第ニ話 Resolutions ②
南山動物園。
県内随一の規模を誇り、五百種を超える動物が見られる、マスコットのコアラが可愛い人気の動物園だ。この辺りの小学校は遠足というとだいたいここで、光太や恵にとってはお馴染みの場所だ。平日ではあるが、この陽気と、また春休み中とも相まってお年寄りや子供連れの来場客がそこそこ目に入った。
「ここに動物いるのー? どこ~どこ~?」
レムは園内に入るなり、動物目当てに右往左往している。正門から入ってすぐは噴水が設けられているちょっとした広場になっており、ここからではまだ動物は見られない。
「レムー、走ると転ぶぞ~」
「迷子にならないように手繋ごうね」
いつぞやのようにレムを挟むようにして光太と恵が手を繋ぐ。それを後ろでリカルドとリーナを眺めていた。
「こうして見ると普通の子供と変わらなく思えます」
「生まれた時代が違うだけで実際は何も変わらないさ。逆にそれで心配になるくらいだ」
リーナはその意味を問うようにリカルドに視線を送った。
「レムは目覚めてからな、一度も泣かないんだよ」
あのくらいの年の子が何も知らない世界に放り込まれれば不安を抱かずにはいられない。親に会えない寂しさから泣き叫んだっておかしくないだろう。しかし、レムはそんな様子を一度として見せたことがなかった。
「気丈な子、ですね」
「ああ。一国の姫君としての教育もしっかり受けていたんだろう。その上でこうなることを母親からしっかりと伝えられていたんだな」
国を治める立場の者が簡単に涙を見せてはいけない。王族が王族たるにはそういった帝王学がどうしても必要となってくる。それはいつの時代も同じことだ。そうして幼少期より培われた心構えと、自らの運命を受け入れる覚悟。その二つを幼くしてレムは併せ持っている。
「いつかは思い切り泣かせてやりたいがな、それは無事に十三歳を迎えられてからだ」
「私も全力でお手伝い致します」
今はそんな寂しさを思い出させないほど楽しませてやればいい。それは光太も恵も思っていることだった。
「レムちゃんはどの動物が一番見たいの?」
「えーっとね~、カンガルー!」
レムは昨日一日かけて家にあった動物図鑑で予習をし、自分なりに見たい動物をピックアップしていた。人気のコアラやゾウ、キリンなどよりも何故かカンガルーが気に入ったらしい。図鑑を見ながらお絵かきするほどだ。
「じゃあカンガルーから見に行くか」
「うん!」
居ても立っても居られないといった様子でレムは手を繋ぐ二人をぐいぐい引っ張るように進んでいく。だが、その道中で動物たちが目に入る度に興味をそちらへと奪われ、見たことのない動物たちを前にワクワクが抑えられないレムはその都度大はしゃぎだった。存分に動物園を満喫しているようで、発起人である恵もその喜びを全面に出している。
結局、一同がカンガルーのところまで辿りついたのはちょうど正午ごろ。目の前に休憩所が設けられていた為にここで昼食となった。恵の方ではサンドイッチを用意していたらしく、リカルドの用意した各種おかずとリーナの缶詰と共にベンチの上に広げられた。一風変わったパーティのような華やかさだった。
いつもならば食事と聞いて一番に席に着くのはレムだったが、今は柵にへばりつき、食い入るようにカンガルーを観察している。
「ホントにカンガルーが気に入ったんだな」
隣で一緒に見ていた光太がレムに言った。
「うん。スキー」
レムがそう声を出すと、近くにいたカンガルーがひょこっとレムの方を向いた。
「コータ、アレ! 子供がいる!」
レムが指差した先では母カンガルーのお腹の袋から子カンガルーが顔を出していた。
それを見て、光太はふと思った。
もしかすれば、レムは親子で暮らすカンガルーに対して憧憬の念を抱いたのかもしれない、と。
レムにとってはもう二度と叶わない親子での生活。憧れまではいかずとも、過去を思い出すくらいのことはあるのではないだろうか。
レムは微笑ましそうに見つめている。そこから物悲しさは感じ取れない。
(考えすぎ、か)
しかし、いつも明るいレムだって、何がきっかけで母との思い出が蘇るかわからない。それがどれだけ楽しかった思い出でも、きっと今は寂しさが過ってしまうだろう。レムが楽しかったと感じたままにそれを思い出せるようになるには一体どうすればいいのか。光太にはハッキリとした答えが出せなかったが、いつかそうなればいいとは切に思った。きっとレムを日本へよこした光太の両親もそんなことを考えたはず。あの夢に見た王女もそうだ。我が子が自分との思い出を悲しむ姿を見たいと思う親はいない。
「レムちゃ~ん! 光ちゃ~ん!」
恵がこちらに手を振っている。リカルドとリーナもこちらを見ている。
(オレが今できるのはみんなと一緒にレムを楽しませてやること、だよな)
別に難しいことではないと思った。光太は一人ではない。レムもまた、一人ぼっちではない。
「さ、レム。弁当食べよう」
「はーい。お腹空いた~」
たとえ寂しさを感じたって、傍にいてくれる人がいればきっとそれも和らぐだろう。
光太はそんなことを思いつつ、朝食をあれだけ食べたレムがすでに空腹を訴えたことに驚いたのだった。
それは一同が弁当を食べ終えて後片付けをしている時のことだった。
――ピンポンパンポーン
「御来園のお客様にお伝え申し上げます。○○からお越しの和久井様。和久井恵様。お連れ様がお待ちです。正門横、総合案内所までお越しください」
園内アナウンスが流れた。といってもここには光太、レム、リカルド、リーナと恵の連れとなる全員が揃っている。
「あ、多分ミモリンだ。昨日ちょうど連絡あってさ、動物園の話をしたら来たいって言ってたんだよね。携帯鳴らしてくれればいいのにどうしたのかな? アタシちょっと行ってくる。皆さんは先に回っててください。後から合流しますので」
恵はササっと荷物をまとめて走り去った。
「コータ、ミモリンってなぁに?」
「ん、恵の友達だよ」
恵と同じ演劇部に所属する古賀美森。通称ミモリンだ。美森は校内でアイドル並みの人気を誇る恵に負けず劣らずファンが付いており、演劇部二大ヒロインとして生徒たちは二人のことを『メグミモリ』と
通称していた。一年生の時には同じクラスだったので光太も知った顔。
恵がどちらかといえば元気ハツラツな動タイプなら、美森はお淑やかな静タイプといえるだろう。実家が華道だか茶道だかの家元だとか一流企業の社長令嬢だとかいう噂が飛び交っているが、まさしくそんな絵に描いたお嬢様といったイメージの持ち主だ。
その二人はとても仲が良く、プライベートでもよく行動を共にしているようなので、この場に恵が美森を誘っていてもおかしくはない。
(いや、まさか、な……)
確かにおかしくはないのだが、光太は妙な感覚を抱いていた。予感と言い換えてもいい。
「じゃあ、オレたちは先に行ってましょう。レム、次はどこ行く?」
そんな違和感を拭い去るかのように口を開く。
「コアラ~」
「よし」
四人は荷物を片してから、コアラ舎へと向かった。
ここ南山動物園で一番に挙げられるのがコアラで、これを見ずにはここまで来た意味がないといっても過言ではない。大きさでいえば学校の体育館ほどもあるレンガ造りの建物が丸ごとコアラ専用の飼育場だ。中へ入ると若干薄暗く、順路に沿って全面ガラスが張られている。逆にその向こう側の飼育スペースには明りが照らされ、非常に観察しやすくなっていた。
身長の低いレムには手すりが邪魔して見え辛そうだったので光太が肩車をしてやる。
「ほら、レム見えるか? あそこの木の上」
「うん、見える~」
コアラが木にしがみつき、ユーカリの葉をむしゃむしゃと食べる様子が観察できる。
「ねぇコータ。あの葉っぱっておいしいのかなー?」
「う~ん、コアラにしたら美味いんじゃないか」
光太は別段動物に詳しい訳ではない。コアラの味覚など知る由もなかったのだが、そこをフォローしたのは後ろにいたリカルドだ。
「コアラは美食家なんだぞ。葉っぱなら何でも食べる訳じゃなくてな、好きな葉っぱの新芽だけをちゃんと選んで食べるんだ」
さすがは研究職に身を置くリカルドである。専攻は歴史だとしても元より博学だ。
そんな講釈を聞いたレムは「ふぇ~」と感心したような声を上げ、
「でもレムはおでんの方がおいしいと思うけどなー」
と、一人首を傾げていた。
さすがのリカルドもそれには何と答えていいかわからなかったようで、「まぁそうだな」と頭をかいていた。
「あ、出てきた出てきた」
コアラ舎を向けた先には恵が待っていた。
「メグー、おかえりー」
レムがパタパタと駆け寄って恵にしがみつくと、ふと隣に立つ者へと視線を向けた。
「ミモリン?」
白地に黒のストライプの入ったワンピースがとても大人っぽく、サイドアップにした長い黒髪が春の日差しに照らされて艶やかに輝いている。そこには見紛う事なき『メグミモリ』の一人、古賀美森が柔らかな微笑を浮かべて佇んでいた。
「はじめまして。古賀美森と申します」
美森は初対面であるレム、リカルド、リーナに向かって深々とお辞儀をする。その姿はとても美しく流れるように優雅で、レムの見せた社交界風の挨拶ともリーナの見せた軍人のものともまた違った日本特有の奥ゆかしさを感じさせた。
「ミモリンってばやっぱ携帯、家に忘れて来たんだってさ」
「ん、あ、ああ、そうか……」
光太にとって美森は恵ほど付き合いがある訳ではなく、いわゆるただの一クラスメイトに過ぎない関係だ。こうして学校外で顔を合わせるのも初めてで、どうリアクションを取ればいいのか迷ってしまう。
だが、それ以上に光太の心はざわめきだっていた。
今まで体験したことのないほどの強烈な既視感と違和感が押し寄せる。
「茨木くんとは終業式以来だね。久しぶり」
「……ああ」
「知り合いの子、預かってるんだって? 可愛い子だね」
「……まぁ」
イエスマンでももう少しまともな返事をするだろう。光太は完全にうわの空になっていた。
まさにこの光景だったのだ。
一昨日の夜、恵に今日の日取りを伝える電話をした際に見た謎の白昼夢のようなもの。
見覚えのある動物園の景色。もちろん見覚えのある同級生、古賀美森。そして初めて見ることになった美森の私服姿。
そのどれもが、もはや既視感と呼ぶのもおこがましいほどに酷似していた。
そして、一致していない点が一つだけ。
「どうかされましたか?」
動揺を隠せなかった光太にリーナが声をかける。
(話すべきか……?)
リカルドも明らかにおかしくなった光太の様子を気にするように視線を送ってきていた。これでは美森も光太に対して嫌な印象を抱くかもしれない。だがそこは、人見知りという言葉を知らないレムが可愛いと褒められて
気分をよくしたのか、早速美森の手を握ってくれたことでその注意を光太から逸らしてくれた。
この和やかなムードをわざわざ壊す必要もないだろう。
「……いや、何でもない。さ、次行こうぜ次」
少し口早になってしまったが、美森は光太の異変には気付いていないようでレムと手を繋いで歩き出している。それを見て光太はホッと胸を撫で下ろした。
「光太様はミモリン様に御好意を?」
それも束の間、一歩遅れて歩み出した更にその後ろからリーナに唐突な耳打ちをされ、光太はせっかく撫で下ろした胸が遥か上空へと跳び上がるかのような思いを味合わされた。
確かに光太は美森を綺麗だとは思っているが、特別な感情など持ち合わせてはいない。元より女の子と話し慣れていない光太にとって、恵はさておくとしても、美森はいかにもハードルの高い相手である。美人で優雅でお淑やか、そんな言葉がしっくりと来る美森を前にしたならば委縮までは言い過ぎかもしれないが、少なくとも緊張くらいはしてしまうだろう。
「い、いや、ただ女の子と話すのが苦手なだけですよ」
嘘を言っている訳ではない。
リーナはてっきり光太の様子を心配したのかと思いきや、どうやら変な誤解をしただけらしい。
「では私との会話も緊張なさっているんでしょうか」
真面目な顔で言ってはいるが、これは明らかにからかいにきていた。他人の顔色を窺うのが得意な光太にはそれがわかった。
「……いえ、まったく」
光太も黙してやられる訳にはいかず、でき得る限りの無表情でそう返した。事実、リーナに関しては初対面から特に緊張することはなかった。美森と比べてもリーナの容姿は決して見劣りすることはなく、見る人の好みによって意見は分かれると思う。だが、異性として意識する前に、動物園へ行くのに軍用の缶詰を大量に持ってくるような天然ぶりを目の当たりにしたせいで全くそんなようなことはなかったのだ。
「そうですか、私には女を感じないと仰るのですね。そうですか……、そう、ですか……」
女としてのプライドが崩れ去ったのか、リーナは瞬く間に落ち込んでいった。
(あ、ちょっとメンドクサイタイプだ)
光太がフォローするかどうか逡巡していると、
「思春期男子をからかった罰だな」
リカルドが笑った。
「はい、申し訳ありません……」
いたずらを咎められた子供のようにしょぼくれるリーナは少し可愛いと思う光太だったが、心の奥底では先程の映像が激しく渦巻いており、また、引っ掛かりを感じていた。
普段、光太がこんな様子を見せればすぐさまからかいにくるのは恵なのだ。長い付き合いだけあって恵は光太の様子の変化に鋭敏に反応する。先のニュースの一件の時もそうだったように、からかうか心配するかはその時々ではあるが、今だって声くらいかけてきそうに思える。
が、恵からのツッコミが飛んでくる気配はなかった。どうやら今ははしゃぐレムと戯れるのに夢中な様子。
そんな些細な違和感を抱きはしたが、今、恵に妙な誤解をされても冷静な対処をする自信のない光太はそれ以上気に止めはしなかった。リーナとは比べようもないほど、恵のツッコミは厳しい。わざわざ地雷を踏みに行くことはない。そう思った。
それからというもの、光太は心ここに在らずといった状態だった。レムの面倒は他の四人が見てくれており、その後ろをボケーっとついていく内に時刻はすっかり夕方になっていた。
「一通り見て回ったし、レム、そろそろ帰ろうか」
そう告げたのはリカルドだ。
遊びに来た子供が親にこう告げられれば『まだ帰りたくない』とタダをこねそうなものだが、レムはチラリと光太に目をやってから、
「うん! 楽しかった~」
と、素直に同意した。
一同は正門へと足を向ける。先頭を恵と美森に手を繋がれたレムが歩き、その後ろをリカルドとリーナ、最後にポツンと光太が続く。
そんな折、本当にたまたま目に入っただけだった。光太が何気なく向けた視線の先、ちょうど潜ろうとした出口ゲートの脇に見覚えのあるものが落ちていた。
ビーズで装飾された髪留め。
それは間違いなく、恵とレムがお揃いで付けていたアレだった。光太はそれを拾い上げると、ポケットにしまい込んだ。皆は先を歩いていってしまっているので、あとで機を見て渡してやればいいだろうと思ったのだ。
「ミモリン様はどちらにお住まいですか? お送り致しますが」
駐車場に着いたところでリーナがそう申し出たが、美森はその首を横に振る。
「いえ、ここからすぐ近くなので」
「あ、ワタシもミモリンの家に寄ってきますのでここで失礼します」
時間的にはまだ夕方。高校生の二人には夜はこれからといったところだろう。春休み最終日を満喫するつもりかもしれない。
「恵、古賀さん、今日はありがとう。レムも楽しめたみたいだ」
「うん、また遊ぼうね」
見送るメグミモリにレムが手を振り、茨木家四人はジープで帰路へと就いたのだった。
その車中。
「あ、レム、これ落としたんじゃないか?」
「ん、なぁに?」
振り向いたレムの前髪はしっかりと髪留めで留められていた。
「あれ?」
別れ際、恵の前髪にも髪留めがあったのを光太は見ていた。
「あ、いっしょのだ~! コータもメグにもらったのー?」
二人のものではないとすれば、偶然にも同じものを付けていた誰かが落としただけということになる。今から動物園の案内所に届けるにしても車はすでに走り出し、道のど真ん中にいた。
(ま、今度でいいか)
そう思いつつも、きっと届けることはない。これを落としたと思われる少女には若干の後ろめたさを覚えたが、また買ってもらってくれ、と胸の内で頭を下げる光太だった。