エミリーちゃんはマジックを吸う
「今日のご飯は! アンパン!」
「おいおい昼間っから何てもんに手を出してんだ」
「そっちのアンパンじゃねーよ、ほら見ろよ、三角牛乳もあるんだぜ」
「どこで買ってきたんだよそんなもん」
お昼時、いつも飯を一緒に食べてるグループの一人がウキウキしながら袋からアンパンを取り出して貪る。毎日母親の手作りお弁当で栄養はばっちりな俺ではあるが、コンビニで好きにパンやカップ麺を買ったり、学食で色んなメニューを楽しんだりするのがちょっと羨ましかったりする。毎日母親から昼食代を500円くらい貰って、100円くらいのパンで済ませて、残りはお小遣いにする……そんなスクールライフを実践したくもあるが、今更母親に弁当を作るなとは、どうにも言いにくい。
「なーなー、ところでお前、李さんと付き合ってんの?」
「エミリーちゃん? いや、付き合ってないよ?」
「その割には親しそうなあだ名で呼ぶんだな。一年の時クラス同じだったけど、あんま他人と仲良くしてるとこ見た事なかったからさ、学校の雰囲気に慣れてなさそうな感じ?」
俺とエミリーちゃんの関係は何と言えばいいのだろうか、友達以上恋人未満というやつだろうか? お互いがお互いをリスペクトしているという関係とも言えるかもしれない。飯を食べ終わった俺は今日は喫煙をせずに自分の席に戻り、お昼寝でもしようと机に突っ伏す。昼休憩の時間が長すぎるのがいけないんだ、ついつい喫煙タイムだと身体が認識してしまう。昼休憩に別の趣味を見つけるなりすれば、自然と吸うことは少なくなるだろう。
「……あの」
「んあ? どうしたのエミリーちゃん」
お日様もぽかぽか、絶好のお昼寝日和だと寝ようとするが、後ろからとんとんと肩を叩かれる。起き上がってエミリーちゃんの方を向くと、何やら聞きたいことがあるのか首を傾げていた。
「そっちのアンパン、って何ですか?」
「ああ、それね。何だと思う?」
「アンチ・パンツ……下着を履かない人の事でしょうか」
「着眼点が凄いね……」
ノーパン健康法だからとたまに下着を履かない人がいるが、あれは寝る時だけ効果があるらしい。つまり健康だからと街中でノーパンで歩いている女は頭が緩いし、股が緩い扱いされても文句は言えない。
「アンパンってのは、シンナーの隠語だよ。シンナーを吸引する時は袋に詰めて吸うんだけど、アンパンの袋開けて食べてるのに似てるからそう呼ばれるようになったらしいよ、正直意味不明だよね」
「ああ、シンナーですか。……シンナーって、美味しいんですか?」
「エミリーちゃん、タバコに引き続きシンナーにも興味津々かい? タバコなんかよりずっと危険だよ、あれは」
「……吸ったことあるんですか?」
シンナーという単語を耳にするや否や、身を乗り出してくるエミリーちゃん。不良ぶるのにも限度がある、エミリーちゃんがシンナーへの興味を無くすような話をしようと、俺は昔起きた悲劇を語る事にした。
「中学二年生の時に、近所に気前のいい先輩がいたんだ。すげえ馬鹿だけど結構な金持ちでさ、奢ってくれたりして、まあ俺みたいな単純なガキからすりゃあ神様みたいなもんだな、なんだかんだ言って慕われてたよ。で、ある時先輩が、俺達後輩を学校の空き教室に集めてさ、今から楽しいもん吸わせてやるよってシンナーくれたんだよ。で、皆で吸ってな、あの独特の匂いと、しばらくしてからやってくる高揚感。ありゃあたまらんかったね」
「ああ、聞いてるだけで私も吸いたくなってきました」
あの時が一番、幸せだったのかもしれない。でも、クスリで手に入れた幸せなんてものは所詮はまやかしで、実際には不幸でしかないということを俺は知っている。
「すぐに虜になった俺は定期的にさ、先輩に誘われて吸ったり、先輩に誘われなくても、小遣いためてこっそり自分で買ったりしたよ。一歩間違えてれば、今こうして立って歩くこともできなかったかもな。んで、ある日事件は起きたんだよ。俺が風邪で休んでる時に、先輩主催のシンナーパーティーがあったんだけどよ。それなりに広い空き教室じゃなくてさ、どっかの狭い部室で大気中にシンナー臭ばらまいて。それで、後輩の一人が吸ってる途中にタバコ吸おうとして火をつけた瞬間、ドカン! その後輩は死んで、先輩や他の連中も大怪我よ。ニュースにもなったな、確か」
「ああ、そのニュース私も見ました。吉和さん絡んでたんですね」
あの事件のおかげで両親に俺がシンナーを吸っていることがばれ、当然大目玉。それまでは両親も、子育ての経験が無かったためタバコ吸ったり酒飲んだりとグレている俺を中学生だしこんなもん、自分達も昔はそんな感じだったし、高校生くらいになれば自然と大人になるだろうと放任主義を決め込んでいたのだが、それからは俺に若干鬱陶しい程に向き合ってくるようになった。そのおかげで、俺はある程度改心することができたのだから、人生のターニングポイントと言えるだろう。
「幸運にも俺は風邪で休んで生き残ったわけだが、怖くなってね。当然だろ、人が死んだんだ。その時点で俺は若干中毒になってたんだけどな、両親が説教してくれたおかげもあってきっぱりとやめられたよ。死んだ後輩に感謝すべきなのかねえ」
「いい話っぽい気もしますが、馬鹿ですね」
「ああそうだよ、馬鹿だよ。だからシンナー吸いたいなんて馬鹿げたことを言っちゃ駄目だよ」
タバコや酒なんかとは訳が違う、あれは紛れもなく危険な麻薬。当時を思い出して震えながらもエミリーちゃんに諭したのだが、エミリーちゃんはそれでも興味を無くしてはいないらしい。
「私は馬鹿じゃないですから、タバコを吸って爆発なんてさせませんし、意思が強いから中毒になっても耐えられます、自己管理はきっちりできます」
「ははは、依存性のあるものをやらない人は、皆そう言うんだよね。とにかく駄目だよ……ああ、でも雰囲気を味わいたいなら、これ」
全国で爆発とか似たような事件が起きたり、中毒になって幻覚を見た人が事件を起こしたりしたおかげで、今じゃシンナーは簡単には入手できない代物だけど、本来は塗料に使う液体だから案外身近なモノに使われている。俺は筆箱から一本のマジックを取り出すとエミリーちゃんに手渡した。
「マジック?」
「油性ペンにはシンナーが使われているんだよ、それ嗅いでごらん」
「これを? ……な、何これ、何とも言えない匂い」
普段使っているペンの匂いなんて嗅ごうとしたことはないらしく、ペン先を鼻に近づけるとムッとした表情になる。しかし嫌いではないのか、その後もくんくんと嗅ぎ始めて首を傾げだした。
「それをもっと強烈にしたのがシンナーだよ。とにかく絶対駄目だからね」
エミリーちゃんからペンを奪い取る頃には、昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴って五時間目の授業の準備のために教師が教室に入ってくる。午後の授業も頑張りますかと教科書を開いて勉学に勤しんでいると、後ろからスンスンと変な音が聞こえる。
「……あ」
「……マジック程度で病みつきになって授業中もこっそり嗅いじゃうような子が、自己管理はきっちりできる、ねえ……」
「そ、その……」
「没収」
エミリーちゃんは教科書を立てて顔を隠し、こっそりと自前のペンを嗅いでいた。呆れた俺はエミリーちゃんの文房具を取り上げると、物欲しそうな目で見つめてくる彼女を睨みつけ、シャーペンと消しゴムだけを寄越すのだった。マジックなんて嗅がせるんじゃなかった。