第一話 未だ幼きPrincess ④
その夜の事。光太にとって一つの事件が起こった。
それは目を覚ましたレムのこんな一言から始まった。
「おふろ入る~」
四月に入り、今日は陽気もそこそこで、人混みの中を歩き回ったこともあっては誰でも汗や埃を流したくなる。レムはましてや女の子だ。男の光太よりも顕著にそう思うだろう。
先程の夢の話についてレムに訊いてみたかったのだが、それは別に風呂上がりでもいい。むしろなんて話していいものかもわからなかった。
「お湯は沸いてるからすぐ入れるよ」
着替えも購入したし、パジャマも買った。何の問題もない、はずだったのだ。
だが、
「コータもいっしょに入ろー?」
というお誘いに、
「……え?」
と、硬直させられた。
見た目は幼いレムでも十二歳という年齢的にどうなのだろうか。家族ならまだしも、年頃の男女が一緒にお風呂に入るというのはさすがにまずいのではないか。
光太が固まったままでいると、困ったことに、
「レム、一人でおふろ入れないよ~」
想定外だった。しかし、想定するべきだったのかもしれない。
お姫様であるレムは城で生活していた頃、湯あみをする際に必ず侍女が付き添っていたらしい。ラボでは光太の母である明里が面倒みていたそうだ。体を洗うのも、シャンプーするのも全てお任せ。レムは端的にそれを光太にやってくれと言っている。
「いや、その、それはちょっと、ほら、オレは男だしさ、レムは女の子だから、その……」
光太は焦った。自分でも何を言っているのかわからなかった。
「え~なんで~? 早く入ろーよー。ほら~、これもさっき買ったんだよ~」
レムが見せてきたのはシャンプーハット。間違いなく、光太に髪を洗わせる気でいる。
(いや、髪だけなら洗ってあげてもいいか? それなら後ろからでもできるよな? いやいやいやいや……)
しかし、レムはそうは言ってないのだ。光太に一緒に風呂に入って、しかも全身隈なく洗ってくれという意味で話している。
(……どうする? どうすればいい?)
リカルドがまだ帰宅していない今、この場には光太しかいない。必然的に自分で決断しなくてはならない状況なのだ。進むべく道は二つ。リカルドが帰るまでレムに待ってもらうか、もしくは。
(どうするかじゃない……。こんな時は、どうしたいか、だ!)
そう男らしさを演出しつつも、心の中は『自分しかいないからしょうがないよな?』とか『オレもこの後風呂に入ろうと思っていたしちょうどいいよな。だよな?』などという言い訳がひしめきあっていた。
そこに、
――ピンポーン
まるでそんな光太を咎めるようなタイミングでインターホンが鳴り響いた。
「!!!!!!!」
全身がビクッと跳ね上がる。その振動で心臓が異常稼働を開始した。
「あ、う……、す、すまんが、レム、ちょっと待っててくれる、か」
「うん!」
ドラムロールのように高鳴る心臓を押さえながら、光太は逃げるように玄関へと向かった。今し方の自分自身をなかったことにするかのように、
(先生が帰ってきたのかもしれない、先生なら孫を風呂に入れるようなものだし何も問題ない)
と、呪文のように頭の中で呟きながらドアを開けた。
すると、そこにいたのは、
「あ、光ちゃん。実はレムちゃんにこの髪留めあげようと思ってさ、お揃いなんだよ~」
恵だった。光太には窮地に舞い降りた女神に見えた。
「恵さまっ! いいところに来てくれた!」
「いや、『さま』って……、ちゃんとメグって呼びなさいよ」
光太の様子にドン引きしながらも、なぜか呼び名に拘る恵。いくら幼馴染とはいえ、女同志でもないのに愛称で呼ぶのは抵抗のあった光太だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。この千載一遇のチャンスを逃す訳にはいかなかった。
「メグ、頼みがある。急な話で悪いがレムを風呂に入れてやってくれないか? どうも一人では入れないみたいなんだよ」
「そうなの? うん、別にいいよ。こっちのお風呂でいい? いまさ、うちのお風呂はお母さんが使ってるんだよね」
まさに急死に一生とはこのことではなかろうか。
「ああ、頼む」
「じゃあ、着替え取ってくる」
恵はサッと自宅へと戻っていった。
光太は隣人のありがたみを神に感謝しながら、
(助かった……)
と、胸を撫で下ろしたのだった。
しかし、それも束の間だった。
着替えを持ってきた恵を連れてリビングに戻ると、そこに待ち受けていたのは服を脱ぎ散らかし、今まさに下着までを脱がんとする、いわばほぼ全裸状態のレムだった。
「どどどわっ」
慌てて後ろを向く光太。
「あらら、レムちゃんってばもう裸になってるの?」
「あ~、メグだ~! メグもいっしょにおふろ入ろー?」
真っ裸のまま恵に抱きつくレム。どうやらレムは羞恥心というものがないらしい。
(十二歳くらいの子ってこうなのか?)
それともカルチャーギャップか。光太はお姫様として生活してきたレムだからこそだと自分に言い聞かせることで雑念を振り払おうと必死だった。
「うん。ほら、風邪引いちゃうから早く行こ」
恵が風呂場に連れて行こうとすると、
「コータはー?」
と、レムが声を上げる。
白羽の矢が光太の心臓に突き刺さった。
万が一、いや、億が一にも恵が自分を風呂に誘ってきたら何と言おうか。首を縦横どちらに振るのか。その一瞬で逡巡した。光太ももうすぐ高校二年生。その類に興味がないといったら嘘だ。レムは紛れもなく、疑いようもなく幼児体型であるが、恵は違う。服の上からでもわかるほどの豊かな胸。とても同じ高校生とは思えないほどの大人びたプロポーション。光太だってその服の下を想像したことがある。もちろんそんなこと口が裂けても言えないが。
しかし、当然というか、自明の理というか、恵の答えはそんなものだった。
「光ちゃんはあとで入るってさ。レムちゃんとはアタシが一緒に入るよ~。髪も体も洗ってあげるからね!」
そう言って二人は光太をその場に残して風呂場へと去っていく。
(なんだろ、この空虚さは……)
静かになったリビングに二人の笑い声が届いてくると、取り残された光太の心情が徐々にスーッと冷えていった。安堵が九割。残る一割は…。
(いや、よそう)
光太はそこで考えるのを放棄した。
いくら考えたって時間が巻き戻ることはない。
目を閉じて、僧侶のように瞑想に努める光太だった。
いい加減、立ち込める静けさに嫌気がさした光太はテレビを付けた。適当にザッピングしてからニュース番組をボーっと眺める。
流れていたのは火事の映像。どうやら海外にある何かの施設が燃え上がっているようだった。画面左上には生放送を伝える『Live』の文字。そして、画面下部に表示されたテロップを見て、光太は自分の目を疑った。慌ててテレビの音量を上げる。
「引き続きお伝えします。先程入ったニュースです。某国北西部に位置する歴史研究施設『イバラキラボ』で火災を起こり、原時刻をもってなお激しく炎上しております。当ラボの責任者は日本人の茨木秀和さん、四十六歳。現場には妻の明里さんも含め、十名ほどの研究者がいたと思われておりますが、その安否は未だ確認できておりません。繰り返しお伝えします……」
ニュースで伝えられたのは光太の父である秀和と光太の母、明里。そして黒煙を巻き上げているのは二人の職場に間違いない。
しかし、光太は茫然とするばかりで動けなかった。
驚きの声すら出なかった。
頭が全く働かず、テレビの映像がただ目に映っているだけだった。
――プルルルルル
家の電話が鳴る。光太は何も考えられないままに受話器を取った。
「光太か? ワシだ。ニュース見てるか?」
電話の向こうから聞こえてきたのはリカルドの声だった。その声はいつもよりも低く静かで、光太を動揺させまいとしているのかもしれない。
「はい……。あの……、燃えて……」
光太は言葉が上手く出せなかった。自分の声が震えているのがわかった。
「そうだ。だがな、お前は何も心配しなくていい。レムは今どうしてる?」
「え、恵と、風呂に……」
「そうか、レムにはその映像を見せないでくれ。いいな? お前は気をしっかり持て。すぐに帰るから心配するな」
通話が切れても光太はその場で立ち尽くした。頭の中が真っ白だった。
受話器が外れたままになっていることを知らせるピー音がなり、そこでようやく、
「あ……、テレビ消さなきゃ……」
と、光太は固まった体を動かせた。
レムには火事の映像を見せられない。リカルドの言葉は一応光太の耳に届いていたようだった。短い期間ではあるが、三百年の眠りから覚めたレムはあのラボで生活していた。いわば、レムにとってはこの時代における実家のようなものに等しい。そんな場所が燃え盛っている状況などまだ幼いレムが見たらどうなるか。いたずらに不安を仰いだところで、遠い日本にいる光太たちには何をどうすることもできない。
光太はソファに腰をドカッと下ろし、天井を見上げてその目を閉じた。
思い浮かぶは両親の顔。
つい先程まで呑気に女の裸にうつつを抜かしていた自分を呪い殺したくなった。
どれほどそうしていただろうか。
気付けばレムと恵が風呂から上がってきていた。二人ともパジャマに着替え、恵がレムの濡れた髪をタオルで拭いてやっている。
「ふぅ~、いいお湯でした~。光ちゃんも入ってきたら?」
「……ん、ああ」
どこかうわの空の光太。
「どしたの? なんかあった?」
それにすぐ気が付く恵。付き合いの長さは家族同然とはいえ、たとえそうでなくても一目瞭然なほど光太は顔面蒼白となっていた。
「いや……」
何かあったかと聞かれてもそれに答えることはできない。傍にいるレムに聞かせられないというよりも、光太には今それを口にするだけの余裕すらなかった。取り乱さなかっただけマシ、といった心情だった。
恵は光太にそれ以上何も訊かず、ドライヤーを手に取ると、
「レムちゃん、髪乾かしたらちょっとだけお姉ちゃん家に遊びに来ない? アイスあるよ~」
「アイス~? 食べる~」
恵がドライヤーでレムの髪を乾かしている様子を光太は無心のまま眺めていると、ふとレムと目が合った。すぐにニコッと笑顔を見せてくる。つられるように笑い返そうとした光太だったが、顔の筋肉が硬直したかのように引きつってしまった。
(ひどい顔だな……)
光太は真っ暗なテレビ画面に映った自分の顔を見て、思わず頬に手を当てた。これをレムに見せたくなくて恵は気を回してくれたのだろう、と光太は思った。明るく振る舞う気分では到底なく、そんな自分を見せたいとも思わない。光太はありがたく、その気遣いを頂戴した。少しばかり落ち着く時間が欲しかった。
「アイス~アイス~」
髪を乾かし終えると二人は隣の和久井家へと出かけていった。
ちょうどそれと入れ替わるようにリカルドが帰宅したようだ。玄関先から声が聞こえる。恵はリカルドとは初対面になるはずで、あの厳つい風貌に驚いているかもしれなかったが、光太はソファから腰が上がらなかった。まるで重力が二倍になったように全身が重かった。
「光太」
リビングに入ってきたリカルドは真っ直ぐ光太の元に近づき、その肩に手をやった。
「秀和と連絡が取れた。明里も無事だ。もう心配しなくていい」
「……え? 本当、ですか?」
「ああ」
リカルドの首肯を見て、光太の体内に澱んでいた空気が溜息となって一気に吐き出された。あまりにもあっさりで、両親の無事を喜ぶよりも先に急激な脱力感が襲う。
「ったく、父さんも無事なら家に連絡くれれば良かったのに」
こんな時、まず安否報告の一報は心配する家族の元が優先ではなかろうか。それとも父は光太と共にいるリカルドに連絡しておけばいいとでも考えたのだろうか。そう、若干腹を立たせるくらいには光太も平常心を取り戻せた。
ソファの背もたれにぐったりする光太を横目に、リカルドは横の席へと座ると、
「それができん状況だった」
一際険しい表情でリカルドは言った。
「どういうことですか?」
事実としてリカルドは連絡が取れているようだし、少なくとも電話ができることは間違いない。家にだけ連絡ができない状況などあるのだろうか。
「詳しい話をしよう。いや、その前に風呂でも入ってこい。一度気持ちを落ち着かせた方がいいだろう」
確かに今になって光太の背中にはびっしりと汗が噴き出していた。
「わかりました」
湯船につかって一息入れればリフレッシュもできるだろう。両親の無事さえ確認できてしまえば、とりあえずは安心だ。
(それにさっきまで恵とレムが入っていた風呂だしな)
極度の緊張状態が解けた反動か、光太に下心まで蘇ってしまったようだ。女の子が使用した後の風呂というのは、思春期男子にとっては一つのロマンなのである。心労の回復にはもってこいといえる。
「せっかくだからワシも一緒に入るか。一日動き回ってクタクタだ」
「え、あ、はい……、お背中流します……」
しかし、そんなロマンは砂山のように脆く波にさらわれてしまうのだった。