に注射してみた。一時間後にはマウスの元気は無くなり不安状態となった。二時間すると歩行困難となり粘液便を失禁した。やがて血便を排泄して動かなくなった。注射から八時間後,マウスを屠殺して肝臓,腎臓,脾臓,心液,腸内容物に分けて,細菌培養を行った。その結果,翌日には脾臓と腸内容物から,患者の糞便から得られたのと同じ形状のコロニーが出現した。しかし,この細菌培養の新知見も,県の行政当局から黙殺されてしまった。


軍隊でもこの日,飛行第七聨隊で二六名,高射砲第一聨隊で五名,浜松飛行学校生と二名の罹患者が,衛戍病院に入院,あるいは部隊医務室に入室した。

安倍衛戍病院長の献策により,罹患者を出した第七飛行聨隊と第一高射砲聨隊では,朝から兵舎の消毒が行われた。特にすべての廁(便所)には将校用も下士官兵用も,くりかえし便壷に消石灰が撒かれ,烹炊場の清潔は徹底された。また,たとえ発病していなくても,日曜日に三好野に足を入れた者は,すべて隔離され検便が行われた。


そのころ,三好野の店主や関係者の身柄を拘束して,厳しく取り調べていた浜松警察署内でも,ようやくこの大事件が,毒物混入といった人為的なものではなく,食中毒事件であるらしいという見方に傾いていた。「怨恨を持っている元店員」を留置してみたものの,この男には明らかなアリバイがあった。


しかし内務省と県衛生局の見解は,警察とは異なるものであった。一二日の午後に浜松に到着した,内務省衛生局食品係主任の松尾衛生技師は,市内で同時多発に発生した惨劇を目にして,単なる食中毒事件とは違う,なにか恐ろしい事由が裏に潜んでいるのではないかと考えたのである。松尾衛生技師は,鴨江病院で原因毒物の判明作業を続けている石黒県衛生技師と協議した。その結果,「もし食中毒であれば,単なる大福餅の腐敗では,これだけの犠牲者はあり得ないこと」で見解が一致した。そして,もっとも考えられる可能性として,一・大福餅の中に砒素もしくは青酸化合物,その他の毒物が混入されたか,二・あるいはゲルトネル氏腸炎菌が混入したのではないかという,ふたつが考えられた。ただし松尾衛生技師にしても,石黒県衛生技師にしても,「ゲルトネル氏腸炎菌」に罹患した患者に接した経験もなく,また県内のどこにも,ゲルトネル氏腸炎菌と断定できるだけの,特別な細菌培地も検査手段も無かった。


ゲルトネル氏菌とは,ドイツのGärtnerゲルトナーが一八八八年に食中毒で死亡した患者より分離された腸炎菌である。学名を Gärtner bacillus という。グラム染色に染まらない,グラム陰性の周毛をもつ運動性の桿菌である。ネズミチフス菌やブタコレラ菌なととともにサルモネラの代表的な菌である。今日では Salmonella enteritidis と呼ばれている。食品が動物(特にネズミ)や人の保菌者の排泄物によって汚染され,ある程度、同病原菌がそこで増殖したものを経口的に摂取することによって発病する。その発病機序は,腸内で菌がさらに増殖して急性胃腸炎を起こすと考えられるから,ブドウ状球菌やボツリヌス菌の毒素摂取による食中毒とは成因が異なる。したがってサルモネラのような食中毒のタイプを「感染型食中毒」という。後者のブドウ状球菌やボツリヌス菌の食中毒を「毒素型食中毒」という。

感染型食中毒の潜伏期間は毒素型よりも長く,一〇~二四時間程度であることが多い。病変は局所性であり,菌は通常,血液中には入らない。したがって,血液培養では細菌は発見できない。保菌者の検索には,糞便や尿,胆汁などが必要である。また,菌に汚染された原因食物からも,サルモネラは発見できる。細菌を同定するためには,分離用培地に患者の糞便や吐瀉物などを直接塗布する。倍地上にコロニーが形成されても,同定は困難である。コロニーの形状はパラチフス菌のそれに類似するが,菌を特定するためには免疫血清による抗原抗体反応で確認しなければならない。

しかしサルモネラ菌属では四四〇〇以上の血清型が存在しているため,正確な菌の同定は今日でも困難な作業である。血清学的検査は,通常,多価O血清,Vi血清,多価H血清でまず行い,さらにおのおのの因子血清で細かく決定してゆく。昭和一一年当時,陸軍軍医学校ではサルモネラ菌属に対する,多価O血清のみを有していた。


内務省と県衛生課では,毒物混入説を裏付けるために,鴨江病院の入院患者から採血を行った。さらに内務省は静岡県警察本部に対して,浜松市内のすべての薬種商と薬局を対象とし,最近劇毒物の盗難や紛失が無かったか,あるいは購入した者がなかったか,調査するように命令した。


一三日の午後,東京において各新聞社から浜松一中大福餅中毒事件の号外が出た。浜松一中で起きた惨事は,ようやく日本中で大事件として受け止められたのである。


東京朝日新聞の号外は,「患者千二百を超え,死者ついに二十六名,必死の救援陣も力及ばず,浜松一中 中毒事件重大化す」というショッキングな見出しが紙面におどっていた。

見出しの解説として

「浜松市を中心に一市四郡を戦慄させた大福餅中毒事件はその後刻々拡大,深刻化し一三日午前一時半現在(県衛生課調査)の患者総数は浜松署管内千四十六名のほか,その他六警察署の管内を合わせて実に千二百三十一名に達した。死亡者は午前二時現在で二十六名を数え尚増加の見込みがある。市当局はじめ県当局その他全県,隣県の関係方面は事態の愈々重大化をきき十二日夜から十三日朝にかけ続々救援に急行しつつある。原因については尚不明で全西遠は不安の空気に蔽はれて居る。」と大きな活字で事件を速報していた。


この日は浜松放送局が,「二〇日まで臨時休校」と三回放送をくり返した。

そのような中でも訃報は相継いでいた。

四年・磯部憲繁,四年・鈴木義夫,二年・高林敏郎,二年・矢野巳代次,

三年・大場鋭二,四年・林正己,二年・神谷一雄,三年・高山邦治

四年・鈴木晴夫,二年・中野靖幸

さらに生徒の家族の死亡も続いていた。

内山芳子八歳(生徒の妹),中村正三七歳(生徒の弟),

内山かよ子十三歳(生徒の妹,内山芳子とは別の家庭),山崎美恵子二歳(生徒の妹)

この日は十名の生徒と四人の家族が亡くなった。とりわけ四年の林正己の死は,一中の教職員にも生徒にも衝撃を以て受け止められた。林正己は庭球部の主将であり,日本中の中学生のトップが競い合う,神宮競技大会に出場したほどの名選手であった。将来の活躍を嘱望されていた林は,一一日の午前二時に発病し,一三日の午前二時半に死去した。


一中生とその家族から,大量の死者が出たというニュースは,市内では号外となって速報された。患者の中に浜松の名士の子弟が数多く含まれていたことも,市民に衝撃を与えた。あまりの惨劇に,市内には異様な空気が漂っていた。市民の間では公然と「毒物説」が言い立てられ,さも真実げに流言が飛び交った。これだけの大惨事でありながら,いまだに正確な被害者の数すら公表されず,むろん原因も究明されていないために,市内を通行する人の数もめっきりと減った。外食店を利用する者は皆無の状態となり,あらゆる食料品の流通が止まった。また市内の薬局からはヒマシ油が売り切れてしまい,製氷所には氷を求める患者の家族などが殺到した。菓子などはまったく売れなくなってしまった。

心ない噂のために,「一中生に近づく者は,中毒が伝染する」と喧伝され,御用聞きすら一中生の家には出入りを止めてしまった。市民のおののきは頂点に達しようとしていた。


この日の午後,気丈にも錦織校長が登校した。わずかに半日程自宅で横臥しただけで,いまだに高熱は続いていた。校長の責任感と,事件収束への献身的な努力には,鬼気迫るものすらあった。錦織校長は運動会が終って帰宅すると,妻子や女中とともに,茶を飲みながら大福餅を食べ,一日の疲れを癒した。すると一一日の夕刻から下痢が始まり,八時を過ぎると四〇度もの高熱を出すに至った。妻と子ども二人も,症状に軽重はあっても,同じように高熱と下痢に苦しんだのだが,不思議なことに女中の方は何の症状も見られなかったと云う。この日登校した教職員は二〇名であった。

錦織校長は救護活動の合間には,全国から寄せられた見舞電報や手紙,弔慰金などに対して,いちいち自分で返事を認めていた。


第九章


新宿区戸山町の陸軍軍医学校に,浜松衛戍病院から検体が届いたのは,一三日の午前六時であった。ただちに防疫学教室において細菌の分離培養が行われた。それと同時に,防疫学教室から,先発隊として二人の軍医が浜松に向かう汽車に乗った。浜松衛戍病院の患者の糞便から分離培養を行い,一四日の朝に浜松に到着する予定の北野軍医正が,ただちに菌検索ができるように準備をするためである。

北野軍医正は,あらかじめゲルトネル氏菌が原因ではないかという目星をつけていた。実は昨年の昭和一〇年,第十師団秋季演習において民家に宿営した歩兵第三十九聨隊で,食中毒患者五十四名が発生し,内四名の死者を出していた。この時も毒物の混入が疑われたが,岡山衛戍病院からは,血液検体とともに患者の糞便も届けられた。その糞便から得られたコロニーを軍医学校防疫学教室において分離培養し,免疫血清を用いて抗原抗体反応を見たところ,ゲルトネル氏菌と確定されたのである。

軍隊においては食中毒自体は珍しいものではない。北野軍医正は昭和一一年に軍医団雑誌において「陸軍の食中毒統計」を投稿しているが,統計を取り始めた明治四四年以来,三五四件発生している。毎年平均して一五件の食中毒が発生し,罹患者総数は三二九〇七名,年に換算すると毎年一三七一名が罹患していることになる。その殆どは腸チフス様疾患であった。

さらに,ゲルトネル氏腸炎菌による食中毒といえども,やはり,それほど珍しいものではなかった。昭和六年には佐世保において発生し,昭和八年には陸軍糧秣本廠,昭和十年には軍艦北上で,また同年七月には歩兵八聨隊でゲルトネル氏腸炎菌が原因の食中毒が発生していた。そのときの経験から,陸軍ではゲルトネル氏腸炎菌による食中毒症状と,治療法に手順書が作成されていた。

菌に汚染された食物を摂取してから,平均して食後十時間で発症し,頭痛,腹痛,下痢,全身倦怠,脱力感を伴う。早い者で八時間,遅い者でも二〇時間以内に発症する。体温は悪寒を伴い四〇度前後の高熱を発する。ただし一~二日すれば急速に解熱する。脈拍は頻脈で一〇〇~一三〇位に上昇し,重症者になると不整脈や結滞を伴う。腹痛は重症になるほど激烈で苦悶反転するほどである。嘔吐も重症者ほど酷く,頑固な吐き気が持続する。

便通はほとんどの場合,下痢水様便で一日数十回にも達することがある。重症になると緑色粘液便で血液を混じえる。また重症者ではうわごとをくり返したり,意識不明を呈する。重症例の死亡時間には,個人の体力や栄養状態などによって差異があり,二四時間から一五〇時間と大きく異なるが,平均して二~三日と考えられていた。


このようなゲルトネル氏腸炎菌による食中毒症状について,陸軍の治療方針は以下のように定められていた。

入院と同時に絶食を命じ,さらにリチネ油(下剤)三〇~四〇グラムを服用させ,腹部は懐炉などで温める。一般状態の不良な者に対しては,「ビタカンファー」あるいは「カンファー」などの強心剤を皮下もしくは静脈内注射する。注射の回数や使用量などは考慮すること無く,効果あるまで何度でも行う。また,生理食塩水の皮下注射,リンゲル液の静脈注射などを早期に行う。という、きわめて積極的なものであった。

軍隊で行われていた細菌検査の方法は,「遠藤氏平板培地」(陸軍では二~三%の普通寒天培地に,乳糖,フクシン,亜硫酸ナトリュウム,無水炭酸ナトリュウムを混和して作成した。)に検体を塗布して,これを二四時間・三七度で培養し,菌様聚落(細菌コロニー)を認めたら,各種腸内病原菌免疫血清を用いて,抗原抗体反応に基づく,凝集反応の有無を見るというものであった。陸軍では免疫血清として,チフス菌,A型パラチフス菌,B型パラチフス菌,ゲルトネル氏腸炎菌の四種類を準備していた。

午後五時,ふたりの両軍医が浜松に到着。ただちに衛戍病院の検査室において,検体から細菌培養が行われた。午後一一時,北野軍医正は東京駅から浜松に向かった。


この日の全国紙の夕刊には,「軍隊に犠牲者なし 功を奏した処置法」という記事が掲載された。民間では内務省も県の衛生局も,必死になって罹病者の治療に当たっているにもかかわらず犠牲者は後を絶たない。それなのに軍隊内では一人の死者も見られないという事実を伝えるものであった。

記事は左のように続いた。

「今回の中毒事件に飛行・高射砲両聨隊,飛行学校等,軍部関係者から既報の如く三十三名の中毒者を出し,浜松衛戍病院安倍院長外職員の適切な処置によって,一般が相当高率な死亡率を見せているにも拘らず,軍隊から一人の犠牲者も出さなかったことは非常に注目される。

同院で中毒発生の報をうけるや,十一日夜早くも全員を招集し,徹宵で衛戍地各部隊を指導し,まず一斉不時診断を行い,細菌性中毒でないかとの見解から,三好野で飲食した兵士は全部医務室に隔離,重症者は病院伝染病室に収容した上,各隊兵舎の大消毒を行ったばかりか,罹病者には重軽症を問わず食塩とカンフル注射を併用,下剤を与え症状昂進に備える等積極的な対症治療法を立てた。一方罹病者の糞便吐瀉物について細菌的検査と毒物反症を検するなど「一人も死なすな」と悲壮な活動を続け,好成績をあげたのは一般から驚嘆されている。」


第一〇章


一三日が終わり,一四日を迎える午前零時,名古屋に衛戍する第三師団から救護隊が,列車で到着した。浜松衛戍病院は第三師団軍医部の編制下にあり,安倍病院長が師団軍医部に応援要請をしていたのである。衛戍病院に対しての指揮命令権は第三師団長が有するが,師団軍医部長は編制下の各衛戍病院に対して,助言・指導する権限を有していた。

名古屋衛戍病院先任軍医の山村武雄三等軍医正が指揮官となり,軍医四名,看護長三名,計手一名,看護兵一〇名という編成であった。

一四日の午前二時ごろから,激しい雨模様の天気となったが,第三師団の救護班はタクシーで重症患者の巡回診を開始した。

浜松第二中学校では,六浦校長の呼びかけに応じて,四・五年生の有志が二百名も集まり,授業を休んで雑用に従った。とりわけ電話の台数が不足しているために,学校近くの九店舗の電話が一中に貸し出された。しかし電話機を移動させることはできないために,その店舗にかかってきた電話の内容を,二中生の有志がメモして,今度はそのメモを持って一中の救護本部にまで走って届けるという,人力での取り次ぎを行った。また別の生徒たちは十八の班に分かれて,一軒一軒の家を廻って医療状況調査書の記載を行っていた。


午前四時,名古屋医大の小宮教授が,検体を持参して大学に帰校した。解剖の結果,何らかの原因も探索できなかった小宮教授は,化学的分析によって,おそらくは相当に微量と思われる毒物の検出を行おうとしていた。小宮教授は,罹病者の致死率が高く,発症が激烈であることを考慮して,どうしても毒物説に傾かざるを得ないと考えていた。少なくとも,細菌性のものではあるまいと確信し,その事も検事や警察にも漏らしていた。検事局も,警察も,「小宮教授の意見」として,発言の事実のみを斎藤県知事に伝えたために,上京して内務次官に事件報告をした県知事は,確信を持って「毒物混入説」主張した。そのために内務次官の命によって,内務省防犯課は別の法医学者を浜松に派遣し,毒物の発見に全力をあげざるを得なかった。名古屋に帰るために浜松駅にあらわれた小宮教授のそばには,新聞記者が殺到して,「毒物が原因か,細菌が原因か」怒号のような騒ぎの中で質問が投げかけられた。小宮教授は「箝口令で,わたしには発表する自由も無いが,原因はつきとめた。あとで明らかになるだろう」と硬い表情で,多くは語ることなく汽車の人となった。


午後0時,徹夜で救護活動を行っていた第三師団救護班が浜松一中救護本部に帰還した。あまりにも支離滅裂な状態で続行されている救護活動に,疑念を抱いた第三師団救護班長の山村軍医正は,校長や関係者と善後策を協議した。患者が熟睡しているにもかかわらず,深夜の二時三時に巡回救護班が患家を訪問し,患者をたたき起こして注射をする。患者のカルテすら作られていないので,前に訪問した巡回班の行った治療内容が判らない。さっき巡回救護班が注射をして帰ったと思ったら,一時間もしない間に,また別の巡回救護班がやって来て,注射をしてゆくという具合であった。しかも,前の巡回救護班が何の注射をしたのかも判らないという有り様であった。

患者側が必死の救護要請を行っている患家には,ちっとも巡回救護班が訪問せずに,すでに回復期に入っている患家には,巡回救護班が何回も訪れるという不具合も目に余った。

その結果,市役所,日赤,浜松一中などの各救護団の代表を衛戍病院に集めて,再度「医療統制会議」を行うこととなった。今度は全ての救護活動の指揮権は,山村軍医正が執る事になり,軍隊式の上意下達で,救護活動は一新された。

この段階で,推定患者数は二千有余名,内重症者五百名,死線を彷徨している者は一二〇~一三〇名と考えられていた。


またこの日の午後に,いままで原因究明のために,食中毒犠牲者の葬儀や火葬を禁止していた行政当局が,それを解除した。たちまちに浜松市内の葬儀屋から棺桶が売り切れ,僧侶も払底する騒ぎとなった。市営の火葬場では処理しきれないために,遺族に対して,葬儀の延期を要請した。


一四日の午後三時には,浜松検事局の渡辺上席検事は新聞記者に対して,「我々の方は原因究明に関し,独自の立場から措置を取って居るが,現在までには毒物を投げ入れた等の容疑者は検挙していないが,捜査の手は緩めないでいる。どうして捜査しているかは,小宮博士執刀の死体解剖の結果によって方針を立てたものではないし,その他の調査を基礎としているものでもない。全く独自の立場から調査している」と語り,「毒物混入説」へのこだわりも覗かせた。

さらに山内県警察部長も記者会見で「大福餅の中毒はかつて聞いたこともなく,接するのも初めてで,犠牲者と患者に対しては真にお気の毒に堪えない。中毒原因については餅及び餡から来た自然中毒,即ち腐敗菌による中毒ではなく,毒物の混入によるものと判った。併し作為的にこれをなしたものか否かは判らない。毒物の検出は目下専門家の手でなされているが,その結果を待たず,こちらではこちらの見方で取調を受けている人があるが,警察の立場を諒解して甘んじて取調を受けてもらいたい。」と,さも真犯人がいるかのような発言をした。渡辺上席検事や山内警察本部長の見解は,明らかに現場で実証見聞をした,浜松警察のそれとは相違するものであった。浜松警察署内では,大福餅中毒事件に人為的な事件性が無いことは,すでに当然視されていた。「毒物混入説」は,すでに完全に行き詰まっていた。内務省と県の行政当局,検察,警察は,必死の捜査にもかかわらず「犯罪」の片影だに見い出すことができなかったのである。

しかし松尾内務省技師は「塩素性の炭酸銅が原因ではないか」と記者団に語り,小宮名古屋医大教授は「醋酸酸化銅が考えられる」と鉱物性毒物説に拘泥していた。


午後六時,ついに匙を投げた緑川県衛生課長は「今までの研究は全部失敗に帰し,何等得る処はなかった。」と悲痛な声明を発表した。県行政当局と検察,原因調査はまったくの振り出しに戻ったのである。



第一一章


 一四日の明け方の五時に,北野軍医正を乗せた汽車が浜松に到着すると,車軸を流すような雨である。北野軍医正は駅前でタクシーを探すが見つからない。交番で訊ねると,「食中毒事件のために市内のタクシーは出払っていて,容易には見つからない」との事であった。衛戍病院に電話をすると,まもなく迎えの自動車が到着した。軍医学校に浜松到着の電話を入れると,「浜松衛戍病院より送付された糞便から,ゲルトネル氏腸炎菌の免疫血清に強い凝集反応を示す細菌集落が確認された」との事であった。改めて検査室で細菌培養の進捗状況を聞くと,結果が判明するのは午後0時と予定された。安倍病院長の案内で,入院患者を診察し,カルテを調べると,まちがいなく患者の熱型,臨床症状は細菌性食中毒に一致している。北野軍医正は「ゲルトネル氏腸炎菌による食中毒」にまちがいない,という確信を得ていた。


次に北野軍医正は,浜松憲兵分隊の案内で,安倍衛戍病院長と共に,三好野に向かった。三好野製大福餅のために多くの陸軍の兵士が罹患しているために,憲兵隊も調査をはじめていたのである。憲兵からの報告によれば,「三好野において調整した大福餅のために罹患した者は,地方人では浜松一中生とその家族,およそ一五八七名,その内の死亡者は三八名。軍部罹患者は日曜外出の際に三好野で飲食した者で入院二三名,入室一九名あるも死亡者は無し。中毒の原因は地方側(警察方面)においては毒物説が高く,まったく細菌感染を考えていないようである。」との事であった。北野軍医正は店内に残されていた,大福の原料,使用した調理器具,廃棄物などあらゆるものを押収して,ただちに軍医学校に送付することにした。


第十二章


朝九時,その頃浜松一中では,ふたたび錦織校長がすべての生徒の父兄に対して,見舞状を発送した。


拝啓


今回不慮の中毒事件に際し,不幸にして罹災せられたる各位に対しては何とも申訳無之もうしわけこれなく深く深く御同情申上候

就ては此際可及的治療法の万全を期したく爾来不眠不休善後処置を取り手配中に有之候これありそうろうへども何分弊校は目下職員生徒中に多数の罹災者を出し手不足の為乍遺憾万事疎漏あるを免れず候

幸に本件学務部の救護本部を本校に設置せらるる事と相成,市当局救護施設と相俟ちて日本赤十字病院,名古屋衛戍病院,豊橋病院,浜松静岡清水沼津及び県下各郡医師会,市内及び県内の中等学校及小学校,本県教育会,県互助会等の懇切なる御援助を得て力の限りを尽し居候次第に付何卒御諒恕相願度なにとぞごりょうじょあいねがいたく尚ほ病中及病後の御注意については左の官庁公示事項に御留意被下度く(くだされたく)此段得貴意候このだんきいをえそうろう                     敬具

昭和十一年五月一四日

          静岡県立浜松第一中学校長  錦織兵三郎

生徒保護者殿

 官庁公示事項

                        静岡県立浜松第一中学校

     生徒及罹病家族ヘノ注意

一・当分ノ間ハ熱ガ下リマシテモ胃腸ガ大変悪クナツテ居リマスカラ絶対安静ヲ守リ成ルヘク一週位ハ休校スルコト

二・腎臓炎ヲ併発スル虞ガアリマスカラ運動等ハ相当ノ期間止メルヤウニシテ腹ヲ温メ流動食ヲ摂ルヤウニシテ下サイ

三・熱ノ高イ場合ニハ氷嚢ヲ用ヒテ下サイ

四・飲料ハ番茶,りんごノ果汁ナラ差支アリマセン

五・含漱ハ,一・〇プロノ重曹水ヲ以テ励行シテ下サイ

以上

午後になって,さらに二人の生徒の死亡が確認された。

五年・藤田栄一,五年・牧沢正明


藤田の死は,学校に待機していた教諭たちに少なからぬショックを与えた。藤田は浜松第一中きっての秀才であったからである。一年のときから級長を連続して務め,三年生のときには学年一の優等生として頭角を現した。品行方正で人物も明るく,人望も有り,誰からも好かれ,また尊敬されていた。四年生を終了した今年の春に,担任教師の勧めもあって第一高等学校を受験したが,惜しくも失敗し,捲土重来を期して,連日猛勉強に励んでいた最中の遭難であった。浜松一中の名を必ずや高らしめたであろう逸材の,早すぎる死であった。一方,死亡した牧沢は,一二日には何の症状も見られず登校し,クラスの欠席者が多いことに驚いて下校している。ところが下校直後から突然に病状が出現して,一四日には非命に倒れた。


一四日の早朝より浜松衛戍病院で行われた細菌培養検査でも,北野軍医正の予想通り,培地からはパラチフス菌様の細菌集落が検出された。そのコロニーに対して,慎重に免疫血清を用いた抗原抗体反応が行われた結果,まちがいなくゲルトネル氏菌と判明した。北野軍医正は,ただちにこの結果を軍医学校の平野軍医正に報告した。平野軍医正を通して,井出軍医学校校長と,小泉親彦陸軍医務局長に結果が報告された。その報告に基づいて,午後一時三十分には陸軍軍医学校から,「浜松の兵士中毒事件の原因は細菌感染」という正式発表がなされた。一四日の夕刊各誌には「浜松一中の中毒事件の原因判明」という大きな活字がおどっていた。誰よりも先に,軍が事件の原因をつきとめたのである。


井出淳三・埼玉県出身,昭和七年軍医監,昭和一一年関東軍軍医部長,軍医総監

昭和一三年予備役


小泉親彦・福井県出身,昭和九年軍医総監,陸軍医務局長,昭和一三年予備役,昭和一六年初代厚生大臣,昭和二〇年自決


すでに一三日には,松尾内務省技師と石黒県衛生技師の両名が,「毒物,あるいはゲルトネル氏腸炎菌が原因の疑いが濃い」として内務省に報告していたが,免疫血清を持たない以上,原因菌の断定には至らなかった。そのために東京の新聞各社も正確な情報が掴めず,右往左往するような,客観性を欠くような記事も掲載されていた。ある全国紙には,明らかに市内の噂話と思われる記事すら載った。


一四日全国紙夕刊

「静岡電話」県に来た情報を総合すると,原因は病菌による伝染性のものではなく,激毒物の混入による毒物性のものと見られ,それが鍋或は餅の何れかに附着していたものであるかどうか判然しないが,猛毒物による中毒であることは的確となった。只その毒物が如何なる経路で何人が使用したかが未だ判然しない。


全国紙が,根拠不明の記事を掲載していた同じ頃,静岡の地方紙では,ほとんど事実に則した報道も行われていた。


一四日地方紙夕刊

恐怖去らず死者卅九名 材料と器具の調査で緑青・細菌説薄らぐ 松尾・緑川両氏の発表

松尾内務省技師並に緑川県衛生課長の調査に依れば,使用器具と原料について

一・使用した漉網二枚中一枚のみ銅製であるが,緑青が発生する迄のものではない。

一・使用した小豆は全部地物で,合計十八軒のものを六貫宛製餡し,他に依頼した形跡なく,小豆は新鮮なものである。

一・餡の中に若し菌があったとすれば,製造過程中死滅するのが当然で,大福餅に包む作業では十八人の家族と雇人が動員された点から見て,右十八名中の保菌については全部雑菌で,その中にコロニーが発見されたが,病原菌らしいものはない。

等で緑青に依る中毒,細菌に依る発病でないことを物語り,原因は解剖患者の血液等によって明確になるものと見られている。


このような不確実な報道に終止符を打ったのは,衛戍病院における「ゲルトネル氏腸炎菌が検出」という事実であった。

午後七時には,小泉親彦陸軍医務局長自身が全国にラジオ放送を行って,毒物説でゆれる浜松の事件の収束を図った。

「浜松地方に於て発生の中毒事件に関し各方面の験索を行いつつあるが陸軍では浜松衛戍病院並に軍医学校に於て験索の結果患者の糞便中よりゲルトネル氏菌と認むべき菌を発見,これにより中毒の跡濃厚なり。明朝(一五日朝)に至れば確定し得る見込。尚細菌以外の毒物は目下の処証明し得ず」

しかし小泉医務局長の談話には,大きな欠陥があった。浜松衛戍病院で行った糞便検査は,陸軍の兵士だけが対象で,一中生はただの一人も含まれていない。つまり判明したのは「軍隊内で発生した食中毒の原因」であって,厳密に言えば,いまだに「浜松一中生とその家族を罹患させた原因」は,つまびらかではないのである。しかし兵士の罹患も,一中生の罹患も,「三好野」という大きな接点が存在する。小泉医務局長のラジオ放送は,確かに事態の沈静化に一定の効果を上げるものであった。


事件発生以来,はじめて食中毒の原因が明確に示された。単なる食あたりや,ありふれた食中毒ではなく,ゲルトネル氏菌という,ほとんどの市民が初めて聞く,未知の細菌が原因とされた。


五月一五日にも第三師団の救護班を中心にして,朝の九時から巡回診療が開始され,深夜近くまで続行された。その頃,内務省の秋葉衛生技師(のち東京大学教授に就任)と緑川門彌静岡県衛生課長が,浜松衛戍病院を訪れ,原因菌の特定に至った経緯についての説明を受けた。実は緑川県衛生課長は,十日の深夜に県立鴨江病院に対して食中毒の原因菌の探索を命じていたものの,同病院には細菌集落を特定するための,免疫血清が二種類しか用意されていなかった。北野軍医正は持参したゲルトネル氏腸炎菌の免疫血清を手渡し,鴨江病院でも追試実験をするように頼んだ。鴨江病院で同じ結果が得られれば,浜松一中の中毒事件の原因も,ゲルトネル氏腸炎菌と断定ができる。


一方,衛戍病院では,三好野の菓子が原因で発症したと思われる患者は,入院二三名,入室一九名という数に上っていた。その内のほとんどは,飛行第七聨隊の所属であった。ゲルトネル氏菌による食中毒についての,陸軍の診療指針が当を得ていたのか,重症者はほとんど見られなかった。


北野軍医正は,ゲルトネル氏腸炎菌による食中毒と判明した段階で感染拡大の危険が無いことを確信していた。少なくとも,感染患者の排泄物に接しない限りは,二次感染の恐れは無い。ただ,上下水道の設備が不十分な田舎などで,井戸や簡易水道が患者の汚物で汚染されるようなことがあれば,第二次感染が拡大する懸念はあり得る。少なくとも軍隊内においては,便所の消毒と患者の隔離,徹底的な手指の消毒などで感染の拡大は防止しうるであろう。また通常,ゲルトネル氏腸炎菌は人体を経過すると感染力が低下する。よほど不潔な環境で,患者の汚物に接触しない限りは,二次感染の危険性は少ないものと考えられた。

北野軍医正が自分の任務を終えて,帰京しようとしていたとき,平野軍医正の命を受けた,軍医学校防疫学教室主幹の石井四郎二等軍医正と,軍医学校嘱託で伝染病研究所技師兼東京大学教授の小島三郎が,浜松衛戍病院に到着した。石井軍医正と小島教授は,今回の食中毒事件が,あるいはゲルトネル氏腸炎菌を用いた人為的なものでは無かったかという,疑問を抱いたのである。人為的にばら撒かれた細菌によって,ここまで凄まじい惨状が作出できるとするならば,これは陸軍としても注目に値する。石井軍医正と小島教授は,徹底的にゲルトネル氏腸炎の感染源と感染ルートを探索するように命じられていた。とりあえず用の無くなった北野軍医正は,衛戍病院長がささやかな感謝の宴を受けたあと,一六日に帰京した。


一方,石井軍医正を責任者とする軍医学校調査班は一六日にも三好野を調査した。毒物の専門家である草味薬剤官が同行し,浜松検事局の松井検事も立ち会った。午後には浜松憲兵分隊長から,「浜松地方に於ける反軍的行動の有無」「思想的要注意人物の有無」「浜松市に於ける外国人や朝鮮人の動静」その他,「いささかでも事件性のあるような背景が無かったか」,参考意見を聴取した。故意と過失も含めて,石井軍医正は「人為的細菌感染の有無」を疑ったのである。


まずゲルトネル氏菌は,どのようにして大福餅に混入したのであろうか。

調査班は,三好野の店内を天井裏まで徹底的に捜索した。その結果,製造所内に仕掛けた「ネズミ取り」に四匹がかかった。そのネズミを解剖したところ,一匹の腸管内からゲルトネル氏菌が検出された。また,貯蔵用餡箱の中から発見されたネズミの糞からは,ゲルトネル氏菌は検出されなかった。しかし店内に相当数のネズミが出入りしていたことは,確実と見られた。また,死後数日を経過したと思われるネズミの死体も天井裏で発見された。その斃鼠と,天井裏に散乱していたネズミの糞からもゲルトネル氏菌が検出された。ゲルトネル氏菌はネズミだけではなく,犬や猫も感染源となりうる。三好野で飼われていた猫も解剖され,保菌の有無が調べられたが,ゲルトネル氏菌は検出されなかった。おそらく三好野で製造された食品が,ネズミの糞によって汚染され,かかる重大事件の原因になったものと思われた。では何の食物に,ゲルトネル氏菌は付着したのであろうか。


石井軍医正たち調査班は,衛戍病院や医務室に隔離された患者から,「三好野で何を食べたのか」聞き取り調査を行った。兵士たちが三好野で食べた食品は,カレーライスやアイスクリームなども含めて二八種類にも及んでいたが,加熱された料理では,ゲルトネル氏菌は死滅するはずである。最終行程で加熱処理されない食物として,もっとも疑わしいものに大福餅が浮上した。餡は製造過程で高熱で処理される。となると,餡が完成して保管している間に,ネズミの糞などで汚染されない限りは,原因とは考えにくいことになる。つぎに餅に菌が入っていたか,どうか検討された。しかし餅そのものの原料は蒸した糯米である。加熱されている以上,ゲルトネル氏菌により汚染されるとは考えられなかった。もし汚染されるとするならば,臼を前日に使って,翌朝まで水を入れておいた場合である。その水の中にネズミが小便や糞をすれば,ゲルトネル氏菌に汚染されることになる。

三好野の菓子職人に事情を聞いたところ,臼はたしかに使用後には水を入れておくが,翌朝にはこれを洗ってから使用するということであった。また,もし臼が汚染されていたとしても,餅をつく作業では三升もの熱い蒸した糯米を,くり返して臼の中に入れるわけなので,菌は死滅するはずである。では,餅をつくときに「返し手」は手を水で濡らしながら,「突き手」と呼吸をあわせて餅を何度も返してゆく。その「返し手」の使用するバケツの水が汚染されていたらどうだろうか。そこでまた菓子職人から,「返し手の使うバケツは,上を向いて保存していたか,下を向けて保存していたか」問い詰めるが,誰も記憶していなかった。

三好野の菓子職人の話では,「大福用の餅は二回つく」との事であった。すなわち餅をつき上げたあとは,これを水の入ったタライに,十分程置いて,充分に冷やしてやる。そして,もう一度つくと,餅がびっくりするほど柔らかくなるとの事であった。そうなると,今度は餅を冷やした水が汚染されていたということも考えられる。ひとつひとつの製造工程を勘案して,調査班では原料からの細菌培養を試みた。その結果,作業用粉箱内の餅取粉(打粉)と大福餅にまぶされた餅取粉(打粉)の両者からゲルトネル氏菌が検出された。

在庫の未使用の餅取粉からは,検出されなかった。その結果,大福餅の表面にまぶされた餅取粉が,作業場の中においてゲルトネル氏菌に汚染したということが考えられた。


では,いつ餅取粉が細菌に汚染されたのであろうか。安倍衛戍病院長の証言から,飛行第七聨隊長の岩下大佐の家族が感染したのは,七日製造の豆大福であることが判明した。職人たちからの聞き取りによって,おそらく七日の午前中に三好野の餅取粉が細菌に汚染されたということが強く疑われた。

三好野の従業員や店主夫妻など,十六名について五回の検便が行われたが,大福餅を食べて,軽い下痢症状を呈した店主の妻以外からは,ゲルトネル氏菌は検出されなかった。

店主も女給仕も菓子職人も,大福餅を一~二個ほど食べていたが,検便の結果異常はなく,発病もしていない。明らかにゲルトネル氏菌によって汚染されているはずの大福餅を食べた者が,なぜ発病しないのであろうか。それについて調査班は「罹患が菌量の多寡に関すること大なると共に大福餅製造後の経過時間と重要なる関係にあることを知るべし」と考えていた。すなわち,ゲルトネル氏菌の量が少なければ発症しないし,菌が増殖するためには,ある程度の時間が必要なのである。たとえ餅取粉が菌に汚染されていても,高温多湿の条件下で,ある程度以上の長い時間放置されないと,菌は致死量にまで増殖することは無い。三好野の菓子職人は,製造されたばかりの大福を食べているので,この時点ではゲルトネル氏菌は発症を引き起こすほどには増殖していないと考えられる。九日に豆大福を買った人たちの中から,死者が出なかったのは,いまだゲルトネル氏菌が致死的な量にまで増殖していなかったためである。

一中生に限っていえば,白大福を食べた者は八〇%が発症し,死者は一二名で死亡率は一・五%となる。赤大福を食べた者の発症率は三〇%で,死者は二名,死亡率は〇・七%と大きな開きがあった。

さらに調査班は,三好野で使用された餅取粉にゲルトネル氏菌をくわえて実験を行った。菌に汚染されたその餅取粉を,三〇%の湿度・二五度に保温する。混合されたゲルトネル氏菌は六時間経過すると五百倍に,十二時間経過すると一万倍に増加する。九日の平均気温は一六度,最高気温は二〇・五度,一0日の平均気温は一八度,最高気温は二四・四度であった。生徒たちに配られた大福餅は竹の皮で包んであったために,より高温多湿な条件下で保存され,その間に汚染された餅取粉の中で,ゲルトネル氏菌は致死的な量にまで増殖したものと考えられた。

以上の結果から,人為的にゲルトネル氏菌が餅取粉に混入された可能性はきわめて低い。ネズミが日常的に走り回っているような,不潔な工場で,高温多湿の中で製造された大福餅は,不幸な要因が重なって,数多くの人の生命を奪ったのである。


第十三章


一五日の午後二時には,はじめて浜松一中に斎藤樹静岡県知事が訪れ,一同を激励して一時間ほどで退去した。それと入れ代わるように,また生徒の家族の死亡が報ぜられた。五十歳・鈴木ひさ(生徒の母)であった。

この日の夕方頃から,ようやく中毒事件の峠を越えたという手応えがあり,救護本部もわずかながら愁眉を開いた。連日のように徹夜が続いていた学校職員も,疲労の限界に達していたため,三名の当直員を除いて,帰宅して静養することになった。また,各方面への走り使いや,雑用などに従事していた師範学校生徒,浜松二中生徒,商業生徒などは学業に差し障りが生じるために,すべて手伝いを終了させて帰宅を命じた。

浜松一中の卒業生や出入り商人などの援助は,引き続いて受けることになった。

鴨江病院においては患者の糞便からの菌の同定が進められていたが,十五日には名古屋医大の小宮教授がふたたび来浜した。再度,死亡患者の解剖を行い,死亡原因を特定する為である。

小宮教授は,「食中毒の原因はゲルトネル氏菌と判明」という軍医学校の発表に対して,激しく反発していたのである。教授は「ゲルトネル氏菌だとしても余程強烈なものでなければ,人間には自然免疫というものがあるから,今度のように一律に中毒している場合にはどうかと思われる。」と懐疑的であった。それに対して,「真相究明のため役立つならば,伜を解剖して欲しい」という申し出があった。申し出たのは五年生・牧沢正明の父親であった。牧沢の父は青年学校の教諭で,今回の食中毒事件の解明のために,進んで子息の解剖を承諾したのであった。

第一回目の解剖は検察当局の委嘱によって,事件性の有無について行われたために,厳重な警戒下で検察官と警察官だけが立ち会った。

しかし一五日の夕刻から行われた二度目の解剖は,遺族の了承を得た病理解剖という形で行われた。そのために犠牲者の父や親族,検察官,北野軍医正,安倍衛戍病院長,松尾内務省技師,緑川県衛生課長,その他軍医や衛生技師などが,多数立ち会った。

鴨江病院で解剖が行われていた頃,ようやく浜松警察署は,三好野において大々的な消毒作業を行っていた。事件発生以来,警察は見えない容疑者に振り回され続け,衛生行政活動が全くおざなりになっていた事を,露呈するような作業であった。


一五日の夕方,鴨江病院から緑川衛生課長に報告があった。北野軍医正から貰った免疫血清を用いて細菌の同定を行ったところ,一中生の糞便からゲルトネル氏腸炎菌が検出されたというものであった。その事実によって,浜松一中で発生した食中毒と,浜松の衛戍部隊で発生した食中毒とは,まったく同じ原因菌によるものであることが立証された。


午後一一時,静岡県衛生課は左記のような発表を行った。


今回の浜松市に於ける中毒事件に付其原因を探求した結果ゲルトネル氏腸炎菌と認むべきもの一四種中三種を選び血清学的確定試験を行いたるにゲルトネル氏腸炎菌と断定すべき菌を認めたり,而して本病即ちゲルトネル氏腸炎菌に依る疾病は主として動物間に流行し人より人に接触伝染すること殆どなきものなればこの点一般は先ず安心して可なり。


衛生課長の発表に集まった新聞記者たちは,口々に「二次感染の恐れが無いか,否か」質問を投げたが,緑川衛生課長は自信ありげに,その心配を否定した。記者たちの間からも,ようやく事件の核心が見えたという,安心の声があがった。

その日の全国紙の夕刊には,左のような記事が掲載された。


浜松中毒事件 軍医学校意見に県衛生課も一致 ゲルトネル氏菌説へ

「浜松電話」浜松地方の大福中毒事件の原因究明につき,十四日午後軍医学校ではゲルトネル氏菌の中毒説を発表し,同地方の人心を幾分柔げた感を呈していたが,静岡県衛生課の研究も,十四日深更に至ってゲルトネル氏菌のコロニーに類似した或るものを発見,更にそれを確認するための努力に移ったので,近く各説の帰一,従って対策の一致が見られるものと見られている。尚十五日朝の死亡者は一名,累計四十一名となった。


地元の地方紙にも原因が究明されたことに安堵する記事が掲載された。


大福禍峠越す 病原体明確となって臨床処置に光明みゆ 死亡,新患者も漸減す

事件突発以来第五日目たる十五日の軍部関係以外の毒原探求陣に,果然昨報の陸軍軍医学校発表ゲルトネル氏菌説に対する真剣なる検討開始によって色めき立って居る。先に関係者の一人を解剖台にのせて刀を揮った名医大法医学教授小宮博士の「劇烈なる銅性毒物」説と同医大細菌学教授大庭博士の「特殊の菌による中毒」説と,最も具体的なる陸軍軍医学校の「ゲルトネル氏菌」説及び県衛生課の「ゲルトネル氏菌コロニー発見」説の四者の何れが正しき的を射たか,又果して何れに帰一するかは別として,最も具体的なる軍医学校発表のゲルトネル氏菌説検討は一斉に着手され,一五日午後五時廿六分浜松駅着列車で来浜した伝研 小島三郎博士が,ゲルトネル氏菌其他の免疫血清を持参,それを患者に試みることになった。かくて西遠地方を恐怖のどん底に追いやった毒大福事件も峠を越し,一五日の死亡者は浜松市広沢町牧沢正明君,引佐郡鹿玉村鈴木さささんで,死亡者の累計は四十二名となり,暴威を振った毒魔も力弱まり,陰鬱から明朗に徐々に導かれて行くことだろう。


一方,酸鼻をきわめた「浜松毒大福中毒事件」の原因が,ゲルトネル氏腸炎菌と判明したあとも,軍医学校防疫学教室の調査は続いていた。食中毒の原因となったゲルトネル氏腸炎菌が,どのような条件下で,どのような経緯をたどり,いかに致死的な毒性を発揮したのか,詳細に分析する必要があったからである。

一五日の早朝、石井軍医正たち調査班一行が浜松駅に到着すると,ちょうど緑川県衛生課長が出迎えに来ていた。緑川衛生課長から,ちょうど法医解剖を行っている最中であるという説明を聞くと,一行はただちに鴨江病院に赴き,遺体から検体を採取した。

石井軍医正を責任者とする調査班の陣容は,総員十八名にまで膨らんでいた。衛戍病院に到着して間もなく,一部の調査班員は憲兵と協力して,三好野に現場調査に出かけ,防疫学的・法医学的に探査を行った。また憲兵隊に依頼して,さらに詳しく三好野従業員の思想・信条・交遊関係・金銭関係などの調査を行った。


その日の午後,緑川県衛生課長が新聞記者に対して行った談話が,地方新聞に掲載された。その内容は,改めて毒物混入説を否定し,ゲルトネル氏菌説を断定するものであった。


鼠の媒介からか 欣喜する緑川課長


陸軍軍医学校,浜松衛戍病院についで,中毒事件の病原ゲルトネル氏菌を検出した緑川衛生課長は,満悦の面持おももちを隠し切れず左の如く語った。

十五日朝培養基上にゲルトネル氏菌のコロニーを発見した。軍部方面の検出と一致しているので,今回の中毒病原は菌だと思っているが,万全を期するために鉱物性毒素の検査をも併せ続ける事にしている。ゲルトネル氏菌は食物に入って食中毒を起す猛菌で,主として肉類に附着してもので,肉食の西洋人にはこの中毒が非常に多い。日本人にも細菌縷々同菌中毒にかかるものがある。

更に調査しなければハッキリした事は言えないが,今回の三好野ではゲルトネル氏菌附着の肉を食った鼠が,餡の上に糞尿を落し,一種の培養基である餡の中で菌が殖え,同時に毒素を発生して食中毒になったという経路と考える。

併し今回のように多数の中毒者を出した点に一つの疑問を持って居るので,更に凝集試験,動物試験を行って見るつもりだ。


また同日の午後五時には,県の衛生課の検査によってもゲルトネル氏菌が発見された。


県衛生課十五日午後五時発表

中毒患者原因調査の結果は,患者三十六名の糞便につき検査せるところ,十四名においてゲルトネル氏菌と認とむべきものを検出せり。目下其血清学的確定試験施行中,又家族,従業員の糞便よりも同様の菌を検出せり。尚検索続行中,又陸軍衛戍病院よりの報告によれば,二十三名中七名においてゲルトネル氏菌を証明せり。


新聞紙上では,従来の「毒物混入説」から一転して,「ゲルトネル氏菌」感染説を支持する論調が溢れた。それに伴って,陸軍衛戍病院の迅速な対応や,陸軍軍医学校の検査能力を賛美する記事が目立った。むろん,それと対比するように県や市の衛生行政を批判し,大勢の死者を出した初期対応に批判が集中した。民間の救護班が,患者にヒマシ油を飲ませ,絶食を命じて,番茶のみを許可したのと対照的に,陸軍では,すぐに生理食塩水の皮下注射やカンフル注射などを積極的に取り入れる事により,一人の死者も出していなかった。「陸軍の科学的な最新治療と比較して,民間のそれは,ただ安臥を勧めるだけで,患者を見殺しにしたに等しい」と口をきわめて行政当局を批判するような記事も掲載された。

県や内務省が,名だたる法医学の権威を招聘したにもかかわらず、原因が究明できなかった事も批判の的となった。批判の矛先は,浜松一中の救護態勢のあり方にまで向けられ,錦織校長も心ない誹謗や中傷に曝された。


五月十六日土曜日,事態は小康を見つつあるために,救護班の派遣は二班のみに留め,主に郡部を巡回した。この段階になっても,いまだ罹病者の正確な数は誰にも分からなかった。警察も学校も把握ができていないために,九七五通の往復葉書を全生徒宅に発送して,実態の把握につとめた。


拝啓前略

今回突発せし不慮の災危,誠に申訳も無之候これなきそうろう御子弟其後の御様子如何に候や学校に於ても憂慮致し治療救護に万全を期し度く候間御多忙中恐入り候へ共左記調査事項に御記入の上折返し御投函被下度ごとうかんくだされたく御願申上候

敬具

昭和一一年五月一六日

                           浜松第一中学校


保護者殿  注意・患者の排泄物は厳重消毒する方安全と存じ候


調査事項(不用文字ハ消シテ下サイ)

一・生徒罹病ノ日時       五月      日

一・生徒現在ノ情況     重症    中症   軽症   健全

一・御家族罹病者数 

 (生徒ヲ除ク)

一・御家族現在ノ情況   重症  人  中症 人  軽症  人   計  人

 (生徒ヲ除ク)

        第  学年    組      氏名

        右保護者            氏名

昭和一一年  五月     日


事態は小康に向かいつつあるというものの,生徒とその家族の死亡は,いまだ続いていた。

二年生・中村誠一

六七歳・増井なみ(生徒の祖母)


実はこの生徒の祖母は,大福餅を口にしていなかった。二次感染による死亡と判断した小島教授は,ただちに藤井衛生技師とともに患家に出かけ,死亡した老婆の糞便や血液を採取した。ただちに細菌培養試験を行うと,その日の夕刻にはゲルトネル氏菌と判明した。事情を聞いてみると,大福餅を食べて生徒が中毒を起こしたために,祖母が主となって生徒の看護を行っていたという。祖母の細菌感染は,生徒の吐瀉物や糞便を媒介にしていた。

さらに藤井衛生技師は,昨日病理解剖が行われた生徒の肺と腸からも,細菌培養を行っていた。一六日の夕刻には,やはりいずれの検体からも,ゲルトネル氏腸炎菌が確認された。もはや食中毒事件の原因は,細菌感染であることは疑いもなかった。


緑川衛生課長が属僚に対して,二次感染について調査を命じたところ,主に感染経路は三つあることが判った。ひとつは患者の看護に従事しつつ,炊事を行い,自分や家人を発病させたもの,ひとつは軽症患者が下痢をしながらも,たびたび離床して台所で調理を行い,家人に感染させたもの,そしてひとつは罹患死亡した家を弔問して,そこで出された料理を飲食して,感染した者であった。いずれも手指の消毒や糞便や吐瀉物の衛生的な処理,調理時の消毒などが徹底されていれば,完全に防止できるものと思われた。緑川衛生課長は,二次感染の予防と感染経路について,午後一一時に記者会見を行い,市民に対応策を呼びかけた。


生徒の重症患者数は,著しく減少しつつあった。巡回救護班と警察からの報告によれば,重症生徒は一七名であった。教職員も次第に恢復しつつあり,二五名が登校していた。


五月一七日の日曜日は事件発生から一週間目にあたる。救護班は二班編成され,主に郡部を巡回した。学校で把握した生徒の重症患者は一〇名と激減し,職員の家族も治癒傾向にあった。しかし,連日のように巡回診療に同行するなど,大活躍をしていた飛岡教諭が,一七日になって突如四〇度以上の高熱に倒れてしまった。その症状は,生徒たちの食中毒症状と酷似していた為,何らかの原因で(罹病生徒の汚物に接触するなど?)二次感染を起こしたものと考えられた。学校の救護本部にも緊張が走った。

この日になって,ようやく配属将校の福沢少佐の尽力が実り,自動車やオートバイが運転手付きで,軍隊から貸与されることになった。その内訳は,浜松飛行学校より自動車三台,飛行第七聨隊より自動車一台,高射砲聨隊よりサイドカー一台であった。これによって貸切り状態であった浜松のタクシーやハイヤーを返還することができた。


一方では,県行政当局,内務省,検事局,警察の初動対応を厳しい口調で批判する新聞記事も掲載された。一七日の地方紙日曜談話室には,「なぜ病菌の発見がかくも遅れたか。」という見出しのあとに,著明な探偵小説作家が「検査に当った人が亜砒酸と信じて検出をし,或は緑青と信じて銅の検出に没頭していたからではなかろうか。丁度,警視庁が犯人を捕えるときに,見込捜査をするように」と語り,「亜砒酸もコレラのような症状を呈して非常な下痢を伴うのでぢきに解ってしまう。亜砒酸は「愚人の毒」といわれて,これを使う犯人はよほど馬鹿者だとされている。」と痛切に批判した。


小宮教授が細菌中毒説を否定して述べた,「今度のように一律に中毒している場合はどうかと思われる。」という発言にも批判が集中した。地元紙は「現に餅を食べながら平気でいる者が一中性の中だけでも二百名もいたのだ。事件五日目に至るもこの事実を見逃したのは慎重に欠くるところがあったわけだ。しかし一二日の夜逸早く「細菌説」を構えてパラBの存在を主張した県衛生技師・藤井義明氏の先見を黙殺して,只管司法的活動を続けた責任は誰にあるか。いま北野軍医正の名が燦然と輝くとき,無念の涙をのむ青年技師藤井君の悲痛な心を誰が知ろう。」と厳しい論説を掲載した。

斎藤知事が一三日の夜に記者会見の席上で,「今回の中毒事件の原因は,鉱物性毒物が外部から入ったものである。」と断言したことも,激しい非難が集中し,その発言は無能無策の代名詞として使われた。


五月一八日の月曜日になると,ついに学校の救護本部に来診を乞う電話がなくなった。そのために清水市の救護班は撤収し,第三師団長からは,「第三師団救護班は一九日付を以て帰団すべし」との命令が発せられた。

浜松一中の教職員は三七名であったが,大福餅を食して発病した者は二一名,食したが発病しなかった者は一二名,食さなかった者が三名という結果であった。幸いなことに教職員の死者は一名も出なかった。

午後二時,安倍衛戍病院長と第三師団軍医部長の野中良民一等軍医正は,憲兵立ち会いのもとに三好野を検分した。石井軍医正の提案によって,実際に残された材料を用いて,職人に大福餅を製造させて,その過程を映画撮影する為である。それによって、どのような製造過程でゲルトネル氏菌が大福餅に混入したかが,立証できるものと思われた。

この日,三好野の店主と製餡主任の従業員の二人を除いて,十一日以来拘留されていた十三人の大福餅中毒事件関係者が釈放された。残った両名が起訴されるか否かは,小宮教授の提出する死体検案書を待ってから決定される事となった。


五月一九日の火曜日も,救護の要請は無かった。午後六時には第三師団救護班は撤収した。教職員の登校者数は二七名を数えたが,授業開始のめどがつかない為に臨時休校は二三日まで延長された。教職員も静養の為に日直四名,夜直二名を残して,自宅待機となった。この日の夕刻,三好野の店主と製餡主任の二人も嫌疑不十分で釈放された。


五月二〇日の水曜日も,来診の要請は無かった。その日の夕方には県の救護班も引き上げ、一二日以来,不眠不休の活動を続けた浜松一中救護班も解散した。

しかし,この日に最後の訃報が入った。七九歳・野末ちよ(生徒の祖母)であった。高齢の為に思うような回復が得られず,一進一退の病状の中で死亡したものであった。


五月二一日木曜日。配属将校の福沢少佐が,野末ちよの葬儀に出席するため出向した。さらに全ての生徒に対して,二五日の授業再開を往復葉書で連絡した。さらに授業再開に向けて,全生徒の検便を実施することとなった。全ての手配は浜松陸軍衛戍病院か,鴨江病院でおこない,市内の生徒は一中に集め,郡部の生徒は地域の小学校に集めて検便し,詳しい検査は衛戍病院に一任することとなった。

翌日の二二日には,二次感染が疑われた,最後の患者となる飛岡教諭も回復傾向にあった。

五月二三日の土曜日には,校長はすべての死亡生徒の家庭への歴訪をはじめた。これは錦織校長の強い希望によるものであり,二人の教諭が道案内のために同行した。さらにこの日,鴨江病院から,四人の生徒が保菌者である旨が報告された。

 鴨江病院からは一中に対して,以下のような勧告がなされた。

一・便所の消毒,便所を使用した際の手足の消毒の徹底

二・二百名を検査した結果四人の保菌者が発見されたこと。たとえ軽症であっても学校は欠席するように。

三・万一,身体に故障を覚えた者は,必ず検便を行うこと。その結果次第によっては出席を停止させること。

四・鴨江病院から検便器を届けるので,重症生徒に交付すること。

五・回復期には脈拍が弛緩することがある。脈拍が一分間に四十以下であれば安静給養が必要。

六・患者の家で食事をした場合とか,患者の便に触れない限りは伝染の虞は無いため,教室の消毒までは必要ではない。


五月二五日の月曜日には授業が再開された。ほとんど二週間ぶりに級友は教室で再会し

たのだが,中にはひどく憔悴している者も見受けられた。在籍生徒九七一名,出席生徒八五二名、欠席者一一九名であった。学校医と県衛生技師が登校した生徒を診察した結果,四〇名もの生徒がいまだ完全に回復していなかった。ただちに下校を命じて,三日間の出席停止を申し渡した。欠席生徒についても病状を確認したところ,全員が六月五日までには,登校が可能である旨返答を得た。当分の間,三時間目で授業は打ち切り,武道・体操・教練を行わないことに決まり,長かった浜松一中の二週間は終った。


 五月二六日,緑川衛生課長は西遠地方を震撼させた食中毒事件について,正式な発表を行った。

患者発生区域は浜松市外五十八カ所の町村に及び,患者総数は二次感染者を除いて

二二〇一名(学生八〇七名,その他一三九四名)

うち死亡者は四四名(学生二九名,その他一五名)

全治一六八六名(学生六五九名,その他一〇二七名)

現患者四七一名

という大災害であった。

二次感染者として届出があった者は五二名であったが,実際にゲルトネル氏菌が検出された者は一八名に留まった。

一二日から一九日まで,各救護班に従事した者は,救護班数二三班,医師二二〇名,看護婦一三七名,その他一二五名,診療患者数二三三六名であった。


六月九日午後二時,浜松一中内で神仏式の慰霊祭が行われた。未明から降りだした雨は,午後に至ると豪雨と化した。天幕張りの慰霊会場では雨漏りが激しく,参列した一部の生徒たちは制服の上衣が濡れていた。校庭は泥濘と変り,足の置き場にも困るほどであった。

三時に斎主が祝詞を奏上し,次々に祭文が奏上された。いまだやつれ果てた五年生が生徒を代表して、哀韻を以て亡き友の冥福を奏上すると,会場にはすすり泣きがもれた。玉串が奉奠され二礼二拍手一礼の後,神職が退場した。午後四時からは,五十人の僧侶が読経を行う中,焼香が行われた。生徒たちの生死を分けたものは,運だけであったのかもしれない。参列生徒の多くは,自分自身も死線を超えるという,筆舌に絶した体験をしていた。その間も驟雨は止むこと無く,参列者のベンチの下には,さながら川が流れるような有り様であったが,慰霊式が終了と同時に雨はあがった。それは天意があって,この豪雨を生き残った者に降らし,悲しみを伴にするものかと思わしめるような一日であった。


五月雨を 傾けて天 慟哭す。


                                   終わり。






参考文献

静岡県警察部衛生課・浜松市食中毒事件報告,昭和一一年一〇月,非売品

浜松市食品衛生協会,当時の新聞に見る浜一食中毒事件,昭和五八年

東京朝日新聞,昭和一一年五月一三日,号外

日本医事新報第七一七号,一九五五~一九七三,食物中毒に関する座談会,

昭和一一年六月六日

西俊秀,ゲルトネル氏腸炎菌二依ル食中毒,陸軍軍医団雑誌第二九一号,一一九五~一二〇四

静岡県立浜松第一中学校校友会,中毒事件追悼号,校友会誌第六六号,昭和一一年一二月一五日,開明堂(浜松)

牛場大蔵,細菌学入門,一九五五年,南山堂,東京

常石敬一,戦場の疫学,二〇〇五年,海鳴社,東京




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